一三~一六
一三 那雲崎しるし
「『无』は既に、彼を狙いと定めました。それは即ち、後援者として彼を庇い立てるあなた方にも危険が及ぶということ」
これは、夢だ。
「よくお考えなさい。あなたと彼、双見にとって必要なのはどちらであるか。あなたを喪った双見が、どのような末路を辿るかを」
ボクの頭が描き出した、虚構の夢。
「よくお考えなさい。暴虐はあなたに留まりません。才に溢れたご子息に孫娘、一地方の議員に過ぎない彼と大切な家族。秤に掛ける程の比があるものでしょうか」
でも、ただの虚構じゃない。これは、現実を模倣した、夢。
「警備を手薄にする。間取り図を盗ませる。それだけのことで、最悪は回避できるはずです。積極的な裏切りは必要ありません。少しの慢心、少しの不注意。あなたがたに落ち度はない。それは、人であれば必ず起こす、些細なミスに過ぎないのですから」
現実に行われた会話の再現。虚実同体のカレイドスコープ。
「そうですお二人共、それが懸命というものです。ご家族のため、双見のため、未来のため――」
老人たちの秘密会合。主導する、かつて祖父と敬った人。その人の、告解。
「
父を喪った、ボクの悪夢。
「お父様!!」
燃える、燃える、屋敷が、燃える。猛り狂い、天を焦がし、それでもなお止むことなき焔はついに人へと変貌し、怨嗟の呻きにのたうち回る。お父様、お父様、お父様。ボクは手を伸ばす。お救いしなければ。お父様をお救いしなければ。那雲崎なのだから。お父様の娘なのだから。ボクは、お父様の娘の、那雲崎しるしなのだから。
けれどお父様はボクの手を嫌がるように手を引いて、身体を引いて、いつしかその身を炭と化して、虚空の果へと散ってしまった。熱い、てのひら。お父様の一部がわずかに付着した、黒ずんだ指紋。
ああ、ボクはなぜ、この光景を見ておきながらなぜ信じてしまったのだろう。事故だなんて、そんなはず、ある訳ないのに。八重畑丑義に真相を語られるまで、どうして疑うことすらしなかったのだろう。お父様の無念に、お父様の屈辱に、露とも気づかずボクは一体、何を呆けて生きてきたのか。
これでは見捨てられるのも、当然じゃないか。
仇討ちだ。仇討ちを、しなければならない。それだけが唯一、唯一お父様に報いる手段。それだけが唯一、お父様の娘であると証明する手段。お父様の娘となる、那雲崎となる、唯一残された、最後の、手段。
殺すんだ、お父様を謀った者を、お父様を陥れた者を。殺すんだ、一切の容赦なく、慈悲もなく。そして、思い知らせてやるんだ、自分たちの罪を。自分たちが、何をしでかしてしまったのかということを。正統な復讐によって。正しい裁きによって。だから、躊躇うことなど、ないのだ。あるはずが、ないのだ。
なのに。
ボクは、夢を見る。暗闇に堕ちる夢。現から離れ、虚へと堕ちていく夢。浮かび上がる顔から必死の思いで顔を逸しつつ、ボクはどこまでも堕ちていく。堕ちて、堕ちて、現から離れていく度、心の休まるのを感じた。それは、現が強制するボクという存在から、ボクという認識装置を切り離す行為に他ならなかった。ボクはボクという意識から離れ、ボクを忘れ、やがてボクは、ボクでなくなる――。
それは、ボクの夢では、なかった。
(……くらい)
まっくら。まっくらやみ。何も見えない。自分も見えない。心も見えない。なんにも見えない、感じない。定まらなくて、自分がいるのか、いないのか、何かがあるのか、何もないのか、どれもこれもが曖昧で、曖昧という感覚すら、おぼろげで。ただ、漂う。不安はなかった。その代わり、安心もなかった。どちらも、なかった。
(あ)
何かがあたった。ボクのどこかに、何かが。それはどこだろう。それは背中だ。それはボクの背中だった。ボクにはどうやら、背中があった。背中を通じて、何かが在るを、ボクは感じた。感じるという感覚を、ボクは知った。
(きもちわるい)
それは、不快感。自分があるということへの。自分以外があるということへの。拭いようのない、いやな気持。背中があるを知ったボクは、胴があるを、腕があるを、足があるを、知っていく。ボクがあるを、知っていく。知の増えること、認識の増加することを、ボクはたまらなく、不安に思う。
(……でも、あったかい)
でも、不安だけでは、なかった。背中合わせのそれは、暖かかった。とくんとくんと、背中を通じて響く鼓動は、不安に怯えるボクの心を、穏やかな安心へと導いてくれた。ボクがいることは、相変わらず不安だった。ボクを考えることは、とても怖かった。ボクはボクを恐れていた。
けれど背中の先の何かは、ボクから離れなかった。押し付けるように背中を併せ、背中を越えて一つになりたがってでもいるかのように、くっついて離れなかった。ボクは、思った。背中のなにかも、ボクの鼓動を求めているのかも知れない。それならいいなと、ボクは思う。それならボクも、ボクがいることを許せると、そんなふうに思えたから。ボクがいることにも意味があるって、そう思えたから。そういうものと思えることが、うれしかったから。
(ずっと、こうしていたい。ずっと……)
ボクは背中を押し付ける。それも鼓動を返してくる。鼓動の交換。個別に巡る循環を互いの裡へ巡らす度、ボクはボクに鋭敏となる。ボクはボクであり、空間であり、時間であり、生命であり、背中のそれであった。ボクたちは、世界を巡る鼓動だった。ボクは、ボクという存在は、際限なく広がる自己であった。
そして、ボクは気づく。暗闇に、何かがいた。
(……なに?)
何かが蠢いていた。生暖かく、落ち着きのない息遣い。それが何か、ボクには判らなかった。でも、いやな感じがした。それがボクに向ける何かを感じて、逃げたい、怖いと、ボクは感じた。けれど暗闇は、無限ではなかった。それが、ボクに当たった。ボクが、切れた。斬られた。ボクの一部が、損なわれた。声が漏れた。声と共に、痛いを知った。
それはなおも、ボクに当たってきた。その度にボクは、ボクの一部を失っていく。ボクが削れていく。逃げ惑いながら、ボクは、思う。このまま失ってしまったら。このまま削られてしまったら、いつかボクは、なくなってしまうんじゃないか。ボクが、いなくなってしまうんじゃないか――。
(いやだ……いやだ!)
それは、ボクがこれまで遭遇したことのない恐怖だった。自分がなくなってしまう。それが何を意味するのかも判らないまま、とにかくボクは、その事実が恐ろしかった。それだけはどうしても、どうしても受け入れられなかった。ボクは、何があろうと、ボクを守りたかった。ボクはボクを守りたいボクだった。
(このままなくなってしまうくらいなら……殺されてしまうくらいなら、いっそ――!)
ボクへと当たってくるそれを、ボクは逆につかむ。切られる、削られる。けれどボクは、それを離さない。そうすれば終わると、そうすれば止まると告げる本能のままに、ボクは力を込める続ける。圧を掛け、筋を震わせ、溢れ出る液を拭うこともせぬまま、ただ一点に、力を込める。
そして訪れる感触。何かが致命的に途切れる、その。
(……いたい)
終わっても、動けなかった。何かを奪ったそのままに、ボクは動けずにいた。安心を得たかった。温もりを、鼓動を感じたかった。それだけが唯一、ボクの望みだった。
鼓動は、なかった。
(どうして)
どうしてと、ボクは問いかける。どうして、どうして、どうしてと。しかしボクは、答えに気づいていた。気づいていて、否定したかった。認めたくなかった。いまここで起きたことを、自分がしでかしてしまったことを、認めたくなかった。そんな認識はいらなかった。けれどいくら否定しても、起こしてしまった出来事は、ボクという自我へと至る認識は、冷えた背中を通じて、鼓動を感じぬ背骨を通じて、ボクを越えて、告げてくる。
ボクが、殺したのは――――。
何かがボクを覗いていた。暗闇のボクではなく、『那雲崎しるし』であるボクを。現の穴から虚へと紛れ込んだボクのことを、彼女は覗き見ていた。
(違う、ボクは、ボクはただ――)
泣き顔。大切な人を喪った、悲しむ人の顔。大切な人を奪われた、憎悪にまみれた人の顔。その顔が、その目がボクを睨む。“祖父の仇”を、睨む。
(下山さんボクは、ボクが那雲崎だって証明したくて――)
身体の下で、何かが動いた。固まった“ボク”の下で、ボクに止められた――殺された何かが、動いた。逃げようとした。身体が動かなかった。目をつむろうとした。まぶたが閉じなかった。耳を塞ごうとした。手はなおもその頚を絞めていた。それが、目を見開いた。目があった。
ねえあなた、よくも生きておられますね。
一四 那雲崎しるし
悲鳴を上げて、飛び起きた。動悸が激しい。全身を濡らす汗が、身体以上に心を冷やす。いやな夢を見ていた気がする。よく思い出せないけれど、とても現実感のある、とても、いやな、夢を。あの無限に思える暗闇で“ボク”が、何よりも大切であったはずの人を殺めてしまった夢を――。
隣の部屋から、物音が聞こえた。ハザマだろうかと思いかけるも、すぐにありえないと否定する。ハザマは殆ど物音を立てない。彼が音を発するのは、自分はここにいるとボクに知らせる時だけだ。ハザマではない。しかしハザマ以外に、ここへ入ってこれるものは一人もいない。こちら側で運び込んだ、ただ一人の例外を除いては。ベッドを降り、隣の部屋へと移動した。ボクの予想は当たっていた。
「相道ウロ、目が覚めたのですね!」
そこにいたのはやはり、相道ウロだった。相道ウロは一人で鍛錬を行っていたのか、裸になった上半身にはだくだくと汗が流れ光り、薄っすらと蒸気が上がっているのも見えた。壁に向かって蹴りを放っていたウロが、足を下ろす。
「……ここは?」
鍛え上げられた背中を向けたまま、彼が問いかけてくる。
「ボクの父が……那雲崎道民が『无』から隠れるために作った、秘密の地下室です」
「『无』から?」
「ボクの父は、移民法反対派の旗手でしたから」
結局、お父様を裏切った者の手によって役に立つことはなかったけれど。
相道ウロの背中を見る。手近にあったタオルを手に、彼の側へと駆け寄る。ボクの接近に気が付き、彼が振り向いた。
「それより、大丈夫なのですか? あなた、三日も寝続けていたのですよ? 急に身体を動かして、平気なのですか?」
「三日?」
彼の眉間が、険しく歪む。
「外はどうなっている」
「その……ボクも、ずっとここに籠もっていたので……」
「俺のことは、バレていないのか」
「それは、たぶん……だいじょうぶ、だと……」
「そうか」
そうかとつぶやいた彼はしかし、険しい表情を崩さなかった。その視線はこの地下の硬い天井を越え、地上へと向けられている。彼が何を見ているのか、ボクに見えるはずもないけれど、でも、検討は、ついた。胸が、ぎゅうと、痛んだ。
「あ、あのね、相道ウロ。聞いてくれますか? ボクが、その……あなたに、人殺しを依頼した理由」
話すべきではないのかもしれない。そう思いながらもボクの口は、自然と言葉を漏らしていた。
「ボクは、仇を討ちたかったんです。父の仇。保身の為にボクの父を、那雲崎道民を生贄に差し出した三人の老人に、ボクは復讐がしたかった。でも、本当の復讐相手は、この三人じゃない。他にいるんです。父の、真の仇の名は――『无』」
言葉は止まらなかった。吐き出さなければならない気がした。吐き出さなければ、耐えられない気がした。
「父を殺害した実行犯。この『无』を討つために、ボクはあなたに依頼をしたのです。三人の死体という撒き餌によって、『无』をおびき寄せる為に」
「……理屈が、判らない」
「説明します。本当はダメって言われていたけど、でも、聞いて、ほしいから……」
ボクの復讐劇に巻き込んでしまった、部外者でいられたはずのあなたに。
「あなたに、聞いてほしいから」
ボクは彼に話した。父が殺された経緯について。移民法の発案から端を発した、『无』との闘争について。長い時間を掛けて、ボクは、彼に、話し続けた。『无』という暗殺者。その暗殺者に狙われた父。被害を父一人に食い止めるため、結託して父を陥れた三人の老人たち。
父の死から数年経った後に、ボクはその真実を知るに至った。お祖父様がハザマに話しているのを、偶然耳にしてしまったのだ。ボクは否定して欲しい気持ちで、お祖父様を問い詰めた。けれどお祖父様は、あっさりとお認めになってしまった。自分たちが生き残るために、お父様を犠牲にされた事実を。そしてそう、お祖父様には、そのように認めざるを得ない理由が存在していたことを。
「お祖父様は――八重畑丑義は、つかんでしまったのです。『无』の、暗殺リストを」
お父様を殺した暗殺者。そいつはいまなお北東ヤ国に居を構え、人々に気づかれぬ形で暗躍し続けているのだと、お祖父様は説明された。やつは、いまも、この国の者を殺し続けているのだと。このリストで記された通りに。そしてそのリストには……お祖父様の名も記されていた。お祖父様だけではない。お父様を裏切ったもう二人の老人の名も、そこには並んでいた。お祖父様は、これを逆に利用する計画を思いつかれた。この、八百人という国のために。
お祖父様はお父様を裏切った人ではあるけれど、この国の未来を憂う真の国士であることもまた、嘘ではなかった。お祖父様は、決断されたのだ。自身の生命、そしてお父様を裏切った者達の生命を用いて、この国に巣食う癌――『无』の除去を行うという決断を。
『无』にはとある習性があった。獲物と定めた相手は、必ず自分の手で殺すという習性。当たり前といえば当たり前の習性かも知れない。けれどやつのこれは、ただの習性という度を越していた。『无』は、獲物の横取りを赦さない。横取りをした相手を、絶対に逃さない。例えそれが偶然の事故であろうと、容赦はしない。『无』の犯行と思しき事件で、しかし暗殺リストに記載のない者の数は、思った以上の数に上っていた。方々に顔の効くお祖父様の調査によって、これらのことが判明した。影すら踏ませなかった『无』なる者の、唯一見せた心理的瑕疵。
だからボクたちは、奴の獲物をかすめ取るのだ。『无』を、誘き寄せるために。更にその挑発行為が挑発としてより痛烈な効果を与えるよう、手口までもを模倣する。つまり、殺害対象の眼球摘出。『无』の敵意を究極にまでこちらへ向け、自制を欠いてその姿を顕にしたところを――。
「ハザマが、斬ります」
これが、計画の全貌。故に三人の老人の殺害を、ハザマが行うわけにはいかなかった。ハザマを『无』の注視する対象へするわけにはいかなかったから。そのために他の、人を殺せる者が必要だとお祖父様は言っていた。
「それで……選ばれたのが、あなた」
“神隠し”の元凶として、人を殺し埋め続けてきた、天狗。
「……」
相道ウロは、黙して語らなかった。その目はボクを見ず、何かを考えるかのように、軽く握った拳を口元に当てている。そんな彼を前に、ボクも黙った。黙る他に、なかった。話せることは話してしまったし……それに、これ以上、話したくない気持ちが強まっていた。話して、話して、話していく毎にボクは、否でも応でも自覚させられてしまったのだ。この計画に、ボク自身が存在していなかったという事実を。
相道ウロが、口元から拳を離した。
「それは、確実なのか」
「え?」
「横取りしたものを赦さないという話。それは、絶対に確実なのか」
「わ、わかりません……。でも、お祖父様はそう言っていました……」
始めから最後まで、全部を全部、決められたのはお祖父様だった。ボクは、お祖父様に頼りきっていた。復讐相手であるはずのお祖父様に復讐の計画を組み立ててもらって、それなのにそんなことにはまったく気づかず、ボクの復讐だと思い込み、実行者を気取っていた。実態は言われたとおりに跳ね回る、ただの道化のくせに。
こんなの、那雲崎じゃ、ない。
「もうひとつ、いいか」
「な、なんですか?」
「お前の従者は――ハザマは、『无』に勝てるのか」
「ハザマは負けません」
相道ウロが、微かに瞳を大きくした。被せるような素早い返答に、驚いたのかも知れない。でも、ボクの中から何より自然に出てきた言葉が、これだったのだ。僅かな逡巡も、なかった。
「ボクの道を阻む者がいたら、それがなんであったって斬り伏せてみせる。ハザマはそう言ってくれました。だから、ハザマは負けません。ボクの刃は、誰にも、絶対に、負けない」
「……そうか、判った」
ボクへと向き直った相道ウロが、今まで渡しそびれていたタオルをボクの手から受け取る。漂白されたタオルを顔面に被せた彼は、表情を隠したそのままの状態で、ボクへと問いかけてきた。
「那雲崎しるし。お前は標的が三人だと言っていた。始末したのは二人。残りは後、一人だな」
「……はい」
「最後の標的は、誰だ」
くぐもった声で彼は、繰り返す。
「俺は、誰を殺せばいい」
「相道ウロ、ボク……」
答えることは、簡単だった。
「ボク、変なんです」
簡単なはずだった。
「こんなに苦しいのに、涙がでないんです」
“偽物さん”。多々波さんは、ボクをそう呼ぶ。でも、多々波さんだけじゃない。多々波さんのように正面から言わないだけで、みんながみんなボクをそう呼んでいることを、ボクは知っている。
「この三日間ずっと、ずっと理由が判らなくて、気持ち悪くて。でも――」
偽物の優等生。偽物の那雲崎。偽物の――お父様の、娘。お父様とボクは、何もかもが違っていた。血の繋がりを、感じられない程に。
「ついさっき、判ってしまったんです。なぜかは判らないけれど、判ってしまったんです」
拾われ子だという噂を、自分自身で信じてしまいそうになる程に。
「ボク、“加害者”になってしまったんです」
ボクは、“偽物さん”じゃなくなりたかった。
「さっきボクは、仇討ちと言いました。でも、ほんとは、そんなつもりすらないのかもしれない。ボクはボクを認めたくて、お父様の娘だって信じたくて……そんなわがままのために、してはいけないことをしてしまったのかもしれない。そのせいでボクは、下山さんを……」
ああ、そうだ。ボクは夢を見ていたんだ。下山さんの夢を。下山さんのお祖父様を縊り殺し、可愛い後輩の彼女を泣かせてしまった夢を。夢へと再現された、現実を。
ボクは下山さんから、ボクにとってのお父様を奪ってしまったんだ。
「今更こんなこと、言うべきじゃないのかも知れません。でも、判らなくなってしまったんです。続けて、いいのかって。だって、“あの人”がいなくなってしまったらきっと、もっと多くの人が悲しむことになる。悲しむだけじゃない。どうしようもないことにも、きっとなる。大変なことになっちゃう。そんな、そんなの……ボクには、背負えっこない――」
「那雲崎しるし」
手を、つかまれた。
「手を下すのはお前じゃない。それは俺の役目で、お前が気にすることじゃない。お前は口にするだけでいいんだ。これまで通り、父親の仇を告げてくれればそれでいい。だから那雲崎しるし、教えてくれ――最後の標的は、誰だ」
彼の顔から剥がれたタオルが、はらりとゆるやかに落ちていく。ボクと彼の間を、計るように、揺れるように。そしてそれは、床の上ではさりと潰れた。相道ウロの手は、想像よりもずっと、力強かった。
ボクは――。
「相道ウロ。どうしてあなたは、人を殺すの?」
用意した上着を羽織った彼を地上へと送り出す際、ボクは尋ねた。深い意図があったわけではない。ふと、疑問に思ったのだ。そういえばボク、彼のこと何も知らないなと、そんなことを思って。だから、答えは期待していなかった。事実彼はちらとこちらを一瞥したきり、そのまま外へ出ていく素振りを見せたから。
けれど彼は、相道ウロはその途上で立ち止まり、背中を向けたままにつぶやいた。
「……俺は、色月にはなれない」
「色月?」
「すすぐに必要なのは俺じゃない。俺は、要らない。必要なのは色月だ。だから、殺すんだ」
「よく、判りません」
「色月さえいれば、いいんだ」
彼の言葉は、そこで途切れた。それ以上、何を話すような気配も見せなかった。けれど彼は、外へ向かうこともしなかった。そのままその場に立ち止まり、何も言わず、何もせぬまま、静止していた。ボクも、そこにいた。静止した彼の背中を、何も言わずに見続けていた。長い間、そうしていた。
「…………俺だから」
「え?」
微かな、声ともつかない声を、彼が漏らす。俺だから。彼は確かに、そう言った。そう言ったきり、彼は出ていってしまった。俺だから。弱々しい吐息とともに吐き出された、彼の言葉。きちんと聞き取れたのはそこだけだ。だからこれは、確証があるわけではない。だってこれが本当であれば、彼はおかしなことを言っていることになるから。でももし、もしもボクの耳の捉えた言葉がただの聞き間違いでなければ。彼はあの時、こう言っていた。
色月を殺したのは、俺だから――。
一五 田中中
「なにが、どうなってやがる……」
組長命令により全組員の総力を上げた八重畑丑義及び下山形建殺害犯の捜査を行い始めてから三日、それらしき成果は未だに一つも上がってはいなかった。双見は決して狭い町ではない。しかし、だからといって捜査の目が届かないほどの広すぎる町というわけでもない。いくら東との行き来が困難だとは言え、手がかりひとつ、痕跡ひとつ見つけられないこの状況は、異常という他なかった。
実しやかに囁かれるある噂。犯人は、『无』なのではないか。日を追う毎にその信憑性は増し、組員の中には怯えて捜査を放棄する者も現れ始めていた。自分がやらなくとも他の誰かが、幾度となくこの町を窮地から救ってくれた誰か――黒澤太平太がなんとかしてくれるはずだと、彼らはそう信じているようだった。そしてその数は、けして少ない割合ではなかった。
俺は、黒澤太平太を頼りたくはなかった。あいつが化け物であることは……認める。軽んじて、矮小化していたことも、認める。実際あいつは、すごいのだろう。すごく強くて、すごく大きい。だからこその、黒澤太平太なのだろう。でも、だったら。だったら親父は、何の為に死んだっていうんだ。あいつだけじゃない。親父だってすごいんだ。ほんの少し、ちょっぴりだけかもしれないが、親父の死だって、この町の安全と安定に貢献していたはずなんだ。そのちょっぴりまであいつに持っていかれてしまうのは、どうしても我慢がならなかった。そんなちっぽけな意地くらいは、俺にもあった。
それに俺には、当てがあったから。闇雲に犯人を探す他の組員とは違い、俺には見当があった。俺の狙いは、ただ一人に定まっていた。
相道純。
あいつだ。あいつが来てから、おかしくなったんだ。八重畑丑義の死と、あいつの双見到着は重なっていた。下山形建は、あいつが宿にしていた家に住んでいた。偶然とは思えない。仮に犯人でないとしても、あいつが無関係であることだけは、絶対にない。なぜなら――もうこの頚がずっと、尋常でない痛みを発し続けているから。
俺は相道純を追った。しかしその追跡は難航していた。形建の死後、奴は何処かへと雲隠れしていた。さらには淀んだ町の空気のせいか、“痛み”という俺のセンサー、このセンサーの機能が、ずいぶんと鈍ってしまっていた。余りにも痛みが強く、あらゆるところから発信されるため、ひとつひとつの判断がつかないような状態。呼吸も困難なこの状況で、それでも俺は諦めなかった。諦めるわけにはいかなかったのだ、この痛みを消すためには。
そして俺は、それを感じ取る。特に強い、強烈に頚を捻り絞める痛みを。相道純。奴だ、奴に違いない。俺は“痛み”に命じられるまま、その発信源へと急行する。それは西側で唯一入場を制限された地区、旧国軍基地から発せられていた。『屋無』のねぐらにあいつ、いったい何の用で。考える間もなく、必要な手続きを無視して俺はそこへと立ち入る。そしてそこで、俺は目にした――黒焦げにされた死体の、無数の群れを。
「『屋無』、か? こいつら……」
そこに転がる死体はどれもこれも判別など不可能な有様で、『屋無』の棲家という要素以外にこいつらの素性を探る手立てはなかった。そしてよく見れば人だけでなく壁や床も黒く焦げ、所々溶けかけているのが判る。火事……なのか? しかし普通の火事だとしたら、こんなに逃げ遅れがでるものだろうか。これはもっと、明確な敵意とか……殺意の下で行われた行為の果なのではないか。しかし、それが正しいといえる確証もない。考えようにも、材料が不足している。
それに、意識が少し朦朧としていた。基地の内部にはまだ熱が充満しており、酸素も薄いようだ。気にはなるが、あまり長居はしないほうがいいのかもしれない。どういうわけか、あれほど強烈だった頚の痛みもいまは薄れてしまっている。あれは、誤検知だったのかもしれない。相道純では、なかったのかもしれない。
とはいえ、これはこれで大きな事件だ。応援を呼んで、別件として捜査する必要はあるだろう。いや、あるいはここの捜査を進めることで、相道純につながる何かを見つけられるかも知れない。その公算は、きっと低くない。なら今は、引こう。おそらくそれが、最も賢い判断というものだ――。
そう思い、踵を返そうとしたその瞬間、“痛み”が再び、頚を襲った。
「ぃ、ぐぅ……」
痛みに呻き、思わず俺は、膝を付く。そのまま俺は、しばらくの間そこから動けずにいた。それほどの強い痛み――怒り。“怒り”に惑いながら俺は、それを発する場所を感じていた。だがそれは、奇妙な場所から発せられていた。その発信源は、下――地下から来ていたのだ。しかし、それらしい場所など、ここへ来るまでの間には見つからなかった。いったい、どういうことだ。
「……なん、だ?」
痛み〈怒り〉の発信源を探るうちに俺は、更に奇妙なことに気がつく。焼け焦げ、溶けた床。それらの部分部分になにやら、不自然な切れ目が生じていたのだ。切れ目。熱で歪んでこそ要るが、おそらく元は直線であったその亀裂。自然にできたものには感じられない。俺はその亀裂の周囲を、痛みをごまかすつもりで適当に探ってみた。すると亀裂は亀裂であった場所ごと、がたんと大きな音を立てて地下へと落下していった――いや、落下したのではなく、段々状の足場を作っていった。
隠し階段……?
痛みは、この先から来ている。行くべきではない気がする。痛みは危険の信号だ。本来は、近づくべきものではないのだ。それもこの痛みは、違う。痛み方が違う。相道純ではない。足場が開きより直接的に感じられるようになったからか、確信的にそれが判った。別件だ。これは、俺が追うべき相手じゃない。俺が、追うべきでは――。
「……確認、だけ」
痛みは、再び弱まっていた。というよりも、今はもう殆ど感じることもできなくなっている。もしかしたら、この痛みの発信源は弱っているのではないか。死にかけているとしたら、いまでないと助けられないのではないか。助けるべき相手かは判らないが、生死だけでも確認しておいた方がいいのではないか。色々と頭の中で考えを巡らせたが、とにかく俺は、階段を降りることに決めた。とにかく、はっきりさせたかったのだ。この痛みが恒常的に続くものかどうか、今後、俺に害を及ぼす可能性があるものなのかどうかを。幽霊の正体が、枯れたすすきであってくれればいい。そう思って。
狭く、薄暗い通路を腰を屈めて進んでいく。普段は使われていない道なのだろう。埃っぽく、くすんだ臭いがした。小さな咳を繰り返しながら、暗闇に閉ざされたその通路を、小銃に備え付けたライトで照らして進んでいく。そして、どれほど歩いた頃だろうか。通路の隅っこで壁に背をもたせた小さな人影を、俺は見つけた。
こいつが……?
上に居た無数の遺体同様、それもまた全身を焼かれ、黒焦げにされていた。それはぴくりとも動かず、すでに事切れているように見える。皮膚も髪も失ったそれからは個性らしき個性を見て取ることはできず、上の遺体の群れに紛れた瞬間判別は不可能になるであろうことは間違いなかった。ただ、一点。その足だけが、他と違っていた。正確には、足がないことが、だが。この遺体には、両足が欠損していた。元々足がなかったのか、この事件か事故かによって足を失うことになったのかは定かでないが。
結局、あの痛みの正体がこれによるものなのか、それとも他の何かなのか、それをつかむこともできそうになかった。無駄骨だったのかも知れない。俺はもと来た道を引き返すため、狭いその場でぐるりと旋回する。携えた小銃がつっかからないよう、角度を見極めながら。銃身に備え付けたライトが、ぐるりと暗闇に軌跡を描いた。途中、焼け焦げたそれの顔を直に照らし、思わずこみ上げかけた吐き気を堪えつつ。
うまいこと身体を回転させられた俺は、入った時よりも些か早いペースで引き返していく。
「う……あ……」
始めは、幻聴だと思った。なぜならここは真っ暗な上に狭苦しく、いかにも“何かでそうな”雰囲気を漂わせていたから。
「う、あ……あ、あ、う……」
幻聴ではなかった。それは確かに聞こえた。身体をよじって、振り返る。ライトの明かりが伸びる。その先には、あの両足のない遺体。遺体の口が、先程より開いているように見えた。
まさか、生きて?
「お、おい、あんた……生きてるのか?」
「あ、あ、あ……」
間違いない、生きている。こいつ、こんな状態で生きてやがる。同時、痛みが浮かび上がってきた。微弱な痛み。しかし、外界から遮断されたこの場所で鋭敏に研ぎ澄まされた俺のセンサーは告げている。上で感じた痛みの正体。それは、こいつのものだ。
「おい、大丈夫か。動けるか」
「あ、う……あ」
呻くばかりで、真っ当な返事はない。問いかけてはみたものの、動ける状態にないことは明らかだった。というよりも、いまこうして生きているのが不思議なほどだ。痛みが顕れたり消えたりしていたのも、こいつの意識が消えたり顕れたりを繰り返していたからだろう。しかしそれも最早、風前の灯だ。おそらくはもう、助からない。なら、やるべきは、救助じゃない。
「おい、何があった。聞こえるか、ここで何かあったんだ」
少しでも情報を得ておくことが、組員としての役割のはずだ。俺は黒焦げのそいつから情報を引き出そうとする。しかしそいつは呻くばかりで、言葉らしい言葉を発してはくれなかった。あるいはもう、俺がここにいることすら感じ取れないのかもしれない。そう諦めかけたとき――俺の脳裏に、ある名前が、思い浮かんだ。
「純……」
頚の痛みの、元凶。
「そうだ、相道純だ。この惨状は……相道純の仕業なんじゃないか?」
「……き、い、と」
反応が、あった。聞こえた。こいつ、いま、きいとと言った。
「そ、そうだ、純だ! 相道純!」
「きいと……きいと」
間違いない、こいつ、純を知っている。相道純を、知っている!
「やっぱりあいつか、あいつがここに来たんだな! そうなんだな!」
「きいと……きいと、きいと、きいと、きいとぉ!!」
「いぎぃっ!?」
い――たい!?
「国賊め、売国奴め、畜生め! 八百人は負けぬ! 八百人は滅びぬ! 八百人こそが国家! 八百人こそが神国! 此れなるこそが地も洋も統べし神なる国也! 遍く愚者を管理淘汰し、星河の極点に君する星体国家そのもの也!」
飛ぶ。皮膚が。肉が。焦げたそれが、飛び散る。
「八百人は絶対也! 八百人は永遠也! 八百人は不滅也! 相道純、相道純、相道純!! 貴様に、貴様らなどに、神国八百人が犯せるものか!! 畜生どもに、畜生如きに神国が、八百人が――」
血が、指が、目玉が。それ、そのものが。
「八百人が――――」
……痛みが、失せた。人であったそれはもう、人ではなくなっていた。人の形も、人の生命も、もう、なかった。俺は、確信した。狂いに狂った人であったものの残骸を見て、その妄執を受けて、俺は、確信した。
相道純。やつを、生かしておいてはならない。
一六 黒澤太平太
『来い、平太。次も俺の勝ちだ。それが嫌なら、全力で来い』
『腰を落とせ、平太。地を掴むお前の足は、何者であろうと倒せはせぬ』
(ゲン、師匠……)
『何度やっても同じだ、お前は俺に勝てない。勝負にもならない』
『黙れ、一度は負けたくせに。俺は負けない。誰にも負けないんだ』
(友為、純……)
この場所は、相道の稽古場は、わしにとって聖地だった。いまでもその気持ちに変わりはない。だが、お主たちにとってはどうだったのだろうか。相道の技を、生きるための術を身につける場所に過ぎなかったのだろうか。お主たちはもう、ここへは来ぬのだろうか。ここはもう、わしと共に朽ち果てていく遺物なのであろうか――。
「おじさま?」
「……いや」
郷愁も、過ぎればそれは、侮辱も同じ、か。
「なんでもない。それよりも、さっそく頼もうか、みつる」
そう言ってわしは、稽古場の畳の上にうつ伏せで寝そべる。直後、殆ど間を置かず、みつるの手がわしの腿を押した。弱すぎも強すぎもしない負荷が、強張った筋をじんわり解していく。心地の良さに、腿と言わず我が身すべてが弛緩していくのを感じる。
「しかしどういう風の吹き回しじゃ、お前の方から按摩させてくれとは。欲しいものでもあるのか」
「いやだ、おじさまったら。私、そんな現金な女じゃありません」
「ならば何故じゃ。よもや、ただの気まぐれという訳でもなかろう」
「……父を、夢に見たんです」
揉みほぐす手の動きを止めぬまま、みつるは話を続ける。
「私は特別、父を嫌ったことはありませんでした。反抗しようと思って反抗したことも、記憶の限りではなかったと思います。だから私、本当は祝ってほしかった。妊娠したこと。例え相手が、秘密のままでも」
「稜進とは、言えなんだか」
「あの人は、政治家を嫌っていましたから」
「……そうじゃな」
腿から膝裏、ふくらはぎへと、圧が移する。
「それでも、いつかは赦してもらるんじゃないかと期待していたんです。もういいから帰ってこいって、そう言ってもらえるんじゃないかって。でも、父さんが家を出て、そんな希望もなくなりました。純兄さんはあんなですし、いよいよ私達家族はバラバラで。それが、私、悲しくて」
「みつる……」
足首、踵。
「だから私、家族を取り戻そうと思うんです」
「みつる、じゃが――」
「それ以上言わないでください、否定しないでください。私には家族が必要なんです。家族がいないと、ダメなんです。おかしくなってしまうんです。だから私は、彼と約束をしました。だから私は、ここに来ました。だから私は、だから――」
足裏、指先。そして――その手が離れた、空白。
「だから、さようなら。いままでありがとうございました、太平太のおじさま」
……ああ。そうなることは、予測していた。振り向き、つかむ。驚愕に見開かれた、みつるの目。緊張に固まった身体。力の籠もった腕。握りしめた、手。鈍い――刃の、光。光を塞ぐ、わしの黒い血。
握りしめる。みつるの握る包丁が、ひしゃげ、砕けた。
「すまぬなみつる。わしはまだ、討ち取られてやるわけにはいかんのよ」
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