終章

一~四

   一 ×洞四四

「これを俺だと思え。それで……お前は生きて、いつか兄ちゃんに返しに来てくれ」

 彼には弟がいた。たった一人の弟。たった一人生き残った、唯一の家族。戦争によって両親や親戚を一挙に失った彼は異国の者が溢れるようになったその町で、弟と二人生き延びてきた。盗みや縄張り争いは日常で、気の休まる時はなかったけれど、それでも弟がいたからがんばれた。弟がいるという事実。その存在に自分が救われていることを、彼は理解していた。

 弟がつかまった。盗みに出て、つかまったのだ。弟には盗みなどさせてこなかった。どこでなら盗めるか、どこは危険かも教えなかった。弟が盗みに入ったのは、飛び抜けて危険な場所だった。いまこの国を支配している異国の軍、その兵隊の詰め寄る場所。弟は、異国の軍の兵隊につかまった。

「お願いします、弟だけは見逃してください……俺が、俺が代わりに罰を受けますから」

 願いは聞き入れられた。弟が受けるはずの罰は、彼が受けることとなった。彼は母から譲られた形見を弟へ譲り、連行されていった。死刑も覚悟していた。死刑の方がまだしも救いがあったことを、彼は知った。

 連れて行かれた先は、刑務所でも処刑場でもなかった。そこはまだ真新しさが残る清潔感のある建物で、何かの施設のようだった。物々しさはあるもののその外観から、そこまで酷い場所ではないのではないかと彼は希望を抱いた。中に入ってすぐに、その希望は打ち砕かれた。

 子供が吊るされていた。ある程度のばらつきはあるものの総じていえば、自分と同じくらいの子供が。その吊るされ動きを封じられた子供を、別の子供が殴打していた。腹を殴り、足を蹴り、顔面を――目を突きなおも、暴力は止まらなかった。殴る者と殴られる者。一対ではなかった。部屋の中ではところせましと、そうした光景が繰り広げられていた。

「一一四八番。なぜ従わない」

 一人の子供が、吊るされた子供の前で震えていた。威圧的な雰囲気をまとった軍服姿の男が、もう一度その子供に詰め寄る。一一四八番、なぜ従わないと。子供は小さく、弱々しい声で答えた。「弟なんです」。「連れて行け」軍人風の男が、言った。側に控えていた兵隊たちが震える子供を――一一四八番をつかんだ。一一四八番はいやだいやだと泣き喚き、暴れだした。その抵抗は、兵隊たちの暴力によってすぐさま鎮圧された。一一四八番は連れて行かれた。その間も、他の子供達は吊るされた子供への暴力を止めなかった。泣きながら殴っている子供もいた。

「一七六六番。お前にも、明日から同じことをしてもらう」

 彼をここへ連れてきた男は、感情の感じられない声でそう言った。


 一七六六番。それが、この場所における彼の新しい名前だった。この場所には、ルールがあった。収容された子供たちはまず、戦う術を学ばされた。それも武器を用いない、自らの身体だけを利用した武術の技を。その武術を教えてきたのは、一人の男。軍人や兵隊ではない、如何にも武術家然とした男だった。その男から彼らは武術の技を、特に人の殺害を目的とした技を指導された。指導は厳しく、辛いものだった。しかし、それはまだ耐えられる時間だった。

 彼らは定期的に、正体の知れない薬品を注射された。それが何なのかは判らなかったが、よくない物であることだけは確かだった。注射をされた者の尽くが体調を崩し、中にはそのまま意識を取り戻せなかった者までいたから。死んではいないようだった。ただ、自分を完全に失っていた。その姿は自発的な行動をまったく取ることのできない、白痴そのものだった。そのような状態に陥った者は、兵隊とはまた趣の異なる白衣をまとった職員たちに、何処か彼らの見えない場所へと連れて行かれた。そして多くの場合、連れて行かれた者はすぐに彼らと対面する事になった。武術の練習を行うための、肉袋として。

 逃げ出そうとした者、自分を失った者。そうした者たちは、教わった武術を身につけるための生きた練習台にされた。吊るされ、動きを封じられた子供達。それを相手に彼らは、学んだ技を全力で行使した。手を抜くことは許されなかった。手を抜けば自分も、そちら側へ回されるから。それも、意識を保ったままでなどと。

 何度か、耳にした。彼自身も、そうした者と対面した。悍ましいものだった。哀願、怒声、狂乱、哄笑。様々な感情と、そこから吐露される声、声、声。それらの声が、打ち出した拳、放った足によって次第に小さくなっていく感覚。絶える感覚。生命を奪うという感覚を、彼らは直に覚えていった。耐え難かった。逃げ出したかった。逃げ出すことは許されなかった。それがまた、頭をおかしくさせた。けれど、それですらまだ、最悪ではなかった。

 暗闇。何よりも恐ろしいそれ、その場所。何もない、光一筋、一点すら差すことのない完全なる暗闇。そこへ一人で閉じ込められるという、恐怖。どれだけの間このままなのか、どれだけ待てば解放されるのか、期間を明かされることはない。そこへ閉じ込められたら最後、ただ待つしかないのだ。待つ。扉の開く音を、期待し、希望し、待つ。そこから差し込む光を、狂ったようにただただ待つ。しかし、こうも考える。開くことなどないのかもしれない。二度と外へは出れないのかも知れない。一生このままかもしれない。

 不安が増す毎に、怖れを抱く毎に正常な意識は崩壊し、見えざるもの、聞こえざるものを感じ始める。天地を失くした暗闇の、あちらこちらで扉が開き始める。身体をぶつけ、頭をぶつけ、幻の扉から外へと逃れようとする。血を流しても、肉を潰しても、骨を歪めてもぶつかりつづける。しかし、扉はない。そこに扉はない。それを理解できるか否かに関わらず壊れた意識は、幻の在り方を変化させていく。

 自分のものでない視覚、味覚、嗅覚。思考、感情、認識。外にいる他者の、現に生きている誰かの感覚に重なる幻。自分が自分ではなく、別の者として生きる幻。それはまるで天から授けられた甘露のように、無常の悦びを彼らにもたらす。悲惨でつらいだけの自己から解き放たれ、光の喜悦に包まれた他者となれる至福の一時を。やがてそれはただ一人の他者に収まらず、無数の人、無数の意識との同調を果たしていく。ただ重なっていただけのはずのそれが、自分を呑み込み始める。膨大なそれらが、内側から自分を破ろうとする。

 不安は限りなかった。同時に、甘美だった。そこへ呑まれてしまえば、完全に自分を失える。自分でなかった場所へ還れる。そうした誘惑が、彼らを襲った。堪らない誘惑だった。負けたかった。楽になりたかった。いなくなりたかった。安らぎたかった。なにもない暗闇の中では、ただそれだけが赦しに思えた。けれど一七六六番は――彼は、呑み込まれなかった。

 弟に会う。ここを出て、もう一度弟に会うんだ。

 暗闇から出された後は、必ずその女性と会わされた。兵隊たちとの会話から、異国の女性であることは判っていた。異国の女性、自分たちをこんな目に遭わせている、憎むべき相手の側に属している者であると。けれど彼はどうしてか、この女性のことを憎むことができなかった。この女性と会えるこの時間だけが、この施設の中で唯一安らげる瞬間だと感じていた。

 彼女は不思議な女性だった。そういう決まりなのであろう、彼らは度々彼女と手を繋がされた。そこにどういった意味があるのかは知らされていない。ただ、そうしていると、安心した。不安や恐怖、怒りや狂気に渦巻いていた感情が、彼女に触れると途端に穏やかなものへと代わっていくのだ。まるで自己を傷つけかねない負の感情を、彼女が吸い取ってくれているかのように。

 それに、彼女の声を聞いたような気がしたのだ。のどを通じて発せられた声ではない。言葉ですら無い、言語以前の声。ただ“認識”としか呼べないような、そんな声。その声で彼女は、彼を応援してくれた。応援してくれたように、彼には感じられた。必ず会える。あなたの大切な人と、あなたはまた、会える。そう、応援してくれているように、彼には感じられた。それは支えだった。彼女が応援してくれている。だから自分はがんばれる。生き抜いて、また弟に会える。か細くも、それでも彼を支える、唯一の柱だった。


 うそだ。


「一七六六番。なぜ従わない」

 軍人風の男が、繰り返す。なぜ従わない。彼は、答えなかった。なぜなら、彼にも答えがなかったから。有り得ないことだったから。そこにいるはずのない者が、そこに吊るされていたから。ずっと会うことを望んでいた、けれどこんな形での再会を求めていたわけではない相手が、そこにいたから。半開きの口からこぼれた舌には意識がなく、だらしなく垂らされた涎をふこうともしない白痴が、そこにいたから。

 形見と言って渡したそれを身に付けた――彼の弟が、そこにいたから。

 片目だけ大きく開かれた弟の白い目が、意思なく彼を見下ろしていた。


 殴られた。蹴られた。拘束された。罵声を浴びせられ、踏みつけられた。すべて、遠い出来事だった。痛みも、悲しみも、自分から離れていた。弟が、自己を失った弟がそこにいる。それだけが現実で、事実だった。弟を守れなかった、弟を失った、弟に弟を喪わせてしまった。それだけが、事実だった。

 感じた。暗闇の中、扉が開く。無数の扉の全てが開き、目を焼く光から他者の群れが止めどもなくなだれ込む。他者に溺れた。そのまま溺れてしまおうとした。もう何も感じたくはなかった。もう、自分から解き放たれたかった。意味が、もう、なかった。

 感じた。別の何かを。かろうじて残る自意識。その最後の滴で彼は、それを認識した。あの女性が、彼を見ていた。女性は、酷く、傷ついた顔をしていた。


 その瞬間、何かが、爆発した。


 気付けば殺していた。自分を拘束していた兵隊を、偉そうに指揮していた軍人を、自分と同じように連れてこられた子供らを、誰彼の別なく殺していた。そうしなければ治まらなかった。そうしようとも治まる気配はなかった。殺さなければならなかった。ここにいる者のすべてを。動くものすべてを。そして――あの女を。

 裏切った、裏切ったんだ。大丈夫だと、必ず会えると言ってくれたのに、ぜんぶうそだったんだ。赦さない。赦さない、赦さない、赦さない。殺してやる。みんなみんな殺してやる。こんな場所、こんな世界、全部ぶっ壊してやる。

 兵隊たちに、職員たちに、彼を捉えることはできなかった。誰も彼を“認識”することはできなかった。彼は彼を、誰にも“認識させなかった”。彼は理解していた。呼吸を意識しないように、歩き方を一々確認しないように、頭ではなく生物として当たり前に備わった能力を当たり前に発揮するように、その扱い方を理解していた。“他者の認識を自在に書き換えられる自分”を、彼は理解した。

 武器は不要だった。むしろ、邪魔だった。物質は自分ではない。武器を持つことは、その武器だけが宙に浮くという不可解な認識を周囲へ与えることになりかねない。そんなものを持たなくとも、人は殺せる。拳でよかった。充分だった。拳だけで充分、人間など容易く殺めることができた。そのための技は、ここで教わった。

 逃げようとする者も、歯向かおうとする者も、全員殺した。肉と血と骨に埋もれた回廊を、彼は駆けた。殺して、駆けて、また殺した。そして、その果てに見つけた。あの女。絶望を膨れ上がらせる希望という名の毒の種子を植え付けた、あの女。女は、彼を見ていた。

 すぐに判った。この女は、違う。“この女だけは、俺を認識している”。こいつも、俺と同じ――。

 殺意。直前で、気づく。身を捩り、躱す。先程まで自分が立っていた場所の空気が、爆発して割れた。そこには、拳があった。固められた拳。武術家。彼らに人殺しの技を教えたあの武術家の放った拳が、そこにあった。拳が、掌が、蹴りが、次々と放たれた。見えている気配はない。気配はない。女とは違う。それなのに武術家は、迷いなく打ち続けてくる。当てずっぽうではない。そのどれもが正確に、彼のいた場所を射抜いていく。

 それでも、完全ではなかった。武術家の予測は、彼の動きよりも一呼吸遅れていた。容易ではなかったものの、躱すことはできた。しかし彼は、躱すだけで終わらせるつもりなどなかった。彼は、殺したかった。この武術家を、女を、ここにいる全員を、殺して殺して殺し尽くしてやりたくて仕方なかったのだ。我を忘れた彼は、殺意の怒りそのものだった。

 だから彼は、武術家を殺そうとした。体格の優れる武術家の攻撃を何度も受け、身体が壊れる音を内側から何度も聞いた。それでも彼は止まらなかった。そして彼は、その機会を得た。無防備に晒された武術家の顔面。そこに、腕を伸ばす。手を伸ばす。指を伸ばす。爪を伸ばす。殺意を伸ばす。二度と何も、二度と自分を見れなくするために、武術家の目を、片目を、潰し、抉り、掻き出そうと、伸ばしたそれを――――。


 世界が、揺れた。


 彼の指は、直前で止まった。それどころではなかった。瞬間起こった衝撃、自らと自らにつながる汎ゆるもの、世界そのものを揺さぶったその衝撃に存在そのものを揺さぶられて。その衝撃に、彼は耐えられなかった。彼は意識を失い、そして次に目覚めた時――一切の記憶を、失っていた。

 彼には知る由もなかったが、その日は霊爆によって八百人やおとの敗戦が決定づけられた『大規模霊触』の日――『霊触の日』に、他ならなかった。


「もし協力して頂けるのなら、ボクも君の探しものを手伝いますよ」

 男は言った。彼に、断るという選択肢はなかった。彼は承諾した。記憶を失くした彼には、何処へ行く当てもなかった。それに彼は、記憶を取り戻したかったのだ。失った記憶の中に大切な、決して忘れてはならない何かがあったように思えたから。絶対に忘れてはならない、愛しく大切な約束が――。男の素性など、彼に知り得ようはずもなかった。それでも構わなかった。例え男が何者であろうと、記憶を探す手助けをしてくれるというなら、従う他なかった。

 男に連れられた彼は大陸を北へ北へと北上し、そのまま越境、共産主義による覇権を掲げる連邦国家へと亡命することとなる。そこで彼は、男の為の殺しを行っていった。殺し方は、覚えていた。自分の特異な能力についても、呼吸のように理解していた。この国でも、彼を捉えられる者はいなかった。彼の手で政敵を次々と葬ることに成功した男は、異例の早さで政治の中枢、党の深部へと食い込んでいった。

 そこで男は、彼の特異な力を研究するための施設を用意した。研究は時に苦痛を伴うものであったものの、記憶を取り戻すためと言われれば従わない訳にもいかなかった。彼はどんな研究にも協力した。しかし、記憶はもどらなかった。判ったのは彼の力が、『霊素』という元素と密接な関係があるということ程度だった。

 数年が経った。相変わらず記憶を取り戻すその兆しすら得られないまま、彼は男と共に北東ヤ国へ送られることとなった。同じ共産圏でありながら激烈な批難によって袂を分かち、かつ急速に力をつけつつある大陸の共産国家を牽制するという目的の下に。党の目的は、彼には関係なかった。自分を党の人間だと思ったことなど、一度もなかった。自分の失った記憶、それだけが彼の目的で在り続けた。

 北東ヤ国でも、研究は続けられた。約束を違えるつもりはないと、男は言っていた。その言葉を、彼は信じた。北東ヤ国において十全な行動を取るため新たな名を得た男を――那雲崎道民みちひとを、彼は信じた。そして、ここでも彼の仕事に変わりはなかった。触れることは愚か、誰一人として彼の影を踏むことも適わなかった。

 殺して、殺して、殺して、殺した。命じられて行う行為ではあった。しかし同時に、手応えもあった。殺しを楽しいとは思わない。そういった感情はない。ただ、殺すごとに、殺した者の片目を抉るごとに、失った何かに近づいていく気がしたのだ。殺すこと。それは、失った自己を取り戻すためのひとつの手がかりのように感じられた。


「なぜ黙っていた」

「必要がなかったからですよ。あなたが記憶を失って以降の出来事です。関係はないはずだ」

「それを決めるのは、俺だ」

 息子がいる、俺に。その情報を得た彼は、すぐさま那雲崎道民に詰め寄った。那雲崎道民は、簡単に白状した。彼の体細胞を使用した、クローンの製造。健康な母体の卵子に受精させ、彼の特異な力を人工的に再現しようとした実験の、その結果。そしてその一人が、自分の子の一人がこの北東ヤ国にいることを、彼は知る。

 居ても経っても居られなかった。那雲崎道民に息子の居場所を聞き出し、彼はすぐさまそこへ向かった。那雲崎道民の言うことも正しかった。その息子は、彼が北の共産連邦に着いてから儲けられたものだ。失われた記憶とは関係ない。しかし、予感があった。その子供と出会うことで、今まで気付けなかった自分自身のルーツに出会えるのではないかという予感が。

 それに――そのような計算を抜きにしても、会いたかった。ただ、会ってみたかった。自分の息子。自分の血を分けた存在。それがどんなものなのか、どのように育っているのか、知りたかった。一目でいいから、見てみたかった。


 そして彼は――ぼくと出会った。


 彼の生涯、これまでの人生をぼくは、瞬間的に体験した。その一瞬、その身と魂と、世界を揺さぶる衝撃の瞬間にぼくは、確かに彼へと至る彼そのものを経たのだ。そしてその瞬間、彼もまた、弟のことを思い出した。失った記憶を取り戻した。それをぼくは、確かに感じた。感じたのだ。

 その時、ぼくは本当の意味で理解した。彼こそが、ぼくの父さんであることを。


   二 ×洞四四

「愛しい愛しい私の子。お父様が、あなたの名前を教えてくれるの。だからそれまで、あなたは笑うの。あなたはずっと、笑っているの。笑うことは、愛すること。愛する者は、愛される。あなたは愛される子供になるの。そうしなければ、誰もあなたを見ないのだから。そうしなければ、あの方は来てくださらないのだから――」

 母さんを愛していた。母さんの言うことは絶対で、母さんがぼくの全てだった。笑わないとぶたれた。たまに笑っていてもぶたれたけれど、そういう時はごめんねごめんね愛してるからね、愛しているから手が出てしまったんだからねと言って、やさしくちゅーをしてくれた。とても幸せな感じがした。愛されてると思えた。だからぼくは笑った。もっと愛されたかったから。もっともっと愛してほしかったから。

「あなたのお父様は、この世で最も崇高なお方なの。美しくて、逞しくて、全能で、人の頂点に立つべきお方なの」

 父さんのことは知らなかった。会ったことはなかった。母さん以外の人と会ったことはなかった。家の外へ出たことはなかった。だから母さん以外の人を知らなかった。困ったことなんてなかった。ぼくは母さんを愛していたから。母さんさえいればよかったから。その母さんが素晴らしい人だと言うのだから、父さんという人もとても素晴らしい人なのだと思った。誇らしい気持ちがした。

「名前、名前よ。名前があるから、人間なの。名前のない子は、まだ生まれていないの。あなたはあの方から名前をもらって、その時本当の誕生を迎えるの。世界で一番素晴らしい名前。あの方の息子であることを証明する名前。それは、とても幸せなことなの」

 ぼくはまだ生まれていなかった。まだ人間ではないと母さんは言った。名前があるから人間なのだと母さんは言った。母さんの言葉は絶対だった。ぼくは人間ではなかった。早く人間になりたいと思った。人間になれば、もっと愛してもらえると思ったから。

 だからぼくは、笑った。笑うことは愛することで、愛することは愛されることだと母さんが言っていたから。愛されることは気持ちよかった。ちゅーは幸せだった。これ以上の幸せに包まれたら、ぼくはどうなってしまうんだろう。そんなことを思った。

 それは、唐突に訪れた。


「あぁ……あぁ、あぁっ!」

 母さんが泣いていた。息も絶え絶えの様子で、胸を掻きむしりながら泣いていた。これまでも、怒って泣くことはあった。ぼくが悪い子で、愛されないことをした時、母さんは怒った。ぼくのために怒って、ぼくのために泣いてくれた。ぶたれても、それは母さんの愛だった。それは知っている愛だった。でも、こんな母さんを、ぼくは見たことがなかった。

 見たことのない、母さん以外で初めて目にした人間。その人間の足にすがりついて、母さんは泣いていた。

「あなた様のご子息です。私が産みました。あなた様の子を、私が産みました……!」

 母さんが、ぼくを引っ張った。知らない人間、初めて見た人間。この人が、ぼくの父さんらしかった。でもぼくは、父さんというものをよく知らなかった。どうしていいか判らなかった。母さんがよかった。でも母さんはぼくを、父さんの前に押し出していた。母さんは絶対だった。ぼくは、父さんなる人の前で笑った。愛される子供をした。

「…………ぉ」

 父さんの手が、ぼくの肩に置かれた。ぼくの肩に手を置きながら父さんは、聞き慣れない言葉で何かをつぶやいた。ぼくは、笑っていた。にこにこと、よく判らないまま笑っていた。

 父さんも、泣きそうな顔をしながら、笑った。


 世界が、揺れた。


 それは、ぼくの知らない感覚だった。この世の汎ゆるものがいちどきに、ぼくの中へと入ってくるような感覚。入って、膨らんで、ぼくの方を押し出してしまうような感覚。でも、ぼくは押し出されなかった。その代わりにぼくは、体験した。ある人の生涯を、これまでの人生をぼくは、追体験した。ぼくは彼であり、彼はぼくだった。

 彼は、ぼくの父さんだった。


 母さんが、ぼくを、突き飛ばした。

 一瞬の出来事だった。母さんの悲鳴。母さんの折れる音。母さんの割れる音。母さんが、壊れていく音。ぼくはそれを聞き、それを目にした。その光景を、ぼくは目にした。

 母さんの言うことは絶対だった。母さんは絶対で、母さんは父さんを信仰していた。その父さんが、母さんの目を抉っていた。母さんを壊していた。母さんを母さんでない何かに変えていた。すごい光景だった。すごく、すごい、光景だった。他の誰にも、こんなことはできないと思った。母さんは父さんを全能と言っていた。その通りだった。ぼくは、完全に理解した。これが、“愛”なのだと。父さんは母さんのことを、究極的に愛しているのだと。

「父さん」

 母さんを壊し尽くした父さんが、ぼくを見た。

「ぼくも、愛してください」

 父さんが、ぼくを、“認識”した。強い情動が、ぼくの裡に湧き上がる。愛してほしかった。父さんに、愛してほしかった。いっぱいいっぱい愛してほしかった。ぼくは願った、夢を描いた。愛してください。母さんにしたみたいに、ぼくを愛してください。それで、ください。それで――名前を、ください。生まれたいです、人間になりたいんです。だから、ください。名前、ぼくの、名前。名前。

 それなのに。

「……ぅ……の……」

 父さんが、苦しそうに呻いた。どうしたの父さん。どうしてぼくを愛してくれないの。どうしてぼくを見てくれないの。お願いです、愛してください。名前をください。ぼくを産んでください。ぼくを人間にしてください。ぼくは、父さんに詰め寄った。父さんはなぜか怯えるようにして、ぼくから離れた。そして――次の瞬間にはもう、いなくなっていた。

「……父さん?」

 父さんはいなかった。どこを見てもいなかった。かくれんぼかもしれない。そう思った。たまに母さんと、かくれんぼをして遊んだことがあるから判る。かくれんぼに違いないと、ぼくは思った。家の中のどこを探しても、父さんはいなかった。それに、ぼくは、奇妙なことに気づいてしまった。

 あんなにも鮮明だった父さんの顔が、あんなにもはっきりと捉えていたはずの父さんの姿が、思い出せなかった。どんなに頭をひねっても、叩いても、思い出せなかった。それだけではなかった。あの瞬間、確かにひとつになった父さんとぼく。その記憶。その記憶が急速に薄れていくのを、ぼくは感じた。

 ぼくは、恐ろしくなった。とてもとても恐ろしくなった。父さんのことを、忘れてしまう。父さんの息子だって証明するものが、なくなってしまう。いやだ、いやだ。忘れたくなかった。留めたかった。留める方法なんてどこにもなかった。ぼくは、父さんの大半を、失ってしまった。そしてぼくは、またもや理解した。理解してしまった。

 ぼくは、愛してもらえなかった。愛される子供では、なかったから。

 愛される子供ではなかったから父さんは、ぼくを見捨ててしまった。

 ぼくから父さんを、取り上げてしまった。

「……母さん、母さん」

 母さんを揺すった。壊れて、潰れて、どこからどこまでが母さんか判らなくなってしまった母さんを揺すって、起きてもらおうとした。寝ている時に起こすと怒られてしまうけれど、それでもいいから起きてほしかった。母さんは起きてはくれなかった。あの幸せなちゅーを、もう、してはくれなかった。


 母さんにも父さんと母さんがいるなんて、ぼくは知らなかった。母さんの父さんと母さんの母さんは、それぞれじいちゃんとばあちゃんというらしかった。ぼくはじいちゃんとばあちゃんに引き取られ、じいちゃんとばあちゃんの家で暮らすことになった。

 じいちゃんとばあちゃんは、やさしかった。甘いものというとてもおいしい食べ物をくれたし、家から出ることも許してくれた。家の外はびっくりするくらい広いのだって、教えてくれた。ふたりはやさしかった。ぼくはすぐに、二人のことを好きになった。だからぼくはその気持ちを伝えたい、二人を愛したいなと思った。


「どうして、どうしてこんなこと……!」

 ぼくは、愛し方が下手であるようだった。ぼくが愛そうとすると、ばあちゃんは逃げ出してしまった。愛する者は、愛される。愛されるためには、愛さないといけない。逃げられたら、愛してもらえない。それは、いやだった。逃げてほしくなかった。逃げられないようにした。ぼくは思いつく限りの方法で、ばあちゃんを愛そうとした。ばあちゃんは動かなくなった。

 じいちゃんが帰ってきた。じいちゃんはぼくがばあちゃんを愛したことにすぐ気づいて、散らかったばあちゃんを元にもどそうと積み上げ始めた。「じいちゃん」ぼくはじいちゃんを呼ぶ。じいちゃんがぼくを見た。ぼくは笑った。にっこりと笑った。笑わないと、愛してもらえない。母さんがそう言っていた。母さんの言葉は絶対だった。全てだった。だからじいちゃんも、ぼくを愛してくれるはず。今度こそ、愛してもらえるはず。ぼくは、そう期待した。

「笑うな!!」

 じいちゃんが怒鳴った。いままでに見たことのない剣幕で、ぼくを怒った。混乱する。どうして、どうしてそんなことをいうの。だって、笑うんだよ。笑う子供は、愛されるんだよ。なんで笑うななんていうの。笑わなかったら、愛してもらえないんだよ。愛してもらえないのは、いやなんだよ。

 いやなんだ。

「出ていけ……出ていってくれぇ!」

 じいちゃんは、ぼくを愛してはくれなかった。父さんが母さんへしたようなことを、ぼくにはしてくれなかった。ぼくはまた、愛されなかった。ぼくはここでも、愛されない子供だった。じいちゃんは、何が気に食わなかったのだろう。判らなかった。ぼくのしたことは全部母さんや父さんから教わったことで、間違っているはずなんてなかったのだから。それでも考えられるとしたら、それはぼくの愛し方が下手だったのではないかということくらいで。ぼくのやり方はきっと、父さんみたいにうまくなかった。それがいけなかったんじゃないのか。ぼくは、そう考えた。

 ならもっと上手になれば、今度こそぼくは愛してもらえる。愛される子供になれる。ぼくは、そう考えた。


 世界には素敵な人が溢れていた。男の人、女の人。年老いた人、ぼくより小さい人。怖がりな人、怒りっぽい人、頭のいい人、言葉も話せない人、八百人の人、八百人の外から来た人。みんな、素敵だった。みんなみんな、素敵だった。だから、不思議だった。

 どうしてみんな、愛し合おうとしないのだろう。右を見ても左を見ても、愛し合っている人は見つからなかった。こんなに素敵な人ばかりなのに。愛しい人たちばかりなのに。もしかしたらと、ぼくは思う。もしかしたらみんな、ぼくの知らない所で愛し合っているのかもしれない。愛し合うという行為は、誰にも知られない所でひっそりと行うものなのかもしれない。

 そうに違いないと、ぼくは思った。ならどうすれば、そういう人と出会えるのだろう。ぼくを愛して、ぼくに愛させてくれる人には、どうすれば。ぼくは考えた。考えても、よく判らなかった。判らないからぼくは、むずかしく考えずに飛び込んだ。だって世界は、こんなにも素敵な人達で溢れてる。ぼくのことを愛してくれる人だって、すぐに見つかるはず。ぼくは、そう思った。そう思っていた。

 ぼくの愛を受け入れてくれる人は、一人もいなかった。愛することも、愛されることも、拒絶された。男の人も、女の人も、年老いた人も、ぼくより小さい人も。怖がりな人も、怒りっぽい人も、頭のいい人も、言葉も話せない人も、八百人の人も、八百人の外から来た人も。みんな素敵で、でも、ぼくを必要とはしていなかった。彼らにとってぼくは、愛し合う対象ではなかった。愛しい子ではなかった。ぼくは、気づいてしまった。

 名前がないからだ。

 名前がないからぼくは、愛してもらえないんだ。

 名前がないから、人間でないから、生まれていないから、ぼくは――。

 ――ああ。名前が、名前が欲しいよ。


 素敵な人。素敵な人達。ぼくは彼や彼女を愛そうとして、けれど失敗を繰り返しながら、その相手の名前をもらってまた別の誰かの下へひた走るという行為を繰り返した。上手くはいかなかった。借り物の名前はぼく以外の誰かのために用意された、偽物の名前だ。どんなにそう偽ろうとしても、ぼくのものにはならなかった。名前は必要だった。偽物でも、ないよりはマシだった。でも、それでは足りなかった。愛してはもらえなかった。本当の名前が、ぼくのためだけに考えられた名前が必要だった。

 父さん。

 父さんしか、いなかった。名前を与えてくれる人。ぼくだけの名前を教えてくれる人。ぼくを人間にしてくれる人。それは父さん以外に考えられなかった。家族以外にありえなかった。父さんに会えば、なんとかなるかもしれない。父さんに会えば、うまくいく気がする。父さんに会えば、全部解決する。父さんに会えば、幸せになれる。父さんに会えば、生まれることができる。父さんに会えば――。

 父さんを思った。毎日想った。強く念じて想えば、必ず父さんを見つけられると思った。その当時、北東ヤ国には大陸の人が大挙して押し寄せてきていた。国内の様子もあちこちで、急激に変化していって。そうした変化する生活の中、人々は捌け口を求めるようにそれへの憎悪を口にしていた。『无』。あいつさえいなければ。

 ぼくにとっては八百人の人も八百人の外から来た人も、変わりなんてなかった。大切なのは愛してくれるかどうかだけで、人種や性別なんてどうでもよかったのだ。だから『无』の騒動についても、耳にはしていたものの興味を抱いたことはなかった。それよりもぼくは、ぼくのことで精一杯だったから。けれど、父さんを想い、父さんを念じていくうちに、その考えが間違いであることをぼくは知った。

 念じると、誰かが見えた。誰かの辿ったこれまでの足跡が感じられた。その足跡の脇には、死体が積み重なっていた。無数の、片目を抉り抜かれた死体が。すぐに判った。その死体たちは、愛されていた。母さんのように。ぼくを突き飛ばした、母さんのように。

 ぼくの父さんは、『无』だった。

 強く念じれば念じるほど、父さんの足跡はより深く、より近くで感じ取ることができた。遠い過去から、今へと至るその道を、ぼくは感じた。感じて、辿った。この先に、父さんがいる。この先で、ぼくを待っている。どうしてか未だに顔も姿も思い出せないけれど、でも、間違いなかった。父さんはぼくを待ってくれているはずだ。そしてぼくを愛し、今度こそ名前をくれるはずだって。

 そしてぼくは、辿り着く。

 双見という町の、山の上。大きなお屋敷が建てられたその場所に。

 間東という名の、その家に。


 幼い子供が、大人の頚を、絞めていた。


 震えが止まらなかった。いつか感じた衝撃。父さんに父さんの記憶を呼び起こさせ、ぼくに父さんを体験させたあの衝撃。世界そのものを揺さぶったあの魂の振動が、組み伏せた大人の頚を絞め続ける目の前の子供から感じられたのだ。疑う余地もなかった。この子だ、この子がそうなのだ。この子こそが、ぼくの――。

 頚の骨の折れる音が聞こえた。


“父さん”。


 崩れた瓦礫で、父さんを殴った。父さんはあっさりと意識を失い、その場に倒れた。ぼくは父さんを起こし、その指を操って、頚を折られた男の人の顔へと近づけた。見開かれた、目。その片方の隙間に、父さんの指を突き入れる。軽い抵抗。でも、押し戻されるほどではない。そのまま進む。奥まで直進した後、先端を曲げる。回す。ぷつんと、切れる感触。指に引っ掛けたまま、掻き出す。眼球が、零れ落ちる。

「やっぱり、父さんだ……」

 父さんだった。父さんは、父さんだった。ぼくはついに父さんを見つけた。ぼくの父さんを、ぼくの家族を、ぼくを人間にしてくてる人を見つけた。幸せな気持ちでいっぱいだった。

 でも、不安もあった。

 父さんは、余りにも幼かった。ぼくよりも幼い父さん。父さんは果たして、本当に父さんをしてくれるのだろうか。またぼくを置いて、どこかへ消えてしまうのではないか。それは許せなかった。父さんには、父さんをしてもらわなければならなかった。父さんには、もっともっと父さんになってもらわないといけなかった。愛せるようになってもらわなければならなかった。

「それならば、俺も協力しよう」

 その人は、ぼくや父さんのことを知っていた。ずっと昔から知っていて、ずっと昔から見守っていたのだと言った。そしてその人も、父さんが父さんに成ることを望んでいた。父さんが父さんとして目覚めること――『无』と成ることを、望んでいた。それは、ぼくにとって初めての仲間だった。うれしかった。ぼくは的確にいろいろな指示をしてくれる彼のことを、母さんの次くらいに信じた。

 ぼくは父さんが愛するはずだった人たちを、父さんの代わりに愛していった。もし父さんが父さんに成っても、いまのぼくでは愛してもらえないと言われたから。だからぼくは父さんの、『无』の代わりに色んな人を愛して、愛し方を学んでいった。

 父さんが愛するはずだった人たち。もちろんその人たちも、素敵な人ばかりだった。だからぼくは一回一回、可能な限り丁寧に、丁寧に丁寧に彼らを愛した。父さんと再び会う日を、名前を授かるその日を夢見て、偽物の名前をとっかえひっかえ交換しながら愛して回った。今度こそ、愛される子供と“認識”してもらうために。


 そして今日。今日のこの日。ぼくは待ち望んでいた瞬間と対面する。新しいぼくを迎える。父さんが、父さんに目覚めた父さんがぼくにそれを与えてくれる。全部は今日の、この瞬間のためにあった。ぼくのこれまでは、ぼくの人生は全部、全部この瞬間へとつながっていたのだ。だから、さあ。だから、もういいでしょう? 父さん、さあ父さん――。

 いまこそぼくを、愛してください!!!!


   三 相道純

 そう、すべて。すべてだった。洞四四ほら しよん――いや、名もなき哀れなその畜生は、字義通りの全身全霊、その身とその身を流れる霊素のすべてを活動させ、“父”を求めた。

「ぼく、母さんを愛したんだ。父さんみたいに、ちゃんと愛したんだよ」

 父を求めるとは、即ち父と同化すること。父を辿り、父と同じものになろうとすることと同義だった。しかし名無しの畜生に、武術の才はなかった。素手によって人を制し、殺める術を、名無しの畜生はついぞ身につけること適わなかった。故にその畜生は、道具を手にした。拳の代わりに武器を放ち、蹴の代わりに罠張る技術を会得した。

「ぼく、父さんの子供だよ。父さんの子供になれたんだ。愛される子供に、なったんだよ」

 間東の屋敷は、爆発によって崩壊しかかっていた。畜生の仕掛けた、大量の罠によって。その炸裂する爆発のひとつひとつが、飛び散る火花のひとつひとつが、畜生の想いの込められた愛そのものだった。畜生は、畜生の仕方で父への愛を示そうと必死だった。

 相道ウロに示そうと、必死だった。

「だから、父さん。ねえ、父さん――」

 しかし――。

「愛してよ」

 ウロは、無傷だった。

「愛して、名前を頂戴よ」

 畜生の愛が込められた爆発は、畜生の愛が宿った火花は、ただのひとつとしてウロには届かなかった。

「ぼくを、人間にしてよ。ぼくを、生んでよ」

 狂おしい程に醸成された畜生の想いは。

「父さんの子だって、認めてよぉ……」

 父への想いは。

「ごめん……」

 父には、届かなかった。

「ごめんなさい……」

 ウロには、届かなかった。

 お前の父は、ウロではなかったから。

 お前ではウロに、死の恐れを抱かせてやれなかったから。


 だから。ここから先は、俺の役目だ。


「――あ」

 お前は、よくやった。やりすぎたくらいに、よくやった。

きいと、さ――」

 だからこれは、俺からお前への餞別だ。お前の望みとは違うかも知れないが、俺にはこれくらいしか贈ってやることができないから。だから――だからいままでお疲れ様、『无』の血を引いた永遠の童子。せめて、せめてお前が、せめてお前たちがこのような悲しみを負うことのないよう、二度とそのようなことがないよう――俺も、精一杯やってみるからよ。

 ……じゃあな。


 そして俺はいつものように、畜生一匹の頚を折り曲げる。


   四 相道ウロ

 ぶちぶちぶちと、千切れる音。回る、回る、頚が、回る。洞四四の、洞四四ではなかったそいつの頚が、ぶちぶちと、ぶちぶちぶちと、いやな音を立てて回る、回る。捻られた頚はもはや限界をとうに越えて、伸び切った皮は切れ、繊維は切れ、肉は千切れた。それでも頚は回った。回された。頭をつかんだその腕に、力任せに回されていた。ぶちぶちぶちと。みちみちみちと、回されていた。その音が、止まった。頚に付随していた身体が、支えを失い、倒れた。そして、転がった。

 洞四四であり、洞四四でなかった者の首が、床の上に、転がった。

「悲しいよなぁ……本当に、悲しいことだ」

 血まみれだった。どこもかしこも、そうだった。部屋の中も、屋敷中も、転がった生首も、生首から切り離された身体も、俺も、双見も、双見の人々も、誰も彼も、何もかも、血まみれだった。

「生きれば生きるほど遠ざかる、かつて描いた理想の自分。突きつけられるのはただ、くたびれきった現実のみ。本当に、腹が立つほど悲しいことだ。なあ、そうは思わないか――」

 生首を捩じ切ったその隻腕も、血まみれだった。

「ウロ」

「純……」

 ――赤のマフラーも、血まみれだった。

「純、色月しづきが死んでしまった。死んでしまったんだ」

「……ああ、これか? この右腕なら、どこぞの刀剣使いに斬り落とされてな」

「俺のせいだ。俺が願ったから、助けてなんて願ったから」

「あの野郎、躊躇いもしなかった。ほんの少し、ほんの少しだぜ? ほんの少し野郎の娘を殺してやりたいと思ったら、途端にこれだ」

「俺はまた、あいつを殺してしまった。俺のせいで、あいつを二度も死なせてしまった」

「俺と同じ気持ちを味わわせてやろうって、そう思ったんだ。しかしあいつは、それを許さなかった。あいつの抜刀は神速だった。全力でなけりゃ、俺が殺されていた」

「純、どうすればいい。判らないんだ。もう俺は、どうしたらいいか何も判らない」

「殺すしかなかった。殺して、死んで、それであいつは娘を守ったんだ。那雲崎しるしを、守り通したんだ。守り通しやがったんだよ、俺とは違って」

「ダメなんだ、逃げてしまうんだ。逃げてはダメだと判っているのに、どうしても逃げてしまうんだ」

「お笑い草だよな。まったく、お笑いだ。俺があいつに負けたのは、これで二度目。二度だ、二度も同じ相手に負けたんだ。二度と負けはしない、そのための研鑽だったはずなのにな」

「逃げて、求めるんだ、助けを。知っていたはずなのに。求めれば、傷つける。求めれば、死なせてしまう。殺してしまう。俺はそれを、知っていたはずなのに。それなのに俺は、助けを、俺は――」

「何の意味も、何の価値もない人生だ。価値のない、俺だ。なあウロ、価値のないものはどうすればいい。お前だったら、どうした方がいいと思う。どんなふうに、始末を付けるべきだと思う」

「俺にはもう、何の価値もないんだ!」

「そうだ。そうなったらもう、死ぬしかないよな」

 純の足が、伸びた。反射的に、防御する。十字と交差した両腕に、純の蹴りが直撃する。衝撃。飛び退く。痺れ。指先に、震え。

「……きい、と?」

「なあウロ、“死にたがり”って、何だと思う?」

 純が、接近する。頭部目掛けて放たれた回し蹴り。身を屈めて避ける。しかし、避けられない。逆の足。跳ね上がっていた反対の足が、俺の胴を穿つ。息が漏れる。視界が揺れる。脳が揺さぶられる。とにかく、とにかく――逃げる。

「死にたがりってのは、加害者ってことだ。加害者ってのは、罪人ってことだ。社会だ法だは関係ない。“己が信じる在るべき正しさ”。それだけだ。ただその正しさだけが基準だ。その基準から滑り落ちた者が、自分で自分を罰したがる病人が、そいつが罪人ってものの実際さ。死にたがりってものの実態だ」

 逃げる、逃げる。避けて、逃げる。それしかなかった。そうすることしか、思い浮かばなかった。

「価値がないんだよ、価値が。正しさが価値を生むんだ。正しくなければ、価値はないんだ。価値がない、意味がない。そんな自分に耐えられるよう、人間はできちゃいない。だから人は、あれこれ自分に言い訳述べて、なんとか価値を見出すんだ。修正するのさ、基準の方を。だが、そいつもいつかは行き詰まる。誤魔化す自分を誤魔化せなくなる。自身の無価値を、自覚する。そうしてやがては直面するんだ――自己崩壊の、絶望に」

 逃げる。逃げられない。純は強い。純は速い。俺なんかよりもずっと、純は速い。俺は純に敵わない。なにひとつも、敵いはしない。

「判るか、ウロ。絶望だよ。絶望が、人を“死にたがり”たらしめるんだ」

 俺は、弱い。全部。心も、身体も。

「お前は立派な“死にたがり”だよ、ウロ。だがそれは、何も特別なことじゃない。多かれ少なかれ、みんなそんなもんさ。結局はみんな、そんなもんになっちまうのさ」

 あれだけ修練したことも、あれだけ誓ったこともかなぐり捨てて、醜く逃げようとするくらいに、弱い、弱い。

「なあウロ、俺は思うんだよ。人ってのは、生きている限り絶望から逃れられない。“何処かの誰かが、そうなるように作りやがった”……ってな。仕方ないのさ、そうなることは。だが、それならどうすればいい。そんなものへと崩壊してしまう俺達は、崩壊してしまった俺達は、いったいどうすればいい」

 価値なんてない。俺に価値なんて、初めからなかった。あいつになれない俺に、純になれない俺に、価値なんてなかった。俺は何にもなれなかった。なることなんて、できなかった。だったら、そんなものは、もう――。

「死ぬしかないよな。そうなったらもう、死ぬしかないんだ。だってよ……生きていたって、むなしいだけじゃねぇか。……が、判るよ。そうは言っても、中々自分じゃ踏み切れないもんだよな。だから――」

 純の言うとおり――。

「だから安心しろよ、ウロ。もうおしまいだ。お前がこれまでやってきたこと、俺がお前にやってやるから――」

 死ぬしか、ないじゃないか。

「さよならだ、相道ウロ」

 楽に、なるしか――――。


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