五~八

   五 多々波ちなみ

「どうしてだ……」

 困惑があった。

「どうしてだよ」

 逃避したい感情があった。

「どうしてあんたが“神隠しの犯人”なんだ」

 けれど、それ以上に。

「どうして黒澤太平太たいへいたを殺したんだ」

 憤りが、あった。

「なあ、答えろよ。答えてくれよ。黙ってないで、なあ――」

 信じたくはなかった現実を信じさせる行動しかしないその人に、あたしは憤っていた。

「答えてくれよ、兄貴!」

 憤りの原因である兄貴は――佐々川友為ささがわ ともいは、言った。

「我々は、北の共産連邦に与するスパイだ」


 あの後。『屋無やなし』の王、まっさんから“神隠し”の犯人の情報を得た後、あたしは町外れにある相道の稽古場へ向かった。そこで、犯人が犯人であると証明する、その現場に立ち会えると言われて。まっさんから犯人を聞かされたあたしは始め、それを信じなかった。信じようとしなかった。余りにもバカげていたから。兄貴が犯人だなんて、あり得ないから。だって兄貴は、黒澤組の若頭だ。“神隠し”をする理由なんて、どこにもないじゃないか。そう思って。だからあたしは、むしろ兄貴の無罪を証明する心積もりでそこへ向かった。

 けれどあたしは、見てしまったのだ。友為の兄貴が、黒澤太平太を殺害する現場を。

 その後のことは、よく覚えていない。あたしは気を失ったらしかった。気を失い、気付けば、ここにいた。椅子に座らされ、拘束されていた。周りには誰もいない。兄貴以外は。兄貴も椅子に腰掛けていた。あたしと対面する形で、兄貴は私を見ていた。あたしはいま、“神隠しの犯人”と対峙していた。

「……スパイ?」

「黒澤太平太を始末したのは、我々の計画に気づきかけてしまったからだ」

「計画? 計画ってなにさ、なんの話をしてるんだよ――」

 兄貴――とつなげそうになった言葉を、飲み込む。兄貴は……佐々川友為は、あたしの知っている黒澤組若頭は、本当の姿ではなかったのか。ずっと、偽っていたのか。もしそうなら、あたしはこいつを兄貴とは呼べない。そんなやつを、尊敬することなんて、できない。

 けれど、こうして対面している分には、友為は今まで通りの友為となんら変わりなく見えた。判らない。見ているだけじゃ、何も。いつもの態度のまま、しかし照明の関係かどこか顔色の悪く見える兄貴が、言葉をつなぐ。

「話してやることは吝かでない。だが、お前はいいのか?」

「……なにが?」

「聞けば、後にはもどれなくなるぞ」

『この中にはね、ヤ国どころか世界中をひっくり返してしまうくらい危険な情報も入っているんだ。決して興味本位で開けてはならないよ』

 父さんの言葉が、反芻される。危険な情報。まっさんも言っていた。情報には、知っているだけで危険が及ぶ種類のものもあると。友為が言っているのも、そういう意味だろうか。それが善意なのか、脅しなのか、あたしには見抜けない。けれど、どちらにせよ同じこと。答えは始めから、決まりきっていた。

 佐々川友為が、深く息を吸う。


 事の起こりは、先の世界大戦の更にその直前にまで遡った。急速な近代化を進め大陸の進出にも成功した八百人は植民国家と成した架国を足がかりに、更なる領土拡張を目指した。しかし八百人はその覇権主義的傾向を危惧した諸外国に目をつけられることとなり、国際的に厳しい立場に置かれ始める。

 そのような最中、前任者の異動に伴い架国へ新たな行政長官及び行政副長官が着任する。架国の実質的な指導者に当たる者。しかし行政長官として任命されたこの男は旧国軍軍部より送り込まれた政治のことなどまるで知らない素人に過ぎず、実質的な統治は副長官として任命されたとある一人の政治家に任されていた。

「その男こそ、八重畑丑義やえばたけ うしよし。ア国進駐軍を手玉に取り、双見の発展に多大な貢献を為すことになる男」

 架国の統治を任された八重畑丑義は、政府中枢及び八百人への不満や敵愾心が育たぬよう、大陸の諸民族同士が対立する形の政策を執り、十全な統治を敷いていく。それは本国八百人や軍部の意向に沿った統治であったが、しかし八重畑丑義は未だ拡張路線を維持し続ける軍部や軍部に同調した師、八重畑邦洋くにひろとは異なる政治思想を秘かに抱いていた。

 列強諸国と正面からぶつかることになれば、八百人は間違いなく破滅する。資源、人口、科学力。その何れの観点から鑑みても、敗北は必定と言えた。しかし時代の潮流、またこの国の政治が、世論が、人が、八百人という在り方が、敗北の戦いへ突き進んでいくこともまた、疑いようがなかった。それを防ぐことは、八重畑丑義にもできない。故に八重畑丑義は、戦争が起こることを想定した上で、なお正面からぶつかることなく八百人を存続させる方法を模索する。

「そしてその結論の一つが――『霊授兵れいじゅへい』」

 八重畑丑義は、旧姓を古五山こごやまという。八重畑の性は、師の家に婿入した際に授かったものだ。双見の名家であった八重畑に入った丑義はそこで、双見に古くから伝わる伝承を知る。双見を見守る双子の神。そして、その神の声を聞き伝える者――『息重そくえ』のことを。

 八重畑丑義はこの伝承を、ただの迷信と切り捨てることはしなかった。口伝、及び文献として残る様々な情報から、そこに一定以上の信憑性があると判断したのだ。八重畑丑義はこれをひとつの突破口として見出し、そしてその結果、『息重』という存在の秘密と『霊素』という新たに発見された元素の間に、密接な関係があることを発見するに至る。

 その時にはすでに、八重畑丑義の頭の中では『息重』と『戦争』を結びつける大枠が完成していた。『息重』は他者の感情を読み取り、その認識を操作することすら可能であるという。もしその能力を来る大戦に活かすことができたなら――。八百人生存の道を、八重畑丑義は発見する。

 しかし、それには障害もあった。双見において『息重』という存在は神格化されており、その『息重』を山から引きずり出すとなれば双見の民の反発は必至。いざとなれば強行もやむを得ないとは言え、戦後、双見を自身の基盤とすることを考えれば得策な選択とは言えなかった。そのため八重畑丑義は『息重』の代替となる人物を探し――そして、その人物を発見する。

 山の者、歴代の『息重』と比してもなお有数の力を持ちながら、その生まれによって家名を名乗ることを許されなかった者。山を降り、町の民と家庭を築き、あくまでも市井の一人として生きていた女。相道ねむ。彼女こそ、『霊授兵』を作り上げるための最良の標本と言えた。

 八重畑丑義は軍部に、相道ねむの召喚を依頼する。その召喚に反発したのは、彼女の夫だった。相道戒厳かいげん。相道流という武術の師範であり、相当な使い手だという噂は耳にしていた。その存在もまた、『霊授兵』の開発にとって好都合と言えた。

 八重畑丑義は『霊授兵』の性質から、真正面からの会戦に運用するのではなく、一撃で最大の効果を挙げられる暗殺での行使を想定していた。軍高官、あるいは政府要人の暗殺。必要なのは銃器に長けることではなく、むしろ道具に頼らぬ殺人術。無手で人を殺す能力。相道流は、八重畑丑義が理想とする『霊授兵』の像を、より完璧な形で体現するピースのひとつになり得るものに違いなかった。八重畑丑義は部下に命じ、相道夫妻の一人娘――相道ゆめを人質に取ることで、二人を従わせることに成功する。

 そして『霊授兵』研究は、架国領内において本格的に始動する。被検体は、いくらでも見繕うことができた。戦後に問われるであろう諸々の責任など、形だけの長官に押し付ければ問題はなかった。八重畑丑義を阻む者など、もはや誰もいなかった。国内に、おいては。

 その日、『霊授兵』研究は一つの完成を見た。だがその完成の成果は、即座に失われることとなる。制御を外れた完成体の暴走と、ア国が投下した霊爆によって。『霊授兵』研究は、間に合わなかった。同じ霊素という元素を用いた研究競争は、極点暗殺兵士である『霊授兵』の完成よりも、『霊爆』という大量破壊兵器の完成に軍配が上がった。『霊授兵』がその真価を発揮するよりも前に、八百人は敗北した。

 だが、それで終わりではなかった。

 完成体の暴走を生き残った研究者の一人に、この『霊授兵』研究に携わった中で最年少の若者がいた。その若者は自身の二倍も三倍も生きてきた研究者たちにも劣らぬ知識を有し、何よりも『霊授兵』研究及び『霊素』そのものに対し並々ならぬ好奇心を抱いていた。そして彼は、怖れを知らなかった。彼は、記憶を失った完成体をくどいたのだ。「協力と引き換えに、記憶を取り戻す手伝いをしてやってもいい」と。自身の、その飽くなき好奇心を満たすために。

「その男の名は、賀田唐英人かだから ひでと。後に八重畑丑義より、那雲崎の性と道民の名を与えられる者だ」

 後の那雲崎道民は、霊素研究において他国よりも先んじていた北の共産連邦を自身の新天地に定める。那雲崎の目的は霊素の研究そのもの。国家や大義は関係なく、霊素を調べられる環境さえあれば何処であろうと構わなかったのだ。そして完成体の力を借り、自身の望む環境を手にした道民の下へ、捨てたはずの故国より連絡が入る。

 霊素の研究において、更に最適な場所を用意するという連絡。その連絡を行ったのは、八重畑丑義。架国の『霊授兵』研究の際に自身を登用した、かつての雇い主。義父である師を売ったことで進駐軍の信頼を得た丑義は戦後罪に問われることもなく、進駐軍施政下においても強い影響力を持つ政治家で在り続けた。

 丑義の目的は八百人の存続。彼の目的は徹頭徹尾、そこから揺るがなかった。そして彼はア国進駐軍の庇護から外される未来を予見、大国間のパワーゲームに呑み込まれる八百人という図を危惧していた。その恐れを現実のものにしないための方策を思案した丑義は、『霊素』、そして『霊触症』という現象に可能性を見出した。そこに八百人を存続させる活路があると。

 八重畑丑義の誘いを受けた道民は、一も二もなく快諾した。通常であれば、潤沢な資金と整った環境を準備する大国に在していた方が、『霊素』に執着する道民の目的的にも理に適っているといえる。だが、道民はそれでも八百人へ――双見へ移住した。双子山から観測される巨大な“霊素溜まり”に、『息重』という特異な能力を有した者たち。観察対象に事欠かない双見の環境は、道民にとって余りにも魅力的であったのだ。

 そうして道民は、双見へ訪れた。架国より同伴を続ける完成体と共に。那雲崎道民は政治家としての表の仕事をこなしながら、『霊素』、『霊授兵』、『霊触症』に関わる研究を続けていく。裏では完成体に、共産連邦からの依頼を命じながら。

 大陸の者とは異なりその殆どが白人系の人種で構成されていた共産連邦の者たちは、北東ヤ国に介入する上でその容姿が余りにも目立ちすぎた。その弱点を、道民の完成体に補ってもらおうと彼らは考えたのだ。また、ア国との長い冷戦に財政を圧迫されていた共産連邦の党中枢では、高価な兵器を揃えるより道民の唱える『霊授兵』を揃える方が現実的だと考える派閥もできつつあった。そうした派閥において、道民や道民の協力者である丑義、何よりも完成体の存在は彼らの拠り所となっていた。

 そうした本国の思惑が絡んだ情勢下において、北東ヤ国の国会にとある法案が提出される。『移民法案』。大陸から送り込まれたスパイによって唱えられた法案であったが、北の共産連邦中枢は、この法案に便乗することを決定する。確かに大陸とは一度決裂したものの、それももう過去の話。少なくとも大陸は直近の脅威とはなりえない。それよりも彼らは、利を見た。『移民法案』という御旗の下であれば、白人系人種である自分たちの移住――そして内部からの支配も不可能ではないと考えたのだ。

 世界で唯一霊爆を落とされた国である八百人、更に直下の爆心地であった北東ヤ国。その異変に気づいたのは、ア国がその進駐軍を撤退させた後のこと。北東ヤ国の地下には、通常考えられない密度と濃度で固まった“霊素溜まり”が無数に生成されていた。それは、無視するには余りにも惜しい資源の山であった。故に彼らは、『移民法案』の制定に向けて、大陸を支援すると決めたのである。そしてその実行において、道民の完成体がその本領を発揮した。

 誰にも見えない、誰にも聞こえない、誰にも認識することのできない『霊授兵』の完成体。彼を止められる者は、一人もいなかった。絶対に防ぐことのできない暗殺。『霊授兵』の持つ有効性を、彼自身の存在によって証明していったのだ。やがて彼は北東ヤ国に名を残す恐怖の象徴――『无』と呼ばれるようになる。そして――その『无』が、行方をくらませた。

「強引な手段で中枢へ登りつめた道民には、敵も多かった。出身が八百人という時点で、白眼視は避けられなかったのだろう。『无』という存在がいたから、道民は生かされていた。『无』とは道民にとって野望を実現するための道具であり、自らを守る盾でもあったのだ」

 党の判断は早かった。粛清。罪状は、数え上げれば切りがない。党から放たれた刺客が現れるのも、時間の問題だった。そしてその罪は那雲崎道民に留まらず、協力者である八重畑丑義にまで及ぶこと明白だった。それはつまりこれまでの研究成果、八百人を守るための術を失うことと同義であった。それだけは、回避しなければならなかった。八重畑丑義は、決断する。

 那雲崎道民という“枝葉”を、切る。

 八重畑丑義は北の共産連邦へ忠義立てする形で、那雲崎道民を処分した。そしてそれに留まらず、“実験体”の定期的な献上を党中枢に約束する。その代わりに身柄の安全と、研究の継続を請願して。請願は受け入れられた。そしてそれ以降、八重畑丑義は“双見の者を被験体として捉え、実験に用い、一定の成果を認められた個体を本国へ送り続けていった”。そしてそれが――。

「それが……“神隠し”……」

「いつからか、そう呼ばれるようになったものの真相だ。“神隠し”を解決“させない”ことは簡単だった。何故なら双見の防衛を司る黒澤組、その実権を握る黒澤組若衆筆頭が彼の協力者であったのだから」

「あに……」

「折しも『移民法』制定により、ここ双見の東にも移民が集まりだした頃の話だ。疑いを移民共へ向けるのは容易だった。東の長、リュウ大人ターレンも快く協力に応じてくれたからな。そうだ、彼も賛同者だ。大人主導の下、東でも“神隠し”は行われてきた。高濃度の霊素に晒された際の、人種の違いによる効果や発現の差異。彼の協力は、貴重なデータの入手に非常に役立った」

「…………」

 正直な所、語られた内容の膨大さ、現実感のなさのせいで、話の半分どころか十分の一だって理解できたとはいえなかった。ただ、それでも一つだけ判ったことがあった。判ってしまったことが、あった。佐々川友為は、あたしの思っているような人では、なかった。佐々川友為は紛れもなく、あたしたちの敵だった。

「もうひとつ、言っておくことがある」

 これ以上、何を。いやに疲れていた。気力で支えてきたこの数日間の疲労、その疲労が一遍に降り注いできたかのように。けれど佐々川友為の口にした言葉は、沈みかけたあたしの意識を急速に呼び覚まさせた。

「お前の父、多々波考真こうまについてだ」

「……父さん?」

 なんで、父さんが。言われ、あたしの頭は高速で回転する。蒸発した父。“神隠し”。その犯人。それは、つまり――。

「お前がいま考えていること、それは誤りだ。我々は多々波考真を“被検体”などにはしていない。お前の父は“神隠し”の被害者ではない」

 思い浮かべた答えを、口にする前に否定される。そういう所は、あたしの知っている佐々川友為と何ら変わりない。……それが、とても、悔しい。

「……じゃあ、なんなんだよ。何が言いたいんだよ」

「お前の父は、八重畑丑義の悪事を暴こうとしていた」

 ――放り出されていた、父の走り書き。

「多々波考真の調査は、凄まじいものだった。丑義の仕掛けた罠を掻い潜り、やつは単身で調べ尽くしたのだ。架国での非道な行い、『霊授兵』研究、その生き残り、更には北の共産連邦とのつながりを。その事実を公表すれば、双見に限らず世界的な大事件を暴いた者としてその名を轟かせることも不可能ではなかっただろう。だが考真は、それを公表しなかった」

「……どうして?」

 そう口にしながらあたしは、これ以上聞くべきではないと感じていた。嫌な予感がしていたのだ。とてつもなく嫌な予感が。心臓が、早鐘を打つ。

 佐々川友為が、いった。


「お前がいたからだ」


 ……ああ。

「事実を公表することの影響を鑑み、尻込みをしたという理由もあるだろう。しかし、一番の理由は多々波ちなみ、やはりお前だ。八重畑丑義の悪事を公表することで想定しうる危険がお前に及ぶことを、お前の父は恐れたのだ。そうなれば、なにも八重畑丑義に固執することなどない。事件など、この国には掃いて捨てるほど転がっているのだから。だが――」

 そう、“だが”。その“だが”の続きを、あたしは知っている。

「一度信念を曲げた者は、もはや元の己に戻れない。多々波考真は書けなくなった。ただの一行とて、書くことができなくなった。多々波考真はもはや、多々波考真が望む多々波考真では在れなくなった」

 頭を掻き、怒鳴り散らすことの増えた父。転がる酒瓶。酒臭い息。周囲の噂。『あんどろぎゅのす』に通う後ろ姿。折れ曲がった背中。消え去ってしまいそうな背中。その背中をあたしは、あたしは――。

 最後に視た、父の姿として――。


「多々波考真はお前を守るために筆を折り、価値を失った生を自ら断ったのだ」


   六 ×洞四四

 相道色月と初めて会った時、すぐに判った。こいつの名前は、こいつのものじゃない。こいつは誰かの名前を奪った、盗人だ。ぼくと同じだ。ぼくと同じで生まれてすらいない、人間未満の存在だって、すぐに判った。だからぼくは、相道色月のことが気に食わなかった。こいつを、人間として扱いたくはなかった。

 純さんと出会った時も、同じようなものを感じた。この人も、偽物の名前を名乗っている。この人もぼくと同じ、人間未満の存在だって。けれどいま思うと、それは少し違うような気もした。なによりもぼくは、純さんのことが嫌いではなかった。純さんは人間未満かも知れないけれど、けれど純さんの純という名前は、純さんのものであるように感じられた。拒んでいるのは、純さんの方だった。純という名前。彼のための名前を、むしろ純さんの方が拒んでいるように、ぼくには感じられた。

 純という名前。その名前は、とても素敵な輝きを放っていた。


 これも、『霊素』のせいなのだろうか。意識があった。脈もないし呼吸もしていないはずなのに、自分がいた。ぼくは、生きているのか。それとも、死んでいるのか。身体は動かない。純さんに捻じり切られて、頭から離れてしまったから。頭も動かない。血がだくだく流れ、生命として機能する最低限の要素も満たさなくなったから。だというのにぼくは、ぼくの頭を、ぼくの目を通して、見ていた。父さんと純さんの二人を。そして――そこへ重なる、奇妙な光景を。


『兄ちゃんいやだ! 置いてかないで!』


「……そうさ、お前はそういう奴だ」

 父さんの手が、純さんの頚に伸びていた。軽く握られた拳の中腹、中指が山形に尖っている。その手は、純さんによって止められていた。けれどもし止められていなければ、その山は純さんの喉を正確に射抜いていたはずだ。もし決まっていれば純さんであろうと、死んでいておかしくはなかった。

 殺すつもりでなければ打てない一撃だった。

「違う、俺は……」

「何が違う。自己の存続のためなら容易く他者を葬り去れる。それがお前の本質だろう」

「違う、違う……俺は、そんなこと――」

「だったら色月は、なぜ死んだ」

 純さんが攻撃を放つ。父さんは驚異的な速度でそれを回避し、再び急所を狙った反撃を行う。

「俺は、すすぐの……色月のために……」

「二人の為に“死にたがり”を殺してきた。色月の心中を食い止め、すすぐの霊触症発症を防ぐために。……そうした“理屈”で、お前はお前を正当化し続けてきたんだよな。“死にたがり”なら、殺したって構わない。だって奴らは、死にたがっているんだから。望みを叶えてやっているだけなんだから……そんなふうに。だが、お前も気づいたはずだ。“死にたがり”は、死ぬことなんか求めちゃいない」

 二人の攻防が続く。父さんはもはや、防戦一方ではなかった。父さんの反応速度は、明らかに上がっていた。父さんは違う、違うとつぶやきながら的確に、人体を死に至らしめる急所を突くための動きをしていた。

「“死にたがり”以上に死を怖れている者などいやしないのさ。あいつらは“死にたいんじゃない”、ただ“生きたくない”だけだ。これほど自分のことにばかり執着するような連中、“死にたがり”以外にゃいないんだよ。なあ、そうじゃないか、“死にたがり”のウロくんよ?」

「違う、俺は死んだっていいって、二人のためなら――」

「すすぐと色月のためだって? 綺麗事をぬかすなよ。お前の殺しは徹頭徹尾自分のためだろうが。すすぐに負担を掛けていると知りながら、色月を追い詰めていると知りながら、それでもお前は殺し続けた。“最も死ぬことを恐れる者たち”を殺してきた。他の方法を模索しようともしなかった。贖罪だなんだと言い訳して、最も楽な方法をお前は選択し続けた。二人に依存しなければ保たない自分を自覚していたからだ。二人の側に居続けるための、それが最も簡単な方法だったからだ」

「俺は、殺したくなんか、殺してなんか――」

「判るかウロ、お前は二人のために殺してきたんじゃない。二人を利用するために殺し続けてきたんだよ。“畜生が如き生存欲求”を満たす、ただそれだけのために。だから――」

「俺は――」

「だからお前は、なれないんだ。次も、その次も、そのまた次も、そしてそのまた次も――」

 純さんの拳が、父さんを、捉えた。

「どれだけ焦がれようと相道ウロ、お前は色月〈人間〉になれはしない」


『殺したくない、殺したくなんか……!』

 だけど、殺した。少年は、殺した。たくさん殺した。少年は、兄を助け出すためにここへ入ったはずだった。自分の身代わりに連れて行かれた兄。預かった物を返すために、ここへ来たはずだった。どうしてこんなことになっているのか、少年には判らなかった。

 ここは、地獄だった。死が、日常だった。殺さなければ、生きられなかった。殺すから、生きることを許された。殺したくはなかった。殺したくなかったと思う。殺したくなかったような気がする。殺す他ない。殺せばいい。殺してしまえ。殺せ。殺せ。

 殺せばそれだけ、生きられる。殺せばその分、死なずにいられる。殺すことは、うれしいことだ。殺すことは、やさしいことだ。

 ぼくはいやだ、死にたくない。だからお前が、代わりに死ね。

『殺すから! いくらでも殺すから! 殺すから出して! ここを開けて! ぼくを出して! ぼくを助けて! ぼくを許して! ぼくを消さないで! ぼくを閉じないで! ぼくを殺さないで! 殺さないでぇ!!』

 暗闇。頭のおかしくなる。頭を掻き毟られる。ぼくを掻き毟られる。爪、剥がれ落ちる。指、折れ落ちる。手首、腐り落ちる。腕、溶け落ちる。身体、崩れ落ちる。自我、消え落ちる。狂う少年。己の裡へと雪崩込む、己以外の無数の自己。膨れ上がる世界の波動に、少年のちっぽけな自我が呑み込まれる。呑み込まれ、同化し、個を個足らしめる全てのものを失っていく。

『にい……ちゃ…………』

 最後に見たのは、唯一の家族。拠り所としてきた、大切な人。それを失い少年は、同時に自己を失った。後に残ったのは少年であった肉塊と、兄に預けられた両親の形見。

 それが、重なる。自己を失った少年と、父さんを追い詰める純さんとが――。

『これを俺だと思え。それで……お前は生きて、いつか兄ちゃんに返しに来てくれ』

 赤いマフラーで、重なって――――。

 

 落ちていく。奈落の底へ落ちていく。純さんの一撃を受けた父さんが、暗闇の底へと堕ちていく。何かが爆発した。屋敷中が、閃光に包まれる。ぼくの設置した罠が、連鎖的に起動したらしかった。音が、光が、意識を塞いだ。その中で、それは聞こえた。純さんの吐き出すようなつぶやきが、はっきりと感じられた。

感息座かんそくざ』で、“名付け親”が待ってるぜ。

 純さんが、飛び降りた。父さんが堕ちた暗闇に向かって。そしてぼくも、堕ちていった。爆発に煽られ転がる他なかったぼくの頭とぼくの意識も、二人を追うようにして堕ちていった――――。


   七 多々波ちなみ

 本当の母親は、あたしを置き去りにして蒸発した。その頃のあたしはまだ母親のおっぱいが必要なくらいで、助けを呼びに行くことはおろか、まともに歩くことすらできなかった。救助された時のあたしは餓死寸前で、同じ歳の子供と比べて半分ほどの体重しかなかったらしい。覚えているわけではない。後からそう聞かされた。

 あたしを助け出してくれたのは、あたしの母の姉だという人。あたしは叔母に拾われ、叔母の子になった。叔母はやさしく、それ以上にとても賢い人だったという話だ。でもあたしは、叔母のことはよく覚えていない。物心つくより前に、叔母も亡くなってしまったから。早くも養母を失ってしまったあたしは、けれど一人ではなかった。父さんがいたから。叔母の夫であるその人が、あたしの父さんになってくれたから。

 父は、すごい人だった。格好良くて、頭が良くて、素敵で。それで、なによりも――正義の人だった。父さんは、ジャーナリストだった。世に蔓延る不正を暴き、虐げられた弱き人々のために筆を執る正義のジャーナリスト。叔母からもらったものだという懐中時計の、その蓋をぱちんと閉める仕草が、あたしはなにより好きだった。父のことが、なにより好きだった。

 父は変わっていった。昼間から酒を飲むようになり、筆を握る姿もめっきり見なくなった。なによりも父は、常に身に付けていた懐中時計を失くしてしまったらしかった。それが、つらかった。父が父でないものになっていく。その姿を見るのは、何よりつらかった。でも、きっといつかは。いつかは元の父にもどってくれる。あの格好良くて、懐中時計をぱちんと閉める父が帰ってくる。きっと、きっとそうなる。あたしは、そう信じていた。

 父が蒸発した。

 信じたくなかった。父さんが帰ってこない、父さんがもどらない。もう二度と、父さんに会えない。そんなこと、信じたくなかった。何よりも、父に捨てられたなんて、信じたくなかった。母だけでなく、父までもがあたしを捨てただなんて、そんなことは信じたくなかった。自分を要らない子だなんて、思いたくなかった。

 だから、恨んだ。八重畑丑義を。恨んで、敵にした。悪者にした。あたしじゃない。父さんがいなくなったのは、あたしのせいじゃない。悪者の八重畑丑義が、あたしから父さんを奪ったんだ。悪いのは全部、八重畑丑義なんだ。そういうストーリーを、あたしは描いた。八重畑丑義が父さんを“神隠し”したんだ。そういうストーリーを、あたしは自分に信じ込ませた――。


「あんたたちのせいだ!」

 あたしのせいじゃない。

「あんたたちが父さんを追い込んだんだ!」

 あたしのせいじゃない。

「返せよ、父さんを返せ!」

 あたしのせいじゃない。

「返してよ、あたしの父さん返してよ、返してよ!」

 あたしのせいじゃ――。

「返して――」

 あたしは、捨てられてなんか――。


「あなたを庇ったあの子、亡くなったわ」


『あんどろぎゅのす』のアイが、あたしにそっと、耳打ちする。

 あたしを庇った、あの子?

 うそだ。だってあれは、夢じゃ。

 夢じゃ、なかったの――?

 イタマ。


「彼の行き先が判ったわ」

「そうか。……それよりもアイ、お前は」

「……私はいいの。ともくん、あなたこそ。……行ける?」

「だからこそだ。二度とはつかめぬこの機会、逃す訳にはいかない」

「そうね……うん、その通りだと、私も思う。ともくん、いえ、佐々川友為さん。……後は、宜しくお願いします」

「任された」

「………………うそつき」

 兄貴。友為の兄貴。兄貴はどこか、父さんに似ている気がした。見た目や話し方、素振りなんかはぜんぜん違う。兄貴に父さんみたいな親しみやすさはない。でもあたしは、兄貴に父さんを見ていた。本当は、誰でもよかったのかもしれない。父さんを重ねられるくらい素敵だと思える人なら、誰だって。父さんの代わりと思えるなら、誰だって。

 でも兄貴は、父さんじゃなかった。父さんは、父さんだった。

「兄貴……」

「ともくんならもう、行ってしまったわ」

「あたし、ほんとは、真実なんてどうでもよかったんだ……」

 真実を追いかけている振りをしていられれば、それでよかったんだ。だって、格好は付く。父さんの後を追って、父さんの夢を継いで、父さんの娘だって自分を納得させられる。だけど本気で、全力で目指してしまったら……できないって事実に、直面してしまうかもしれない。等身大の自分を、認めざるを得なくなってしまうかもしれない。

 だったらちゅうぶらりんの方がいい。できるかもしれない、本気をだせばなんだってできちゃえる。そんなふうに可能性を靄の向こうへ隠したほうが、ずっと、ずっと、楽だ。ちゅうぶらりんに悪者を憎んでいた方が、ずっと楽だ。父さんの娘じゃない、父さんに捨てられたなんて、そんな真実と向き合わないで済むから。あたしはそう思っていた。ずっとそう思っていたんだ。

 あたしに価値なんてない。あたしはなんにもしていないし、なんにもできてない。それらしいことを言って、格好つけてただけだ。その格好付けが、大切な友達を傷つけたんだ。おもやもすすぐも、あたしの被害者だ。あたしのせいで、あんなふうになっちゃったんだ。

 ……それなのに、なのにどうしてあたしを助けたりなんかしたの? 父さん、イタマ。どうして生命や信念を失ってまで、あたしなんかを助けたの。あたしなんかより、二人の方がずっと、ずっとずっとずっとすごい人達なのに。生きるべき人達なのに。あたしに何を求めていたの。あたしにどうして欲しかったの。判んないよ、判んない。そんなの、そんなに重たいもの――。

「あたしそんなの、背負えないよぉ……」

「ねぇちぃちゃん。隣、いい?」

 拘束されたまま暴れて倒れたあたしの前に、『あんどろぎゅのす』のアイが立つ。あたしは答えない。答えを待たず、アイが隣に座った。柑橘の香りが、鼻腔の奥をくすぐった。

「私はね、お母さんになりたかったの。子供をより好みする母親じゃなく、子供から選んでもらえるお母さんに」

 アイの手が、あたしへと伸ばされる。

「もちろん、私は男性。そんなの無理だって、自分でも判ってた。こんな夢を望む私は、きっとどこかおかしいんだって。普通じゃないんだって。でもね――」

 椅子とあたしを縛り付ける紐が、解かれていく。

「ダーリンだけは、私の夢を笑わないでくれた」

「……ダーリン?」

「ダーリン。結婚を約束した人。私の愛しい男の人」

「……その人は?」

「ダーリンはね、実の母に殺されてしまったわ」

 ……ああ。

「自分の息子が“私なんか”と一緒になるなんて、彼女には耐えられなかったのね。反していたの、彼女の信奉する“正しさ”に」

 あたしはもう、すっかり自由になって。

「私はね、悲しかったけれど、納得もしてしまったの。彼女こそが普通なんだって。“正しい”んだって。やっぱりおかしいのは、私なんだって。けれど――私を愛してくれたあの人を否定したくも、なかった」

 けれどアイの話を、聞いていたくて。

「私はね、思ったの。“正しさ”なんてもののない、公平で平等な世界。仕組みとか法律とかじゃない。心によってそれが成される世界。それが唯一、誰もが幸福に暮らせる場所なんじゃないかって。私の夢を、ダーリンの信じてくれた私を実現できる、唯一の世界なんじゃないかって、そう思ったの。……そんな時よ、ともくんと出会ったのは」

 アイの声を、聞いていたくて。

「八重畑センセはね、この国の為なら何でもしてしまえる人だった。ともくんも同じ。二人共、とっても怖い人。けれどともくんは、八重畑センセとも違うことを望んでいた。八重畑センセの目的も、ともくんにとっては過程に過ぎなかったの。それで、彼の目的が達成されたなら、その時は私の願いだって叶うと思った。彼の目的はそんな、不可能を可能にしてしまえるような、魔法のようなものだった。……でもね、私は悩んだの。本当に彼に協力していいのかって」

「どうして?」

「だって彼らのしようとしていることは、とても恐ろしいことだったのだもの。“神隠し”。人体実験。臓器売買。とても普通ではないわよね。一度は私、逃げてしまおうかと思ったのよ。でも、結局は協力することにしたの。最低の口説き文句を聞かされちゃってね」

「最低の……?」

「『己自身に殉じろ』」

 息を呑む。だって、その言葉は。アイが、ふっと笑った。その瞬間、柑橘の香りに別の何か、異なる臭いが漂ったのを感じた。

「ひどい話よね。あの人自分ではそんな言葉、ぜんぜん信じてもいないのに。言うだけ言って、振り回して」

「……うん」

「でもね、ともくん、信じてはいなくても、求めてはいたのよ」

「求めて……?」

「そう、求めて。自分ではきっと気づいていないけれど、誰よりも“自分”に焦がれてた。満たせない“自己”に、飢えていた。だから私、絆されちゃったんだと思う。それだけではないけれど、けど、ともくんだから協力しようと思えたんだと、思う」

 アイがやさしく微笑む。柑橘に混ざったそれが、更に濃くなる。どこかで嗅いだことのある臭い。むせるような、重たい。心臓が、鼓動を早めていく。

「で、でも。そんなのどうやって。世界とかなんとか、そんな、大きい話」

「『大規模霊触』」

「大規模、霊触……?」

 それは、霊爆の投下によってもたらされた――。

「そう、この世界に『霊触症』を蔓延させた、その根源。『霊触の日』に起こった人類史に残る二度とは繰り返してはならない大事件。……でもね、『大規模霊触』は実は、あの『霊触の日』以降にも一度だけ起こされたことがあるの」

「そんな! そんな話、聞いたことない!」

「そうね、一般的には知らされていない話だから。普通に暮らしている限りでは、気づきようもないわ。だってその『大規模霊触』は――霊爆によって引き起こされたものではないのだから」

 霊爆によって引き起こされた訳じゃ、ない……? なら、何に?

「その『大規模霊触』はね……たった一人の個人によって起こされたの」

 たった、一人の……?

「そう、たった一人の。それも霊爆という意思なき兵器が起こしたそれとは違い、史上唯一個人によって発現されたそれは、“明確な指向性”を持って行われた」

「よく、わかんない……わかんないよ、アイ」

「書き換えてしまえるのよ、『大規模霊触』は。世界の……人の、ルールを」

 判らない。判らないけれど、臭いだけは強く濃く、実態を現す。柑橘の心地よい香りを塗り潰し、自らの存在を暴力的に主張する。

「だけど――もしかしたら私、同じだったのかも知れない。私に不幸を押し付けたお母さんと、結局――」

「アイ……」

 あたしは、一点を凝視する。アイの下腹部、その一点を。あたしの視線に気づき、アイが、自身の下腹部を見下ろした。それからアイは、あたしを見て、微笑んだ。

「外はどんぱち、大変だから――きっと神様の山で勝手した、その天罰ね」

「どうして……」

 じわりと、濡れていた。

「どうして……どうしてそんななのに、あたしなんかと話して……」

 アイの、その場所は。服の上まで滲むほどに。

「あたしなんかに、時間を使ってぇ……」

 赤く、赤く――血の色に、濡れ広がっていた。

 アイは、それでも、笑っていた。

「あなたを庇ったあの子ね、笑っていたの。ちぃちゃんの無事を知って、「よかった」って」

「……イタマ」

「だから私、ここにいるのかもしれないわね。彼の最後を看取ってしまったから、どうしても、放っておけなくて」

 そう言ってアイは、やっぱり笑う。まるであたしを、慰めているみたいに。……どうしてさ。アイもイタマも、どうして笑えるのさ。あたしは二人に、何一つ贈れてなんかいないのに。あたしはイタマに、もらいっぱなしだったのに。自分勝手な調査ごっこのため、利用していただけなのに。イタマはどうして、「よかった」なんて。そんな、「よかった」なんて。

 ……それでも、それでもひとつ、あたしからあいつにできることがあるとしたら。

「……彼女だよ」

「え?」

「イタマは、女の子だよ……」

 あたしは知っていた。たぶん、あたしだけが、知っていた。イタマが女の子だってことを。それがなんになるのか判らないけど、でも、それしかないから。それしかないからあたしは、それを忘れちゃいけないって思う。イタマが女の子ってこと、イタマのこと、忘れちゃいけないって、あたしはそう、思う。

「……そっかぁ」

 つぶやいてアイは、血塗れの下腹部を撫でた。自分のものでない、大切な自分以外の生命でも撫でるかのような穏やかさで。

「ともくんがあなたを選んだ気持ち、判った気がする」

「え……?」

 選ぶ……?

「ねえ、お願い、いい?」

 答えるよりも先に、アイが私に寄りかかってきた。直ぐ側へと迫ったアイの瞳は焦点が合っておらず、何処か虚空へ向けられていた。

「膝枕を、させてはくれない?」


 後頭部が、濡れていた。アイの血によって。冷たく濡れて、凍えた。それは、とてもではないけれど心地の良い感触とは言えなかった。でもあたしは、そこから離れようとはしなかった。

「私はね、私を想って言ってくれたダーリンの言葉を、なかったことにしたくなかったの」

 アイの手が、私の頭を撫でる。血に触れたそれはもう乾きかけていて、やっぱりこれも、よい感触とはいえない。なのに、ずっと、そうしていて欲しかった。冷たいのに、暖かかった。アイに撫でられながらあたしは、思っていた。もしあたしにお母さんがいたなら、もしかしたら、こんな感じで――。

「もしかしたらそんなこと、ダーリンは望んでいないかも知れない。それでもね、私には耐えられなかった。私は勝手に、ダーリンの言葉を背負ったの。それが私を想って、愛してくれた人への、私なりの追悼なんだと思って」

 甘えたいっていう、気持ちで――。

「私の言葉を背負ってだなんて、そんな残酷で自分勝手なことは言えない。でも、あなたが勝手に背負うことを止めるような真似も、私にはできない」

 ――だけど。

「ふふ、ずるいわよね、大人って」

「……あたしは、思わないよ」

「ちぃちゃん?」

 だけどあたしは、ずっとここに居られない。

「あたしには、それが大人だとは思えないよ。ずるいことが大人だなんて、私は認めたくないよ」

「……そう」

 だって母親は、いつかはいなくなってしまうものだから。いつまでも、そこには居てくれないものだから。いつかはそこから、離れなきゃいけないものだから――。

「なら、みつけてちょうだい。あなたが信じられる大人の形。それで……今度はちぃちゃんが、教えてあげてね。次の誰かに、教えてあげて。その時まで――」

 アイが、あたしを撫でているのとは逆の手で、懐から何かを取り出した。

「はい」

 取り出した何かを、あたしの前に揺らした。あたしはそれがこぼれ落ちてしまわぬよう、両手を皿にして受け止める。

「これ――」

「指切り、したものね」

 父さん。

 それは、懐中時計だった。父さんが失くした、あの、懐中時計。ぱちんと蓋を締める動作に憧れた、あの。

「……ああ」

 アイの吐息。

「そんなところにいたのね……だーりん、いづち……」

 かすれた、声。

「お願いよ。ね、お願い。だーりん、いづち……もしね、もしも、もしまた次が始まってしまったなら、その時は――」

 かすれる、生命。

「私なんかに、つかまらないでね――――」


 あたしを撫でる、その手が止まった。

 あたしは――あたしはそこで、アイから渡された形見を中心に丸くなる以外に、何もできなかった。何もできはしなかった。胎児のように丸くなる以外には、何も。乗せられたまま動かなくなった、暖かさを散逸させてしまったアイのその手へと集中すること以外には、何も。


 それでも、それでもお願い。お願いします。もう少しだけ、あたし、このままで――――。


   八 相道ウロ

 最初に殺したのは、一匹の蝿だった。

 放り込まれた蝿。一匹の蝿。翅をもがれ、手足をもがれたその蝿は、その身にも無数の細かな傷をつけられ虫の息であったものの、それでもまだ、生きていた。それは、そのまま、生きていた。衰弱して、死ぬようなことはなかった。ここはそういう場所だった。この場所に充満するものには、生命をそのままに留めようとする力があった。『感息座』とは、そういう場所だった。蝿は、もがいていた。もがきながら、生きていた。

 俺は、それを潰した。蝿ではない、何か自分の内側が潰れた気がした。

 次に殺したのは、蛇だった。その蛇もまた、傷つけられていた。死を目前に控えながら、死ねないでいた。俺はその蛇も、殺そうとした。痛み。手に、鋭い。噛まれた。蛇は、俺の手を拒んでいた。殺していいのか判らなくなった。けれど俺はもう、あの蝿を殺していた。俺は何箇所も噛まれながら、その蛇を絞め殺した。またも内側に、異変を感じた。

 それからも瀕死の動物は、次々と送り込まれてきた。送り込まれる動物は、徐々に巨大なもの、徐々に凶暴なものへと変わっていった。死にかけの動物は、俺を排除することで生き延びようとした。生き延びるためには、殺さなければならなかった。殺さなければ、殺された。それは、恐ろしいことだった。死にたくはなかった。あの蝿のように、死にたくなかった。けれど殺す度に、俺の内側から何かが失われていった。俺は、それに、耐えられなかった。


 助けて――――!


 助けを求めた。強く、強く、助けを。言葉にならぬ言葉で。言葉以前の声で。声よりも直接的なそれで。それに向かって。背中合わせの、そいつに向かって。いつか色月となる、××に向かって。近くて遠い、こことも違う暗闇に閉じ込められた××に向かって。


 そして俺は、××を殺した。


 そいつは、これまでの動物とは違った。そいつの身体は傷ついていなかった。そいつが傷ついていたのは、内側だった。内側が、ずたずただった。俺と同じように。ずたずたなそいつは、俺とよく似ていた。二本足で立ち、直立し、肩と頚の上に頭があった。そいつは、俺と同じ種だった。そしてそいつは、ずたずたなそいつは――俺に、襲いかかってきた。

 オオカミの牙よりも鋭い刃。腕を裂かれた瞬間に、理解した。死んでしまうものだ。これは、死んでしまうものだ。殺されてしまうものだ。

 いやだ、助けて。助けて、××。

 願う間も、そいつの刃が俺を斬る。己が刻まれる。己が失われる。死が近づく。怖い、怖い。死にたくなかった。とにかく、死にたくなかった。なんでもいいから、なにをしてもいいから、死にたくなかった。

 殺すしか、なかった。

 そう、願った時。

 そいつの動きが、止まった。

 俺は、飛びかかった。

 飛びかかって、頚を絞めた。

 殺し方は、知っていた。ずっと、知っていた。

 力を込めて、想いを込めて、祈った。

 死ね、死ね。死ね。

 俺の代わりに――お前が死ね。

 お願いだから、死んでくれ。


 そいつの手が、伸びた。

 俺の顔に、触れた。

 一層の力と祈りを込めた。

 それで、それで――。

 生命の折れる感触が、てのひらに伝わった。

 それで俺は、気づいた。

 背中に、感じられなくなっていた。

 背中に××を、感じられなかった。

 その代わりに感じた、仄かなそれを。

 残り香。

 ××の、微かな気配。

 既に、消えかかった。

 それを、感じる。

 てのひらの、その内側の。

 まだ離れていない、その頚の。

 頚を折られて死んだ、そいつの中から。

 ××を、感じた。

 ××が、そいつの中に、いた。

 俺を助けるために、そいつの中に入っていた。

 そいつの中に入って、そいつを止めてくれた。

 俺は、それを。

 助けに来てくれた××を。

 ××を――。


 俺が、××を、殺した――――。


 俺は、××になりたかった。ただそこにいるだけ、その存在を感じるだけで、如何なる不安であろうと吹き払ってくれるような者。××がいたから、俺は俺を得た。××がいたから、俺は俺以外を知った。××がいたから、暗闇に呑まれなかった。××がいたから、願いを抱けた。俺にとって××は、安心そのものだった。俺は、安心になりたかった。俺を構成する汎ゆる俺以外のものへの、安心になりたかった。

 俺は××になれなかった。俺は気づいてしまった。気づいてしまったのだ。××なら、あの蝿を、殺さなかったと。殺しなど、しなかったと。俺は殺した。何の躊躇もなく、殺すことを選択した。決定的な違い。存在としての、生命としての。俺は、俺という生き物は、××となれるようには、できていなかった。生まれる前からそう、決まっていた。それを、俺は、気づいてしまった。

 俺は、××を、殺してしまった。

 死にたくない。死ぬのが怖い。浅ましき、その一心で。


「そして虚无の申し子よ。あなたはそれを認められなかった」


 頚を絞められた死体が、死者の目を動かし、俺を見た。

「あなたはあなたの片割れの死を認められなかった。自らの行いを認められなかった。そこに起きた現実を認められなかった」

 離れようと、する。けれど、離れられない。

「だからあなたは、“現実の側を歪めた”」

 手が、剥がれない。

「生き延びたあなたの一字と、死した片割れの一字とを取り替えることで、起きた事実をなかったことにしようとした」

 食い込んでいく。頚の肉へ、その裡へ、食い込んでいく。

「思い込みとしての自己暗示だけでなく、現実に、世界に認めさせなければならなかった。そんな事実はなかったと、絶対的に定着させなければならなかった。故にウロ、あなたは――」

 見られていた。死者に。無数の死者に。

「“この世界に生きる全ての者の認識を改変した”」

 動物たちに、“死にたがり”たちに。

「『大規模霊触』。何者をも介さず、どのような兵器を用いることもなく、ただあなたという個人によって“意識的に”起こされた、史上唯一の変革現象。しかし――それでもあなたは、自らを騙し切ることができなかった」

 俺の殺してきた、無数の生命だったものたちに――。

「故にあなたは虚〈ウロ〉。无〈存在否定〉を宿す虚〈から〉の器。“空”でいることにも耐えられなかった、虚无の申し子。故にこそ私は、その在り方に相応しき名をあなたへ授けたのです」

「間東……やく…………」

「全ては今日の、この時のために」


 俺の殺してきた者たちが変質する。輪郭を失い、溶け崩れ、異なる形を為す。重なり合う影。俺と――××。××を絞め殺す、俺。

 やめろ、やめてくれ。

「やめろ? 何を言うのです。これは誰に強要されたわけでもなく、あなたがあなたに行なわせてきたことではありませんか。これは、私の辿った歴史ではありません」

 影は増える。無限に増える。正しきその数に増えていく。無意味な増殖ではない。“その数に意味がある”ことを、俺は理解する。知っている。

「『廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る』。双見に伝わる、世界の理。これが真実であること、あの『感息座』での交感によって、あなたは既に知っていますね」

 廻る生命。廻る歴史。廻る世界。廻る――星。

「世界は繰り返されている。寸分の狂いもなく、ただただ決められた歴史をなぞり続けるだけの世界が」

 星の終わりは――。

「そう。星の終わりは、終わりではありません。一つの星が終われば、また次の星で新たな歴史が始まる。同じ生命が、同じ歴史をなぞり、同じ世界を築いていく。そして星が終われば、また別の星で同じことを繰り返す。まるで変わることなき世界を、何千と、何万と、何億と繰り返していく」

 無量に転がる××の死体。俺が殺したその死体。

 俺が“殺してきた”その死体の群れ。

 そうだ、俺は、俺はもう、ずっと――。

「そうですウロ。何度“繰り返そう”と、何度“生まれ変わろう”と、あなたは??を殺すのです。これまでも、これからも。星が起こる以前からあなたは、そうなるように定められているのです」

 ……全ての悲しみも。

「全ての苦しみも」

 ……全ての恐れも。

「全ての痛みも」

 ……全ての罪も。

「全ての罰も」

 全部、全部が――。

「何もかもが、決められているのです。あなただけではない。これまで生まれた、そしてこれより生まれる汎ゆる生命が。生命全ての源――神の息、『霊素』によって決定づけられている」

 霊素……万物を構成するその根幹。生命の在り方を“記録”し“再現”する。

「霊素ある限り、この意味無き世界の繰り返しは永遠に続くのです。遍く悲運を降り注ぎながら」

 どうして、そんなことが――。

「それは判りません。しかし重要なのは、由来を突き止めることではない。如何にして止めるか、です」

 止める? 繰り返しを?

「はい。この無意味な繰り返しを」

 そんな、そんなの、無理だ。すべてが決まっているのなら、繰り返されることが決まっているのなら、いまこうして話していることだって起こるべくして起こっていることで……どうしようも、ないじゃないか。

「いいえウロ、それは少し違います」

 ……違う?

「ウロ、虚无の申し子よ。あなただけは、違うのです」

 …………俺?

「ウロという名を冠する生命など、本来この世に存在し得なかったのです」

 俺が、存在しなかった……?

「あなたは異例の中の異例、この繰り返しにおける特異点なのです。なぜあなたのような者が生まれたのかは疑問ですが、事実としてあなたは世界のルールを書き換えた。全てが決定された世界の中で、あなたのその力だけが唯一世界を崩し得る力なのです」

 俺の力が……これがあれば、繰り返しを止められるのか。

「はい。あなたの力がありさえすれば、可能です」

 そしたら俺はもう、もう二度とこんな思いをしないですむのか――。

「はい、その通りです」

 そしたら俺は、俺はもう二度と――。


 二度と××を殺さないで、すむのか――?


「死は確かな死として、正しき終わりを意味する言葉となるでしょう」

 ……間東やく。俺の名を変異させた者。こうなるように俺を導いてきた者よ。

 俺は……何をすればいいんだ?

「いいえウロ、なにも」

 ……なにも?

「ええ、なにも。あなたに期待することなど、なにも」

 どういうことだ、どういうことだ間東やく。だってお前は、俺の力が必要だと言ったじゃないか。俺の力がなければ、世界は繰り返されるって……!

「ええ、あなたの力は必要です」

 だったら――。


「人類は死滅します。ただの一人も残らずに」


 ……………………なに、を?

「ウロ、繰り返しを止めるとは、そういうことなのです。全ての元凶は霊素。霊素を根絶しなければ、繰り返しは止まらない。そしてあなたの『大規模霊触』は、霊素を直に変換する権能。その破壊も可能なのです。そしてそれはつまり、霊素という粒子を前提として進化した生命体から、生存に必須となる構成物を取り除くことに他ならないのです」

 ……他にもなにか、なにかあるんじゃないのか。そんな、極端な手段に依らず、解決する手段が――。

「他に? 例えば他に、どんな手が?」

 例えば……繰り返しに関わるものだけ停止させる、とか。

「何が繰り返しに関わるものであるのか、膨大な要素の中から見つけることができるのですか? 仮にそれを見つけられたとして、その中途半端な書き換えが思いもよらぬ変異をもたらす可能性を、あなたは考慮しましたか? いま以上に悪化した状況をもたらすとは欠片も思いませんでしたか? それが二度と取り返しのつかない事態となった時、あなたにその責任を取ることができますか? この世を生きる全ての生命に向かって、責任を取ると誓えるのですか?」

 それは……。

「私も考えました。考えに考え、考えた末に結論付けたのです。他に方法はありません。繰り返しを容認するか、直ちにすべてを停止させるか。維持か、絶滅か。私達が選べるのは、その二つに一つなのです。そしてあなたは、繰り返しを認めたくなどない。そうでしょう、ウロ?」

 ……俺はもう、××を――。

「そう、あなたは認められない。あなたの××を殺す“次”など、あなたに認められるはずがない。かといって、あなたにできますか。全人類――いえ、霊素を必要とする星上すべての生命の根絶など。できますか、あなたに、それが」

 それ、は――。

「できませんね、できません。“生存に終止符を打つための殺戮”など、あなたにはできはしない。“あなたの本質は、そのようにできていないのだから”」

 …………。

「ですからウロよ、半端な倫理に囚われし虚无の申し子よ。その身と名とを、力と共にこの間東やくへと委ねなさい。決断も、選択も、思考すらも必要ありません。あなたにはそのようなもの、もはや必要ないのです。自己と自己の生に纏わる責に心悩ます必要など、もうないのです。“己”など、手放しておしまいなさい」

 ……………………。

「あなたは、“要らない”のです」

 ……………………俺。


「ねえあなた、よくも生きておられますね」


 俺は――――。

 俺は――――――――。



 ――宜しい。では始めましょう。

 この愚かしき永劫回帰の元凶――生命の源の、その根絶を。

 最終最後の大規模霊触を――――――。




『ウロくん』



 ……うそだ。

『うそじゃないよ、ウロくん』

 うそだ。そんなはずない。だって、だってお前は――。

『ウロくん、うそじゃない。うそじゃないんだよ』

 お前は四四に――。

形建なりたてさんのおかげなんだ』

 俺に――。

『形建さんが譲ってくれたんだ。もう少しだけこの世界に留まるための力――霊素を』

 信じられない。だって、こんなこと――。

『ぼくの身体は動かない。もうもどることもできない。けれどぼくは、色月だよ。色月はここにいるよ、ウロくん』

 こんなことがあるだなんて、俺は――。

「そこまでです」

 俺は、思っても見なかったから――。

「星の核が欠片、人非ざる者の亡霊よ。私とウロの肉体は、既に融合を始めました。もはや『大規模霊触』は止まりません。今更なにをしに現れたのです」

 だから俺は、もう、俺を――。

「あなたという存在は、ウロを追い詰めるためだけに用意されたものです。あなたは自らの死によってその役割を果たした。もう充分でしょう。役目を果たした人形が自律する様など、目障りでしか有りません。亡霊よ、疾く消え去りなさい!」

『……ウロくん。ぼくね、話したいことが――』

 やめてくれ!

『ウロくん……』

 やめてくれ、もうやめてくれ。これ以上、俺を掻き乱さないでくれ。やくの言う通りだ。早くどこかへ行ってくれ、俺が“認識”できない場所へ行ってくれ。でないと、でないと俺は――。

『助けを、求めてしまう……?』

 そうだ、その通りだよ。お前がいると、俺はお前を頼ってしまう。助けを求めてしまう! そしたら、そしたら俺はまた――お前を殺してしまうんだ!

 頼む色月、頼む……俺はもう、お前を殺したくないんだよ……。

 きみに……憎まれたくないんだよ……。

『……ごめんね、ウロくん』

 もう、俺に関わらないでくれ。俺を見捨ててくれ。俺を忘れてくれ。

 もう、楽に、させてくれ――――。

『ごめんね……ごめん。そのお願いは、聞けないよ』

 色月……。

『だってぼく、うそをついていたんだ。きみから逃げないなんて、酷いうそをついていた』

 なんの、話だよ……。

『ぼくはねウロくん、ずっと幸せだったんだ。きみから新たな名前と生命をもらって、ぼくの世界はずっとずっと広がった。そこにはたくさんの人がいた。世界は、たくさんの愛しい人に溢れていた。そうした人たちの中で生きることは、ぼくにとってとても幸せなことだった。……だけどぼくは、きみと出会った』

 みつるが俺と、霊触症を患ったすすぐを引き取って……。

『死んだぼくから“空”を受け取ったきみは、“空”でもない“虚”になっていて……とても、苦しんでいた。それでぼくは、思ったんだ。ぼくはきみから名前だけでなく、その幸せまで奪ってしまったんじゃないかって』

 違う、そんなことは、違う……。

『本当は違うのかもしれない。でも、“ぼくはそう思った”』

 違うのに……。

『ぼくは幸せになっちゃいけない。人に、みんなに尽くさなきゃいけない。自分の喜びを求めてはいけない。そう、思うようになったんだ。だってそれは、本当はぼくの幸せではないのだから。奪ってしまったものなのだから。そう思って暮らしてきた、ある日のこと。ぼくはある人から教えてもらったんだ。――ぼくの生命がもう、長くないってことを』

 あの風強い夜の、手が触れ合った瞬間の、光――。

『ぼくはきみと向き合うことを恐れていた。きみの拒絶は痛いほど感じていたし……なによりも、臆病で自分勝手な“色月”がきみに伝わってしまうんじゃないかって、知られてしまうんじゃないかって思うと、怖かった。……きみに軽蔑されることが、なによりぼくは怖かった。でも、ぼくの生命がもう間もなく尽きるというなら――ぼくは、返さなきゃいけない』

 お前に、返してもらうものなんて……。

『きみに名前と幸せを返すことがきみから逃げないことだと、ぼくはそう思ったんだ。自分を粗末に扱ってでも、そうすることが。そうすることが唯一きみに応えることで、償いになるんだって。……でも、それは間違ってた。間違ってるって、おもやちゃんが教えてくれた』

 ……下山、おもや?

『すすぐちゃんに向かって真っ直ぐ自分の気持ちをぶつけたおもやちゃんに、ぼくは教えてもらった。逃げないっていうのは、自分を隠す理由を相手に押し付けることじゃない。逃げないっていうのは――自分の本心〈みっともない気持ち〉を相手へさらけだすことなんだって、判ったんだ。だから――』

 ……。

『だからこれは、ぼくのわがまま。わがままで自分勝手な、利己的なぼくが利己的なぼくを幸せにするための、きみへのお願い。……ウロくんへの、お願い』

 色月、俺は――。


『ウロくん、お願いです。ぼくのことを、どうか助けてもらえませんか』


「ウロよ、虚无の申し子よ。耳を傾ける必要などありません。この亡霊の語る言葉はいずれも、聞くに堪えぬ譫言に過ぎません」

 ……ああ。

「惑わされる必要はありません。考える必要はありません。自我、自己、自意識。悩みや苦しみとは、すべてこれらの己から訪れるのです。不要なのです、そんなものは。あなたのように心弱き者であれば、尚更に」

 わか、ってる……。

「ならばよいのです。それならばよい。いずれにせよ、あなたにできることなどもはや何一つとして残されていないのですから。あなたは要らないのです。人の終わりは私に任せ、あなたは消滅の愉楽に浸っていればよいのです」

 わかっては、いるんだ……俺は怖がりで、卑怯で、“死にたがり”の“死に怯え”だ。純が言ってた通り、死にたくないから殺してしまえるような……那雲崎しるしなんかとは違う、初めから違う、そのようにできることが決まっていた生き物だって。

 ……でも。

「……ウロ?」

 だけど……あいつも、怖かったんだ。怖かった、はずなんだ。

「いけません、ウロ。何をするつもりです。何を“考えて”いるのです」

 怖くても、あいつは、俺に向き合おうとしてくれたんだ。こんな、俺に。こんな、俺なんかに。だったら――。

「やめなさい。馬鹿なことを“考える”のはいますぐやめるのです。それは苦しみを増すだけです。再び自他を傷つけてしまうだけです」

 こんな俺でも、してやれることがあるのなら――。

「愚かな……それは愚かなことですウロ。あなたは虚无の申し子、繰り返しにおける特異点。無意味な永劫回帰に終止符を打つ、そのためだけの回路です。その役目を放棄することなど、自意識を持つなど許されはしない」

 こんな俺を、“要る”と言ってくれるなら――。

「ウロよ、虚无の申し子よ。離しはしません。離させはしません。私とあなたは不可分。手遅れです。切り離せはしないのです。あなたがそれを望んだのです」

 間東やく……。

「そうです、私達は一心同体です。ですからウロ。忘れるのです。『大規模霊触』によって、すべてを忘れてしまうのです。それだけが唯一、“我々”という苦役から逃れる術なのだから――」

 間東やく。

 あんたが望んでいること、俺にも判る気がするよ。本当はそうすることが正しいんだって、強くそう訴えている自分もいる。もう苦しむ必要なんてないだろうって。だからたぶん、ここへ来るずっと前から俺とあんたは同じで、不可分だったんだと思う。臆病で、痛がりで、自分のことが嫌いで……ずっと、ずっと、遠い遠い昔から。

 だけど、それでも……俺とお前が不可分だというのなら――。


“これ”はここに、置いていくよ。


「馬鹿な……そんな、馬鹿な」

 ……さようなら。

「考え直すのです、ウロ、頭を冷やしなさい。だめ、離しては。それでは、私が、私が――」

 俺の、二人目の母さん。

「堕ちる――――」



 色月。感じる、お前を。

 いつも感じていた、お前のことを。

 苦しいときも、つらいときも。

 背中を傾けると、いつもそこに。

 そこにお前は、いてくれた。

 一緒にいてくれた。

 一本の背骨を共有して。

 同じ鼓動を、同じ呼吸を、共有して――――――――。


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