九~一二

   九 相道色月

 暗闇だけだった。暗闇が、すべてだった。ぼくは暗闇の中にあって、他にはなにもなかった。だからぼくは、ぼくを意識することもなかった。ぼくは在って、ないものだった。そこに不安はなかった。不安も、痛みも、苦しみも、そこには存在しなかった。

 だから始めは恐ろしかったんだ。自分以外の何かがいるということに。だってそれは、自分という意識を持つことと同じだから。違うもの、異なるもの。そうした差異が、ぼくとぼく以外のものとを分けて、ぼくを浮かばせた。その異物感、己という感情に振り回される自分が、ぼくは恐ろしかった。元の暗闇に、溶けてしまいたかった。

 ぼくでない何かは、ぼくから離れなかった。離れずに、背中を合わせていた。押し付けるように背中を併せ、背中を越えて一つになりたがってでもいるかのように、くっついて離れなかった。それでぼくは、気がついた。とくんとくんと、重なる鼓動。重なる呼吸。共鳴するその感覚を通じて、ぼくは気づいた。“きみ”も、戸惑っているんだって。戸惑いながら、でも、求めることで、安心させてくれようとしているんだって。

 もう、怖くはなかった。

 違うのに、同じで。似ているようで、違くて。ぼくが感じる、ぼく以外のすべてが、ぼくのすべてだった。きみがぼくのすべてで、きみにとってもぼくがすべてで。ぼくはぼくであり、空間であり、時間であり、生命であり、背中のきみだった。ぼくたちは、世界を巡る鼓動だった。ぼくは、ぼくという存在は、際限なく広がる自己だった。

 きみの鼓動が乱れたのには、すぐに気がついた。呼吸が合わず、鼓動が離れていくことに、ぼくは不安を覚えた。きみがつらい目にあっているって、ぼくには判った。つらかった。死に怯えるきみの感情が、ぼくにはよく判ったから。そしてそれ以上に、生き延びようとするきみの戦いが――“ぼくを一人にしないという想いに溢れていたのを感じとってしまった”から、ぼくは、つらかった。きみは、ぼくのために苦しんでいた。

 だからぼくは、飛び出したんだ。助けを求める、きみの叫びに応えたくて。

 ぼく自身の気持ちに従って。


 ぼくはきみを、憎んでなんかいないよ。死にたかったわけじゃない。殺してほしかったわけじゃない。だけどぼくは、後悔なんかしていない。だってぼくは、うれしかったんだもの。きみの力になれたことが、きみの助けになれたことが、ぼくにはなによりうれしかった。安心を、他者を、自分をくれたきみの、その力になれたことがうれしかったんだ。


 きみが生きていてくれて、ぼくはうれしかったんだ――――!


 ――――ああ。

 涙があふれる。涙がこぼれる。止まらない、止まらないよ、ウロくん。ぼくの涙が、止まらない。他の誰のものでもない、ぼく自身が流す、ぼくの涙が。きみへぼくを伝えられた喜びに溢れる、ぼくの涙が。

 あのね、ウロくん。きみは、こう思ってくれていたよね。『俺は、××になりたい』って。うれしいよ。とってもうれしい。でもね、本当は、逆なんだ。ぼくが――空月あづきがきみに、憧れたんだ。空月がきみに、なりたがっていたんだ。きみになろうとした空月あづきが、色月しづきなんだ。

 きみのおかげで空月〈存在しない月〉は色月〈幸せに塗られた月〉になれたんです。

 ぼくは幸せでした。あなたのおかげで、色月は幸せでした。

 ありがとう、ウロくん。出会ってくれて、ありがとう――――。


 ……ウロくん、今度こそお別れ。ぼくにはもう、ぼくを維持することができないみたい。だからこれは、最後のわがまま。本当に本当の、ぼくの最後のわがまま。

 ウロくん、負けないで。ぼくの“色”を見つけ出してくれたあの人に、もう一人のきみに、どうか、どうか負けないで……ううん――――。



 勝って、ウロくん――――――――。



   一〇 ×洞四四

 ……なーんだ。そうだったんすね。ぼく、ちゃんと、愛されてたんすね。ぼくを愛していたから、母さんはぼくを突き飛ばしたんだ。なんだ、なーんだ。そんなに簡単なこと、逆に気づかねーですよ。だって、簡単過ぎですもん。判んないですよ、そんなの。

 気づきたかったな。こんなことなら、死んじゃう前に気づきたかった。そしたらもう少しくらい、みんなと仲良くできたのかな。素敵な人達と、みつるさんと、本当の家族になれたのかな。

 ねえ、そう思わないっすか。生きている間に気づきたかったって、そう思わないっすか?

 ――純〈叔父〉さんも、そう思わないですか?


   一一 相道純

「…………え?」

 どこだ、ここは。俺はウロを追って、間東の屋敷から飛び降りて――それがなぜ、こんなところにいる。なぜ俺は、こんな天井を見ている。こんな――見覚えのある、天井を。毎日、毎日目にしてきた、遠く懐かしい、この天井を――。

「あ、純、起きた?」

 ――うそだ。だってこの声、この声は。遠い昔に聞いた、けれど忘れたことなんて一度もないこの声は。有り得ない。だって、二度と聞くことなんてできるはずがないのだから。でも、でも……聞き間違えることだって、ありえない。その声は、その声の主は、そいつは、俺の――。

「ねえ――」

「うん?」

「…………ゆめ?」

「うん、純。ゆめお姉ちゃんですよ」

 ゆめだ。本当にゆめだ。ゆめがいる。目の前にゆめがいる。ゆめを見ている。ゆめが俺を見ている。どうして。だってゆめは、俺が――。いや、違う。違った。そうだ、そうだった。思い出してきた。確か俺は、さっき――。

「友為の野郎……」

 そうだ……そうだ俺は、友為の野郎にのされたんだ。のされて、気を失って――夢を、見ていた気がする。遠い、とても長い夢を。永遠と勘違いするほどに長くて苦しい、最悪の夢を。俺の手が、指が、ゆめの頚に、頚のそれに――。

 でも夢は、所詮夢だ。そんなことはありえない。俺は、そんなことはしない。絶対にするはずがない。それよりも、友為の野郎だ。あの野郎、ムキになりやがって。そんなに俺に負けたことが悔しかったのかよ。自分は何回俺を負かしてきたっつーんだよ。大人げねーやつだ。ちょっと年上だからってでけー面しやがって。

 でも、それもこれまでだ。これからは、俺の連戦連勝だからな。もう一度だって、あんなやつに負けてなんかやるもんか。いや、あいつだけじゃない。あいつにも誰にも、俺は負けない。そうとなったら、こんなとこでのんびりなんかしていられない。修行だ、特訓だ、ヤネのやつは嫌がるだろうが、あいつにも稽古、付き合ってもらわなきゃ。

 気持ちに任せ、身体を起こしかける。が、その始点となる肩を、そっと抑えられた。浮かび上がりかけた俺の頭が、元の位置にもどる。ゆめが俺を見下ろしていた。正座したゆめの足に、俺の頭は乗っていた。

「純。もう少し、このままで」

「……別に、もう平気だ」

「お姉ちゃんがこうしていたいの。ね?」

「……勝手にしろよ」

 そう言うとゆめは、うれしそうに笑った。その笑顔から、俺は顔を背ける。本当は恥ずかしかったのだ。みつるのやつなら甘えて飛びつくだろうけども、俺は男で、武術家で、もう子供ってわけでもない。だからなんか、こういうのは、恥ずかしいし格好悪い。……でも、悪い気はしない。ゆめが、喜ぶなら。

「お姉ちゃんね、純と友為さんのこと、うらやましいなぁって思うの」

「……はぁ?」

「だって二人とも、とっても活き活きしてるもの」

「……わけわかんね」

 活き活きって……ゆめはやっぱり、どこか抜けてる。俺と友為がやってんのは稽古とは言え優劣を決定付ける真剣勝負。そんなふわふわした心構えで挑むもんじゃない。親父の血を引いた実の娘だってのに、ゆめはとことん親父に似てない。こんなんでこいつ、この先まともに生きていけるのか。不安になる。悪いやつに騙されたり、理不尽な目に遭わされたりするんじゃないか。心配になる。だから――。

「負けたら、意味ねぇよ」

「そうなの?」

「そうだよ、負けたらなんにもならないんだ。負けたら失うばっかりなんだ。だから――」

 だからゆめが、そんな目に遭うことがないように――。

「だから俺はもっと強くなって、友為にも、黒澤のおじさんにも、親父にも、誰にも負けないくらい強くなって、それで、そしたら、俺――」

「大丈夫だよ」

 ゆめの両腕が、俺の頭を包んだ。

「純なら、大丈夫だよ。強く、なれるよ」

「…………もういいだろ、いい加減」

 俺を包むゆめの手を強引に払い、立ち上がる。ゆめは少しだけ残念そうな顔をしたものの、すぐにいつもの笑顔にもどって「ありがとう」と言ってきた。付き合ってくれてありがとうね純、と。その顔が、何気ない日常であるはずのそれが何故だかとても尊いものに思えて、どうしてだか泣きそうになってしまって、俺は――収納箱にしまっておいたそれを取り出し、強引に――。

「……ん!」

 ゆめの前へと、押し付けた。

「いいの?」

「じゃなきゃ、こんなことしない」

「ありがとう、純」

 ゆめが、押し付けられたそれを受け取る。年季が入って一層くたびれたそれ――赤いマフラーを。失われた俺の記憶を明かす唯一の手がかりであった品を。

 俺はそれを、これまで誰にも触らせなかった。怖かったのだ、盗られてしまうんじゃないかって。物そのものを盗られるという以上に、そこに込められたなにがしかの意味や想いが失われてしまうんじゃないかと、そう感じられて。

 それに、それは俺のものでなかったから。俺のものではない、そんな気がしていたから。いつか誰かに、大切であったはずの誰かに返さなきゃいけない。そういうものだという想いが、俺の裡に蟠っていたから。だから俺は、このマフラーを誰にも、ゆめにも触らせなかった。

 だけどそれも、もう終わりだ。だってもう――そんな想いも、必要なくなるのだから。

「俺、行くから。稜進りょうしんと約束してんだ」

 ゆめから離れ、部屋を出ようとする。外では稜進が待っていた。俺と同じく、拾われ子である稜進が。二人で果たすべき挑戦、異人たちの討伐を目前に控えて。

 俺は負けない。絶対に負けない。異人たちがどれだけいるのか、どんなやつがいるのか定かでないが、負けたりなんかしない。どんなやつが相手だろうと双見から追い出し、二人で双見の一員になるんだ。本当の意味での家族に――相道に、俺はなるんだ。

 それで、その時は。そうなった暁には、俺は。

 ゆめ、俺は、お前のことを――。


「純――」

 ゆめの声。振り向く。

 差し込む夕焼け。赤い部屋。赤いマフラー。

 端をつまんで、広げて、見せびらかすようにくるりと廻って。

 廻ってゆめが、俺を笑った。


「今度もこれで、お姉ちゃんの頚折るの?」



 人殺し!



 違う!

 違う、違う、違う! 俺は人間だ、八百人人だ! 架族なんかじゃない、畜生なんかじゃない! あんなもの、あんな“振動”、俺は信じない! あんな“世界を揺るがす振動”、信じてなんかたまるものか!

 ここだ、ここのはずだ。土を掘る。指で、爪で、土を掘る。剥がれて、血と、土と、混ざって、固まる。張り付く。重みを増す。引きずっていく。底へ、底へ底へと引きずられる。際限なく、底なしのその先に、引きずり込まれていく。違う、俺は畜生じゃない。“兄ちゃん”なんて知らない、“兄ちゃん”なんていない――。

「ゆめ……ゆめ」

 ゆめだ。ゆめだけだ。ゆめだけが否定してくれる。俺が人間だって証明してくれる。畜生じゃないって安心させてくれる。この月山の、西の双見を一望できるこの場所に眠るゆめだけが、まだ相道になれるって――純でいいって、言ってくれる、言ってくれるはずだ。ゆめが、ゆめだけが――。

「……ゆ、め?」

 なんだ、これは。こいつは、なんだ。なんでこんなものが、ここにあるんだ。ここにいるのは、ゆめのはずだ。ここにはゆめが眠っているはずだ。お前は誰だ。お前はいったい、なんなんだ。

「…………ゆめ」

 生きている。温度がある。生き物だ。人間だ。なんでこんなところに。どうして土の中に。ゆめの場所に。それに……それに、どういうことだ。だって、こんなの。こんなのどう見たって、俺の知ってる、俺達の知ってる――。

 相道ゆめ、本人にしか――。

 それ〈色を帯びた月〉の手が、俺のほほに、触れた。


「大丈夫だよ――“グノ”」




 ねえあなた、よくも生きておられますね。


 相道純――いえ、架族のグノ。仇敵と定めた『无』を生み出しし元凶にして、自らこそが根絶すべき畜生そのものであると知った姉殺しよ。大規模霊触〈人が生み出しし兵器〉によって過去無き自我を取り戻し、大規模霊触〈人の裡の虚无〉によって忌まわしき記憶を取り戻した者よ。

 世界は繰り返されています。全く同じ歴史を、全く同じ名を持った者たちが、全く同じ役割を演じることによって。寸分も違うことなく、同じ世界が何千と、何万と、何億と繰り返されています。これまでも、そしてこれからも、何も変わりはしません。変わることなき、不変の檻に我々は閉じ込められているのです。それが、私達の世界の真実。繰り返される、変化のなき真実。

 けれどそこに、変化が訪れました。ウロ、虚无の申し子。変わらぬ世界に変化を、終わりなき輪廻に終焉をもたらす存在。私達の前に顕れた、唯一の希望。しかしその希望は未だ、憧憬が隘路に揺蕩ったまま。

 あなたならば、導けるはず。

 架族のグノ。例えこの場で生命を絶とうと、あなたはあなたから逃れられません。死は一時の停止に過ぎないのです。廻り、なぞり、重なり弾け、また廻り始めるだけなのです。死の後も、あなたは続くのです。終わりをもたらすのは、ウロだけなのです。ウロだけが、虚无の申し子だけが希望なのです。

 協力なさい、その憎しみの矛先を求めているのなら。この永劫回帰の世界へ、我々を我々として生み出した神なる存在へ、汎ゆるものの根源たる『霊素』への瞋恚を灯すなら。このまま我が手を取りなさい。

 そして共にすべてから――永遠から、“自己”を放ちましょう。




 目にしていたのは、たった一つの光景。

 たった一つの無数。

 無数の一。

 自己の証明。

 畜生の証明。


 ゆめ殺し。


 ああ。

 変わらない。

 変われない。

 変わることなどない。

 これまでも。

 これからも。

 俺は俺で在り続ける。

 俺で在るという刑に処され続ける。

 殺す者に。

 生き延びるために。

 死を免れるために。

 自分唯一人だけのために。

 俺は彼女を。

 最愛の人を。

 何に代えても守りたかったはずの人を。

 家族と迎えてくれたあの人を――――。


 死んでしまえ、この畜生が。


   一二 相道純

 ……霊素。霊素の見せる幻。事実として通り過ぎた過去。過去と相似の未来。ああ、胸糞悪い。それも、この場所のせいか。人の記憶を無遠慮に穿り返し、見たいものも、見たくないものも強制的に映し顕す場所――『感息座』。上で“甥”が暴れたせいか、以前よりも崩壊が進んでいる。崩れ、洞に空いた岩壁の一部から、『背併せの滝』の轟音とそれに歪められた月明かりが差し込んでいる。

 稜進と稜進の娘――すすぐを救出した時以来か。二人を救出し、そして、間東やくと邂逅したあの時。あの時確かに俺は、希望を抱いた。自己に終止符を打てるという希望を。その点に限って言えば間東やく、あの女に感謝してもいい。だが――。

 ああ忌々しい、忌々しいな。意識がある、俺が在る。ということは即ち、やくは失敗したのだろう。どうでもいい。期待などしていなかった。あいつにウロは理解できない。あいつはウロじゃない。俺だけだ。俺だけがウロを理解できる。俺だけがあいつと同じものを持っている。俺とあいつだけが、同じものだ。同じ、“死にたがり”の殺人者だ。故にこそ――。

 ウロには俺が、引導を渡す。

 滝の音。滝の音ばかりが聞こえる。どこだウロ、どこにいる。余計な手間を掛けさせるな。お前だってうんざりなはずだ。この世界に、自分に、いい加減嫌気が差しているはずだ。そうだろう。何故ならお前は殺した。最も大事な存在を――色月を、お前は殺した。俺と同じように。ただ死にたくないなどという、浅ましい畜生の欲求に従って。なあウロ、お前だってそうだろう。お前だって、こんな自分から解放されたいだろう?

「……純」

 声のした場所に、意識を向ける。暗闇に差し込む月光。月の零した涙を背にしてウロが、立っていた。瞬間、違和感に粟立つ肌。自然、身体が構えを取る。判断する。意識以前の、自己が。

「お前……ウロか?」

 放った言葉――が、滝の音に呑まれるよりも早く、ウロが、消えた。予感。肘と膝を重ね、堅に構える。直後、衝撃。盾とした手足が歪む。衝撃の方向から離れる形で、跳ぶ。追われる気配はない。が、鳥肌は治まらない。緩急をつけ、僅かな隙を晒した後、身体を回転させ更に跳ぶ。その最中、足先に痛み。拳による加撃か。正中。打たれていた。あのまま留まっていたら。しかしそれら一連の動きを、俺は捉えることができなかった。いや、捉えられないのではない。感じられなかった。“認識できなかった”。

 まさか、これは、『霊授兵』――『无』の!

「ぐっ!」

 腿の付根に一撃もらう。足を削ぐ気か。このまま、認識させないまま、俺を倒すと……そういうつもりか。やくとの対面で何があったのかは定かでないが、『大規模霊触』を起こし得る状態となりながら、あくまで抵抗すると、そういうつもりか、ウロ。

 だったら俺も、そのつもりでやってやる。

 親父は、戒厳は、唯の武術家で在りながら認識を操る『无』と対等にやりあった。戦えるのだ、『无』なる者とも。ならば俺に、できぬ道理などない。ウロ、お前が俺の認識を阻害し、自身の姿を隠すのであれば――俺はこれより、“お前以外のすべてを認識してやる”。

 見えざるものを見、聞こえざるものを聞く。感じ得ぬものを感じ、触れ得ざるものに触れる。在るものでありながら、無きものと化す。それが相道流。道にそうずる者の道。今より我、ここなるに充満する霊素の総てを、流れを、蠢きを、その始原から終焉に至るまでの道筋を読み取ろう。我、即ち、『霊素』也。

 畢竟、感じられぬからこそ浮かび上がる違和――それこそがお前だ……ウロという名の空白だ!

「そこだッ!」

 肋の隙間があると予測される位置へ俺は、全速の足刀を放つ。そして伝わる、確かな手応え――――。



(なんだ……?)

 怖い――。

(これは、なんだ。何が起きている)

 この人が、怖い。

(俺は、何を見せられている)

 容易く人を殺してしまえるこの人が。

(この声は……)

 でも――。

(この光景は……)

 俺たちを助けてくれた、この動き。

(色月に迫った男を、殺した時の――)

 屋敷で見たのと同じ、この動きなら。

(これは――)

 こんなふうに戦えたなら。

(――ウロの?)

 もしかしたら、俺だって。

(ウロの目に映った――)

 俺だって、あいつらのことを。

(――俺?)

 二人のことを――――。



 瞬間、映った光景。あれは……思念? 霊素が見せた、過去の幻か? ウロという触媒に同調して起こった、記憶の混濁現象とでも――。

「……ぐっ!」

 腹部に激痛。肘――と、推測できる形状と角度。内臓を抉る一撃。咄嗟に反撃を試み、蹴りを放つ。空を切る。バカか俺は、決闘の最中に思惟などと。集中しろ。早さも体格も経験も、俺が劣る所は一つもない。だが、あいつには相道の技を教えた。不利を覆す一撃必殺の技、その数々を。勝利は絶対ではない。虚ろに身を任せば、敗北こそが必定だ。

「……そこ!」

 ……読める。感じる。感じられないことを感じる。“空白”が見える。気を切らさなければ、遅れは取らない。一合、ニ合、三合。拳を交わす毎に、精度は増す。つかむことは至難。が、対応は容易。ウロの身体で放てし有効打は限られている。慌てずに捌き、追い詰める。痺れを切らして逸る、不用意な一撃を待ちながら――。

「――それだ!」

 弾く、拳。体の崩れ、無防備な脇。目掛け放つ、最速直線の貫手。殺しはしない――が、自由は、頂く!

 ……なに!?



「よう、もうへばったのかい?」

(また――!)

「……まだまだ」

「はっ、いい意地みせるね男の子。が、これ以上は毒だ。ほれ」

(この光景も、見覚えがある。これは――)

「補給と休息も修行のうちだぜ」

「これは……?」

「見りゃわかんだろ、握り飯だよ。わざわざ俺様が握ってやったんだ、ありがたく頂けよ」

「……いびつだ」

「うるせえ」

(ウロに、相道を教えていた時の――)

 純。

 やっぱり強い。

 速くて、巧くて、底がない。

 とても敵わない。

「なあウロ」

 それが、うれしい。

(……聞こえる)

「その後髪、切れよ。鬱陶しいだろ」

 純が強いと、うれしい。

(ウロの声が……)

「おいウロ」

 自分でも、不思議なんだよ。

「いやだ」

「ガキかよ」

「……ガキだよ、悪いか」

 あんたが強いと俺は――。

(ウロの、心の声が――)

「……はっ。悪かねぇよ、悪かぁよ」

 誇らしい気持ちに、なるんだよ――――。



「……なんのつもりだ」

 弾かれ逸れた貫手を、伸びきる前にしまう。構えは解かず、集中も解かぬままに、話しかける。

「答えるつもりはねぇってか……まあいい」

 確信する。この現象は、『感息座』に満ちる超高濃度の霊素が個人という枠を越えた記憶回帰現象を自然の働きとして起こしている――訳ではない。

 ウロのやつが、俺に、意図的に見せている。

「何のつもりか知らねぇが、こんなもんに絆される俺じゃねぇぞ」

 やはり、答えはない。だが、いい。もう、いい。

 不愉快だ。

 認識の精度は既に極限まで高まり、ぼんやりとした球としてしか捉えられなかった空白も、いまや明瞭な輪郭が縁取られている。もはや見間違えようもない。頭、腕、足、胴、胸、肩、頚。その何れもが、手にとるように判る。ウロを、ウロの姿として捉えられている。

「……いくぞ」

 飛びかかる。最迅で。見える、ウロの動き、戸惑い、焦燥。反撃はない。反撃などさせない。逃げもさせない。息もさせない。叩き、砕き、折る。正面から。正面から、力の差を見せつける。己という小ささを判らせる。『大規模霊触』を起こさせる為に。

 が、それでもウロは防ぐ。首の皮一枚とは言え、防ぎきっている。『无』の戦いが起こす、コンマ以下の優位によって。霊素を介するわずかな遅延。それが、ウロの生命線。

 俺が目にしているのは、今ではない。今に限りなく近い過去、過去へ置き去りにしたかつての今。霊素とは、過去の記録であるが故に。霊素を読むとは、過去を読むことに他ならない。それは今ではない。今に見えようとも、そこには人の身では目にすることも叶わぬ、しかし絶対的で膨大な隔たりが存在する。過去は、今には、追いつけない。

 だが、縮めることは、できる。

 速く、疾く、より迅く――! より迅く動き、より迅く読む! 過去から今へと追いつくために。コンマの下の、更にその下にある世界を踏破せんがために。『无』なる者を踏み潰さんがために――!

 だから、行け、行け、そのまま行け。そのまま駆け――辿り着いた、その先。今と見紛う過去。それはもはや、去現に毫の差すらなく――。

 足甲、打ち抜く、ウロの側頭。

 が。

 ウロの両腕。交差し、挟んで、俺の足を。

 俺の、足から――。



「ウロ!」

(これは……稽古場か?)

「なんと無茶な……怪我はないか」

(黒澤の、親父さん)

「よかった、大事はないようじゃな。しかしウロ、もうこのようなことはよせ。今に取り返しのつかぬ怪我をする」

「……これくらいしないと、純にはなれない」

「ウロよ……あやつの力は、多くのものを捨て去ってきたからこその力。故にこその強さじゃ。常人が目指すようなものではない」

(……そうだ、俺の力は失うばかりの力だ。大切なものを――)

「そんなものを目指さなくとも、人は幸せに生きていけるのだ」

(ゆめを殺すくらいにしか役立たなかった、力だ……)

「純は強いんだ」

 そうだ、純は強い。

(……やめろ)

「純は負けない。誰にも、あんたにも、絶対に負けたりなんかしない」

 そうだ、純は負けない。俺なんかとは違う。俺と違って、純は強い。でも――。

(やめろ、黙れ……)

「純は最強なんだ。そんな純が――」

 そんな純を目指せば、そんな純の後を追えば、いつかは俺だって、殺すことでしか生き延びてこれなかった俺だって――。

(黙れ、黙れ、黙れぇ…………)

「純が俺の、憧れなんだ」

 強く、なれるって――――。



「黙れぇぇぇぇええええ!!!!」

 ――蹴り、抜く。

 吹き飛んだ、ウロ。吹き飛び、転げて、止まる。うつぶせに、天に背を向け、静止する。その背に向かって、俺は吐く。

「人を……人を勝手に神格化するんじゃねぇ! 俺はてめぇが思ってるようなやつじゃねぇんだ! 負けっぱなしだ、俺は負け続けてきたんだよ! 負けて、負けて、負けて惨めに生き永らえてきたのがこの俺だ! “相道”でも“純”でもねぇ、架族のグノだ! 俺は負け犬の――畜生なんだよ! だからこそ――」

 俺と同じ――。

「てめぇにだけは負けられねぇんだ――!」

 息が荒い。集中が解かれていく。しかし、ウロの姿は消えない。ウロの消耗も限界なのだろう。無防備に晒された背中からは、年相応の未熟な弱々しさしか感じられない。

「……もういいだろ、いい加減判っただろうが。“変わらねぇんだ”。優劣も、勝ち負けも。生まれた瞬間……いや、生まれ出るその遥か以前から、俺達は決められてんだよ。どうにもならねぇものは、どうにもならねぇものなんだよ! だから……だからいい加減、諦めろ。諦めて――終わりにしようぜ、ウロ」

 それが、お前のためだ。お前のためで、俺のためだ。俺たちのためだ。

 だからもういいんだ。もう、無駄にあがく必要なんてない。ないんだよ、ウロ。俺達はいい加減、楽になるべきなんだよ。そうする他に、ねぇんだよ。

 ……だってのに、それだってのに、なんでお前は――。

「…………純」

「……そうかよ」

 立つかよ、ウロ。

「……判ったよ、付き合ってやる。だが――」

 拳を固める。

「こいつで、最後だ」

 生まれてからこれまでにおける、最も強い力を込めて。

「てめぇの無力を思い知れ」

 ウロが、構える。震えながら。震える身体に、近づく。一歩、二歩、三歩。ゆっくりと、距離を詰める。ウロは動かない。歩を速める。ウロは動かない。更に速める。ウロは動かない。瞬に加速する。この距離、この位置、この速度。もはや逃げられはしない。外しもしない。直線。そのまま、砕く、ウロを――己を。このまま――。

 俺は、俺を、終わらせる――――。


『グノ』


 反射、意識、視線。心が、声を追う。その名を呼んだ、声を。兄。視界の端。生首。俺を見て笑う――甥子〈兄の息子〉の。


 奪われた、一拍。

 放った、拳。

 空を切る。

 見失う、ウロ。

 見逃した、一拍。

 認識阻害――『无』。

 集中、発見、やつを。

 ウロを。

 懐へ潜り込んだ、ウロを。

 背を押し付けた、ウロを。

 これは――。

 相道流奥義――――。

 総身相気そうしんそうき――――――――。




 ねえウロくん。いつかぼくたちが、ほんとの兄弟にもどれたら。

 もどることができたなら、その時は、その時はね――。

 きっと、きっと純さんも――――――――。



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