二五~二八

   二五 下山おもや

「はっ……ぁ……」

 衝撃が、衝撃だけが、ただあった。熱いとか、痛いとかいう感覚はすぐに訪れることなく、私を揺さぶる衝撃にただただ息を吸うことができないでいた。撃たれた。手、てのひら。ばんざいと上げた腕の先。穴が。どろどろとした赤い血が、てのひらの中心にできた穴から止めどもなく溢れてくる。熱い、痛い、息が、苦しい。

「痛いっすか? 痛いっすよね? もういやっすよね?」

 痛い、痛いよ。本当に痛い。こんな痛み、知らない。本当のことなの? いやだ、痛い。痛いのは、いやだ、いやだ。

「はい、いい子。そこでじっとしてるのですよ。じっとしてたら何もしねーですから」

 洞さんが何か言ってる。判んない。ぜんぜん聞こえない。いやだ、撃たないで。それを向けないで、見せないで。痛いのはいや、怖いのはいや。もういや、痛い、痛い。うずくまって、丸まる。その身体が、瞬間、大きく揺さぶられる。

「……お?」

 振動、閃光、爆発、熱、悲鳴――炎。振動で生じた細かな割れ目から、液体のような火が、炎が、部屋の中へ侵入してきた。火、炎、焼くもの、殺すもの。

 お母さん。

 いや、いやだ。火はいやだ、火事はいやだ。逃げる、逃げなきゃ。ここから逃げなきゃ。後ろに向かって這う。壁にぶつかる。窓を見る。三階からの景色。双見の町――双見の町が、燃えていた。

「ひっ!」

 一際大きな爆発、振動。身体が傾く。見当もつけずにしがみつく。壁が割れる、床が崩れる。平行なものが、平行でなくなっていく。現実性が崩れ去っていく。なんなの……なんなの、なにが起こってるの、なんでこんなことするの! しがみついていたものを、抱き寄せる。それで、気づく。しがみついていたものの正体。人。人の死体。相道さんのお父さん。悲鳴を上げて、突き飛ばす。

「せっかちですなー。ぼくものんびりしてられないっすね」

 何か言っている。洞さんが何かを言っている。でも、相変わらず聞き取れない。何も聞こえない。聞こえるのは壊れたり、破裂したりする音だけだ。頭がおかしくなりそうな音だけだ。むしろ何がおかしいのか、それすら私には判らない。

 洞さんだけだ。洞さんだけが、この異常の中にあって正常でいた。いつものように楽しげで、いつものように笑っている。この崩れ行く世界にあって、この人だけが何も損失していない。変じていない。でも、異常の中で正常でいられるなんて、それこそ異常ってことなのではないの? だからあんなに呆気なく、ピストルを撃ってしまえるのではないの? ほら、いまも、こんなふうに――。

 相道さんに、ピストルを向けて。

 撃つんだ。撃つつもりなんだ。また、聞こえる。あの音は、きっと、聞こえる。あの音の後、何がどうなるのか、私は知っている。知ってしまっている。やだ、いやだ。撃っちゃ、いやだ。相道さんを撃っちゃ、いやだ。やだけど……でも、だって、痛い。痛いの。痛くて、もう、これ以上痛いのはいやなの。いやだから、動けない……動きたく、ない。怖い――。

 死にたくない。


「……ぅぉぉぉぉおおおお!!!!」

 壁が、吹き飛んだ。スローモーションな視界の中で、吹き飛んだ壁が、砕け散った瓦礫が、病室の中へと飛び込んできた。飛び込んできたのは、瓦礫だけではなかった。瓦礫の中に、何かが混ざっていた、人が混ざっていた。人、男子。風を切る、きつく結った、後ろ髪。これは、この人は、相道さんの――。

「ウロさん!」

 洞さんが吹き飛ばされた。飛び込んできたウロさんの、鞭のようにしなった足が直撃して。吹き飛ばされた洞さんが、崩れた側とは逆の壁に激突する。亀裂から侵入してきた火が、彼の髪と頬を焼く。転がる。転がる彼に、ウロさんが飛びかかる。飛び上がる。そしてウロさんは、そのまま洞さんの頭目掛けて足を落とし――。

「いやだ、死にたくない!!」

 落としは、しなかった。ウロさんの足は、洞さんの顔面すれすれの場所で着地した。見るからに、無理のある体勢で。ウロさんの身体が、大きく傾いた。転がっていた洞さんが、傾いた洞さんの、その軸となる足に、手にしていた何かを近づけた、触れさせた。

 光と、光が弾ける音。痙攣。ウロさんの。なに、光、電気――?

「やっぱり、まだ眠ったままなんですね……“父さん”」

 痙攣したまま床に倒れたウロさんの、その首筋に向けて洞さんは、またあの小さな何か、長方形の機械を押し当てた。ばちぃという音が連続する度、ウロさんの身体が異様な動きで跳ね回る。どうみても自律的でない、ただ筋肉が反応しているような動き。電気だ。間違いない、あそこから電気が流されているんだ。でも、それが判ったところで、どうすることも――。

「でも、大丈夫ですよ。すぐに目、覚めますから。外で起こってることも、ぜんぶ父さんを起こすためのサプライズですから。みんなで準備したことですから。もちろん――」

 洞さんが、ウロさんから、離れた。

「すすぐちゃんに死んでもらうのも、父さんのためです。だから、だから――」

 ウロさんから離れて、向き直った。

 私を撃ったピストルを、その手に持ち替えて。

「今度こそ名前、忘れないでくださいね」

 ウロさんの手が、痙攣の止まらない手が、洞さんの足をつかんだ。けれどその手は、いとも容易く蹴り払われてしまった。洞さんが来る。私の側に、相道さんの側に。今度こそだ。今度こそ撃つんだ。あのピストルで、相道さんを撃つんだ。殺しちゃうんだ。

「よく見ておいてくださいね、父さん……」

 ピストルの穴、暗い穴、あそこから飛び出してくる弾丸、痛いを生み出すもの、怖いもの。見たくない、逃げたい、帰りたい、還りたい、もういやだ、もういやだで、いっぱいだった。何もかも放り出して、意識すら放り出して、このまま気を失ってしまいたかった。

 だというのに。それなのに、それなのに私は――。

 私は、立ち上がっていた。相道さんと、洞さんの間に、立っていた。両手を広げて、両足を広げて、洞さんの前に、立ち塞がっていた。

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……」

 うるさい。息が、鼓動が。自分の身体の裡で巡るあらゆる活動が、うるさい。うるさくて、仕方ない。早くどけ、早く逃げろ、早く見捨てろ。私の中にある、私の自由にならない、私の声が訴えてくる。愛想がなくて、いつもつまらなさそうで、神様の偽物で、お祖父ちゃんを殺した女なんて、そんな女のことなんて見捨てて、自分を守れと訴えてくる。自分の生命を優先しろと訴えてくる。

 それでも、私は、動かない。震えながら、歯を打ち鳴らしながら、洞さんの前に、立つ。

 洞さんが、ピストルを撃った。

「ぃぃぃ……!」

 太もも、左の。熱い、痛い。てのひらの時とは違い、痛みはすぐに浮かび上がってきた。涙が出る。やっぱり、逃げ出したくなる。でも、逃げない。右足は、まだ無事だから。私は大きい。相道さんやちなみよりも、ずっと大きい。だから、大丈夫。立てる。庇える。

 撃たれた。右足。支えられない、体重。落ちる。直下に。相道さんが、さらけ出される。撃たれる。

 いやだ。

 腕は動く、まだ動く。よじ登る。相道さん。覆いかぶさる。私は大きいから、相道さんを、すっぽり覆える。隠しちゃえる。

「殺すつもりはねーのですよ。きみのことはどうでもいいんすから。きみを傷つけることは約束していないし、愛にもならねーのです。ぼくが求めているのは、愛っす。愛されて、愛することっす。愛じゃないことは、できればしたくねーです。だから、どいて欲しいっす」

「……いや」

 いやだ。いや、絶対にいや。

「いやです……いやですいやですいやです!」

「どうしたんすか? なにがいやなんすか?」

「このままお別れなんて私、絶対にいや!」

 そうだ、このままなんて――あんなのが最後だなんて、絶対にいやだ。

「私、判っちゃったんです、気づいちゃったんです! 相道さんに……すすぐに死んで欲しくない、すすぐに生きてて欲しい! 憧れじゃなくても、神様じゃなくてもいいから、すすぐにまた会いたい! 話したいの!」

 そうだ、私、今度こそ――。

「今度こそ私、すすぐと友達になりたいの!!」

 すすぐの息、すすぐの熱、すすぐの鼓動、すすぐの生命。すすぐはまだ、生きている。すすぐはまだ、いまも、これからも、生きていく。霊触症なんて知らない、そんなの知らない。すすぐは生きている。なら、目を覚ます。絶対に目を覚ましてくれる。だから、私、させないから。すすぐが目を覚ます邪魔を、させたりなんかしないから。そんなことだれにも、させたりなんかしないから――!

「……愛ですね」

「……ぁ、い?」

「きみ、素敵です」

 背中に、固いものが押し当てられた。

「きみと一緒ならきっと、すすぐちゃんもさみしくないです」

 撃たれる、撃たれる、撃たれる。怖い。でも、鼓動を感じる。すすぐの鼓動を、感じてる。なら、あなたも感じて。私の鼓動、すすぐも感じて。私の気持ち、あなたも感じて。感じて、それで、目を覚まして。起きて、起きてよ――起きてよすすぐ!


 謝らせてもくれないなんて私、絶対に赦さないんだからぁ――!!


   二六 相道すすぐ

 私が消えていく。かつて私であったものが、私から離れていく。私から解けていく。私の歴史、私の記憶、私を構成していた汎ゆるものが細かな粒子へと還元され、より巨大な粒子の渦へと同化していく。霊素の渦、霊素の波、霊素の海へ。

 ああそうか、そうだったんだ。廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る。この世界は、真実この通りだったんだ。ただそのように廻って、なぞって、ひとつにもどって、またいつか同じように廻りだす。その繰り返し。それだけのことだったんだ。

 なんだ、それなら、怖いことなんて何もない。何もなかった。

 次々に浮かんでは消える、私の歩んできた軌跡。母を恐れたこと、投げられたこと、歩けなくなったこと。ウロと山を駆けたこと、間東の家で襲われたこと、霊触症を宣告されたこと。幸せであったことも、苦しかったことも区別なく、全てが霊素へ還元される。それが、とても心地良い。私の中にあった不安が、怖れが、ひとつひとつ浄化されていく感覚。白痴へ近づく天幸。寂寥に浸る万能感。

 どうしてあんなに苦しんでいたんだろう。判らない、思い出せない。もうそれは、私の記憶ではないから。私のものでない記憶で、私のものでない認識で、私は私を苦しめられない。何もなければ、苦しまない。こんなことなら、もっと早くにここへ来ればよかった。そうすれば、そうすれば――ああ、誰のことを想おうとしていたのだろう。思い出せない。誰だったろう。……ううん、思い出すことなんてない。だってその人はもう、私の知っている人ではないのだから。

 色月さん、色月さん、色月さん。あなたのことは、覚えています。あなたのことだけは、感じています。ねえ色月さん、私、知っていました。色月さんも、自分を苦しめたがっていたって。自分を罰しようとしていたって。償わなければならない、贖罪しなければならない、生命を賭けても贖わなければならない相手が、あなたにもいたんですよね。それで、私達〈死にたがり〉と同じ苦しみを受けようとしていたんですよね。

 あなたが償おうとした相手を、私はもう思い出せません。その人のことを私は私の裡から、真っ先に消し去ってしまったから。だから私は、その人のことを知りません。でも、それで、何か問題があるでしょうか。忘れて、それで、つらくなるようなことがあるでしょうか。むしろ罪とともにその象徴を失うことは、人を自由にさせるのではないでしょうか。本当の自由とは、そういうことなのではないでしょうか。

 私は、自由になります。私を捨てて、自由になります。だから色月さん、抗わないでください。私、あなたと行きたいんです。あなたと消えたいんです。あなたとだから、行けるんです。私の心の半分と、私の涙の全部とをその裡に蓄えたあなたと一緒に。あなたにも、自由になって欲しいの。苦しまないで欲しいの。だって、あなただって、苦しんでいたもの。赦されたって、いいはずだもの。

 だから、色月さん。聞いて、色月さん。私があなたを、赦します。

 そして、感じてください。ほら――私達の消滅は、もうすぐそこにまで迫ってる。

 ああ、私。これで、ようやく――――――――。


『本当に、それでいいのかい?』


 ――だれ?

『誰でもないよ。誰でもない、誰でもいい人。それがぼく。きみの人生において、いかなる意味においても重要な役割には成り得ない存在』

 誰でもない人、誰でもいい人。私にとって、いかなる意味でも不要な人。そんなあなたが、私にいったい何の用?

『問い質しに』

 問い質す? 何を?

『きみの心を』

 ……誰でもない人、誰でもいい人。私にとって、いかなる意味でも不要な人。それならあなたは、私にとって本当に不要なのね。

『なぜ?』

 だって、私には問い質されることなんてなにもない。私はもう、なんでもない。何もないものに、問い質すことなんてできない。

『本当に?』

 ……何が言いたいの?

『きみは、何を恐れているんだい?』

 そんなこと、全部忘れてしまった。

『嘘を言ってはいけない。きみは覚えているはずだ。忘れてなんていないはずだ』

 そんなことは――。

『覚えているのなら、怖くなどないなら、一人でも行けるはずだ。違うかい?』

 ……違う。違います。怖いからじゃない。私は色月さんと一緒にいたいから、色月さんと一緒に消えるんです。

『ならなぜ、きみは色月と一緒にいたいんだい?』

 それは……。

『きみは怖がっている。消えることに怯えている。それが真実だよ。それは、現世に未練のある証拠だ。後悔が、それに、願いがきみの中にまだ残っている証拠だ』

 ……そんなこと、言ったって。

『現世に想いを残しているのに、きみはどうしてこんなところに留まっているんだい』

 そんなこと言ったって、私の帰れる場所なんてどこにもないじゃない!

『帰れる場所が欲しいのかい?』

 そう、欲しい! 帰れる場所、安心できる場所が、私は欲しい!

『安心したいんだね』

 だけどそんなの、望めるはずない!

『それはどうして?』

 私はあの子を傷つけた!!

『あの子?』

 ……あの子を傷つけた。傷つけてしまったの。私は傷つける人になりたくなかった。傷つけたくなかった。けれど私は傷つけてしまった。彼女を傷つけてしまった。だから私は赦せない。私を赦せない。赦すことができない。赦したくない。

『きみはきみを赦したくない』

 そう、私は私を赦したくない。だって私が私を赦してしまったら――あの子に、申し訳が立たないもの。私は傷つける者で、殺める者で、加害者。加害者は、安らいではいけない。加害者は、望んではいけない。加害者は、幸せになってはいけない。加害者は――赦されてはいけない。被害者の受けた傷より深く、傷つかなきゃいけない。償い続けなければいけない。

『……そうだね』

 私は加害者。母と同じ者。だから私は、消えた方がいい。

『そうかもしれないね』

 これ以上誰かを傷つける前に、なくなってしまった方がいい。

『その通りなんだろうね』

 私なんて誤りを、この世界から消し去ってしまった方がいい。

『でも、そうは思わない人もいる』

 ……なに、それ。

『耳を澄ませてごらん、心を済ませてごらん』

 ……いや。

『聞こえるはずだ、感じるはずだ、外からの想いが、きみを打つ鼓動が』

 いや、いや。何も聞きたくない。何も感じたくない。

『怖いよね、判るよ。ぼくも、そうだったから』

 ……あなたも?

『そう、ぼくも。でも、きみは聞かなければならない。でなければ、後悔するのはきみだから。ぼくのように、後悔し続けてしまうから』

 ……あなたは。

『だから、一度だけ。一度だけ、勇気を振り絞ろう。きみを呼ぶ声に、きみを求める鼓動に応えよう。きみにはそれが、できるはずだから――』

 私には――。

『さあ――!』

 私――――。


 謝らせてもくれないなんて私、絶対に赦さないんだからぁ――!!


 ……うそ、どうして。なんでそこにいるの。どうしてそんなことしてるの。逃げて、逃げてよ。ダメだよ。危ないよ。どうして私を守ろうとしているの――――おもや!!

『彼女は覚えているんだよ。きみと交わした約束を』

 約束……?

『覚えているはずだよ。きみは、彼女と約束を交わしただろう?』

 私、おもやと――。

『覚えているはずだよ。きみは――彼と、約束をしただろう?』

 私、あの人と……お兄ちゃんと――――。


 お願いだよ。

 ぼくのこと、忘れないで。

 ぼくは。

 ぼくの名前は――――。


 私……。

 私――。

 私――!

 覚えてる――!

 私、覚えてる! 私、覚えてる! 私、ちゃんと、覚えてる!!


『ねえすすぐ、きみは本当は、どうしたいんだい?』

 私は、私は本当は――。

『そう、いまきみの心に浮かんだ声。それが、きみの本当の願い。本当の希望』

 でも、私……私なんかが、本当に願ってもいいの? 求めてしまっても、いいの?

『いいんだよ、それでいいんだすすぐ。それが人の生きる意義というものなのだから。だから――』

 生きる、意義――。

『叶えておいで、すすぐ。どんなに時間が掛かっても、どんなに困難に思えても、きみの足で、叶えておいで。それが、ぼくにとっても――』

 あなた、もしかして、あなたは――。

『お別れだよ、すすぐ。……抱きしめ返してあげられなくて、ごめんね――』


 ……色月さん、聞こえていますか。まだそこにいてくれていますか。……ごめんなさい。私、一緒にはいけません。いけなく、なっちゃいました。身勝手でごめんなさい。私からお願いしたのに、振り回してばかりで、ごめんなさい。でも、私、気づいてしまったんです。自分の願いに、気づいてしまったんです。だから……それを忘れることは、できないんです。

 それが、本当に必要なことなのか。私にとって、それにウロにとって本当に必要なことか、それは判りません。もしかしたら、それこそ取り返しのつかないことになってしまうんじゃないかって、そんな不安もあります。でも、もう決めたんです。ここに留まることは心地良いけれど、でも、未来を目指すって、決めてしまったんです。

 だから、色月さんも――いえ、きっと、あなたのことだから。言葉にしなくても、感じてくれていますよね。それでも、私の気持ちだけでも、伝えさせてください。

 色月さん、ねえ色月さん。私、あなたが好きでした。安心そのもののような、暖かさそのもののような、赤い、赤いマフラーを巻いたあなたのことが、ずっとずっと好きでした。まるで、あなたこそが本当のお母さんのようで。ずっとずっと、あなたの内にくるまっていたくて。

 でも私、あなたから私を切り離します。私からあなたを解放します。だからさようなら、色月さん。私のお母さん。私、あなたを巣立ちます。巣立ちますから。だから、見ていてください。私の一歩目、最初の一歩。遥か彼方の、切望の願いへと辿り着くために――。


 私、相道すすぐは、相道ウロを、赦します――――――――。


   二七 下山おもや

「あ」

 ……いま。確かに。声が。

「……すすぐ?」

 あなた、なの? あなたが、応えて――。

「――なーんだ」

 背中に押し当てられた感触が、離れた。

「これじゃあもう、必要ないじゃないっすか――」

 声が、高速で遠ざかった。烈風。丸めた背中に感じる。壁が、湾曲した。湾曲した壁に、洞さんがめり込んでいた。ウロさんが、洞さんをめり込ませていた。止まらなかった。壁は更に湾曲し、湾曲し、湾曲し――限界を迎え、割れ、吹き飛んだ。隣の部屋へと、吹き飛んでいった。瓦礫と共に、洞さんも吹き飛んだ。その、床の崩れ去った部屋に。猛る炎が、階下より吹き上がっていた部屋に。投げ出され、姿勢も取れぬ洞さんは、炎へ包まれるその一瞬前に、ウロさんを見て――。

「――あはっ」

 彼は、笑って落ちていった。炎の渦の、その中心へ。

 ……これで、終わったの?

「すすぐ……」

 彼女に呼びかける。応えてくれた、まだ生きていると、生きると示してくれた彼女に。けれどどうしたことか、すぐ側にいるはずの彼女の顔を認識することが、私にはできなかった。彼女のことだけではない。見えるもの、聞こえるものが、すべて遠く、朦朧としていた。頭がくらくらとして、咳も止まらなかった。撃たれた痛みと、熱さと、煙たさだけが身近に存在していた。

「大丈夫だから、すすぐ、大丈夫だから……」

 まるで大丈夫ではなかった。身体を起こそうとしても身体というものの動かし方を思い出せなかったし、上とか下とかもよく判らなくなっていた。それでも身を動かそうともがいてみると、一瞬重さを感じられなくなった直後、左肩に鈍い痛みが広がった。

 落ちた、のだと、思う。頭の中で、痛みと状況の整合性を取ろうとする。けれど、その証明をする術も余裕も、いまの私にはない。ただ、落ちたのならば。落ちてしまったのなら、すすぐと離れてしまった。それだけは真っ先に理解できて、元いた場所にもどらなきゃと、そのことばかりが頭に浮かんで。

 けれど、すすぐは、遠かった。

 どうして。どうしてこんなに遠いの。どうしてこんなに離れているの。もう、帰れるはずなのに。帰ってこられるはずなのに。目を覚ますって、言ってくれたのに。このままじゃ、その前にすすぐが死んじゃう。焼け死んじゃう。お母さんみたいになっちゃう。いなくなっちゃう。会えなくなっちゃう。いやだよ。そんなのいやだよ。助けて、だれか……お願いだれか、助けて――!


 わん!


 ……犬の、声?

 ……わだち?

「わだち、こっちだね!」

 …………おとう、さん?

「……あ」

 身体が、浮き上がった。持ち上げられた――そう思った次の瞬間には、私の身体は宙へ投げ出されていた。炎と煙が舞い上がる部屋の中を、重力から解放された私が、横切っていた。

 私、空、飛んでる――。

「おもや!」

 重力が、もどった。私の身体は、私の重みを取り戻した。直ぐ側で、私を呼ぶ声が聞こえた。抱えられていた、大人の男の人に。逞しく、安心感のある、大きな腕の中に。

「ウロくん!」

 あ、すすぐ。すすぐは――。

 煙の向こう側。ぼんやりと見える、人の影。重なった男の子と、女の子。すすぐを抱えた、ウロさん。二人の姿が、消えた。窓の割れる音と共に、煙の更にその向こうへと消えていった。飛び降りた。すすぐを、抱えて。

 わだちが、また吠えた。


「大丈夫だから、おもや、大丈夫だから!」

 力強く励ます声。炎の廊下。煙の天井。どこまでも続く、地獄のような光景。あちこち痛くて、苦しい。身体は悲鳴を上げている。だけど私は、不思議と安心していた。

 きっと、すすぐさんは大丈夫だ。ウロさんなら、大丈夫だ。安全な所へ連れて行ってくれる。守ってくれる。だから、大丈夫だ。それに、それに――お父さんに抱っこしてもらったの、いつぶりだったかなぁ。

 不思議な安心感に包まれていた私はそんなことを考えながら、襲い来る眠気に抗うことなくそのまま、父の腕の中で眠りについた――――。


   二八 ハザマ

 女たちは、なぜ笑うのか。

 妹がいた。血のつながった妹ではない。私のことを兄さん兄さんと呼ぶので、いつの間にか兄妹のような関係になっていた妹だ。名を、ユイファと言った。

 私達は、物心付く前より鍛えられていた。世界の中心たる故国を我が物顔で踏み荒らした前時代の列強諸国、武力によって領地の一部を奪い取った八百人、そして諸外国に対抗する術を持たぬ軟弱な政府。これらのものより強い大陸を取り戻すという理念の下、大陸各地より集まった愛国者たちの秘密結社。その結社の尖兵となるべく孤児たる私達は掻き集められ、鍛えられた。

 訓練は、過酷だった。何人もの子供が死んでいった。そうならざるを得なかった。他の訓練生に与えられた物資や食料を奪わなければ生き残れないよう、訓練は予め設計されていた。私達は幼い頃から、殺すことを覚えさせられた。殺すことは、日常の一部に過ぎなかった。そこに疑問を抱くこともなかった。

 ただし、唯一殺してはならない相手がいた。パートナー。寝食を共にし、背中と生命とを預け合う相棒。二人一組でこなすことを前提として組み立てられたここでの訓練においてパートナーの存在は絶対であり、パートナーを失ったものは如何なる理由があろうと訓練生としての資格を剥奪された。資格を剥奪されたものがその後どうなるのか明言はされていなかったが、そうした者が現れた日の夕食には必ず肉料理が追加された。パートナーの能力が著しく低い場合、生き残ることは困難だった。また、性格面で相性が悪い場合も同様に、生存する確率は極めて低いものとなった。

 私のパートナーは、ユイファ。私を兄と呼ぶ、私よりも更にいくらか年下の娘。しかしユイファは、年齢的なハンデなどものともしない優秀な娘だった。私にとってユイファがパートナーであったことは、幸運なことに違いなかっただろう。能力面に限らず性格的な相性においても、訓練に支障を来すような齟齬はなかった。少なくとも、彼女が私を嫌うような素振りを見せることはなかった。

 ただし私の方で、ユイファの態度についていけないことは多々あった。ユイファはこのような状況下にありながら、よく怒り、よく泣き、また、よく笑う変わり者であった。不要と思われる時にも会話を求め、その内容も訓練とは関係のないものが多かった。

「兄さん! 私はね、幸せになりたいの!」

 ユイファはよく、幸せという言葉を口にした。幸せになりたい、幸せになるんだ。そのようなことを、度々口にしていた。そして幸せという言葉を口にした時は必ず、最後にこう付け加えるのだ。

「だから兄さん。私のこと、見ててよねっ!」

 私は曖昧に頷きこそしたものの、ユイファの言う幸せにも、ユイファ自身についてもさして興味はなかった。私の意識は日々の訓練をいかにしてこなすか、そのことだけに処理されていた。故に私は、ユイファの言葉の意味を顧みるようなこともしなかった。そんなことをせずとも、訓練での成績は常に最上位に位置できていたのだから。

 そうして八年間、私達はパートナーとして死生の伴う訓練を潜り抜けてきた。私は一四、ユイファは一ニの年の頃だ。ついに政権を奪取する計画を実行に移すとのことで、私達も実働部隊へ配置されることが仮決定とされた。そしてその仮決定を本決定へと移行させるため、私達は訓練の締めくくりとなる最終試験を受けることとなった。

 私には自信があった。それがどんな試験であろうと合格するだけの実力はあると、私は確信していた。訓練生の中で最も優秀な成績を収めているという、実績から来る裏付けがあった。私だけでなく、ユイファも同様に合格するだろうと考えていた。私には劣るとは言え、彼女もまた優秀だった。

「この試験に合格して、それで全部終わったら私、その時こそ本当に幸せになるから。絶対幸せになるから。だから兄さん、ね、兄さん。私のこと、見失わないでね。これからもずっと、ずぅっと側で見ていてね」

 試験の前でも、彼女の言葉は変わらなかった。緊張していない証だろうと、私は受け取った。十全な能力を発揮できれば、ユイファに失敗はない。それはパートナーとしてこの八年を共にした私が、誰より理解していた。故に私は、ユイファの合格も確信していたのだ。しかし試験の内容は、私の予想を覆した。

 パートナーの殺害。それが、私達に課せられた最終試験の内容だった。


 私は、ユイファを殺害した。それが試験だったからだ。その結果は、私とユイファの能力を考えれば順当なものと言えた。しかし、腑に落ちないこともあった。ユイファの実力であれば結果を覆すことはできなくとも、少なくとも善戦することくらいはできたはずだ。決着は、一瞬だった。ユイファは抵抗をしなかった。呆気なく、彼女は私に殺された。だからこそ、疑問が生まれた。ユイファはなぜ、手を抜いたのか。ユイファはなぜ、戦おうとしなかったのか。

 ユイファはなぜ、笑ったのか。

 疑問を抱くという心理現象を、私はこの時初めて知った。しかしいくら考えようと、答えは得られなかった。答えの代わりに思い浮かんだのは最後に見せたユイファの笑顔と、彼女が度々口にした“幸せ”という言葉のみ。だが、“幸せ”とは何か。私には判らなかった。

 政権の奪取には成功した。前大戦の影響が色濃く残る前政権に余力など殆ど残っておらず、その打倒は容易く行われた。前政権の中枢に位置していた政党幹部は散り散りになって国外へと逃亡し、事実上大陸は我が組織のものとなった。しかし当局は前政権の政党幹部が生き延びていることを危険視し、その抹殺を実行部隊に命じた。私の次の任務だった。

 大戦終結後、八百人の分割統治により植民地域として前政権が確保した南西ヤ国。その支配権を引き継いだ当局はまず私を西南ヤ国へ送り、談合によって西の連合王国より譲り受けた南東ヤ国を経由、その後北東ヤ国へ侵入するよう指示を出してきた。無論、逃亡した前政権幹部の抹殺を行うために。ただし当局の指令は抹殺に留まらず、北東ヤ国支配の下地作りに当たる工作活動も同時に行うよう命じられた。

 当局の考え、それに政治。国家に、理念。そういったものに、興味はなかった。ただ命じられたが故に、私は従った。訓練生時代と同じだ。目の前に提示された課題を片付ける以外の生き方を、私は知らなかった。そこには快も、不快も、“幸せ”もなかった。

 北東ヤ国では、強力なバックアップを得られた。八重畑丑義。表向きは反異人を標榜しつつ、利益のためであれば異人とでも誰とでも平気で手を握る政治屋。信頼はできなかったが、信用できる相手ではあった。我々が彼に益を生む存在である限り、裏切られることはまずないと判断できた。また、行政副長官として植民地時代の架国を統治していた実績を持つ八重畑丑義は大陸の人間の思考や癖を熟知しており、そういった意味でも協力関係を結ぶに適した相手と言えた。

 八重畑丑義という支援を得た私は、本格的に当局の指令実行に移った。逃亡した前政権幹部の追跡、及び各地での工作。工作については、異人として既に潜入した大陸の者や、八百人の者であっても敗戦した自国に不満を持つ者たちを部下としてまとめ動かし、時に彼らでは処理しきれない問題へ自ら介入することもあった。時には殺しもした。それは私の得意とする仕事であった。殺さず、生け捕りにする方が面倒だった。とはいえ八重畑丑義の援助を受けるに当たり、過度な殺人は望ましい選択とはいえなかった。

「あー! また怪我してる!」

 任務の最中には、手傷を負うこともあった。それ自体は、特に苦になるようなことでもない。任務に支障を来す怪我は避けていたし、軽度の負傷であれば手当は自分で行えた。その方法は、訓練生時代にいやというほど学ばされた。故に人の手を借りる必要などなかったのだが、その女は私が負傷しているのを見ると必ずそれを見つけだし、要らぬ世話を焼こうとしてきた。

 女は八重畑やすなと言った。我々と協力関係を結んだ八重畑丑義の、その娘だ。しかしやすなは父丑義とは違い、裏表のまるでない人物であった。泣き、怒り、そして底抜けに明るかった。誰であろうと警戒心なく近づいていき、友人関係を築こうとする。大人も子供も関係ない。八百人の同胞だけですらない。異人に対しても、彼女はそうした。父の裏の顔を知らないのか、異人排斥に動く父に対し公然と反発するような始末だった。

「だって、同じ人間じゃない」

 何故異人を庇うのかという問いに、彼女はどうしてそんなことを聞くのとでも言いたげな態度でそう答えた。八重畑丑義について架国で暮らした過去を持つ彼女にとって、人種や国籍とはさしたる意味を持たない概念であったのかもしれない。しかし、それはこの今の世にあっては極めて珍しく、また、理解の得難い感覚であった。それでも彼女は、別け隔てのない友好を示し続けた。

 私は、この娘のことが苦手だった。彼女に拘束されることは任務に当てるべき時間を割かれることにつながり、かといって八重畑丑義の娘である以上無碍に扱うわけにもいかなかったが故に。そしてなによりも――よく笑うやすなは、どこかユイファに似ている気がしたから。


 致命傷を負った。どうやら人を束ねるという能力が、私には欠けていたらしい。部下の裏切りに遭い、手酷い手傷を負った。裏切り者たちを全滅させることには成功したものの、私もまた、死の際に瀕していた。死を目前に控え私は、しかし如何なる意味の感慨も抱きはしなかった。死ぬ。それは、ただの事実に過ぎない。任務を達成できない。それもただの事実。苛立つことも、悔しいと感じることもなかった。任務も理念も国も、興味はなかった。私はそのまま、死のうとした。

 意識を失う直前、ユイファの笑顔を見た気がした。


「本当に……びっくりしたんだから!」

 私は、生き延びた。やすなに助けられた。負傷し、倒れていた私を発見したのはやすなだった。やすなは反目する父に、私の救助を頼み込んだらしい。丑義も断ることができなかったのだろう。私は八重畑の家へと秘密裏に運び込まれ、数日の間そこで、生死の境をさまよっていたらしい。そして、生還した。その間、やすなは付きっきりで私の看病をしていたそうだ。目を覚ました時、彼女は喜ぶよりも前にまず、怒った。劣化の如く怒り散らし、しばらくそうして顔を赤くした後、私に抱きついて泣き始めた。まるで幼児のようだ。私はそう思った。

「私はね、幸せになりたいの。だから、あなたにもそうなってもらわなきゃ困るんだよ」

 なぜ私を助けた。そう言った私の問の、彼女の答えがこれだ。その答えは、私の脳裏にある一人の人物を想起させるに充分なものだった。“幸せ”。やすなも、そう口にした。幸せになりたい。彼女のように。彼女にどこか似たやすなが、そう言った。

「幸せとは、なんだ」

 虚を突かれたように目を丸くしたやすなは、形の良い指をぴんと立てて口に当て、しばらくそのまま考える様子を見せ、やがて得心がいったのかうなずき――そして、笑った。

「一人ではね、手に入れられないものだよ」

 疑問は深まった。結局私は、“幸せ”の正体をつかむことはできなかった。私には生涯、判らないものなのかもしれない。それはそれで構わなかった。ただ、判ることもある。私はやすなに生命を救われた。それは事実だった。やすなは幸せを求めている。それも事実だった。そして、やすながユイファに似ていること。これもまた、事実であった。


「私、好きな人ができちゃった」

 やすなから告白された。好きな人ができたという告白。既に関係は構築されており、家庭を築くことも約束しあっているのだという。おそらくそれは、おめでたいことと言ってよいのだろう。だが、そこには大きな問題があった。問題は、やすなの相手の男だ。その男は、当局が抹殺を命じた者。大陸より逃亡した前政権の若き幹部――つまり、私の標的だった。私はその男を殺さなければならなかった。それが、任務である以上は。

「それと、ね。もうひとつ、報告があるんだけど……」

 照れくさそうに、やすなは告白する。告白を受けた私は、自然、やすなの腹を見た。やすなの中には、その男との間に儲けた新たな生命が既に、宿っていた。

 悩むことはなかった。私は私の人脈と能力を完全以上に活用し、二人が無事に暮らせる場所への逃亡を手助けした。私には、“幸せ”が判らなかった。だが、何かを求めるという感情を理解した。やすなには、“幸せ”になって欲しかった。“幸せ”になってもらわなければ困ると思った。故に私は、やすなを逃亡させた。例えそれで当局から暗殺される事態に陥ろうと、構いはしなかった。私は私の望みの為の選択と決断を行った。

 だが、私はやはり、甘かった。

 私の背信行為は、一年と保たずに当局に露見した。私は二人を助けに彼らの隠れた場所へ向かったが、私自身へ差し向けられた追手を片付けるのに時間を取られ、到着が遅れた。紙一重だった。紙一重で、届かなかった。やすなの夫は既に殺害されており、そして刺客の凶刃は、やすなにも向けられていた。届かなかった。やすなは私を認めながら、絶命した。

 これが、後悔か。過去の選択を責める自己への攻撃的感情。やすなを襲った刺客を始末した後、これまでの人生において触れたことのなき感情が興ることに私は、戸惑いを覚えていた。尽きることなき自己嫌悪。掘り返される過去と過去の自分へ向けられた無数の刃。そうか、後悔とは、こういうものか。そうか。

 やすな、それに、ユイファ。どうやら私は、“幸せ”ではないらしい。“幸せ”は判らなくとも、“幸せ”でないは、私にも理解できた。“幸せ”でないとはどうやら、心の刃の矛先と有無に関係があるようだ。お前たちは、どうだったのだ。お前たちは、心に刃を抱いていたのか。抱いていたのならば、あるいは、抱いていないとしたならば。お前たちは、なぜ。なぜ。

 赤ん坊の泣き声。反響から、その居所はすぐに知れた。壺の中に隠された赤ん坊。取り出す。泣き声は、一層大きくなった。揺する。泣き止まない。どうしたものか。殺すことは、容易かった。しかし、生け捕りにすることは私にとって、非常に困難な業であった。絶命したやすなに視線を送った。

 やすなは、笑っていた。


 女たちは、なぜ笑うのか。


「顔と声と名とを捨てなさい。そして私に仕えなさい。それが条件です」

 赤ん坊を連れ、八重畑丑義を頼った。私が当局のお尋ね者となっている情報は彼の耳にも入っているようだったが、それでも彼は私を受け入れた。好意や同情、孫娘への愛情ではおそらくない。私を支配下に置くことの利益が私を匿うリスクよりも勝ったという、冷徹な計算の下に弾き出した結論に過ぎない。そうした彼の功利性は、私にとっても好都合な性質であった。

 私は赤ん坊の父と名乗った。この子はやすなと自分との間に儲けられた子であると、そのように主張した。なぜそのように主張したのか、はっきりした理由は自分でも判らない。父と名乗れば赤ん坊の側にいられる。そのような計算が働いたのは確かだ。だが、それだけではないような気もした。そのような計算だけではないような気もしたが、答えは私には判らなかった。なんでもよかった。私はこの赤ん坊の、やすなの娘の側にいたかった。守りたかった。

 私は顔を焼き、のどを焼き、名と国とを捨てた。そうして私は人と刃の間に在る者、大陸と島国との間に在る者――ハザマとしての生を歩みだした。同時に、やすなの娘は八重畑丑義の弟子である那雲崎道民の養子として引き取られ――名を、那雲崎しるしと命ぜられた。

 しるしは祖父である八重畑丑義や父である那雲崎道民によく懐いた。殊に道民に対するしるしの愛情は普遍的な親子関係のそれを越え、むしろ羨望や崇拝に近いものが見受けられた。母親がいないことに悩む素振りがなかったのも、父さえいればいいという執心の顕れだったのかもしれない。多少行き過ぎな態度ではあるが、それでもしるしは“幸せ”そうだった。彼女は父を愛していた。

 だが、道民は違う。道民はしるしのことなど、欠片も愛してはいなかった。器用な男ではある。そのように振る舞うこと、良き父親を演じることならば、誰よりも巧みにやってのけた。だが、この男に人への情はない。かつての私のように。私には、それが感じ取れた。八重畑丑義にしてもそうだ。この者たちにとって人間とは、より大きな目的を果たすための代替可能なパーツに過ぎなかった。有益か否か。彼らにとってはそれだけが、個人を価値付ける基準だった。この家において、しるしのことを第一に考えられるのは私だけだった。

 私はしるしを見守りながら、八重畑丑義に命じられた任務をこなしていった。当局の下で使われていた時と同じだ。任務に私情は挟まない。ただ、殺す。それだけだった。唯一違うのは、そこに明確な目的があったこと。私が刃を振るう度、しるしの安全が保証された。体の良い人質ではあったが、八重畑の下以外で当局の目から逃れられるような当てはない。生き場所はなかった。それに、私はこれでも良かった。どのような形であろうとしるしが無事に育ってくれるのであれば、このような関わり方で私は良かった。しるしを守る、刃で在る。それ以上は、望まなかった。

 誤算であったのは、しるしが私の存在に気づいてしまったことだ。八重畑丑義の差し金だ。しるしと私を引き合わせることで、有益な効果が生まれると考えたのだろう。八重畑丑義は、私が影に徹することを許さなかった。そしてなお悪いことに、当のしるしがそれを拒絶しなかった。彼女は私に、好意らしきものを向け始めてしまったのだ。

 父に憧れる彼女は父の真似をしようと奮闘していたが、奮闘の成果は見られなかった。血の有無ではない。根本的な所で、那雲崎道民と那雲崎しるしは似ていなかった。那雲崎道民は、しるしの持ち得ない素養を数限りなく持ち合わせていた。上辺を剽窃しようと、成り切れないことは明白だった。

 だが逆に、那雲崎道民にはなく、生まれながらにしるしに宿った才覚もあった。しるしは、人を好きになれる娘であった。自分を疎ましく思う者が相手であろうと、可能な限り仲良くなろうとした。そうした誰彼構わない人懐こさからは、血のつながった母親の面影を思い起こさせた。

 しるしには、“幸せ”になってもらなければ困る。私はそう感じた。


 那雲崎道民が死んだ。八重畑丑義が計略の下で。しるしから笑顔が消えた。しるしは、“幸せ”そうではなくなった。私にできることはなかった。私にできることは、斬ることだけだった。


「そうですしるし。君の父を殺すよう図ったのは、私です」

 八重畑丑義。老獪な政治屋。利用できるものはなんであろうと利用する男。血のつながった実の孫娘であろうと。奴は偶然を装い、しるしの耳に父の死の真相を吹き込んだ。亡くなった父に狂信を捧げていたしるしには当然、無視することなどできない。それこそが、八重畑丑義の狙いだった。奴は始めから、自身の計画にしるしを組み込む予定でいたのだ。『无』を殺害するという、その計画に。

 とある筋から入手したという、『无』の標的リスト。そのリストを逆手に取った、囮捜査。八重畑丑義から説明を受けたしるしは、一も二もなく計画の実行者となることを承諾した。この計画の内実を、興奮した彼女が理解しているようには見えなかった。彼女の頭はただ、父の仇を取るという一事に占有されていたのではないかと思う。八重畑丑義には、それでもよかったらしい。むしろ、その方が都合が良かったのかもしれない。私の積極的な協力を確約することができたのだから。偽装されたリストを渡されたしるしには知る由もなかったが、本来のリストにはしるしの名も記されていた。

 無論、このリストとてどこまで信用できるものかは定かでない。八重畑丑義が私を心理的に拘束する為に用意した、偽装に偽装を重ねたリストである可能性もある。それに、なぜ私ではないのか。なぜ、餌の殺害を私に任せなかったのか。八重畑丑義は最もらしい理屈で説明していたが、到底納得できるものではなかった。なぜわざわざ紛れの多い外部の人間を――『相道ウロ』という少年を、計画に組み込んだのか。

 疑念は尽きなかった。だが、そうした疑念が残ろうとも、八重畑丑義への不信が頂点を突破しようとも、しるしに危険が及ぶ可能性があるならば、刃を振るうにそれ以上の理由は不要だった。なによりも、すすぐ本人が復讐を望んでいた。計画を聞かされてからのすすぐの瞳に、長い間失せていたはずの光が宿ったのは間違いなかった。


 私は刃を振るう。私にはそれしかできないから。すすぐ。私はお前を導けない。お前を“幸せ”にしてやることはできない。“幸せ”という不定形なそれを、お前に与えてやることはできない。だが、“幸せ”を求めるお前の刃に、お前を妨げる、お前を侵そうとする者共を切り伏せる一刀になることなら、できる。そのようなものでしか在れないが、それでも私はお前の味方だ。何があろうと、お前の味方だ。

 だからすすぐ、どうか見つけ出してくれ。女たちが語った“幸せ”というものの正体を、他ならぬお前が、人を好くことのできるお前が、見つけ出してくれ。そしていつか、教えてくれ。女達はなぜ笑うのか。ユイファ、やすな。彼女たちが、なぜ笑ったのか。その答えをいつか、いつか私にも、教えておくれ――――――――。


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