一七~二◯
一七 相道みつる
稜進兄さんと、私の子。私が産んだ、子供たち。父さんから勘当されても、兄さんに捨てられても、この子たちさえいればそれでよかった。失ったものは取り戻せなくても、私にはまだ、大切な宝物があるのだから。私の子供。私の双子。私の、生命よりも大事な家族。
なのに、どうして? どうしてみんな、取り上げるの? どうしてみんな、奪おうとするの? どうしてみんな、一緒にいさせてくれないの? どうしてみんな、邪魔するの?
大嫌い。みんなみんな、大嫌い。知らんぷりするやつも嫌い。同情するやつも嫌い。説教するやつも嫌い。バカにしてくるやつも嫌い。助けてくれないやつも嫌い。
おじさまも、嫌い。大嫌い。
「みつる」
砕かれた包丁が粉々の砂粒みたいになって、流れる血とともに畳の上を広がる。無用の長物となった包丁の柄を、手放す。予備は、まだある。何本でもある。どうせ一本だけで殺せるとは思っていなかった。刺してやる。何本も、何本も刺してやる。そうすれば黒澤のおじさまだって、いくらなんでも死ぬはずだ。死ぬんだ。殺すんだ。
邪魔者を殺して、私は家族を取り戻すんだ。
「お前をここへ寄越したのは、あの若者か」
両手に、包丁を持つ。二本もあれば、弱らせられるはず。二本で足りなければ、四本刺してやる。四本で足りなければ、八本刺してやる。振りかぶる。両腕を、大きく鎌のようにして振り上げる。それから、振り下ろす。おじさま目掛けて、黒澤太平太目掛けて、振り下ろす――。
「……い、た」
感触、硬い、手首に。手が痺れる。握力がなくなる。包丁が、両手からこぼれ落ちる。つかまれている。手首。バカみたいに大きい手。
「みつる。お前をここへ寄越したのは、あの若者か」
振りほどこうとする。振りほどけない。蹴ろうとする。蹴った足が痛い。手首に圧が掛けられる。重たい。立っていられない。尻餅をつく。身動きが、取れない。
「……どうしてよ、どうして死んでくれないのよぉ」
どんなに暴れようとしても、無駄だった。手首をつかまれただけで、私の身体は私の思う通りに動かせなくなった。
「死んで、死んでよぉ……」
「……なぜ、そこまでわしの死を求める」
「おじさまが死なないと、あの子が帰ってこないの……だから、邪魔、しないでよぉ……」
「あやつにそう言われたのか」
「そうよ……そうよ! おじさまも兄さんも、みんな私の邪魔をする! 私から家族を奪おうとする! でも、あいつは違った! あいつは、あいつだけが言ってくれたの!」
そうだ、私の人生において、あいつだけが違った。あいつだけが、奪おうとしなかった。あいつだけが――。
「私を家族と一緒にしてくれるって、洞四四だけがそう約束してくれたの!」
「あれは、洞四四ではない」
……え?
「なに……なに言ってるのよ? だって、あいつ、あんなに名乗ってるじゃない。四四、四四、四四って、うるさいくらい」
「洞四四という男は、数ヶ月も前に死んでおった」
なに? なんの話?
「確かに、洞四四という男は実在した。中央で霊素を研究していたという来歴も、友為が調べた通りであった。じゃが、洞四四は数ヶ月前に失踪。失踪から数週間経った後、遺体となって発見されておる。遺体は頭部を中心に酷い暴力を受けた痕跡があり、その損傷具合から身元を特定するのにはずいぶんな時間が掛かったそうじゃ。そしてその不明の期間の間に……人相も所作振る舞いもまるで異なる“洞四四を名乗る若者”が、どこからともなく現れた。みつるよ、奇妙なことだとは思わぬか」
なによ、なにが言いたいのよ。その話が、私に何の関係あるっていうのよ。
「それになみつる、洞四四を調べているこの三日で、わしはどうしても無視できん情報を得てしまったのじゃ。本物の洞四四。発見されたその遺体は――」
あいつが洞四四じゃないからって、それがなんだって――。
「片目が、抉り取られておったそうじゃ」
『下山の親父さん、そして数日前に殺害された八重畑丑義。そのどちらもが片目を抉り抜かれていた』。兄さんの言葉が、瞬間的に思い起こされた。それに――私の指先に残るあの、ぐにゃりとした怖気の立つ感触。こぼれ落ちた、それ。
頭の中で、一致する。
「みつる、わしはこう考えておる。あやつこそが『无』かもしれんと」
拘束された手首にかかる圧が、緩んだ。
「わしはあやつと拳を交えた。お前との交際を条件にな。すぐに音を上げるかと思ったがあやつ、予想に反して中々の根性を見せおった。悪くないと、一度はわしもそう思った。負けてやってもよいと。これだけの気概を見せるならば、お前を任せてよいのかもしれんと、そう思った。じゃがあやつ、最後のあの瞬間に――わしの目を、突きに来おった」
『これは『无』特有の手口だ。そしてこの手口は模倣犯を防止するため、公には報じさせていない』
「拳を交えるからこそ判ることもある。あれは、偶然などではない。確かな意志と“経験から来る技術”を持って、わしの目を狙っておった。目突きを禁じた訳ではない。じゃがあれは、やつにとっても不要な一撃だったはずじゃ。顔に一撃。それがやつの勝利条件だったのじゃから。それでもやつは、目を突きにきた。おそらくは、身についた動きから自動的に。みつる、やつは危険じゃ。わしの身体が、咄嗟に拳を握ってしまった程に」
『これを知っているのは直接の捜査に当たったことのある一部の者か……あるいは、当人以外にありえないんだよ』。これも、兄さんの言葉だ。そうか、あいつ、『无』だったんだ。あいつが、兄さんの追いかけてる、人殺しなんだ。
……だから、なによ。
「……どうして、判ってくれないの?」
「みつる?」
『无』だから、なんだっていうのよ。
「兄さんもおじさまも、どうして判ってくれないの? 『无』とか国とかそんなこと、私にとってはどうでもいいの。『无』だってなんだっていい。私に必要なのは、家族と家族を取り戻してくれる人なの! それ以外はいらないの!」
「みつる、わしは邪魔をするつもりなどない。わしとてお主らには同じ家で暮らしてほしいと思っておる。じゃから――」
「だったらどうして聞いてくれなかったのよ!!」
「なにを……」
「私、お願いしたはずよ……? 取り返してって、お願いしたんだ――!」
「みつる、それは――」
「“間東やく”から、私の子供を取り返してってお願いした!!!!」
そうだ、私の子供。私が産んだ子。宝物の双子の片割れ。それをあの女が、稜進兄さんを奪ったあの女が、私の子供まで盗ったんだ。何より大事な、生命よりも大切な私の子供を。それなのに、誰も助けてくれなかった。見て見ぬ振りをしたり、同情したり、早く忘れろと説教するばかりで、誰も助けてなんてくれなかった。家族の一員だと……おじだと思っていた黒澤太平太も、私を助けてくれなかった!
「結局おじさまは、相道よりも双見を取ったんじゃない!! なのに今更、今更家族みたいな顔しないでよ!!」
嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ。みんな嫌いだ、双見なんて嫌いだ。死んじまえ、みんな死んじまえばいいんだ。私とあの子の邪魔をするやつは、みんな死んじまえばいいんだ。だから死んで。死んでよ。死んでよおじさま。死んでよ黒澤太平太。私のために、あなたが死んでよ。
「……わしは」
みんな、死んでよ。
「わしは確かに、“相道”ではない。“双見の”黒澤太平太じゃろう。お前の願いを無視し、双見を優先したことも事実じゃ。今更相道と呼んで欲しいとは言わん。……じゃが、お前たちのことを想っていない訳では、決してない。双見を守ることは、相道を守ることであると、わしはそう思っている」
「そんな、言い訳――」
「お前の言う通り、言い訳かもしれん。その上でわしは言おう。双見は土台じゃ。連綿と続いた歴史という土に固められた土台じゃ」
だって、そうじゃなきゃ、私。
「この町の民は、家は、すべて双見という土台の上に成り立っておる。それは相道とて例外でないのだ。双見がなければ、相道もない。わしは、お前たちが安心して暮らせる場所を守りたい」
本当に、殺しちゃうかも、しれない。
「その双見がいま、喪われようとしておるのかもしれんのだ」
みんなのこと、殺しちゃうかも、しれない。
「みつる、力を貸してくれぬか。わしのためでなくてよい。双見のためでなくともよい。お前が想う、“お前の家”を守るために」
そんなものに、なりたくないのに。
「今度こそ相道の力となることを、赦してはくれぬか」
兄さんみたいに、なりたくないのに――。
おじさまの手はもう、私の手首から離れていた。私の身体は、私の思う通りに動かせた。でも、動かなかった。こぼれ落ちて、畳を傷つけた包丁。いまはそれがとても恐ろしくて、手を近づける気にも、なれなかった。
おじさまの手が、私の肩を叩いた。大きい手、バカみたいに。じわりと、濡れた感触。赤色が、私の肩に広がっていく。止血、しないと。私が、しないと。そう思って私は、立ち上がろうとした。
おじさまの手が、肩から離れた。
「貴様らは――」
な、に――。思う間もなく、押し寄せる大群。同じ格好をした、同じ動きをする大群。両手に構えた、それ。
「みつる、わしの後ろに――」
言う間もなく突きつけられる、それら。暗い穴の無数の空虚。それらが、一斉に光った。
銃声が、折り重なって、轟いた。
一八 多々波ちなみ
うそだ。うそだ、こんなの。だってこんなの、あたしは望んでない。あたしは、こんな光景を見に来たんじゃない。あたしは神隠しを、すすぐを、おもやを助けるためにここに来たんだ。全員で、みんなで笑えるようにするために、ここへ来たんだ。だから、こんなの、違う。こんなの、うそだ。うそだ。
「……あ」
人。たぶん、人。お面。判らない、見てるのか。でも、向いている。こっち。向けている、こっち。銃口。あ、遅い。時間が、ゆっくり。見える。そいつの動きが、見える。人差し指が、引き金に掛かったそれが、折れ曲がっていくの、見える。避けなきゃ。避けれない。あたしも、ゆっくり。動かない。あ、ダメ。もう、ダメだ。あたし、死――――。
「せんせえ、危ない!!」
一九 アイ
『お前……どの面下げて!』
黒き聖人の葬列。正しき人の無数の手が、腕を掴み、髪をつかみ、目をつかみ、私はそこから転げ落ちる。私は列から弾かれる。
『お前みたいなものが……お前みたいなものが息子を誑かしたからうちは!』
私はなんと言ったのだろうか。一目会わせてほしい。そう懇願したのだろうか。ごめんなさい。そう謝ったのだろうか。いずれにせよ私の声は、誰に届くこともなかった。私は、彼らの同胞ではなかった。
『お前みたいなものが!!」
叫ぶ、彼の父の、声。私みたいなもの。本当に、心から、そう思う。母からも言われた。お前みたいなもの。お前みたいなものがいるから、私は自由になれないんだ。親を泣かせて、困らせて、お前は恥ずかしくないのか。判っている。私は恥ずかしい生き物だ。例え父が、顔も名も知らぬア国進駐軍の軍人である父が、植民国の娘を無理やり孕ませ産ませた子供であっても、恥ずかしい存在であるのは私だ。父でも母でもなく、私だ。私という有り様は私の意思とは無関係に定められた、私と不可分の属性だ。生まれながらに、不可分なものだ。私は、私が嫌いだった。
『きみならきっと、良いお母さんになれるよ』
彼だけが、ダーリンだけが、私を受け入れてくれた。私の願いを、私の夢を、笑わないで聞いてくれた。応援してくれた。私は私が嫌いだった。母も、私を嫌っていた。誰もが、私を嫌っていた。彼だけが、ダーリンだけが、私を嫌わないでくれた。愛してくれた。
それが、私の支え。過去形じゃない。いまなお続く、私の支え。これから先も、ずっと、ずっと抱き続ける、私だけの支え。だから、私は止まらない。振り向かない。諦めない。夢に――願いに向かって、突き進む。削れて、砕けて、壊れてでも。いや、もしかしたら――壊れること、それ自体を求めてしまうかのように。
「ねえ、あなたもそうのでしょう……純くん?」
「何の話だ」
「さあ……なんの話なのかしらね」
彼が舌打ちをする。彼が私を嫌悪していることは、すぐに感じ取れた。馴染み深い反応だったから。アルコールに弱いという彼の前に父の国の柑橘果実を絞った飲料を差し出し、私は向かいの椅子に腰掛けた。膝にはマフラー。いづちの、青いマフラー。
「それで、なんだったかしら。ともくんならここにはいないわよ?」
「お前らだろう、“神隠し”の犯人は」
柑橘飲料には口をつけぬまま、彼は前置きなしに切り出した。性急な彼の態度に、ついつい笑いが漏れてしまう。彼の顔が、余計に険しく変じる。
「ふふ、ごめんなさい。……それで、どうしてそう思うのかしら」
「直近の兵隊はよく選ぶべきだ。あんなにあっさりゲロるやつじゃ、秘密も秘密になりゃしない。ついでに付け加えるなら、行方不明者の多くがこの店の利用者だったって推理材料もある……が、そんなことはどうでもいい」
彼の目が、ちらと私の膝へと向けられた。ひざの上では私の手が、ひっきりなしにいづちのマフラーを撫でている。その行動に、なんらかの裏を読み取ろうとしたのかも知れない。あるいは“マフラー”という物質をただ、見過ごせなかっただけか。
「俺のことを嗅ぎ回るのは何故だ。『
霊授兵。彼の口から飛び出た言葉。ああ、ということは――。
「『大規模霊触』について、どこまで知っている」
やっぱり、そうくるわよね。つまり彼の中では既に、私達の行いについてある程度の見当がついている。そうね、ならこれは……“彼の指示通り”、事を進めるべきかもしれない。
「そうね、白状します。私達が“神隠し”の犯人で、あなたのことを嗅ぎ回っていたのも私達です」
「ずいぶんあっさり認めるな」
「生命は惜しいもの。それに、始めから打ち明けるつもりだったから」
「なに?」
さすがに訝しむわよね。それは当然。でも、それはそれで構わない。私は私の役割を果たすだけだから。
「ねえ純くん。あなた、どうしてあんなに怒っていたの?」
「なんの話だ?」
「あなたが帰郷した日のことよ。あなた、東の子が叫んでいた言葉で激昂してたでしょ?」
「……さてね。そんな昔のこと、覚えちゃいない」
「純くん、私ね、大陸の言葉も判るの」
彼の顔が、瞬時に変わる。覚えていないなんて、うそつきね。覚えているから、そんな顔をするのでしょう? 受け入れがたい言葉を言われたから。そう、確か、このような声色で――。
「『なぜだ!』」
純くんに打ちのめされたあの子は、こんなことを言っていた――。
「『なぜそいつらと言葉を交わす。なぜ我々にその手を振るう』」
「……おい、やめろ」
「『私には判るぞ、お前はこちら側だろう。殺すべきはやつらのはずだ。なぜだ、なぜ己を偽る。なぜ己を謀る。なぜ己を認めぬ』」
「おい、おい」
「『血はお前を逃しはせんぞ。貴様は戦うべきなのだ、我々と共に、奴らをこそ削ぎ裂き殺し、滅ぼし尽くすべきなのだ』」
「やめろと言っているだろ、カマ野郎。いますぐその汚い口を閉じろ。でなきゃ――」
「『そうだ、そのはずだ、お前がお前として生まれた、それこそ課されし天命なのだ! そうだろう、そうだろうとも――』」
「でないと、俺は――」
「『我らが
頚が、絞まった。視界が、一気にぼやける。白む。その中で、その端で、見える、薄っすらと。マフラー。青い。いづちの。あ、私、いづちのマフラー、巻いてる。ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅう。巻かれてる。やだな。あの子のものなのに、私の臭いがついたら、やだな。
「ちがうぅ……」
呻く、男の人。鬼の――ううん、狂った天狗の顔をして。人に似た、けれど確実に人とは異なるその顔で。ああ、そうか。これが、そうなんだ。そうだったんだ。
「俺はぁぁぁ……!!」
正しい人の、正しい怒り。怒りの目。怒りに呑まれた、哀れな目。
ねえ、ダーリン。ダーリンも、そうだったのかな。
ダーリンも、この目に睨まれながら、逝ったのかな。
ねえ、教えて。教えてダーリン。あなたは私と会って、本当は――。
本当の、本当は――――。
「相道純ッ!!!!」
二〇 田中中
やっぱりだ、やっぱりこいつだ! 相道純、相道純! 今度は『あんどろぎゅのす』の主まで殺すつもりか! 何人だ、何人殺すつもりだ。何人殺しゃあ気が済むんだ。百人か、千人か。それとも……双見から、この国から、人という人がいなくなるまで屠り尽くすのをやめないつもりか。……俺も、殺すのか。
殺されて、たまるか。仕留めてやる、今ここで。殺される前に、殺してやる。
「相道純ッ!!」
窓硝子越しに、支給された銃で撃つ。派手な音と共に、窓硝子が割れた。弾丸は――どうだ。当たったかどうかは不明だが、『あんどろぎゅのす』の主を絞めていた手は離れ、相道純が飛び退ったのか、目に見えて距離も開いていた。だが、仕留めたわけでは、おそらくない。銃床で、残った窓硝子を砕き落とす。そして、そこから中へ入る。銃口をやつへ向けたまま、近づいていく。
「……へぇ」
……やっぱりだ。
「いい面構えになったじゃねぇか、若いの。だが、いいのか」
余裕の笑み。やっぱりこいつ、無傷だ。避けたんだ、避けやがったんだ、たぶん。
「お優しい若頭様も、今度ばかりは助けに入っちゃくれねぇぞ」
「お前だけは、生かしちゃおけねぇんだ……!」
次は、外さねぇ。唾液を飲み込む。いける、やれる、俺ならやれる。終わらせる、いまここで終わらせて、そうして手に入れるんだ――安全を。安全で安定した、怖いものなど一切なくなった暮らしを。そのために……やるんだ。荒ぶる呼吸を諌めて俺は、照準越しに相道純に狙いを定める。
そこに、すっと……柑橘の香りが、漂った。
「ありがとう、来てくれるって信じていたわ。でも――」
両手に、重みが加わった。銃身が、相道純から、逸れる。
「落ち着いて。こんなものを突きつけては、お互いを理解し合うこともできないしょう?」
「理解って……お、おい!」
直ぐ側にまで来ていた『あんどろぎゅのす』の主が、俺が構える銃の身に手を乗せていた。さほど力を込めているようには見えなかったが、テコの原理で俺の手にはそれなりの重みが訪れる。なんのつもりだよ。そう文句を告げようとした俺の口よりも早く、『あんどろぎゅのす』の主が言葉を発した。
「さっきはごめんなさい。あなたにとっては、何より耳にしたくない言葉だったわよね」
「……」
『あんどろぎゅのす』の主は、相道純に向かって話しかけていた。……どういうことだ? 殺されかけてたんじゃ、ないのか?
「でもね、どうしても確認しておかなければならなかったの。私達がこれから、どのように動くべきかを見定めるために」
「……で、確証はとれたのかい」
「ええ。確認して、確信できました。相道純くん――」
俺の銃を抑えているのとは別の手を、『あんどろぎゅのす』の主が相道純へ伸ばす。
「私達と、手を組みましょう?」
……いま、なんつった?
「私達の目的は、あなたの目的に反するものではありません。むしろ協力し合うことによって、あなたの望みもより盤石な形で叶えられるものと思います。……それに、これは私の個人的な感傷なのだけれど」
目的? 協力? なんだ、なんの話だ。
「私はね、純くん。あなたのような人をこそ、どうにかしてあげたいと思ってる」
「余計なお世話だカマ野郎」
「……そう、残念だわ」
「……なにがなんだか判んねぇけど」
銃身を抑える手を、乱暴に引き剥がす。自由になった銃を、再び相道純に向ける。相道純だけを見、相道純だけを警戒しながら俺は、愚かしいことをしようとしていた『あんどろぎゅのす』の主に語りかける。
「あんた、こんなやつと交渉なんて無意味だぞ。こいつはな、人じゃねぇんだ。あんなこと、人間にできるわけがねぇんだ!」
相道純が、あくまでも余裕たっぷりといった様子で笑う。くそ、やめろ、笑うな……頚に、響くんだよ、くそが。
「ずいぶんな言いようじゃねぇか。俺がいったい、なにをしたってんだい?」
「しらばっくれんなクソ野郎! てめぇが『屋無』のやつらをやったんだろうが!」
「……なに?」
「俺はな、聞いたんだからな! お前を呪ってくたばった声を、俺は聞いたんだぞ!」
両足のない、あの黒焦げの遺体。死ぬ前に見せた、あの“痛み”。あの痛みが、俺にそう確信させた。こいつは人じゃない。黒澤太平太が、この町の人間が恐れている怪物。噂の渦中のそれ。
「そうかい、まっさんが……」
「演技はやめろっつってんだよ! てめぇが、てめぇがそうなんだろ!」
そうだ、こいつだ。こいつこそが――。
「てめぇが『无』なんだろ!!」
「……は?」
相道純が、ぽかんと口を開く。と、思うと、その口がすぐに歪んだ。歪んだ口から、おかしな音が漏れ出した。くつくつと、小さなさざめきのようであったそれは次第に巨大なものへと変じ、やがては耳に障る騒音へと発展していた。相道純は、笑っていた。腹を抱えて笑っていた。バカみたいに、大笑いしていた。
「な、なにがおかしい!」
「いや、いや……そうか、俺が『无』か。『无』を追う俺が、実は『无』か。くっくっく……。おもしろいことをいうな、お前。だが――」
なおも笑いが止まらない様子で、相道純は苦しそうに身体を揺らしていた。自らを抱えるように巻き付いた腕、手。その手には、何か青い布切れが握られていた。細長いその青は相道純の動きに合わせてひらひらと揺れ、目につく。
「そうだな。あながち、間違っちゃいねぇよ」
認めた! 認めやがった! やっぱりこいつだ、やっぱりこいつが『无』なんだ! 俺は間違っていなかった! やっぱりこいつは、殺すべきなんだ! そう確信した、その瞬間――電話の甲高な呼び出し音が、店内に響き渡った。
「お仲間からだろ、出ろよ」
「お言葉に甘えて」という声と共に、柑橘の香りが側から離れていく。呼び出し音が止まり、『あんどろぎゅのす』の主一人の声が聞こえ始めた。相道純は、その一人で話す『あんどろぎゅのす』の主人を見ている。俺のことは、まるで気にしている様子はない。
撃つか? いま撃てば、仕留められるんじゃないか? この人外を、『无』をやることができるんじゃないか? チャンスだ。これは、絶対的なチャンスだ。
……でも、やれるのか、俺に。殺せるのか、こいつを。外したら終わりだ。一度でも発砲すれば、こいつだってこんな呑気にはしていないだろう。おそらく、チャンスは一度きりだ。その一度きりのチャンスを逃したら――脳裏によぎる、数日前の出来事。あの時は、若頭が助けてくれた。しかし、そんなに毎回、援軍が現れるはずもない。もし、外したら。その時は、今度こそ――。
頚が。
「で、なんて?」
構えたまま。構えたまま、固まっていた。指が、動かなかった。いや、動いていることは動いている。自分の意思とは無関係な、震えによって。……くそ、くそ、くそ!
「……二人とも、驚かないで聞いてくれる?」
後ろから、声が聞こえる。『あんどろぎゅのす』の主人の声だ。いまは、あんたの話を聞いている場合じゃないんだ。引っ込んでいてくれ、頼むから。俺は、そう願う。そう願いながら俺は、沈んだ声で語る、『あんどろぎゅのす』の主の言葉を、聞いた。
震えが、止まった。
うそだろ?
ありえないだろ、そんなこと。だって、あいつは、偉いじゃないか。偉いってことは、安全ってことのはずだろ。おかしいじゃないか。偉くても安全でいられないってんなら、じゃあ、どうすりゃ絶対の安全に届くんだよ。もしかして、そんなもの、ないのか? うそだ。うそだろ、そんなこと。
黒澤太平太が殺されただなんて、うそだろ、そんなこと――――。
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