二一~二四

   二一 相道ウロ

 俺は、必要ない。

 すすぐに必要なのは、色月だ。しかし、色月に必要なのは、すすぐじゃない。色月に必要なのは、純だ。純がいれば、色月は死なない。純なら、色月を守ってくれる。純がいれば、色月は守られる。色月は、無事でいられる。

 俺という存在は、こいつらの為だけにある。

 色月は“死にたがり”を引き寄せる。“死にたがり”。死を求めながら、一人で死ぬ勇気も持てない臆病者。己が死すら、他者の手を借りねば果たせぬ軟弱者。色月の周りには、こうした“死にたがり”が付きまとう。そしてあいつは、その死を受けれようとする。他者と心を感応させる、その力を介して。

 心中。色月は、心中を求められる。そしてあいつは、それを受けようとしてしまう。それは赦されないことだ。色月がいなければ、すすぐは心を保てない。霊触症の進行を、止められない。それは、ダメだ。それは、赦されない。そんなことは、認められない。

 だから俺は、人を殺す。“死にたがり”を殺す。色月に心中を求める者――求める可能性を持つ“死にたがり”を、殺す。色月をいざないかねない者は、すすぐを犯しかねない者は、誰であろうと、何者であろうと、殺す。絶対に、殺す。何度でも、何度でも、殺す。それが、次善の策であるから。

 最善は、違う。最善は、純がいることだ。純が色月を見守ることだ。純は、色月のことを特別に想っている。色月も、純の言葉なら聞き入れる。だから純が、相道純が双見に留まってくれるなら、それが一番良いのだ。すべてを最も良い形に収める唯一の方法が、純を双見に留めることなのだ。

 那雲崎しるしには、感謝しなければならない。俺は、純に勝ちたかった。純に勝つことが、唯一純を双見に留める方法であると思っていたから。だから俺は、勝ちたかった。けれど、勝てると思えたことはなかった。一度もなかった。純は無敵で、誰よりも強い男だから。だから俺の願いは、どう足掻こうと叶う見込みのない願いだった。そのはずだった。那雲崎しるしはそれを、叶えてくれようとしている。

『无』。移民法の暗殺者。純が双見を出る理由。那雲崎しるしの、真の仇。こいつを殺せば、すべてがうまくいく。俺が俺の役割を全うし、『无』をおびきき寄せることに成功したならば、すべてが、うまくいく。そして『无』を誘き寄せた暁には――俺は、『无』に殺されるだろう。

 那雲崎しるしは気づいていないようだが、この計画の立案者――八重畑丑義は、始めからそのつもりだったはずだ。三人の老人同様、俺もまた、『无』を誘き寄せるための撒き餌に過ぎないと。俺の生命もまた、切り落として構わない“枝葉”に過ぎないと。

 それは、構わない。死んでも構わない。むしろ、本望だ。俺は求めていた。“そういう死”をこそ、俺は求めていた。俺は、必要ない。相道ウロは、誰にとっても必要な存在じゃない。俺は、いなくていいものだ――いない方が、いいものだ。

 すすぐ。それに、色月。俺という存在は、こいつらの為だけにある。こいつらが安心と安寧の裡に暮らしていけるのならば、俺は――死んだ方が、いいものだ。二人の負担とならぬ裡に、二人の害とならぬ裡に、惑うことなく死ぬべきものだ。


 ねえあなた、よくも生きておられますね。


 ……そうだ、そうだ、その通りだ。それが、俺の“贖罪”だ。だから、殺そう。最後の標的を。例え相手が、なんであろうと。例え相手が、誰であろうと。例え相手が――黒澤太平太であろうと。後はハザマがやるだろう。あれはきっと、やり遂げるだろう。那雲崎しるしが、そう願う限り。だから、そのために、俺は、殺すのだ。

 殺すために、行く。殺すために、踏む。殺すために、蹴る。殺すために、開く。殺すために、呼ぶ。殺すために、叫ぶ。殺すために、殺す。殺すために、殺すために、殺すために、殺すために――――。


「……太平太?」

 黒澤太平太。双見の守護者。那雲崎しるし最後の標的が、俺が俺の手で殺すべきその相手が、稽古場の中心で――死んでいた。

 死んでいた。

「……そんなはず、ないだろう」

 太平太は、拳を突き出した格好で絶命していた。その周囲には、武装した集団の亡骸が無数に転がっている。こいつらと戦って、殺されたのか? バカな、そんなはずない。こんな奴らに遅れを取るようなあんたじゃないはずだ。何梃の銃を向けられようと、何本のナイフで刺されようと、あんたが負けるはずないだろう。だってあんたは、黒澤太平太じゃないか。双見の守護者、相道流の黒澤太平太じゃないか。あんたが死ぬなんて、おかしいだろう。俺だって、あんたを殺せるなんて、露ほども――。

「貴様……」

 構える。声。誰かいる。残党か。どこだ。先手を打つか。油断するな。太平太を殺した相手だ。手練だ。気を張れ。集中しろ。神経を研げ、澄ませろ。影。人。中肉中背。――眼鏡。弛緩する。知った顔だ。こいつは――。

「あんたは、太平太の……」

「佐々川友為だ。貴様は、純の甥の相道ウロだな」

 完全には警戒を解かないまま、うなづく。俺は小さな目配せとともに、「これは」と状況の説明を求めた。佐々川友為は、自身も負傷したのか胸を抑えながら、答える。

「東の連中だ。彼奴ら、ついに実力行使に出たらしい。いや、それよりも相道ウロ。貴様、これまでどこにいた」

「それは……」

「いや、いや、やはりそれもいい。それよりも貴様、早く病院へ迎え」

「病院?」

「やはりか、何も知らんと見える。手短に話すぞ。これは、貴様が姿を隠していた間に起きたことだ――」

 佐々川友為の説明は、簡潔だった。簡潔であるからこそ、事の重大さを直様に飲み込むことができた。友為が話を終えるよりも早く、俺は駆け出していた。病院に向けて、まっすぐと駆け出した。

 すすぐ――――。


   二二 相道すすぐ

 母、間東やくは気狂いである。頭のイカれた狂人である。真実はともかくも、少なくとも間東の女中たちの間ではそのような噂が実しやかに流布されていた。そしてその噂は、概ね間違いではない。

 私の母の母、私にとっての祖母に当たるその人は、間東の当主を務めたものの『息重そくえ』としての力を持たない人であった。ただし、それは異例という訳ではない。代々『息重』を務めるこの間東の家の者たちも多くは特殊な力を持たず、その傾向は時代を下るにつれてより顕著なものとなっていた。

 神の息吹と自らのそれとを重ねることで神の意を読むもの、『息重』。それはこの双見にあって特別な役割を担う殊に重要な身分であったものの、その執り行う儀式は既に形骸化しており、能力の有無はさしたる問題とはならなかったのである。だからこの祖母に神の意志を読む力がないことも、本来であれば通例通りのこととして当たり前に受け入れられるはずだった。

 そう、本来であれば。

 祖母の妹、私にとっての大叔母に、名をねむという女性がいた。彼女は、間東を名乗ることを赦されていなかった。不義の子であったのだ。大叔母は幼い頃から使用人としての扱いを受け、家政とは無関係に一生を終えるはずの人であった。しかし彼女の人生は、そのような単純な終わりを用意してはくれなかった。彼女には、姉には宿らなかった『息重』としての力が宿っていたのだ。それも、非常に強く、間違うことなどありえない程の正確な力を。

 家は、割れた。正統な血筋を継ぐ祖母を当主として担ぐべきだという人々と、『息重』としての力を有する大叔母を当主に頂くべきだという人々とに。家は、間東は、完全に分裂するその直前にまで追い込まれたらしく、刀傷沙汰すら起こったという話だ。しかし、そこまでの騒動でありながらもその収束は、存外に呆気のないものであった。

 双見に駐留していた旧国軍。その兵隊といざこざを起こしたとかで、大叔母は山を降りた。家に迷惑を掛けるわけにはいかないと、そう言い残して。それが彼女の本心であったのかは定かでない。また、祖母派の者が工作も否定はできなかった。何れにせよ、大叔母は山を降りた。大叔母のいなくなった間東では、本来通りに祖母が家を継いだ。そして、祖母は独裁者となった。

 母には、才能があったらしい。幼少時より声に登らぬ声を聞き、届かぬ叫びを耳にしたのだという。母は生まれながらに、祖母が持てなかったものを宿していた。けれどそれは、祖母の眼鏡に適う程のものではなかった。祖母はより盤石で、より強力な『息重』を求めていたのだ。故に祖母は、母を『感息座かんそくざ』へと落とすことに決める。『感息座』にて、母の才を強化する心積もりで。

『感息座』。神の息が充満した、北山の深奥。『息重』に連なる血脈だけが立ち入ることを赦された特別な修行場であり、双見が神との完全なる調和を実現するために不可欠な場所だと伝えられてきた。しかし、そこに立ち入った『息重』は歴史を翻ってもそう多くはない。何故ならば『感息座』は、人間を壊してしまう場所だから。人間にとって極めて有害な物質に満たされた場所だから。

 神の息。そのような言葉で語られてきた見えることのなき神秘。そんなもの、神秘でもなんでもない。神の息とは結局のところ、『霊素』のことだ。霊素という、科学的にその存在を証明された元素のことだ。いかなる場所にも見受けられ、しかし濃度を増すことでその性質を変じ、人の身体を、精神を犯す――霊触症を発症させる、あの粒子のことだ。

 母は、霊素の満ちる『感息座』に閉じ込められた。中からは決して開くことのできない一筋の光すらなきその場所で、外界から完全に隔絶された。母は、そこで、生きた。生きて、生きて、生きて――そして、十月十日の後。母は壊れ、それにより、間東やくとなった。

 間東やくは、生命を弄ぶ人だった。専用の部屋を用意し、どこでどう捕まえたのか山の動物達を生きたまま解体していた。楽しむ様子もなく、憐れむような素振りもなく、黙々と、ただ黙々と、生命をかつて生命であったものへとバラしていった。時には女中が、前触れ無く失踪することもあった。普段から近づくことを拒絶していた場所であったが、そのような時は何があろうと、近寄ることはしなかった。

 私は、母が怖かった。いつか自分も解体されてしまうのではないかと思って。そしてそれ以上に――この人の血が、私にも流れているという事実を思って。

 父は、家に寄り付くことのない人だった。父も、母を恐れていたのかも知れない。父と母が話しているところを、私は見たことがなかった。父は母から、それに間東という家から距離を置こうとしているように、私には思えた。だから、父の印象はあまりない。たまに顔を合わせることもある、珍しい人。私にとって父とは、その程度の認識しかない人だった。

 けれど私は、誰かに甘えたかった。母から離れられる場所を求めていた。母を恐れる女中は、私とも距離を置いていた。だから、私は父に甘えようと思った。普段家にいない人であろうと、血のつながった父なのだ。少し抱きしめてもらうくらいは赦されるだろうと、私はそう思ったのだ。

 それは、赦されることではなかった。赦さなかったのは、母だった。私は母に髪をつかまれ、引きずられ、屋根の上から放り投げられた。受け身も取れずに地面と激突した私は強か背を打ち、以降、自らの足で立つ術を失った。


 それから母が、姿を消した。そして私は、ウロと出会った。

 ウロは、誰も傷つけないと約束してくれた。私はウロを、兄と迎えた。


 とても幸せな時間だった。生まれてからこれまで、こんなにも穏やかで暖かな気持ちに包まれたことはなかった。私達は、山の生命を救って回った。怪我した動物、病に掛かった動物を、可能な限り治癒していった。うまくいかないことも、悲しい思いをすることもあった。でも、それでも幸せだった。ウロがいたから。どんな時でも、ウロが側にいてくれたから。ウロは確かに、私のお兄ちゃんでいてくれた。私は彼の、妹で在れた。私達は兄弟で、家族だった。それが、幸せだった。それが、全てだった。

 全ては、呆気なく崩れ去った。

 ある日、間東の家に賊が押し入ってきた。珍しく家に訪れていた父は賊に嬲られ、屠られ、そのまま地下の深くへと落とされてしまった。突然のことで、私には何が起こっているのか、まるで判らなかった。でも、ウロは違った。ウロは私を連れ、一緒に賊から逃げてくれた。けれどウロは、立ち止まった。「ここに隠れて」と言って、一人で賊の下へともどっていってしまった。私は、待てなかった。彼のことが、お兄ちゃんのことが心配で、私はウロの後を追った。

 ウロが、血まみれの賊の頚を、絞めていた。


 人殺し!


 すすぐ、という叫び声。私はその声から、逃げた。彼は、人を殺めた。私を守るために。私を守るために、約束を破った。人を、生命を、殺めた。私は、逃げた。逃げてしまった。私のためなのに、私を守るためなのに、私は彼から、逃げてしまった。暴力から、現実から――“私のためにウロが人を殺した”という事実から、逃げてしまった。

 逃げて、いつの間にか私は、落ちた父の下にいた。見るからに重体の父をそれでも揺すり起こそうとしながら私は、気づかぬうちに意識を失っていた。その暗闇で、光なきその場所で、私は眠りについてしまった。――そして私は、霊触症を患った。

 それは、恐ろしいことだった。霊触症は、恐ろしい病だった。私はもう幸せも、不幸せも感じてはいけなかった。感じることは、私を滅ぼすことと同義となった。快復の見込みはなかった。不治の病と宣告された。そう宣告された瞬間ですら、ショックを受けることは赦されなかった。それは、とても恐ろしいことだった。

 けれど本当に恐ろしかったのは、霊触症を患ったことでは、なかった。ウロ。私の、お兄ちゃん。ウロは、壊れかけていた。おかしくなりかけていた。霊触症を患ったわけじゃない。身体が壊れたわけじゃない。おかしくなりかけていたのは、感情。彼の、心。

 私の霊触症をウロは、自分の責任だと思い込んでいた。約束を破った自分の、人を殺めた自分のせいだと、そう信じ切っていた。ウロは――私のお兄ちゃんは、私のお兄ちゃんを赦さなかった。緩やかに、緩やかに心を壊死させ、日毎に感情と死を接近させようとしていた。私のお兄ちゃんが、私のお兄ちゃんを、殺そうとしていた。

 だから私は――ウロを赦さなかった。ウロに暴力を振るった。ウロを罰した。ウロがウロを保つためには“外からの罰”が必要なのだと、私にはそう、感じられたから。それしかないと、そう、思ったから。でないとウロは自分で自分を罰し続け、本当に、本当に自閉してしまいかねなかったから。

 だから私は、ウロを叩いた。母のように、ウロを叩いた。母のように淡々と、楽しむ様子も見せず、憐れむような素振りも見せず、黙々と、ただ黙々と、ウロを叩いた。生命を傷つけ、犯し、破壊する行為をそのままに、私のものとして、模倣した。それは、恐ろしいことだった。暴力は、恐ろしかった。それでも、ウロを失うよりは、お兄ちゃんがいなくなってしまうよりは、よかった。

 それなのに。

 私の罰が足りなかったのだろうか。それとも、始めから間違っていたのだろうか。ウロは、再び、人を殺めた。おもやのお祖父さんを、那雲崎さんのお祖父様を。おもやのお祖父さんだけではない、那雲崎さんのお祖父様だけではない。たぶん、もっと、もっともっとたくさんの人を、殺めた。生命を傷つけ、屠り、犯した。

 ウロの行為には、薄々勘付いていた。勘付いていて、知らぬ振りをした。気付けば耐えられないと、判っていたから。“神隠し”の噂も、知っていた。だからちなみからの誘いも、始めは断った。私の予想が真実だなんて、万が一にも認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば終わりだと、判っていた。だってウロは、私のウロだ。私のお兄ちゃんだ。ウロが人を殺めるならば、それは私のためだ。私以外のために殺すなんて、そんなことはありえない。ウロは、私のために、殺す。私がいるからウロは殺し、誰かの生命が、奪われる。私がいるから。

 それは、私が殺すことも、同じだ。

 私がいなければ死も、殺しも、起こることはなかったんだ。

 私は母が怖かった。生命を弄び、冒涜する母のことが怖かった。そしてそれ以上に、母の血が私にも流れているという事実を、私は恐れていた。私は誰も、どんなものでも、傷つけたくはなかった。傷つける人になりたくなかった。母のようには、なりたくなかった。殺すものには、なりたくなかった。

 人殺しに、なりたくなかった。


 ……もう、無理です。限界です。耐えられません。私、これ以上、私でいたくありません。私を感じたくありません。つらいんです、苦しいんです、怖いんです。なにがどうなんて言えないくらい、なにもかもがぐちゃぐちゃに混ざり合って、怖くて怖くて仕方ないんです。つらくて苦しくて仕方ないんです。だから私、もう私でいたくありません。私でなくなりたい、私をなくしてしまいたい。霊触症に――霊素の大きな流れの中に、呑まれて埋れて消えてしまいたい。

 なのに、それなのに、私はやっぱり意気地がなくて。怖いんです。一人が、怖い。一人で消えていくことが、どうしても怖い。踏み出せない。消えたいのに、消える勇気が持てない。持てないんです――。

 色月さん。

 いるんですよね。判ります、感じています。あなたが側にいてくれていること、私、感じています。身体じゃない、肉体じゃない、もっともっと神聖で、神秘的な生命となって私の背中を見守ってくれていること、私は感じています。それだけが、私の救いです。あなただけが、私の希望です。

 色月さん。色月さん、色月さん、色月さん。あなたがいれば、大丈夫です。あなたがいれば、勇気を持てます。あなたさえいてくれるなら、あなたさえ感じられたなら、私、踏み出すことができます。だから、色月さん。お願いです。私から離れないでください。このまま一緒に居てください。このままずっと、ずっと、ずっと、最後の時まで、ずっと――。


 だから、色月さん。私と一緒に、死んでください――――。


   二三 下山おもや

「色月さん、連れて行かれちゃったね。離れちゃったね」

 相道さんは応えない。

「さみしいね。早く、また会えるといいね」

 相道さんは応えない。

「そのためには早く、よくならないとね」

 相道さんは応えない。

「寝過ぎだって、身体にはよくないもんね」

 相道さんは応えない。

「だから、ね、相道さん」

 相道さんは応えない。

「起きて」

 相道さんは応えない。

「起きて、ください」

 相道さんは応えない。

「謝りますから」

 相道さんは応えない。

「何度だって謝りますから」

 相道さんは応えない。

「なんだってしますから」

 相道さんは応えない。

「どんなことだって、しますから」

 相道さんは応えない。

「だから、起きて」

 相道さんは応えない。

「起きて……」

 相道さんは応えない。

 相道さんは応えない。

 相道さんは応えない。


 死にたい。


 霊触症だなんて、知らなかった。教えてもらわなかった。言ってくれれば、あんなふうに責めたりしなかった。言ってくれれば、こんなことにはならなかった。言ってほしかった。私は何も知らなかった。知らなかったから、こうなった。知らなかっただけだから、私は悪くなかった。私は何も、悪くなんて、なかった。

 うそだ。

 私はきっと、気づかない振りをしていたんだ。相道さんが霊触症だってことを、気づかないようにしていた。そんなことはありえないって、考えること自体を頭の隅へ押しやったんだ。だって、私は、お祖父ちゃんを知っている。霊触症を知っている。昔のすすぐと、いまの相道さんと、別人のように変わってしまったその変化の大きさを私は知っている。

 気づかないほうが、おかしいのに。昔を知らないちなみならともかく、私が気づかないなんて、そんなことおかしいのに。でも、私は、気づかなかった。気づかないように、“した”。そうすることで、膨れ上がる想像と不安から目を背けようとした。

 お父さんのことだって、そうだ。お父さんは悪くないのに、お父さんのせいにすることで、そう思い込むことで、私は自分を正当化したんだ。お母さんが死んだのは、お父さんのせいだ。悪いのはお父さんだ。私じゃないんだ。だから私は“生きてていい”んだって、そう、言い聞かせて。

 違う。お母さんが死んだのは、お父さんのせいじゃない。私のせいだ。私が止めなかったからだ。私が生まれたからだ。私が生まれなければ、お母さんが外へ働きに出ることもなかった。火事に巻き込まれて、焼け死ぬこともなかった。私のせいだ。私のせいで、お母さんが死んだ。私のせいで、相道さんが死んだ。私がみんなを、不幸にした。

 ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい、相道さん。

 私なんか、生まれなければよかったのに――。


「ま、待て!」

 ……なに? 人の声、ざわめき。廊下が妙に、騒がしい。ざわざわと、剣呑な空気が漂っている。入り口扉の、その上部へ備え付けられた曇硝子に、人影が映った。白い衣服。お医者様だ。ぼやけたモザイク状に、お医者様が手を突き出しているのが見えた。

「私は、約束どおりに――」

 それが、爆発音と共に、爆ぜた。悲鳴。飛び散る、赤。付着して、見えない。赤いもの。赤い液体。べっとりと、それが、硝子を濡らす。なに、なに、なに? どうしたの、何が起こっているの? 思わず、相道さんの手をつかむ。

 扉が、開いた。

「あ……おもやちゃんっすね!」

「あな、たは――」

 洞四四さん。父が寝泊まりを許した、双見の外から訪れた人。月山で、余計なことを言った人。何を考えているのか、よく判らない人。なんで、こんな所に。それに、その眼帯は……?

 私の疑問を差し置いて、彼は無遠慮に病室の中へと入ってきた。右手で何かを引きずりながら。大きな、縦に長い物体。ごつごつと、扉の溝で音を立てる。私はそれを凝視し――その正体に気づいた時、悲鳴を抑えることができなかった。

 彼が、照れくさそうに笑った。

「これは……えへへ。持ってきてみたですよ」

 人だった。人間だった。死んだ、人間だった。それが引きずられるたび、赤い筋が床に引かれた。誰の、何の、死体。どうして、なんのために、いやだ、来ないで、怖い、怖い。洞さんは、けれど私ににじり寄って、少しずつ、少しずつこちらへと近づいてきた。相道さんの手を、強くにぎる。

 相道さんの上に、死体が乗せられた。

「親子はやっぱり、一緒の方がいいですものな」

 あ、と、思う。黒澤様とお父さんが話しているのを耳にした時のこと。相道さんのお父さんが病院にいると、二人は確か、話していた。確か、名前は……稜進。え、じゃあ、そうなの? この人が、相道さんの? でも、なんで? どうして死んでいるの? どうして額に穴が空いているの? 何が起こっているの?

「じゃ、もういいっすよね――」

 そう言って、洞さんが何かを構えた。小さなおもちゃみたいな形の、なのに妙な重たさを感じさせるそれを。ピストルだ。ピストル。弾を撃って、人を殺してしまうものだ。あの穴から、暗い穴から弾が出るんだ。いま、その穴は――眠るすすぐさんに、向けられて。

「父さんのために、死んでください」

 引き金に掛けられた指が、ゆっくりと動こうとしているのが見えた。あれを引き切られたら、ピストルの弾が、すごい勢いで発射されてしまう。そうしたらきっと、相道さんは死んでしまう。お母さんのように、死んでしまう。

 いやだ、と、思った。思うよりも前に、身体が動いた。私は――相道さんに、覆いかぶさっていた。

 私、何を。

「……なに、してるっすか?」

「あ、あの……」

 私の身体は、人よりも大きめだ。お父さん譲りの体型。同世代くらいの女の子であれば、私が覆えばぜんぜん見えなくなってしまう。相道さんもたぶん、いま、外からはぜんぜん見えない。洞さんからは、ぜんぜん見えない。でも、それは、私の背中は無防備に、彼の前へとさらけ出されているということで。

「そ、そういうの、よくないと、思います……」

「……ふぅん」

 心臓がばくばくしていた。すぐにもどきたかった。逃げ出したかった。なのに、相道さんから離れられなかった。彼女を抱きしめて、動こうとしなかった。心臓の鼓動。相道さんのそれが、私の心臓へと伝わってきていた。とくんとくん、ばくばく、とくんとくん、ばくばく。

「おもやちゃん、こっち向いてくれねーですか?」

「だ、ダメです。だって……撃つんでしょう? なら、ダメです。どけない、です」

「大丈夫、撃たねーですよ。何にもしないから、こっち向いてもらいてーです」

「ほ、本当に?」

「本当に! だから、こっち向いて欲しいですよ」

 本当に……? 信じていいの……? 心から信用することは、もちろんできなかった。でも彼は、少なくとも乱暴に私を引き剥がしたり、私に向けてピストルを撃ったりはしてない。なら、少しは信じても、いいのかもしれない。身体を起こす。相道さんから離れる。相道さんの心音が、離れる。相道さんから離れて、洞さんと向き合う。洞さんは子供みたいな、いつもの笑顔を浮かべて私を見ていた。

「それじゃおもやちゃん、ばんざいしてください」

「ば、ばんざい?」

「ばんざいっす。知ってるっすよね? こう、両手を上げて――」

 言って、彼の両手がキレよくずばっと直上へ伸びた。

「ばんざーい! どうっすか?」

 とても気分の良さそうな、自慢げな笑顔。

「それは、知ってますけど……」

「じゃ、どーぞ。ほら、ばんざーい!」

 そう言って、彼が再び両手を上げる。なんなのだろう、これは。よく、判らない。でも、これで彼の気が済むのなら。これくらい、いくらでも付き合ってあげて構わない。言われた通り、両手を上げる。

「ば、ばんざーい……」

 彼の唇が、不満げにとがった。大げさな動作で、首が左右に振られる。

「もっと! もっと高く上げて! ほら、ばんざーい!!」

 も、もっと?

「ば、ばんざーい!」

「もっともっとー!」

 ……やけくそ!

「ば、ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!!」

「そうそう、いいっすよー!」

 彼が、とびきりの笑顔を見せた。その目の前には、ピストル。ピストルの暗い穴が、こちらを向いていた。一瞬のことだった。私は両手を上げていて、何の反応もできなかった。暗い穴の奥が一瞬光って、白くて、見えたのは、そこまでだった。

 後に残ったのは、鼓膜を破る爆発音――――。


   二四 下山組家

 時間を持て余していた。黒澤のおじさん――正確には父からの依頼を断って、他に大きな仕事がなかったことも重なり時間ばかりが余っていた。だからぼくは、わだちと散歩をしている。普段は一緒に散歩しないぼくにわだちは興奮する様子を見せていたけれども、三日連続となると新鮮味も薄れてきたのか、「またお父さん?」みたいな顔をするようになった。そう言わないでおくれよ。だってぼく以外に、他に誰が行けるというんだい。

 おもやは毎日、どこかへ出掛けていた。どこへ出掛けているのかは知らない。彼女から教えてくれることもないし、ぼくから聞くこともできなかったから。父さんが亡くなったあの日以降、おもやとはまだ、一言も口を交わしていない。どんな顔をしてあの子の前に立てばいいのか、それもよく判らない。ちなみちゃんも何だかぴりぴりとしていて、おもやのことを聞き出せる様子ではなかった。

 ぼくは、受けるべきだったのだろうか。父の依頼を、神輿の建造を、完遂させるべきだったのだろうか。そうかもしれない。本当は、そうするべきなのかもしれない。でも、何度考え直しても、やっぱりやりますとは言えなかった。あんなに高揚して、一分一秒でも携わっていたいと感じていた図面や神輿の制作が、いまは、怖い。考えることすら、したくない。あれだけ情熱を注いだ自分の仕事がいまや、陳腐で、安っぽくて、どこにでもありふれた、人様の前にお出しできる代物ではないように思えてしまった。いまさら、もう、向き合うことはできなかった。

 だからぼくは、散歩する。無目的に、わだちの満足だけを優先して、ふらふらとあちらこちらを散歩する。どうするべきだったのだろうか。これからどうするべきなのだろうか。そんなことを、ふらふらとした頭で考えながら――。

「……先輩?」

 町の中心から外れ、相道の稽古場近くにまで訪れた時、ぼくは見知った顔を発見した。佐々川先輩だ。ほんの一時期だけれど相道の稽古場に通っていた頃、既に師匠と正面からの組手を行っていた佐々川先輩。近寄りがたく、そこまで仲が良かったわけではないけれど、ぼくが望んで稽古場に来ている訳ではないことに気づいてそれとなく手を抜く手伝いをしてくれたのも、先輩だった。帰り道で、甘味と緑茶を奢ってもらったこともあった。甘味の味は覚えていないけれど、甘味以上にしこたま甘い緑茶の味は、よく覚えている。無理をして飲み干すと、先輩は少しだけうれしそうな顔をした……ような気がする。

 ぼくにとって先輩は、町の人やきっちゃんが言うような冷徹で合理的な人と言うよりも、他人との距離の詰め方が不器用な人という印象が強かった。頭が良くて、なんでもできて、よく慕われる人ではあったけれど、友達がいるようには見えなかった。実際たぶん、いなかったのではないかと思う。誰かと対等な付き合いをしているところを、見たことがないから。

(きっちゃんとだけは、少し違ったような気もするけれど)

 それにしても先輩、何をしているのだろう。忙しい身のはずなのに、一人でこんな所にいるなんて。それに、なんだろうか。どこか様子がおかしい。胸を抑えて、息も荒く、歩き方もぎこちない。妙に苦しそうだ。

 そう思って眺めていると、突然、先輩がその場で膝を着いた。ぼくは、慌てて彼の下へ駆け出した。一歩遅れて、わだちも走り出した。駆け出したのはぼくの方が先だったのに、到着した時にはわだちに引っ張られていた。

「……組家か」

「あ、はい。お久しぶりです、先輩……大丈夫ですか?」

「世界は繰り返されている」

 立ち上がろうとしながらも身体をふらつかせた先輩が、転びそうになるそのぎりぎりの間際でぼくの腕を取った。

「決まりきった結果だ。決まりきった結果は、決まりきった原因によって成立する。そしてその原因もまた、更なる前提の条件によって決定論的にその在り方を決定される」

「あ、あの、先輩……?」

 力なくぼくの腕を握る先輩は、しかし言葉だけは流暢に流し続ける。言葉を吐くために動く口に、自然と視線が向く。

「原因とは人だ。人類という種だ。しかしその人類もまた、そう望んで人となった訳ではない。そう求めた第三意思によって現象せしめられた、因果論的に人となることを定義づけられし集積生命の代替に過ぎない」

 先輩がしゃべる度に、その口から何かが吐き出された。赤いなにか。あれは――血?

「人は自由ではない。その誕生の起こる遥か以前より、そして終わりを越えたその果てにまでも。徹頭徹尾、人に自由はない。その結末と同義である幕開けにおいても、発端に相違なき幕引きにおいても。輪転の相こそ、世界の実態であるが故に。故にこそ――」

 ぼくの腕を握る先輩の手に、力が宿った。

「故にこそ俺は、天意を成就せしめなければならない」

「あの、先輩。ぼくには、よく――」

 その時、わだちが突然吠えた。どうしたの――と、聞こうとしたぼくの言葉は、同時に起こった巨大な音に掻き消される。次いで、訪れた、熱波。なに、地震? 咄嗟にわだちを抱きしめ、身を低くする。しかしそれは、地震などではなかった。

「……なに、燃えて……」

 町が、燃えていた。至る所に、火の手が上がっていた。絶え間なく続く爆発音と、振動。その度に火は勢いを増し、火は火と重なり猛る炎となって、町はいよいよ赫灼の赤に呑み込まれていく。なに、いったい、何が起こっているの……?

 ――ぼくは、背後へ振り返った。

「……色月、くん?」

 気のせいだろうか。声が、聞こえた気がした。彼の声が。先輩の声と、聞き間違えたのだろうか。先輩。気付けば先輩は、いなくなっていた。どこへ? 判らないけれど、けれど先輩は、何の話をしていたのだろう。それに、あの、言葉は――。

 聞き間違いかも知れなかった。聞き間違いや、あるいはただの空耳か。でもぼくは、その声を無視することができなかった。どうしても、できなかった。この状況と、ささやかれた、その名前を聞いて。

 ……病院に、おもやが?


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