二九~三四
二九 那雲崎しるし
「あのね」
冷たい。
「ハザマ、死んじゃった」
血が、冷たい。
「ハザマが、殺されちゃった」
身体が、冷たい。
「ハザマが殺されちゃったんだよ、相道ウロ。ハザマが、ハザマが、殺されちゃった」
動かなくなったハザマが、撫でても、さすっても、冷たい。どんなにしても、あったかくならない。動かない。
動かない。
「相道ウロが、『无』なんでしょ?」
すすぐを抱えた、相道ウロ。あいつが言ってた。『无』は、相道ウロ。相道ウロが、『无』。
「ボク、仇、討たなきゃなんだ」
血溜まりから、拾う。ハザマの刀。ボクの刃。冷たい冷たい、ボクの刃。
「答えて、相道ウロ」
重い、刃。ボクより、重い。
「相道ウロが、『无』なんでしょ?」
ボクより重い、ハザマ。ハザマを、ボクは、持つ。ハザマで、ボクは、討つ。
「あなたが、仇なんでしょ?」
仇を、討つ。
「その通りだ、那雲崎しるし」
「う、あ……」
「俺が、『无』だ」
「あ、あ、あ――」
「仇を、討ってくれ」
「――うああああああああああ!!」
お父様、お父様、お父様、お父様、お父様――。
ハザマ――――。
三〇 相道みつる
確かに私は閉じ込めた。自分の子を、光の差さない暗い暗い地下牢に閉じ込めた。でも、それってそんなに悪いこと? 自分の家族を手放したくないと思うことは、そんなにも責められなければならないこと? こんなにも、こんなにも酷い仕打ちを受けなければならないことなの?
純兄さんがゆめ姉さんを殺して、家に寄り付かなくなって。関係を結ぶことで繋ぎ止めようとして、それでも稜進兄さんは家を捨てて。兄さんとの間に宿った子供を戒厳父さんは認めてくれずに私を追い出して。当の本人はいつの間にか双見から出ていって。その上、生まれた双子の片割れを、あの間東の女に奪われて。それでも家族を、たった一人残った我が子を守りたいと思うこの気持ちは、そんなにも悪いことなの?
ねえ、教えて。教えてよ私の子。私から逃げた私の子。ゆめ姉さんの眠る月山のあの場所で、ゆめ姉さんと同じように頚を折られて死んだ、愛しい愛しい私の子。あなたはどうして外へ出たの。どうして逃げ出したの。どうしてあなたは死んでしまったの。あなたの頚を折ったのは、いったい誰なの。ねえどうして、どうしてなの。どうしてあなたは、私が名付けたその名前すら思い出させてくれないの。どうしてそんなに名前まで、お母さんから逃げてしまうの。
色月じゃない。色月なんて名前じゃない。そんな名前は知らない。そんなやつは知らない。だから私はあいつを知らない。あいつは偽物だ。私の子を騙る化け物だ。どんなにやさしそうに見えても、どんなにゆめ姉さんに似ていても、私はあいつを認めない。私の子とは認めない。だって、もしあいつを認めてしまったら、死んでしまった本当のあの子があんまり不憫に過ぎるじゃない――。
色月は認めない。でも、あの子は違う。あの女から、間東の女から取り返した私のもう一人の宝物は、違う。あの子は私の子だ。私の家族だ。ウロなんて名前じゃなかった。そんな名前は知らなかった。知らなかったけど、ウロなんて名前じゃないけど、でも、あの子はあの子だ。紛れもなく、私の子供だ。名前を思い出すことはできないけれど、でも、私の子だ。
すすぐなんかと、間東のあの女の娘なんかと兄妹のママゴトをしているけれど、あの子の本当の家族は私だ。私だけだ。それなのに、あの子はすすぐと離れることを嫌がった。すすぐと一緒でなければ死ぬとまで言った。二人を引き剥がすことは、私には不可能だった。
本来であれば『息重』に連なる間東の娘であるすすぐを、私などが引き取れるものではない。けれど実際に、私は二人を引き取れた。その背景に、黒澤太平太の手が動いたのは間違いない。黒澤太平太が――おじさまがいなければ、私はあの子に近づくことすらできなかった。そのおじさまも、死んだ。私を庇って。私は結局おじさまに、ありがとうの一言も言っていなかった。
「……私が、悪いんじゃないもん」
おじさまが勝手に私を庇ったんだ。私は庇ってほしいだなんて言わなかった。私はおじさまを殺しに行ったんだ。始めからおじさまを殺して、あの子を連れ戻すつもりだったんだ。ショックを受けるようなことじゃないんだ。せいせいするべきなんだ。喜ぶべきなんだ。おじさまが死んで、私は喜ぶべきなんだ。
「喜べるわけ、ないじゃない……」
おじさまのことが嫌いだった。純兄さんばかり贔屓して、私や稜進兄さんのことは蔑ろにしていたから。私の子供を、間東の女から取り返してくれなかったから。でも、でも……。おじさま。父さんの、兄弟。兄さんたちが稽古している時に私と姉さんのおままごとに付き合ってくれたり、私の作った首飾りが小さくて入らない時も頭飾りにして被ってくれたり、勘当された私を家に帰すよう、お父さんに談判してくれたり。
おじさまのことが嫌いだった。でも本当は、好きだった。好きだから期待して、その期待に応えてくれないから裏切られた気がして、嫌いになったつもりでいた。嫌いなんかじゃなかった。私はほんとは、おじさまのことが好きだった。おじさまも、家族だった。相道だった。
相道だったのに、おじさま、死んじゃった。
「おねえちゃぁん――」
泣いたって、誰も帰ってきやしない。
物音がした。あいつだ。あいつがもどってきたんだ。いったいどこをほっつき歩いていたのよ。私がこんな、こんな想いをしていた時に。あなたはどこを遊び歩いていたのよ。
洞四四。どうしてあなた、そんなに傷だらけなのよ。
「どうしたのよ、なにが――」
言い終わる前に、抱きつかれた。反射的に引き剥がしそうになるものの、傷や火傷の余りに酷い有様に、暴力的な排除を躊躇する。どうしていいか判らず戸惑う私を置き去りに、洞四四は遠慮なんてまるでなく、私にしがみついていた。しがみついて、ひっついて、すがりついて。すがりついた洞四四は、それで、なんとも弱々しい声で、鳴いた。
「おかあさぁん――」
ああ、そうか。こいつも、おんなじなんだ。
私と同じで、家族が欲しい、それだけなんだ。
「……いいよ、おいで」
私にとって、ゆめ姉さんはお母さんだった。私を産んで亡くなったお母さんの代わりの、代わり以上のお母さん。本当のお母さん。私は、ゆめ姉さんになりたかった。ゆめ姉さんみたいに、抱きしめてあげられる人になりたかった。そうすれば家族も、みんなも、離れ離れになることなんてないと思ったから。悲しい想いに囚われ続ける人なんて、いなくなると思ったから。
この子は、小さな子供だった。私にはそれが判った。判ってしまった。母親を見失った、小さな小さな迷子の子。家族を探してずっとずっと、彷徨い続けた哀れな子。彷徨い続けたその分を、求める想いに膨らせちゃった怪異の子。
いいよ、あげる。私を全部、あなたにあげる。あなたのお母さんに、なったげる。飢えてた分だけ、私を吸って。望んだ分だけ、愛を喰らって。お母さんは、逃げないから。家族から、逃げないから。それでもまだ……それでもまだもし、足りないのなら。その時は――。
やさしいキスをあげるから。だからねあなた、“あなたの証明”、もらっておいで。お父さんから、もらっておいで――――。
三一 那雲崎しるし
「できない……」
「そうか」
「できないよぉ……」
「そうか」
「人殺しなんて……できないよぉ!」
「……そうか」
「できない……よぉ…………」
ハザマを――違う、ただの刀を、私は持ち続けることができなくなった。相道ウロの肩に当たって止まったそれが、重さのままに落下する。柔軟な金属の揺れ動く音が、室内に響き渡った。ハザマの刀が、ハザマの側に転がった。
そのすぐ横へ相道ウロが、抱えていたすすぐを静かに下ろした。
「すすぐは俺を赦してしまった。俺はもう、すすぐの側にはいられない」
すすぐは目を閉じ、まるで死んでいるような顔をしていた。
「だから、那雲崎しるし。お前に頼みたい」
「……え?」
「すすぐを、お前に頼みたい」
相道ウロは、それ以上に死んだ顔をしていた。
「そんなの、無理だよ。だって、ボクなんか――」
「お前しか、いないんだ」
死んだハザマと同じくらい、死んだ顔をしていた。
「俺が頼れるのはもう、お前しか、いないんだ」
「相道ウロ……」
死んだ目で、ボクを見つめていた。その目が、ボクには、とても悲しかった。少しでも、助けてあげたいとあげたいと思った。だからボクは、眠るすすぐの手を握った。指先にとくとくと、生命の鼓動が感じられた。
相道ウロが、背中を向けた。
「あなたは何処へ行くの……?」
「俺のせい、らしい」
なんのこと?
「外の惨状は、俺のせいらしい」
外の、惨状?
「だから、止めないと、いけない」
「ボクは」
相道ウロが何を言っているのか、ボクにはよく判らなかった。よく判らなかったけれども、ボクには相道ウロが、必要以上に自分を追い込んでいるように思えた。悲しいくらいに自分を痛めつけているって、そう思えた。だからボクは、言った。
「ボクは、そうは、思わないよ」
「俺はそう思うんだ」
相道ウロの言葉は、簡潔だった。
「那雲崎しるし。すすぐを、頼む」
その言葉を最後に、相道ウロは行ってしまった。後にはボクと、死んだハザマと、死んだように眠るすすぐだけが残された。ボクはすすぐを抱き寄せた。軽く、側へと引き寄せるつもりで。すすぐの呼吸が、首元に触れた。抱き寄せる腕に、力がこもった。すすぐと密着した。掻き抱いた。すすぐを感じた。
「あったかい……あったかいよぉ…………!」
あったかかった。とてもあったかかった。生きていた。すすぐは確かに生きていた。そのことが、ボクの奥の何かを強く刺激した。刺激されて、涙が溢れ出した。ずっとずっと堰き止められていた涙が、溢れて溢れて止まらなくなった。声を出してボクは泣いた。声を上げてボクは泣いた。声を限りにボクは泣いた。
ねえすすぐ、震えてたんだ。相道ウロも、震えてたんだよ。ボクと同じに、震えてたんだ。斬ろうとしたボクも、斬られようとした相道ウロも、震えてたんだ。生きているから。すすぐもボクも、相道ウロも、生きてるんだ。生きてるんだよ。
生きたいと思って、いいんだよ――――。
三二 相道ウロ
燃え盛る町。皮膚を焦がす熱と焔、そこかしこで轟く叫喚と怒号。俺の知らない双見。一つの町が燃え崩れていく音、色、衝撃。報復なのか。これが『无』の、獲物を横取りされた『无』の報復というやつなのか。なんとかしなければ。この惨状が俺のせいであるのなら、俺が、なんとかしなければ。
でも、どうやって?
「木下ァ!!」
聞き覚えのある声が聞こえた。近くの民家。既に火が燃え移り、所々倒壊しかけているその家の中から、声が聞こえた。聞き覚えのある声。誰だ。判らない。でも、助けないと。俺のせいなんだ。一人でも多く、助けないと。
「木下、おい、返事しろよ木下ァ!」
男が一人、二人、三人。二人は倒れている。一人は座っている。倒れた一人は知らない。頭に陥没した穴。そこから流れ出た血。絶命しているのが、一目で判る。その手には、小銃。
もう一人は、見知った顔。木下。下山で、共に働いていた男。二人目の息子が生まれたとかで、みんなから祝われていたのを覚えている。どちらかといえば物静かな、けれど手先が器用で、誰よりも丁寧な仕事をする男だった。
その木下に座った格好のまま叫んでいるのは、栗川だ。こいつも、下山で働いていた。お調子者で少々ガサツな所もあったが、押しの弱い組家に代わって若手をまとめる、下山にとってなくてはならない存在だった。その栗川が、木下に向かって叫んでいた。のどと口から大量の血液をごぷごぷ吹き出している木下に向かって。それは、身体的な反射現象に過ぎなかった。木下はもう、死んでいた。
「……栗川」
火の手に包まれた家屋はあちこちで嫌な音を立て、完全に倒壊するのも最早時間の問題だった。ここにいれば、栗川も巻き込まれる。それだけは避けなければならなかった。一人だけでも、生き延びてもらわなければダメだった。
「ここは、危険だ。逃げないと、せめて、お前だけでも――」
家屋が立てる音とは異なる、鋭くも鈍くも聞こえる音が室内を揺らした。火よりも熱い熱が、頬を抉る。栗川が、小銃を手にしていた。手にした小銃を構え、真っ直ぐ俺に向けていた。荒い息を吐き、尋常でない表情を浮かべる栗川の目は、額から流れ落ちた血によって真っ赤に染まっていた。
見えないのか、判らないのか、俺が。
「ふざけるなよ……このまま殺されてたまるか。てめえらなんぞに、やられてたまるか!」
「違う栗川、俺だ、ウロだ。気づいてくれ、俺はお前を助けに――」
「うるせえ移民野郎! てめえらのせいで木下は――」
栗川が立ち上がった。立ち上がった拍子に、死んだ木下の胸を踏んだ。銃口が、あらぬ方角を向いた。
「てめえらみんな、くたばっちまえ!!」
「やめ――!」
一瞬の出来事だった。栗川の発射した弾丸は、崩れかけた天井を揺さぶった。俺は手を伸ばした。小銃ごと、栗川を引き寄せるつもりで。しかし、届かなかった。栗川は、後方へ転倒していた。血に塗れた木下の死体の上で、足を滑らせていた。栗川が、天井を向いた。天井が、迫っていた。そして――栗川の身体は、落下した天井によって完全に見えなくなってしまった。そこには、悲鳴もなかった。一言の呻きも、なかった。
栗川も、死んだ。俺の、目の前で。
「…………ぁさん」
いよいよ火勢の増した音すら燃やす家の中から、微かに灯る弱々しい声が聞こえた。まだ誰かいる。誰かいるのか。すぐさまに、音のした場所へ向かう。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん……」
そこには、子供がいた。その子供にも、見覚えがあった。木下の、一人目の息子。歳は確か、四つか五つだったはずだ。その子供がすがりついているのは、母親だろう。いや、母親だったものか。倒壊に巻き込まれたのだろう。頭部が半分、潰れている。生死を確かめるまでもなかった。そして彼女の潰れた頭部の直ぐ側には、身体の内側を溢れさせた赤ん坊が横たわっていた。
俺は――母親にすがりつく男児を抱え、全速力で家の外へと飛び出た。外へ出ても、燃え盛る光景に大差はなかった。皮膚を焦がす熱に違いはなかった。それでも、頭上への心配という閉塞感から脱せただけでも、心持ちは多少違った。
「お、おろ、して……」
腕の中の男児が、つっかえた声で訴えてきた。周囲を簡単に警戒しつつ、火の手から離れた場所に下ろす。すると男児はすぐに、胃の中のものを吐きだし始めた。強く持ちすぎたのかも知れない。母親の死の直後であること、もっと気にしてやるべきだったのかもしれない。
「すまない、すまない……すまない」
「もうやだ、やだよぉ……」
自然と溢れた謝罪の言葉。男児には、届いていないようだった。
「おとうさん、おかあさん……ゆうちゃん……」
父と母と、おそらくは弟の名を、男児はつぶやく。つぶやいては、もはや内容物など空になった胃の中身を、その液だけ口から逆流させる。そしてまた、つぶやく。
「けんちゃん、死にたくないよぉ……」
「……大丈夫だ。俺が助ける、助けるから」
「助けてよぉ……」
「俺が、俺が…………」
俺が助けるから――――。
熱のせいか、音のせいか。室内から出た油断のせいか、はたまたどれでもない、別の何かのせいか。反応に、遅れた。
何かが、飛んできていた。頭上から、何かが。ぎりぎりだった。ぎりぎりの所で勘付き、頭部への直撃をぎりぎりで躱した。その何かは、そのまま放物線を描いて落下し、四つん這いで嘔吐を繰り返す男児にぶつかった。固いものの、割れる音。そして――。
男児が、発火した。
「――――ぁ」
聞くに堪えない、絶叫。小さな身体のその全身が余さず白い炎に包まれ、火をまとった男児はそのまま転げ回り踊っていた。絶叫と、火と熱と、異臭と、人らしさを捨てた塊がそこにはあった。
助けなければ。助けると言ったんだ。助けなければ。俺の責任なんだ。助けなければ、助けなければ、助けなければ。助けなきゃ――。
「いたぞ、あいつだ!!」
声、足音、集団。視線、意識、大勢の。俺に、俺に向けて。
俺を、探しているのか――?
「う、あ……」
「逃がすな、囲め!」
「……あ、あァ!!」
空を跳ぶ。空を飛ぶ。天狗となって、空を飛ぶ。遠ざかる群衆、死の臭い、火、火だるまになった子供、火だるまになった双見。俺は逃げた。逃げ出した。振り返りもせずに、駆け逃げた。
どうして逃げた……!
どうして逃げた――!
どうして逃げた――!!
何をしている、俺は何をしている。どうして逃げる、どうして走る。これはお前の責任だ、お前の罪だろう。償えよ、贖え。一人でも多く助けて、被害に晒された者の為に血と肉を削って、それでも足りなければ、償いきれないのなら、だったらお前は死ぬべきだろう。死んで償うべきだろう。それがなにを、なにをこんな真似を。お前は、俺は、そんなにしてまで、俺は、お前は――――。
『ねえあなた――』
あ。
『よくもいきておられますね――』
ま、とう――。
山にいた。山。北山。双見の中心、その北側。足が、頂上を目指していた。頂上に在る、その場所を、目指した。感じた。感じていた。あいつの気配。背中に。くっついて、重なり合って、一つの背骨を分け合った、あいつの気配。いるのか、そこに。お前は、いるのか。お前が。お前がいるなら。お前なら――。
――――――――色月。
三三 田中中
「おい、ババア、なにふざけてんだよ」
家だ。ここは、俺の家だ。俺が住んで、ババアが住んで、ムカつきながらもなんだかんだやってきた、俺の家だ。
「こんな時にそんなの、笑えねぇんだよ。だいたい……だいたいババア、そうやって人をおちょくってよぉ!」
こいつは俺のババアだ。ムカつくババアだ。何かと言えば孫の俺をおもちゃにして、俺を悔しがらせることを趣味にしている性格のひん曲がったババアだ。おはぎづくりだけは名人級に得意な、それがまたムカつくババアだ。
「だから……いいかげんにしろよ。今なら怒んねぇからさぁ。ほら、引っかかった引っかかったって、バカにしろよ。いつもみたいにバカにしてみせろよ。怒んねぇからさぁ」
ボロい俺の家と、ボロいババア。ボロいが、その割には頑丈で、もう百年でも二百年でもそのままでいそうな奴ら。たぶんこいつら、俺なんかよりもずっと長生きするだろう。ストレスなさそうだしな。死なねーよ、こいつらは。死ぬわけねーよ。
「怒らねえって……怒らねえって言ってんだろぉ!!」
だから、有り得ないんだ。こんなこと、有り得るはずがないんだ。家が燃えて、崩れて、その下敷きにババアがなってて。そんな簡単に崩れるものかよ。くたばるものかよ。だって……だって、あのババアだぞ? 息子よりも長生きして平然としてる、あの田中ひなだぞ? 死ぬわけが、ねぇだろうよ。なぁ、おい、だから早く出てこいよ。いい加減その振りやめろって。いいよ、判ったよ。なら、俺が引っ張り出してやるよ。腰痛めたって知らねぇからな。悪いのはババアだからな。だからちょっとだけな。ちょっとだけ、我慢してろよ。我慢、してろよな――。
「ババア!!」
……おい、なんだよ、これ。
「ひ、ぁ…………」
なんで、お前、こんな、軽い……。
「あ、あ、あ…………!」
下半身があんなに、遠くに――。
「――――あッ!!」
うそだ。うそだ、うそだ、うそだ。こんなのうそだ、夢だ、幻だ。有り得ないだろ、有り得ちゃいけないだろ、こんなこと。だって、ババア、お前が、お前が死んだら、俺は何のために黒澤組に入ったんだよ。どうして出世なんて目指したと思ってんだよ。俺は、俺の怖いもの、あんたからも遠ざけてやりたくて――――。
「ばあちゃん……」
「おいお前、何をしてる!」
「……あぁ!?」
誰だ、てめぇか? てめぇがやったのか? てめぇがババアを、俺の家族を殺したのか――!
「東の連中だ! 奴ら、ついに攻めてきやがった!」
「……あぁ?」
東の? 誰だ。知らねえ。でも、黒澤組か。お前、黒澤の若衆か。
「お前も組員だろう! だったら殺せ、戦って殺せ! 東の畜生共を根絶やしにしてやるんだよ!」
おい、待てよ。言いたいことだけ言って、勝手にどっか行ってんじゃねぇよ。だいたい、判ってんのかよ。お前は敵がなんなのか判ってんのかよ。東の連中? そいつらは、黒幕じゃない。そいつらを潰したって、解決しない。仇は討てない。黒幕は、本当の敵は――。
「あいどう、きいとぉ…………!」
うずく、うずくんだよぉ……“痛み”じゃねぇ、“怒り”だ。灼熱の“怒り”が、頚を焼く。お前を殺せと、俺を焼くんだ。もう逃さない、絶対に逃さない。今度こそ、今度こそ引き金を引いてやる。殺してやる。何回も、何回も撃って、何度でも、何度でも何度でも殺してやる。殺して殺して殺し尽くしてやる。
山を見る。北山。判る、感じる。燃えた“痛み”の俺の“怒り”が、奴の居場所を俺に告げる。あそこにいる。あいつが、純が、『无』が、ばあちゃんの仇が、そこに――――。
三四 相道ウロ
あいつみたいになりたかったんだ。
あの暗闇で、俺はずっと、あいつみたいになりたいと願っていたんだ。でも俺は、あいつになれなかった。俺という生命は、そのようにはできていなかった。その現実をまざまざと、俺はあの時思い知らされた。俺はあいつになれない。それが現実だった。
「私の、家族になってください――」
だからそれは、奇跡だった。神様が俺に寄越してくれた、光の奇跡。二度とは目指せぬあいつの背中を、いま再び目指してよいと許された神の奇跡。間東すすぐという名の奇跡。兄として、家族として、すすぐに尽くし、すすぐを愛し、すすぐの側に在り続けること。すすぐの願いに答えること。奇跡の代わりに課せられた、それが俺への期待だった。
俺は、その期待すらも裏切った。
すすぐの父が襲われた。影も踏ませぬそいつは間東の家で、すすぐの父を襲った。すすぐの父だけではなかった。そいつはすすぐを――いや、俺を狙っていた。そいつは始めから、俺を殺すつもりで間東へ訪れていた。そいつの姿は見えなかったが、けれど、そいつの強い殺意は守ろうとする意識を越えて肌を刺した。
(そのまま死ねばよかったのに)
俺は生き延びた。名も顔も知らぬ、見たことのない技を使う老人に助けられて。老人はその拳や足で見えない敵と渡り合っていた。老人がそれと戦っている間に俺は、すすぐと共に逃げることを選択する。しかし、途中で怖くなった。あの老人が負けてしまったら、殺されてしまったら、その時標的にされるのは――隠れても無駄だと、なぜか俺は確信していた。いくら隠れようと、あの見えない敵は必ず俺を探り当てる。視覚や聴覚ではない、もっと正確で広範な力を用い、必ず俺を見つけ出す。
殺すしかない。老人が対峙してくれている間に、殺すしか。すすぐを置いて、俺はもどった。老人は、すでに死んでいた。片目をくり抜かれ、死んでいた。しかし見えない敵も、その透明性を失い姿を晒したまま、地面に這いつくばっていた。生きてはいた。手足は折れ、血反吐を吐き、頚も非ぬ方向を向いていたが、それでも生きていた。
俺は、敵にまたがり、頚を絞めた。どうすれば人が、生命が死ぬのか、俺は知っていた。とても、とても、知っていた。
人殺し。
相道純。あの老人と同じ技を使う、相道流の達人。俺は、純を目指した。俺はあいつにはなれない。人殺しの俺は、どうあがこうとあいつに近づけない。ならせめて、せめてあいつらの役に立つものに――純のように、なりたいと願った。
殺すことは好きではなかった。生命を奪うことは、恐ろしかった。己の本性と向き合うことは、恐ろしかった。だから、殺す術を磨いた。これは、贖罪だから。すすぐの、そしてあいつへの贖罪だから。だから、苦しまなければならなかった。苦しみながら、償わなければならなかった。そうでなければ、贖罪ではなかった。そのはずだった。
それなのに俺は、何故こんなにも怯えている。
すすぐに赦され、何をそんなに怯えている。
俺は赦されるために、償うために行為し続けてきたのではなかったのか。俺は、俺は――本当に、すすぐを守りたかったのか? 俺の行いは本当に、純粋にその気持ちだけであったか? 俺は、もしかしたら俺は、すすぐのためでなく、俺、自身のために――。
答えが欲しい。誰でもいい、俺に答えをくれ。不安なんだ、考えたくないんだ。俺は、俺を直視していたくないんだ。罰でいい、責でいい、誰か俺に、この不安から逃れる術を教えてくれ。教えてくれ、太平太。教えてくれ、純。教えてくれ、教えてくれ。
教えて――――。
助けて、色月。
「父さん」
「ほら、しよん……」
「違うよ」
間東の家の軒先で、洞四四が待っていた。布を被せた何かと、腕に抱えたボールのような大きさの何かと。そのボールからは、血が流れていた。そのボールは、首だった。母のように微笑んだ、みつるの、首。
「……やっぱり、母さんだけでは足りないんだね」
洞四四が、首だけのみつるを胸の裡に強く抱きしめた。中身が溢れて、零れ落ちる。それでも構わず、洞四四は抱きしめ続けた。愛を、感じた。強い、愛を。中身が溢れ、滑りを増したみつるの首が腕の中からするりと抜けて、落下した。死を、感じた。
「ぼくは、手を出したくなかったんだ。この子にだけは、手を出したくなかった」
洞四四が、懐から刃物を取り出した。大ぶりの刃物。その刃物は、血に染まっていた。みつるの血に染まっていた。
「だってぼくは、どうしたってこの子を愛したくなかったから。でも――」
みつるの血に染まった刃物を洞四四は、すぐ側に立たせてあった布を被せた何かに突き立てた。まるで人のような、俺と同じような大きさのそれに。
「父さんがこの子に、助けを求めてしまうのなら――――」
気づいた、それが、なんなのか。飛び出した。止めようとした。でも、遠かった。刃物が押し込まれた。布が赤く染まった。刃物が下ろされた。布が引き裂かれた。内側に秘されていたものも、それも、あいつも、同じように、同じような――。
赤い、マフラーが、縦に、裂かれて――――――――。
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