二九~三二

   二九 下山おもや

 書けない、何も、この二日……いや、今日で、三日目。日課にしていた日記を私は、どうしても書くことができずにいた。すすぐ――相道さんと月山で出会ってから、あの約束を交わしてから欠かさず記し続けてきた私の日記。あの場所での約束を忘れないためにと始めた、“生きてていい”の証明書。これまでにも、書きたくないと思うことはあった。気落ちして、書くのを休もうと思った日だって何度もあった。でも、そういう日でも、私は書いた。書きたくはなくても、書くことはできたのだ。今回は、違う。書きたくないんじゃない。書きたいのに、書けない。

 原因の当たりはついていた。相道さんだからだ。相道さんのことだから、書けなくなっているのだ。相道さんがウロさんを叩いていたところを見てしまったから。約束を忘れないために、私は日記を書き始めた。約束が果たされるその日を思い描きながら、書き続けた。彼女と再会するまでも、再会してからも、それは変わらなかった。私はその日を、待っていた。でも、もしその約束がないものになっていたとしたら? 約束を覚えているのが私だけだとしたら? その時、その時私は、いったいどこへ行けばいいというの――?

「あ」

「ん」

 ちなみが帰ってきた。どこを駆け回っていたのか、ずいぶんと汚れた格好をしている。

「……おかえり、ちなみ」

「……おうお前、いま帰ったぞ!」

「なに、その言い方。私はちなみの奥さんじゃないよ」

「いいじゃんいいじゃん、似たようなもんだろ!」

「もう、適当なこと言って」

 ちなみがからからと笑う。けれどその笑いにはどこか無理があって、乾いていて、長くは保たなくて。一人でいるときよりも険しい静けさが、部屋の中に充満する。昨日、あの盗人橋での一軒以来、なんだかちなみともぎくしゃくとしていた。表立って対立しているだとか、そんなことはぜんぜんない。ちなみも、それに私も、普段どおりに振る舞っている……振る舞おうとしている。その振る舞うという行為自体がもうすでにおかしいんだってことも、理解しながら。お互いがお互いを探り合っているような居心地の悪さ。そんな消化し難い感覚に苛まれながら私は、書けもしない日記を睨み続ける。

「あのさー」

「なに?」

「……わだちの散歩、もう行った?」

「行ったよ」

「そっかー」

「うん」

「……」

「……」

「……」

「……ちなみ」

「あーに?」

「お風呂沸いてるから、入っておいでよ」

「……えへ、やっぱ、臭う?」

「やっぱって……どこに行ってたのよ」

「……ま、お言葉に甘えさせてもらいますわね」

「……うん」

 やっぱり、どこか噛み合わない。がさごそと入浴の支度を行うちなみのことを気にしつつ、何も気になんかしていない、いつも通りを私は演じる。けれど、いくら演じた所で日記にとつぜん文章が浮かび上がってくるはずもなく。

 背後でぱんと、柏手の小気味良い音が響いた。

「父さん父さん、あたしは今日も健やかに生きました。だから……安心してな」

 肩越しにちなみを覗いた。金庫の前に座ったちなみの背中。それなりに大きな金庫。あれによって私の――いまはちなみと共用の――部屋はだいぶ圧迫されて、その異様もあって実際以上に窮屈な思いをしているのだけれど、だけど、「こんなもの捨てて」だなんて私には言えなかった。言うつもりもなかった。


『父さんが帰れなくなる!』

 ちなみがうちに引き取られると決まった時、ちなみはびっくりするくらいに泣き喚いて、大変だった。泣き喚いて、いやいや首を振り続ける彼女は、父親が残した金庫にしがみついていたのだ。その金庫が、父親そのものででもあるかのように。


『父さんがこれまで掻き集めてきた資料のそのすべてが、ここに保管されてるんだ』

 ちなみやちなみのお父さんは元から双見で暮らしていたのではなく、一〇年くらい前に余所から越してきた人たちだ。ちなみのお父さんはそれまでジャーナリストとして各地を飛び回っていたそうで、彼女のいう資料とはきっと、その時に集めたものなのだろう。けれどちなみは、その金庫を開けたことは一度もないのだという。「この中にはね、ヤ国どころか世界中をひっくり返してしまうくらい危険な情報も入っているんだ。決して興味本位で開けてはならないよ」と、ちなみは父から言われたそうだ。それをいまも、彼女は守り続けている。あの好奇心の塊である、ちなみが。

 金庫を通じて父親に祈りを捧げる彼女の日課。きっとこの行為も、ちなみにとっては意味のあることなのだと思う。ただ祈りを捧げるというのではない、秘められた、祈り以上の意味が、そこに。……私の、この日記と同じに。


 庭で、わだちが甲高く吠えた。一瞬遅れて、家の中から電話の呼び鈴が鳴らされる。

「あたし、出ようか?」

「いいよ。お風呂、冷めちゃうから」

「ん、そっか。じゃ、甘える」

 部屋から出かけていたちなみを追い越して、廊下に出る。呼び鈴は鳴り続ける。父が出てくる気配はない。きっと仕事場だろう。出ないなら、出ないでいい。鉢合わせないで済む。それにしても、こんな時間に誰だろう。少し身構えながら、受話器を取った。

「はい、下山ですが……あ、相道さん?」

 電話の相手はすすぐ――相道さんだった。

「……え? あ、うん。それは、構わないけれど……」

 感情を感じさせない、相道さんの声。けれど心なしか、どこかいつもと違うような気もする。

「うん、うん……判った。それなら、明日はその時間に」

 受話器を置く。……どうしよう。ちなみも誘った方がいいのだろうか。でも、いまはまずいのかな。ちなみも相道さんも、まだ顔を合わせるのに抵抗あるかもしれないし。本音を言えば、私もどんな顔をして会いに行けばいいのか判らない。でも、でも――彼女は言っていた。私と……わだちも連れてきてって。一緒に来てって。それって、そういうこと? 期待していいの? 本当に?

 本当に?

「あ! きーとさんの親友さんの娘さん!」

「え?」

 聞き慣れない声に呼びかけられ、一瞬、肩が強張る。

「あ、こんばんは……」

 振り返って、その人が誰か認識する。父が泊めることを勝手に決めた、確か……洞、四四さん。機嫌が良さそうに彼は、にこにことした笑顔を浮かべて私を見ていた。

「いまの、誰からっすか?」

「あの、学校の、友達からで……」

「友達! 友達、いいっすね! 友情も愛です! 愛は素晴らしいのです!」

「は、はぁ……」

 温度というか、湿度というか、彼の発する何かが私に触れる。なんだか、ずいぶんと距離の近い人だな。こんなこと思うのは失礼かもしれないけれど、ちょっと、苦手かもしれない。

「四四、困ってるのですよ。純さんから調査しておけって言われたんすけど、双見のことよく判らなくて」

「あの、私、宿題とかありますから……」

「それは大変! 手伝うですよ、友達として!」

「……え?」

「手伝いですよ! いらないっすか、四四の手伝いは?」

「いや、その……え、友達?」

「お名前を教えあったらそれはもう、友達じゃねーですか!」

 そういうもの? 私には、そうは思えない。

「私、やっぱりもう行かないと――」

「あ、待つのです!」

 逃げ出そうとした私の肩を、彼の手がつかむ。漏れかけた悲鳴は、ぎりぎりの所でとどまった。ここまで来ると、恐怖心も沸いてくる。けれど彼はそんな私の気持ちなどまるで意に介さぬ様子でにこにこと笑い、そして、こんなことを言ってきた。

「四四もお願いがあるのですよ。簡単なことです、面倒なことなんて何もなし。だから聞いてくれるっすよね、友達のおもやちゃん!」

 当たり前のように笑いかけてくる彼は、それから私がうんと頷くまで、肩をつかむその手を離しはしなかった。


   三〇 相道ウロ

 那雲崎の包帯男が見せた神速の剣閃。

 黒澤太平太が振るう無双の豪腕。

 そして、純――。

 俺は、弱い。力も、速さも、技術も……本物の怪物たちに及ぶところなどなにひとつなく、いつだって無様を晒している。あいつが、那雲崎の包帯男が本気で剣を抜いていたならば、すすぐはもはやこの世にいなかった。反応は、できたのだ。完全に見切ることはできなかったにしても、反応はできたのだ。だというのに俺は、あの時、避けてしまった。俺がすべきは、俺という存在は、そんなことのために永らえている訳ではないのに。

 全身に残るこの違和感。純は見抜いていた。壊れている。純はそう言っていただろうか。身体中を流れる血液が凝固し、ぎちぎちと、鉛の海へと引きずり込まれたような不自由で閉塞的な息苦しさ。気を抜けば瞬時に意識が抜け落ちそうになるこの感覚。

 あの日――あの日、月山で手を血に汚し、その証明足るいづちという女子の亡骸を埋めた直後から発生したこの症状。なぜこのような症状が俺の身に起こっているのか、原因は定かでない。どうすれば緩和できるのか、治せるものであるのかさえも、判らない。もし、もしも。もしもこの症状さえ発生していなかったなら、包帯男の時も、太平太の時も、純の時も、もしかしたら――。

 言い訳だ。圧倒的な力さえあればこんな不調など、なんの関係もなくなる。純ならこんなこと、言い訳の材料になどしない。鍛えなければ。もっと強く、俺はもっと強くならなければならない。贖罪のために。勝つために。あいつに……人智を越えた天狗、相道純に――――。


『彼に勝てるだなどと、本気で信じているのですか?』

 ……声。

『あなたは知っているはず。あなた自身を。あなたがどのような存在であるのかを』

 あの時の、声。

『そうでしょう? だってほら、今だって求めているではないですか』

 動かない、身体。

『助けを』

 出ない、声。

『あんなにも後悔したのにね?』

 ……見える。

『あんなにも苦しんだのにね?』

 見える、見える。

『ねえあなた』

 あの時の、己の――。

『よくも生きておられますね――?』


 罪。


「黙れぇ!!」

 気配。人の――現実の。動く、身体。目。認識する。人――車椅子。

「……お邪魔だったかしら」

 すすぐ。そう声に出そうとして、うまくのどが機能していないことに気づく。呼吸が荒い。汗も。動揺は、思っていた以上に身体の内部を揺さぶっている。情けない。あんな幻影に――死人の幻影などに、いいようにされて。

「……眠れないのか?」

 絞り出して、いう。庭先で、電気も点けていない。薄暗闇。すすぐからは、俺の変調は見えていない。見えていないはずだ。動揺を気取られてはいけない。それは、すすぐの負担になる。

「そういうわけじゃないの」

「……どこか、おかしいのか?」

 薄暗闇の向こうで、すすぐが首を横に振る。おかしい。普段のすすぐではない。全身の毛穴が収縮する。頭の中が、嫌な想像で埋め尽くされる。……ダメだ。そんなことは、ダメだ。

「待っていろ、いますぐ色月を――」

「ウロ!」

 身体が固まる。まさか。どういうことだ。すすぐが、あのすすぐがこんな、大きな声で。

「……明日、下山のお仕事、お休みできない?」

「なん、でだ」

 車輪が回る。草を噛む。薄暗闇から、すすぐが来る。車椅子ごと、俺の前へと。

「……その、ウロがよければなんだけど。あの、そのね、ウロ――」

 もうしばらく、しばらくのあいだ覚えのない距離で、すすぐが俺を、見上げた。

「私と、デートしない?」


   三一 下山おもや

 双見の中心に位置する北と月の双子の山は、元々禁域に指定された霊山だったそうだ。山は神と神の代弁者である『息重』の方々の為の領域であり、その霊力の妨げとなるため一般の町民は踏み入ることを完全に禁じられていた。唯一登山が許されていたのは神職に連なる者のみで、双見全体を脅かすような大事件が迫ったり、双見存続に関わる重大な決断を下さなければならない時などに、神職に連なる者は麓の代表として山を登った。神と、神の代弁者である『息重』の方々へお伺いを立てる為に。とはいえその陳情すらも日を跨いでの逗留は許されず、足を踏み入れたその日のうちに下山することが義務付けられていた。神秘性というか、神威性のようなものを守るため、そのように徹底していたのだと思う。

 時代が下り、かつて『息重』であった方々が次々に麓へと降りていったことで当時の厳格さは薄れてきたものの、その名残自体はいまなおこの地に残っている。町の人、特に信心の深い年配の方々などは用もなく山へ登ろうとはしないし、殊に最後の『息重』が数年前まで存続していた北山など、滅多なことでは……いや、滅多なことがあろうと近づくことはない。

 それはこの双見に伝わる信仰、『廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る』という、神身回帰の教えにも色濃く残っている。双見に生まれた者はその生を終えた後、山――即ち神の身の裡へ還り、ひとつとなり、やがて分かれて再び双見に生まれ直す。そういう信仰が、双見にはずっとずっとの大昔から伝わっている。

 双見には二神で一柱の神様がいる。北俣女ノ神様と、月俣男ノ神様。その名が冠する通り北俣女様は北山を、月俣男様は月山を司っている。そしてこの双子の神様は双見の者の亡骸をその身に抱くことで双見を循環されているのだけれど、『息重』の方々は死後、北俣女様に抱かれ、それ以外の双見の者、つまり双見の大多数の人々は月俣男様に抱かれると決まっている。『息重』とそれ以外の者とでは、死後に行き着く場所が違うのだそうだ。なぜそのような違いが生まれたのかは定かでないけれど、とにかく、そうした区分けの感覚はいまの双見にも通底している。

 私も、北山へ入ったことはない。誰かに止められたという訳ではないのだけれど、北山の側へ寄るとなんとなく、言い表しようのない座りの悪さを覚えてしまうのだ。信仰心の薄い私ですらそうなのだから、何十年と双見に住んできた人はなおさらなのだろう。

 私は信仰心が薄い。時には神様っているのかもしれないと思う時もあるけれど、絶対にいらっしゃる、常に私達を見守ってくださっているだなんて、そんな強い気持ちで断言することはできない。祖父は信心深い人だった。けれど母は双見の外から嫁いできた人で、父も信仰については曖昧な態度を取っていた。私のこの態度も、そうした両親の影響を受けているのかもしれない。だから北山には近づかなくとも月山には抵抗なく踏み入るし、自然に生っている果実をもぐことだってできる。そこに神様への感謝や畏怖という観念は、殆ど存在しない。

 それに、それに――私はここで、出会ったから。北俣女様や月俣男様、出会うことも、見ることもできない信仰の対象ではなく、現にこの世に顕現された私の神様、私だけの神様と。“生きてていい”を教えてくれた、女の子の姿をした車椅子の神様と。

 一度は疑い、失いかけた信仰。でも、もしかしたら。もしかしたら、もしかしたら……私は私の神様に、もう一度、今度こそ、今日こそ、会うことができるんじゃ、ないかって――――。


「……あの、相道さん」

「なに?」

「えっと……登山は、楽しい?」

「四四は楽しいっすよ! おいしい空気! 一面の緑! どこからどう見ても山、山、山!」

「……」

「……」

 相道さんの返答を横から奪い、洞さんが上機嫌に山、山、山と拍を付けて口ずさむ。

 ごめんなさい、とは言えなかった。だってここでごめんなさいと言うことは、暗に洞さんの存在が邪魔だと公言することになってしまうから。それはさすがに、失礼なことだと思う。……この人に、そうした嫌味や皮肉が通じるのかは疑問だったけれど。

 私たちはいま、月山を登っている。相道さんに誘われて。昨日相道さんから掛かってきた電話の内容とは、一緒に月山へ行かないかというものだった。わだちも連れて、と。その誘いは連日の出来事に沈みかけていた私の期待を駆り立てるのに充分なものであったし、何よりも相道さんの方からこうして誘ってくれるのは初めてのことで、単純にそれがうれしくもあった。問題はその後だ。洞さんからの「お願い」。

 洞さんはお仕事の関係か何かで双見を調査したいらしく、案内してくれないかと頼んできたのだ。その時にはすでにこのよく笑う人への苦手意識を抱いていた私は、うかつにも断る理由として相道さんから誘いを受けたことを口にしてしまった。山を登る。その一語に強い興味を示した洞さんは、自分も着いていくと言って聞かなくなってしまった。子供のように、駄々をこねて。

 もちろん断ろうとはしたのだ。けれど、どうしたって洞さんは私の敵う相手ではなくて。結局私は断りきれず、暗い心持ちのまま洞さんを伴い、待ち合わせ場所の越掛橋こえかけばしへ向かった。先に越掛け橋に着いていた相道さんは少し目を開いて驚いたような素振りを見せていたけれど、それ以上、洞さんのことについて触れてくるようなことはなかった。それが却って、つらかった。

「ウロくんは、普段からあんなふうに稽古? 修行? 特訓? してるですか?」

「まあ、うん」

「すげー! かっちょいー! また四四にぐるぐるすぱーんっていうの教えて欲しいですなー!」

「それは、ちょっと……」

 どこへ向かうかも聞いていないのに先頭を切って両手両足をぶんぶん振っている洞さんが、今度はウロさんに絡んでいる。強い反発こそ示さないもののウロさんも明らかに困惑している様子で、けれど本人はそのことにまったく気づかず、ある意味すごいなあと感心してしまう。ちなみとはまた違った押しの強さだ。

 その後も洞さんは一人で話し続け、時に私に、時にウロさんに、時にはわだちにまで返答のしづらい話題を振ってきた。なんだか心なしか、わだちまでもが困惑しているように見えた。これでは何のために月山を登っているのか、訳が判らない。だいたい肝心の相道さんとウロさんが、まだ一言も口を聞いていないのだ。二人の距離も離れていて、ウロさんは洞さんと同じく先頭を、相道さんは最後尾から付いてきている。それに――。

「色月さん、大丈夫ですか?」

「うん……ありがとう、すすぐちゃん」

 相道さんの車椅子を押しているのは、色月さんだった。相道さんの、もう一人のお兄さん。ウロさんの、後からできた。

 私はてっきり、ウロさんと二人で来るものと思っていたのに。

 色月さんが嫌いという訳ではなかった。おじいちゃんのこともあるから。おじいちゃんと話をできるという色月さんの超能力が本物であるのかどうか、それは私には判らない。おじいちゃんは、少なくとも私には何も言ってくれないから。だけど、気の所為でなければだけど、彼が来てからおじいちゃんの血色がほんのりよくなったような気がするし、何より私は、信じたかった。おじいちゃんが、大好きなおじいちゃんが、あんな姿でも、寝たままであっても生きて、私のおじいちゃんでいてくれているってことを。だから私は、色月さんに感謝していた。事実はどうあれ、そう信じられるだけの余地を与えてくれたことに。

 だけど今日は、今日だけは遠慮してほしかった。洞さんを連れてきてしまった私が言えた義理ではないけれど、あの約束は、私と、相道さんと、ウロさんと、わだちと――三人と一匹のものであるのだから。

 彼女の、名前を返すという約束の。

 相道さんは、色月さんにばかり話しかけている。ウロさんは、洞さんの攻勢に当惑しつつも振り返ることなく登り続けている。二人を交互に見て、私は思う。結局、私の早とちりだったのかな、と……。

「色月さん!」

 相道さんの叫び声。何事かと振り返ると、車椅子を押していた色月さんがひざをついて崩折れてた。

「どうしたですか?」

 彼の側にこの場にいた全員が集まる。ウロさんが近くにあった大きな木へと、色月さんの背をもたせる。白い顔。唇もかさかさで、そこから漏れる息も薄い。明らかに尋常な様子でない。

「目眩、かな。ちょっとだけ気分が優れないみたい」

 そう言って彼は微笑んだのだけれど、その笑みは痛々しさを増すばかりで。苦しんでいると言うよりむしろ、苦しみから抜け出そうとしているような、そんな印象をいまの色月さんからは受けた。なんというか、もう……快復することを諦めているような、そんな、気配が――。

「……みんな、ごめんね。すぐに追いつくから、先に行っててもらえるかな」

「バカなことを言うな!」

 先に行ってという色月さんの言葉を、間髪置かずに否定したのはウロさんだった。怒ったような、きつい口調。私は、ウロさんのことはそんなに知らない。父の職場で働いている所を遠目に眺めたり、相道さんと一緒にいる所を何度か目にしたくらいで。けれどそんな僅かな経験の中でも、彼がこのように声を荒げる人だとは想像しにくかった。ウロさんの色月さんに対するこの態度は、だから私にとって意外なものに感じられた。それだけ色月さんの容態を、余談の許さないものだと感じたのかもしれない。

「……わだち?」

 どうしたのとでも言いたそうに色月さんに鼻を押し当てていたわだちの耳が、ぴんと鋭い三角形を描いた。と思うと機敏な動作で首を動かし、足を動かし、アンテナのように耳を回し始める。そしてアンテナが、鼻が、身体が一点に向った瞬間、わだちは激しく吠え、更には遠吠え、遠吠えたかと思うと――。

「ちょ、ちょっとわだち!?」

 急に、走り出した。宙に浮かんだ引綱をつかもうとするも指は無情にも空を切り、自由を得たわだちは気づけば無数の木々を越えた遥か彼方へと去ってしまった。……まるで、いつかのあの時のように。

「四四が見てるっすよ!」

「……頼む!」

 ウロさんの動きは早かった。洞さんの言葉に応答したかと思ったその次の瞬間には駆け出し、更にその次の瞬間には何処へ消えたのかその痕跡する追えなくなっていた。

「下山さん!」

 斜面上に在りながら自力で車椅子を動かした相道さんが、私の手をつかむ。

「お願い、私を連れて行って!」

「あ、でも……」

 色月さんは――。

「おもやちゃん、ぼくなら大丈夫だから」

「早く行った方がいいっすよ!」

 蒼白な顔をした色月さんと、色月さんの傍らに座る洞さんが、揃って私に行けと促す。私はそれでもどうすればいいのか判らずその場でまごついていたものの、相道さんから「下山さん」ともう一度呼ばれ、彼女の目を正面から見た時……意を決した。色月さんのことを洞さんに任せ、相道さんを押しながら私は、わだちを追って山を駆け上った。


「わだち!」

「わだちー!」

 相道さんと声を併せ、わだちに呼びかける。返事はない。更に登って、声を上げる。わだち、どこへ行ったの。不安が募る。この月山は“一部”を除き傾斜は緩やかで、そうそう危険な目に遭うこともない。まず大丈夫なはず。わだちだってもう、いいお嬢さんなのだから。そう思い込もうとしても、どうしたって不安を拭い去ることはできない。いつかのあの日、脆く崩れかけた壁面にしがみついていたわだちの姿が思い起こされて。

 ウロさんはもうわだちを見つけ出せただろうか。あの足の早さ。追いついていたとしてもおかしくはない。けれどわだちも相応にすばしっこいし、あの体高だ、ウロさんには通れない道だって簡単に通れてしまう。あの子がその気になれば、逃げることはきっと容易だ。それにしてもわだちは、どうして逃げ出したりなんかしたのだろう。あの時は……前は確かに、逃げるだけの理由が彼女にはあった。でも、今日は違う。今日は、今は、私は――あの時あなたを月山へ連れてきた時の私とは、もう違う……そうでしょう?

「……下山さん!」

 相道さんが声を張り上げた。顔を見合わせる。気の所為ではない。聞こえた、犬の鳴き声。そう遠くはない。私は車椅子をつかむ手に力を込め、全速力で鳴き声のする方へと走っていった。走って、走って、その間に、周囲の景色から理解する。自分たちがどこへ向かっているのかを。先の戦争で受けた空爆の爪痕。神宿る霊山に残された、痛ましい傷。この月山において唯一といってよい、危険な場所。崖化した、禿げた壁面。

「わだち!」

 果たしてわだちは、そこにいた。わだちは吠えていた。一点を――壁面の一部を凝視しながら。今回わだちは、壁面にしがみついてはいなかった。彼女は無事だった。そのことに一度は安堵するも、彼女が吠えるその理由を知って、私達の間に再び緊張が走った。

 子犬が、壁面に。

「ど、どうしよう! どうしよう相道さん!」

「……」

 全身をいっぱいに伸ばして壁面にしがみついている子犬の下は遮るもののない空間で、もしそこから落ちれば子犬の柔らかな身体であろうとひとたまりもない。その姿が、光景が、重なる、被る。当事者として居合わせた、あの場面。あの時は、私、どうしたのだったろうか。そうだ、そうだ。私は何もできず、叫んで、泣いて、立ち尽くして――目をつぶって。子犬の――わだちの身体が、為すすべもなく剥がれた岩壁共に投げ出されるのに、何もできずにいて。そう、今正に、目の前で起こっているように。子犬の身体が投げだされて、落ち――。


「ウロ!」


 今度は私も、それを見た。

 髪結い天狗が、空を跳ぶ。

 風に乗って、宙を蹴る。

 ああ、そうか。

 いつかのわだちも、こうだったんだ。

 こんなふうに、救われたんだ。

 いつかの、私も――。


 ウロさんが着地する。落下しかけた子犬を抱えて。わだちがウロさんの側へと駆け寄る。

「ウロ、その子を」

 相道さんが、ウロさんに向かって手をのばす。相道さんの腕の中に、胸の中に、子犬が移される。子犬は目をつむったままだった。目をつむったまま、動かないでいた。知らず、手が心臓を、つかむ。

「……大丈夫、大したことない。びっくりして、ちょっと気を失っているだけ」

 手際よく子犬の様子を調べた相道さんは髪に巻いていたりぼんを解き、血の滲んだ子犬の足にそれを巻いていく。薄い黄色に、じんわりと朱が浮かぶ。そこの朱をこそ労るように、相道さんが子犬を撫でる。子犬を撫でる彼女の顔に、笑顔はない。あの時の、あったかくて、安心を覚えるような笑みは。お母さんのことを思い出した、あの笑みは。でも、でも――。

「ねえ、ウロ」

「ああ」

「覚えてる? 私たち、こんなこと」

「……ああ」

「ずっと、ずっと前にも――」

 相道さんの言葉は、途中で途切れた。「いつっ」という、小さな悲鳴。意識を取り戻した子犬。その子犬が、相道さんに、噛み付いていた。

「ウロ!」

 鉤型に曲げられた指。子犬の頭の、わずかに上で静止した。

「ダメ、ウロ。この子は――」

 ああ、それは。

「この子は生きようとしているだけなんだから」

 その言葉は――。

 そうだ。この子は生きようとしているだけ。懸命に、自分を守ろうと。この子がしているのはただ、それだけで。だから、気づいてしまえばもう、必要はなくなる。敵ではないと、生命を脅かす者でないと気づいたなら。

「……いい子」

 噛まれた箇所から浮き上がる玉のような血の滴。抱えられた子犬は一心不乱にその朱を舐め取っていた。犯してしまった過ちを、どうにかして償おうとでもしているかのような懸命さで。相道さんはなにも言わず、なにもせず、ただ子犬を見つめていた。それで……あるいは、光の加減かもしれない。でも私には、相道さんが薄っすらと笑っているように見えて。

「この子、どうしよう」

「あ、あの! あの!」

 困っているようなニュアンスの言葉を、まるで困ってなどいないような口調でこぼした相道さん。あの時は、どうだったろう。あの時は、わだちを助けて、わだちと出会って、彼女は何を求めていただろう。そうだ、そうだった――。

「名前を!」

「名前?」

「……あの、名前……とか、どうでしょう?」

「名前……」

 そうだ彼女は、わだちの名前を聞いたんだ。わだちがわだちと呼ばれるのを知って、いい名前だねって笑ったんだ。だったら、だったらこの子に名前を付けてあげれば――。

「下山さんは、何かある?」

「え?」

 そう返されるとは思っていなかった私は、慌てて頭を働かせる。名前、名前、名前。それもただの名前ではなく、“いい名前”と言われるような名前。いい名前、いい名前……いい名前って、どうすれば付けられるんだろう? そもそも名前って、何を考えて付けるものなんだろう? ……私の名前は、どんな意味を込められて? 後ろめたさのような感情が、私の裡に顕れた。名前をつける。これって実は、軽々しく決めていいようなことなんかじゃない、この子のこれからを左右してしまう一大事なんじゃないかという、そんな怯えにも似た感情が。

「えっと、私は……相道さんは、どう?」

「私? ……私は、うぅん」

「……グノ」

 私と同じように気後れするような様子を見せていた相道さんの隣で、ウロさんがぽつりとつぶやいた。グノ。たぶん、この子の名前としてつぶやいた、その言葉。

「ウロ、どういう意味?」

「いや……」

「あの、私、いいと思います。強そうな響きで、なんだかこの子にあってる感じがして」

 お世辞ではなかった。グノ、グノ、グノ。なんだかすごく、しっくりくる。グノ。まるで最初からこの子のためにあったような名前だと、そんなことを思ってしまうくらいに、この子はぴったり“グノ”だった。

「……うん、そうね。私もそう思う。いいと思う」

 相道さんが賛同してくれたことに、私の心は跳ね上がる。だって彼女は、麓の彼女よりもずっと穏やかで、柔らかで……だってまるで、まるで――。

「グノ。あなたはグノ。ねえグノ、あなたはこれからどうしたい?」

 もしよかったら……相道さんがそう言いかけた、それはその直後のことだった。

 背の高い木々の、伸ばされ重なり合った枝葉が一斉に、かさかさと触れ揺れあった。振動。皮膚を通過し、更に奥の肉体的でない部分が直接揺さぶられる。それは、遠吠えだった。彼方より響く呼び声。境界の向こう側から伝導する、こちら側への干渉。反響して、何処から発せられたのかも定かでないその振動に、応えたのは私でも、相道さんでも、ウロさんでもなかった。

 遠吠え。すぐ側から。相道さんの、腕の裡から。幼く未熟な「きゅうきゅう」という不完全なそれは、口を首をいっぱいに尖らせたグノが、喉と犬歯を震わせながら発しているものだった。それは遠吠えと言うには弱々しすぎて、それが持つ本来の役割を担うには至っていなかったかも知れない。それでもグノは、訴えていた。一生懸命、「ぼくはここにいるぞ」と、自身の生を声高らかに宣言していた。

 グノは、生きていた。

 視界の端で、私はそれを見る。すすぐさんの、グノを抱く腕がきゅっとわずかに縮まるところを。

「すすぐ」

「……判ってる。この子にとっても、それが一番だものね」

 相道さんが、ウロさんにグノを渡した。渡されたウロさんは、じたばたと手足を動かすグノを地面へ着けた。地面へ降りたグノは、身体をよろけさせた。慌てたようにわだちが、支えになろうと頭を近づける。けれどその支えを受けることもなく、グノは自らの立派な四肢によって立脚する。広げた四肢で、しっかと土を踏みしめる。

「またね、グノ」

 歩きだしたグノは、振り返りはしなかった。振り返るその労力すら惜しむかのように真剣に大地へ向かい、大地を蹴った。一歩、一歩、しっかり、しっかり。私達は全員でグノの姿を見送り、やがて、その姿も見えなくなった。グノの足に巻かれた薄黄色のリボンごと、彼は、境界向こうのあちら側へと帰っていったのだ。彼らの領分、彼らの在るべき場所へと。

「すすぐ、俺たちももどろう」

 グノの去っていった方を見続けていた私達に、ウロさんが言う。そうだ、わだちは見つかったのだ。もうここにいることはない。色月さんのこともあるし、急いでもどった方がいい。殊に、相道さんは心配なはずだ。彼女が色月さんを特別に想っていることは、部外者の私にだって筒抜けなくらいなのだから。だから私は、相道さんも二つ返事でウロさんの言葉にうなづくものと思っていた。

「いいえ、ウロ。行きましょう」

 だから相道さんのこの返答に、私は思わず「え」と口にしてしまう。

「……いいのか?」

「ええ。色月さんは大丈夫って言っていたもの。きっとすぐにも追いかけてきてくれる」

「……すすぐがいいなら、俺は従うが」

 そう言いながらウロさんには、何処か納得しきれていないような様子が見られた。二人がどういう関係なのかは私にはよく判らないけれど、色月さんのあの様子、心配するのも当然だと思う。私だって心配だ。だけど相道さんの言う通り、彼は大丈夫と言っていた。その言葉を信じないほうが、もしかしたら失礼にあたるのかもしれない。それに――。

「私も、相道さんの意見に賛成です。行き違いになってしまう可能性もありますし、上で待っていた方がいいかなって」

 ウロさんが私を見る。彼の目にはやはりどこか不満が宿っているようにも感じられたが、けれど彼は、最後にはうなづいてくれた。ウロさんが、相道さんの車椅子を押す。引綱を握り、私はわだちとその後を追う。

 色月さんは追いかけてくる。大丈夫。心配ない。それは、都合の良い考えかもしれない。本当はもどって、早く彼を麓まで連れて行くべきなのかも知れない。けれど私は、この機会を逃したくなかった。あの時交わした約束が果たされる、その瞬間を。いま再び神様とまみえるその瞬間を。

 相道さんがすすぐにもどる、その時を。


   三二 相道色月

「そうだ、お前は死ぬ。一片の紛れもなく、確実に」

 彼女からそう告げられた瞬間、ぼくは「ああ、やっぱり」としか思わなかった。覚悟はあった、ずっと前から。だってこれは、ぼくがいまのぼくと成った時にはもう、決まっていたことだろうから。だから、驚きはなかった。驚きはなく、ただ……いろいろなことが思い起こされて、止まらなかった。次から、次から。

「だが」

 なによりも、彼のことが。

「例外が、ないわけではない」

「いづち?」

 彼女の――いづちの頚に巻かれたマフラーが風にはためく。アイさんに編んでもらった、彼女のトレードマーク。ぼくの赤と、対をなす青が。

「お前が真に生きることを望むというならば、私はお前の力になれる」

「それは、どういう――」

「『廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る』」

「双見の……?」

「そう、双見に伝わる神のこと。しかしこの言葉は、ただ双見における信仰を表したものではない」

「……うん」

「世界とは正にこれだ。これで在る。いや、ただこれで在るに過ぎない」

「それは、君の……」

「そう、私の悲観だ。その悲観に囚われたからこその現状であり、この現状という現象こそが何よりのイレギュラーであるといえる」

「……」

「私とお前は例外なのだ。本来この世に在りえぬ例外。偶発的に生まれた、しかし何の力も持たぬ世界の欠片。だが欠片であるからこそ、取りうる手段というものもある」

「いづち、君は――」

「そうだ。もしお前が生き続けることを望むというなら、私は、お前に――――」


「さあ、色月」

 彼女が、土から出でたいづちが、ぼくに向かって手を伸ばす。

「お前は、どうしたい」

「ぼくは――」

 伸ばされた手を、ぼくは見る。一つの救いとして差し伸べられた、その手を。その手を見ながらぼくは、自らの心に問いかける。ぼくは、どうしたい。――悩むことなんて、なにもなかった。だっていづち。ぼくの望みは、最初から決まっているのだから。

 ぼくは――――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る