二五~二八

   二五 田中中

「純? 純ではないか!」

「げっ、黒澤の親父さん。どうしてここに」

「相道の稽古場はわしにとっての聖地じゃ、日頃から参っておる。それよりお主、なぜ顔も出しに来ぬ」

「いや、避けてたわけじゃないんですよ? でも親父さん、顔合わせたらどうせ手合わせしろって言うでしょ」

「無論じゃろう。わしらは相道じゃ」

「ほら、だからそれが嫌なんだって。俺はごめんですよ。負かして自信を無くされんのも、負けて自信を無くすのも、どっちもごめんです」

「何を甘えたことを……それでもお主、ゲンの子か!」

「血はつながってませんよ、生憎ね」

「血の有無ではない!」

「ああもう、これだから……。それより親父さん、何か用があったんじゃないんですか? 俺に会いに来た訳じゃないんでしょ?」

「む、その通りじゃが……丁度良い、純、お主も立ち会え」

「立ち会えって、いったいなんの話――」

「き・い・と・さーん!! 四四っす! 四四登場ですよー!!」

「何だお前飛びつくんじゃねぇ、宿酔いに響くだろうが」

「ふぉう」

 わっはっはと笑う黒澤親分が、稽古場とか呼んだ建物へと入っていく。町の外れで武術を教えている道場だかがあると聞いたことはあったが、これがそうか。こうして目にするのは始めてだ。周りに川と田んぼしか無いようなこんな場所、用もなしに訪れたりはしない。

 古ぼけ、味も素っ気もない木造りの建物。黒澤親分の背に隠れるようにして、中へと入る。入っていいと言われたわけではないので多少躊躇いもあったが、待ちぼうけているのもアホらしい気がしたのだ。そもそもの話、なぜ俺はここにいるのだろう。なぜ随伴を命じられたのだろうか。意味あんのか、俺がいて。無関係だろ、どう考えても。そうは思うものの、「俺には関係ないんで帰ります」だなんて言い出せる度胸が俺にあるわけもなく。頚をさする。黒澤親分を盾にして位置を取り、可能な限り“あいつ“を視界に収めないよう腐心する。

「で、四四の野郎なんか連れてきて親父さん、何をするつもりなんです」

「この者がみつるに求婚したと聞いてな。少し、試す」

 ……あ? なんだよ、こっち来んなよ。純の野郎に追い払われた四四が、俺の方に近づいてくる。

「え? ……あ、あーあーあー」

「なんじゃ純、お主も知っておるのか?」

 なんで隠れてるかだって? うるせえ、俺に構うな。あ、こら、じゃれつくな。袖を引っ張んな、頭を叩こうとすんな。なんでそんな馴れ馴れしいんだよてめぇは犬ころかなんかか。

「まあ、現場にいましたからね」

「なぜ言いださん」

「いや、言わないでしょ。あいつだって大人だ。わざわざ干渉することでもないですよ、ましてや血のつながらない兄貴なんかが」

「また血などと……まあよい。洞くん」

「ふぉ?」

「……なにをしているのかね?」

「暇だからアタルで遊んでたっす!」

 ……遊ばれてたっす。

 黒澤親分がひとつ、咳払いをした。

「洞くん、武術の心得はあるかね?」

「武術? パンチパンチキックキックっすか?」

「まあ……そうじゃな」

「さっぱりですねー! あでも、昨日ウロくんからちょっと教わったですよ! ばっきーんのぶっちーんでもだもだしましたがー!」

「ばっきーん……?」

「ちょっとした脱臼ですよ。みつるが治して、いまはなんともないはずです」

「ああそうか。いまいち理解しきれんな、彼の言葉は」

「ふぉーん?」

 言葉だけじゃなくて、全部理解できないです、俺には。

「とにかく、心得がないならないで構わぬ。どの道、やることは変わらぬからな」

「ちょっと待った親父さん。あんたまさか――」

「そう、決闘じゃ」

 ……決闘? なにやら随分不穏当な言葉が飛び出てきたな。四四のやつにぐしゃぐしゃ勝手された髪をなでつけながら、成り行きを見物する。

「顔面に一撃。拳でも足でも構わん。指の先、爪の先が掠っただけでも構わん。とにかくわしのこの顔、黒澤太平太の顔面にきみの身の一部を触れさせることができたならば、きみの勝ち。みつるとの交際を認めよう。だが――」

 黒澤親分が、人差し指をいずこかへと向けた。この建物の壁というより、もっと先、もっと遠くを指し示すような具合に。

「それが叶わぬ場合、即刻この双見から出ていってもらう」

 しかし四四は親分の言葉や身振りの意味を理解していないのか、指が指し示す向こうではなく指先の方を凝視している。親分が拳を握り、それを胸の前へ持ってくると、四四の視線もつられて動いていく。

「わしはな、この相道という家とは長いのじゃ。ずっと……ずぅっと昔から、ここの者たちと関わってきた。それ故な、みつるのことも本当の姪のように想っておる。あれには幸せになってほしいのじゃ、今度こそ、崩れることのないように。そういう意味では、お主の求婚もそうそう否定すべきものではないのかもしれん」

 親分が、上着を脱ぎ落とした。

「じゃが、こんな時代じゃ。いざという時にみつるを守ることもできんような男に、はいそうですかとかわいい姪を任すこともできん。ましてあれには子が二人……いや、三人もおる。お主の器量、お主の覚悟があれを娶るに足るものか否か、それを図る義務がわしにはある」

 上着だけでなく、身に付けた衣服を次々と脱ぎ捨てていく。

「……それに、じゃ。お主が“相道”の者となるならば、わしはお主を見極めなければならん。いや、見極めなければ気が済まんのじゃ。お主が“相道“に相応しき者であるか否かを」

 最後には、親分の上半身を隠すものは一切なくなっていた。脱ぎ捨てられた衣服が、親分の周囲に散乱している。

「この拳を通して」

 なんとなくそのままにしておくことができず、気づかれないように拾い集める。しかし、こいつ――。

「もしみつるを諦めるというならば、この話はすべてなかったこととしよう。みつるとの接触を除くきみの双見での自由も、この黒澤太平太が保証する」

 ずいぶんとすごい身体してんな、まるで岩の塊じゃねえか。これでほんとに六〇越えかよ。

「時代錯誤と笑うかね?」

 岩石みたいな拳を突きつけ、親分はいう。異様にでかい拳。赤ん坊の頭くらいあるんじゃないか。その拳を突きつけられた四四は――やはり、笑っていた。

「……うれしい!!」

「……うれしい?」

「だってぼくとみつるさんが家族になったら、黒澤のおいちゃんがぼくのじいちゃんになるってことっすよね! それはとってもうれしいことじゃねーですか、家族が増えるってことですもん!!」

「……それは、わしとの決闘を受けるという解釈で構わんのかね」

「もちろんですよ!」

「そうか」

 なんだか知らないが、とにかく双方同意を取れたようだ。親分の脱ぎ散らかしを集め終えた俺は何気なく二人をぼうっと眺めていた――ら、とつぜん、襟首の辺りからぐいっと後方へ引っ張られた。なんだ――と思う間もなく、がしりと肩に圧が掛かる。

「よう兄ちゃん。昨晩はちゃんと眠れたかい?」

 相道、純――! 相道純の野郎が、すぐ隣にいた。半ば拘束するような形で、俺の肩をつかみながら。……というかこいつ、気づいてやがったのか。尾行してたのが、俺だって――くそ、喉が絞まる。呼吸がしづらい。息が、酸素が、薄れる。だいたいなんだ、眠れたかだって? お陰様でこっちは一睡もできてねえんだよ畜生。お前なんか嫌いだ、来んな、あっちいけ。

「ま、それなりに楽しめそうな余興だ。仲良く二人で見学しようぜ」

 肩を組んだまま、純の野郎がうれしそうに話しかけてくる。ほんとになんなんだよくそが……。ダメだ、こんなやつのことを考えていたら余計に呼吸がきつくなる。俺は気を紛らわせるつもりで四四、そして親分のいる方に目を向けた。

 一見して、勝負になるとは思えない組み合わせだ。四四のやつは見るからにケンカなんかとは無縁に生きてきた様子をばりばり醸し出していて、対する親分は見た目通り暴力を生業にして生きてきた人間だ。全身も硬い筋肉に覆われて、四四のやつなんかに勝ち目があるとはまるで思えない。

 しかし、鍛えているとはいえ親分はもう六〇過ぎのじいさんだ。昔はすごかったのか知らんが、所詮は過去の人間、言ってしまえば耄碌寸前のじじいだ。こと体力って面だけに注目するなら、まだ若い四四に分があるんじゃないか。それに、何を考えてそんなルールにしたのか判らないが、四四の勝利条件はめちゃめちゃに緩い。とにかく顔に触れれば、それで勝ちなのだから。だったら、四四の勝ちだって充分にありえるんじゃないか。

 まあ、どっちがどうなろうと、俺には関係ねえんだけど。

「お、始まるみたいだぞ」

 耳元で、純の声が響く。くそ、せっかく意識を逸らそうとしていたのに……。俺は自衛のため、再度親分たちに意識を集中させる――それにより、俺は、違和感に気づいた。なんだ……? なんか、おかしくないか。親分の身体、さっきよりも――。気のせいか? いや、違う。気のせいじゃない。気のせいなんかじゃない。親分の身体が――でかい。でかくなってる。なんだ、これ。これは、こんなの、まるで、山――。

 おい、待て、ちょっと待て。うそだろ、これ……。

“痛み”が。

「そいじゃおいちゃん、四四いくっすよー!」

「ああ、いつでも来なさい」

 四四が、“山”に向かって走り出した。無防備な、ピクニックにでも出かけるような爛漫さで。隣で純が笑っている。はは、四四の野郎、なにすりゃいいか判ってんのかね。そんな呑気をのたまいながら。

「ま、親父さんだって心得のある人だ、素人相手に本気なんざ出しゃしないさ。そこそこに手を抜いて――」

 爆発音――爆発音にしか、聞こえなかった、それ。さっきまで、ついさっきまで腰辺りに位置していた親分の拳が、掌底の形で前方へと突き出されていた。その目前に、四四の姿はなかった。四四はどこに行ったのか――俺にはもう、判っていた。判ってはいたが、脳が現実を理解しようとせず、それをそれとして認識することに時間が必要だった。――四四のやつは、遥か後方の壁に激突していた。力を失った身体が、ずるりと壁に沿って崩れ落ちる。隣で天狗が、マジかよとつぶやいていた。


   二六 田中中

 俺の親父はどこにでもいる平凡な黒澤組の兵隊で、異人との大規模な抗争の折に当たり前に死んだ。平の兵隊なんて、そんなものだろう。いくらでも代わりなんて利いて、いつでも使い潰せる。そういう、安い生命。それが兵隊の……平民の当然ってものだ。偉くならなければ、人は死ぬんだ。死にたくなければ、偉くなるしかないんだ。現に、黒澤の親分はこうしてじじいになっても生き延びてるじゃないか。

 俺は黒澤親分が――黒澤太平太のことが、嫌いだ。こいつのお陰で双見が守られている。そんな話は耳にタコができるくらい聞かされてきたが、そんなこと、俺には信じられなかった。人間一人の有無程度で、なにがそんなに変わるものかよ。

 そりゃ、多少は鍛えちゃいるんだろう。黒澤太平太の武勇伝くらい、知っている。そんなこと、そこらのガキだって知っている。でも、噂なんてもんは殆どがただの誇張なんだ。実際は大したことなんかないものと、そう相場が決まってるんだ。その誇張を作り出し、維持しているのは――使い捨てにされた、名もなきコマなんだ。使い捨ててきたコマの分だけ、偉いやつはうまい汁を吸えるんだ。

 どうせ黒澤太平太は、田中大――俺の親父のことなんざ覚えちゃいないだろう。それをとやかく言うつもりはない。親父はその程度だった。悪いのは、兵隊に甘んじていた親父の方なんだ。俺は違う。俺は、偉くなってやる。偉くなって、うまい汁を吸う側に回って、怖いもの――死を、俺の視界から追い払ってやるんだ。偉くなれば、それができるんだ。偉くなれば、怖いものなしなんだ。偉くなれば――黒澤太平太に、なれるんだ。……なれる、はずだったんだ。だけど、だけど――。

 ふざけんなよ。こんなもん、本物のバケモノじゃねえか。

「さて、今度はどうじゃ」

 山が、人の言葉で語りかける。こんなもの、人間じゃない。顔に触れれば勝ち? 緩い条件? そんなもの、何の関係もない。どんなに近づいても、どんなに手を伸ばしても、四四の身体はそれと気づく間もなく吹き飛ばされて、壁に、床に、見ているだけの俺の鼓膜すら破裂させるような爆音と共に、叩きつけられていた。人間同士の戦いではなかった。人間は人間を、あんなふうに振り回したりできない。人間が挑んでいい相手じゃ、ない。

 なのに――。

「ほう、よく立つ」

 洞四四、なんで立つ。何度も何度も吹き飛ばされて、何度も何度も叩きつけられて、なんで立つことができる。血だって出てる。足だって、もうふらふらじゃないか。それなのに、なのになんで、こいつ――。

「……あは」

 まだ、笑って……。

 イかれてる。黒澤太平太の非人間性も理解できないが、俺には四四のやつの方が理解できない。そもそもプロポーズのことを暴露してしまった俺が思うことじゃないのかもしれないが、もっと、もっと賢いやり方もあったはずだ。誤魔化したり、言い繕ったり、適当なこと言って騙したり、こんな痛い目をみないで済むやりようはたぶん、色々あったんじゃないのか。だって、これじゃ――本当に死んじまうんじゃないか。頭がおかしいのか。言動の通り、頭に異常があるのか。それとも――それともこれが、あいつのいう“愛”、なのか?

「ちょっと……」

 あは、あは、と、跡切れ跡切れに、四四が笑う。

「ちょっと、見えてきたっす」

「ほう」

 黒澤太平太は、変わらない。泰然とした山そのもの。自ら動き出すことはなく、しかしその暴威は登ることを決して許さない。痛い。見ているだけで、それを感じているだけで、全身がずきずきと激しい痛みを訴えてくる。目の奥が乾き、胃の腑が裏返る。これが、これが黒澤太平太――双見の守護者。

「ならば崩してみたまえ。わしを――この黒澤太平太という名の山を」

 四四が動き出す。ふらふらと、もう立っているのもやっとのような趣で。真っ直ぐに、黒澤太平太へ向かっていく。それで、どうする。もうさっきからずっと、そうして無策に突っ込んでふっ飛ばされを繰り返してるじゃないか。そのまま行っても、同じだ。どうしてそれが判らない。

「……四四は」

 四四が、何事かつぶやいた。小さすぎて、なんて言ったのかは判らない。判らないが、とにかく四四はそれをつぶやき、そして――その場に、倒れていった。電池が、ついに切れてしまったように。力尽きたのか――そうではなかった。倒れた四四は、黒澤太平太の足にしがみついていた。しがみついた四四の頭に、黒澤の掌底が振り下ろされる。もうダメだ――。目をつむる。

 破ける音。何か、繊維の。目を開く。目の前で、何かが舞っていた。あれは――四四の着ていた、服? 裸の四四が、黒澤太平太の手を紙一重に躱していた。四四が、頭を上げる。その目の先には、自身が放った衣服。そして、その衣服の先には、黒澤の、顔面。黒澤太平太にはいま、四四が見えない。宙を舞う服が、その妨げとなって。四四が、跳ね上がった。

 なんだ、早、いきなり、あいつ、なんで――。

 笑って――。


 いっつ――――。


「……親父さん、さすがにそいつは看過できない。こんなんでもこいつは、俺のパートナーなんだよ」

 ……相道、純。隣にいたはずの純が、隣にいなかった。隣にいないで、前方にいた。瞬間移動をした相道純は、振り下ろされた黒澤太平太の握り固められた拳を、あの長い後ろ髪を揺らしながら自らの手で受け止めていた。

「……純」

 四四のやつは二人の下で、大の字になって倒れていた。その胸は、生きていることを証明するように上下している。気こそ失っているようだが、一先ず無事と言って差し支えないように見えた。……なぜか、安堵した。

「『』が、おるのか」

「さてね」

「純」

「……少なくとも、俺はそう踏んでいますよ」

「そうか」

 黒澤が、気絶した四四から離れた。

「純、死に急ぐような真似はよせ。ゆめはお主を恨んでなどおらぬ」

 なんだ。“痛み“が。

「親父さん」

 頚が、強く、締まって。息が――。

 しかしその痛みは、一瞬のことで。

「……で、親父さん。合否は?」

「……保留じゃ」

「さいですか」

 四四から離れた黒澤が、俺の下へ訪れる。黒澤が俺に向かって、「よいかな」と言った。その言葉の意味が判らず、俺は固まったまま動かない。「服を、よいかな」黒澤が言い直す。それでようやく理解の及んだ俺は、自分でも無様だと判るくらいに慌てながら、集めた衣服をごっそりそのまま黒澤へと返した。

「中くん、わしは用事ができた。後のこと、任せてよいかね」

 渡された衣服をまといながら、黒澤がいう。俺には曖昧にうなづくことしかできない。

「すまぬな。ひなさんにも宜しく伝えておいてくれ給え」

「じゃあ俺も宿酔いが酷いし、こいつのことは兄ちゃんに任せたからな」

「え、あ、おう」

 ……あっという間に黒澤も、相道純もどこかへ行ってしまった。残されたのは俺と、この気絶した四四のやつだけ。……え。なに、俺、この後どうすればいいんだ。黒澤も純も、何か言い残してたけど、え、もしかして俺に、こいつのことどうにかしろって頼んでたのか。え、めっちゃ気絶してるんだけど。え、動かしていいの、っていうかこれ大丈夫なの。え。

 え。




   二七 田中中

「で、うちまで運んできたってわけかい」

「……」

「事務所も医院も素通りして、双見の端から態々橋を二本越えてうちまで運んできたと」

「う、うるせぇババア! 他に思いつかなかったんだよ!」

「まったく、我が孫ながらこの情けのなさ……あたしゃ泣きたくなってくるよ」

「うそ泣きやめろ!!」

 よよよと如何にもか弱いご老人でございみたいな振りをするババアに、頭が痛くなる。もちろんこの痛みは“あの“痛み”などではなく、寝不足か、もしくは苛々から来るものだ。ババアがそんなことで泣くタマじゃないことなんて、こちとら未就学児の時分から知ってんだよ。

 とにかく、なんでもいいから早く見てくれ。俺はそうババアを急かして、気絶したままの四四を見てもらう。結構な時間を歩いてきたというのに、四四のやつは気絶したまま目を覚まさなかった。一度は安堵した心が、再び不安に侵される。……なんで俺がそんなふうに思わなければならないんだという憤りを覚えもしたが、任されてしまったんだから仕方がない。おそらくこの不安は、責任感とか、義務感とか、そういったところから来ている感情なのだろう。そうに違いない。人の心配だなんて、そんな、一文の得にもならないことを。

「……お医者先生でもなんでもないあたしの素人診療だけどね、こんな程度、別になんてことないよ。平太があちこちでぶいぶい言わせてた時にゃこれっくらいの症状、よく見かけたもんさ」

「そうかよ」

 そりゃよかった。つかえていた息を吐き出す。

「まったく、大げさな子だね。平太もいい年なんだ、加減くらいは知ってるさ」

「……本当かよ」

 まったくそうは見えなかったんだが。山みたいなバケモンの姿を思い出して、身震いする。

「しかし、平太もやんちゃだね。そういうとこはガキん頃のまんまだ。戒厳や形建のやつとあっちこっち飛び回って、怪我こさえて。そういう時に限ってあいつら、うちにおはぎをたかりに来るんだ」

「いや、聞いてねぇよ」

「懐かしいねえ。平太のやつ、おはぎ食う時いつもあたしの隣に座ってたんだ。そっぽ向いてばっかだったけど、あんなに判りやすい態度もないね。ありゃあたしに惚れてたよ」

「だから聞いてねぇって!」


 ……眠い。すこぶる、眠い。当たり前だ。昨日から結局、一睡もしていないのだから。昨夜、相道純に石を投げられた後も俺は、実は下山の家の前でずっと見張りを続けていた。正直あのまま帰ってしまってよいのではないかとも思ったのだが、相道純を尾行しろという若頭からの指令に、時間の制限はなかったのだ。勝手な判断で止めて、その後大目玉を食らうようなことがあったら、それこそバカみたいじゃないか。……結局、若頭の俺に対する心象は悪化してしまったようだが。

 なんだよ知らねーよ、プロポーズがどうだ、ちゅーがどうだ、相道がどうだなんだなんて。……相道って、なんなんだよ。ただの武術道場かなんかなんじゃねえのかよ。それがなんであんなバケモンみたいなの生み出してんだよ。黒澤太平太だとか、それに、あの、『頚折り天狗』だとか――。

 ……くそ。

「……なあババア」

「……」

「ババアって」

「……」

「……ばあちゃん」

「なんだい、孫」

「……ゆめって、知ってるか?」

「どりぃーむ?」

「なんで外来語だよ!」

「ほんの冗談じゃないさ、なにムキになってんだい。それで、なんだい? ゆめ?」

「……そうだよ。なんか、人の名前、らしいんだけど」

「知ってるさ。相道ゆめちゃんのことだろ」

「……相道?」

 また、相道かよ。意識して、強く息を吸う。そしてそれを吐き出した時、別の誰かが吐き出した息と重なったのを感じた。四四の野郎だ。すやすやと寝息を立てて、これはもう気絶というか、単純に寝ているだけだろう。気持ちよさそうに寝やがって。お前が起きないから、俺は寝ていいものかどうかも判断つかねぇんだぞ。こんなに眠いのに。

「あの子はね、神様の子だったのさ。本物のね」

 俺の苛々なんてお構いなしに、ババアが話を続ける。しかし、神様の子とは大きくでたな。

「あの子と会って、あの子を無視できる者なんて一人もいなかったさ。それが良いものであろうと、悪いものであろうとね。あの子はね、不思議な力を持っていたんだよ。人の心へ瞬時に潜り込んでしまう、神様の力を」

「潜り込む?」

「その言い方が正しいのかは判らないけどね、体験できるものでもないんだから。でも、ま、大筋間違っちゃいないだろうさ。あの子にはそういう、不思議な力があった。たぶん、血だったんだろうねぇ。山から降りて来たあの子の母親も、似たようなものを持っていたから。でも、あの子の方が母親よりずっと大きなものを持っていた。あたしにはそう思えたし、たぶん、誰もがそう感じていただろうさ。あの子を知る、誰もがね。それくらい、あの子は特別だったんだ」

「特別ねぇ……」

「特別だけど、それを鼻にかけないやさしい子でね。自分のことはいつだって二の次で、母親が早世しても文句ひとつ言わず代わりを務めたりして。そうだね、霊触症に倒れたあんたのひいひいばあさんも、あの子のお陰で安らかに逝けたんだよ」

「どういう意味だよ?」

「言っただろ。あの子はね、人の心へ潜り込むんだ。声を出せない者の声に、涙を流せない者の涙になってくれたのさ。そうでもしないと癒やされない、そういう状況ってのも、人生にはあるもんなんだよ」

「ふぅん……。まあ、いいや。それで――」

 ババアは確かに、俺の質問の答えとして適切な昔話をしてくれていた。捻くれ者のババアとしちゃ珍しく、素直に答えてくれていると言っていいだろう。だが、違うんだ。俺が聞きたいのはやさしいだとか妙ちきりんな信仰のお話だとか、そういうことじゃない。俺が聞きたいのは、この不安をかき消すには――。

「――それでよ、その女の子はどうなったんだよ」

 その特別な神様の子が、なぜ死んでしまったのか。

「……あんた、なんでそんなこと知りたいんだい?」

「……いいだろ、別に」

 嫌な予感がする。そっぽを向いて、話を打ち切ろうとする。

「なんだい、そんなに頚をさすって。今度は誰にいじめられたんだい」

「い、いじめられてなんかねーよ!!」

「図星だね。ほんとに判りやすい子だよあんたは」

 お構いなしかよ。くそ、だからババアと話をすんのは嫌なんだ。ゆめなんたらよりもババアの方がよっぽど妖怪じみてんじゃねえのか。だいたい……本当に、いじめだとか、そんなもんじゃないんだ。あれは、あいつは、そんなもんじゃ、ない。

 頚に残る、この違和感。離れても、離れても、消えない。さすっても、さすっても締まっていく、苦しさ――痛み。こんなことは初めてだった。いままではどんなに不安で、怖くても、一夜を明ければ痛みが尾を引くことなどなかった。あるいは寝ていないせいかもしれないとも思ったが、違う、断じて違う。俺は確信した。あの時、相道の稽古場で黒澤太平太が“ゆめ”と口にした瞬間、俺は確信したのだ。

 相道純。あいつがこの双見にいる限り、俺は――。

「……誰もね、悪くなんかなかったのさ」

「あ?」

 すっかり話なんて終わったと思った所に、ババアが何か、つぶやいた。ババアを見る。ババアはすやすやと眠る四四の頭を、小さい子どもへそうするかのようにゆっくりと撫でさすっていた。普段のババアからは考えられないその態度に、なんとも言えないむずがゆさを覚える。

「強いていやぁ、時代のせい。そういう時代だったんだよ。悪人なんてな、どこにもいやしないのさ。悪人も、それに、善人も。でも、中々そうと割り切れないのが人間ってものさね」

「なんだよ、なんの話を――」

「ふぉう!!」

 妙ちきりんな、異様に子供っぽいその声。こんな声を出せるのは、あいつしかいない。もちろん、四四の奴だ。目を覚ました四四のやつはその妙な掛け声と共に身体を起こし、それから――。

「みつるさん、愛してる!!」

 ババアのやつに、抱きついた。

「おやまあ、情熱的じゃないか」

「……あれ? みつるさん、ちょっと老けたですか?」

「若いの、よく覚えておくんだね。人は見た目じゃないよ」

「なるほど、四四覚えたっす!」

 ……何を見せられてるんだ、俺は。ああくそ、なんか、なんかもう……一切合切、なにもかもがバカらしく思えてきた。俺は、その場で大の字に転がった。両手も両足も投げ出して、それで、誰にはばかることなく、叫んだ。

 寝る!!


   二八 相道みつる

「断る」

 ……どうしてよ。

「俺が行っているのはあくまで援助だ。純のやつが負担を被ると言うなら、それを阻止する理由がない」

 でも、少しくらい……。

「そも、なぜ俺に頼む。まだしも組長の方が可能性はあるだろう」

 おじさまに? あなた、何も判ってないのね。あの人にとっての相道は、相道って武術を修めているかどうか、それだけよ。私や、稜進りょうしん兄さんは違う。味方なんてしてくれるはずがない。相談したって、どうせ兄さんを贔屓するに決まってるわ。

「そうか。いずれにせよ、俺には関係のないことだ」

 ちょっと、待ちなさいよ。

「引き留めようと無駄だ。もはや話すことはない」

 ……いいの? そんなこと言って。

「なに?」

 私、知ってるのよ。あなたの秘密。

「……」

 あなたが、何者なのか。

「……」

 あなたが、間東となにをしていたのか。

「……」

 あなたが、稜進兄さんの――。

「……金を貸し」

 ……?

「住まいを用意し」

 何を言って……。

「『あんどろぎゅのす』の職を斡旋してやったこと」

 ……。

「この佐々川友為の行いが、すべては口止めのためと思っていたと?」

 ……それは。

「みつる、俺は相道の門下にあった者だ」

 ……知ってるわよ、そんなこと。

「破門された身とは言え、師には世話になった。よって師が不在のいま、師の娘である貴様への最低限の援助を惜しむつもりはない。今まで通り、生活に必要な分の資金は回してやる」

 だったら――。

「だが、それ以上はない。そこから先は俺の領分ではない。腹いせに暴露するというならば、好きにするがいい。その程度で揺らぐ黒澤組ではない。俺は俺の為すべきを為す。貴様は貴様で自分のことくらい、たまには自分でどうにかしてみせろ」

 ちょっと、ちょっと待ってよ、待ちなさいよ。自分でどうにかしろって、そんな、そんなの……私は、私にはそれができないから――!


 金。

 金、金、金。金が、要る。たくさんの金が。兄さんを黙らせられるくらいの金が。なのに、誰も貸してくれない。誰も助けてくれない。誰も哀れんでくれない。なんて、なんて薄情な。こんなに、私はこんなに困っているのに。こんなに苦しんでいるのに。どうして誰も、私の気持ちを判ってくれないんだ。

 兄さんに、考え直してもらうよう懇願する? あり得ない。兄さんは、ウロを連れて行くと言った。だったら兄さんはそれをやる。絶対にやる。兄さんは、そういう男だ。頑固で、融通が利かなくて、何を言っても耳なんか貸してくれなくて。相道で。血のつながりはないはずなのに、父さんにそっくりで。

 稜進兄さんは違った。稜進兄さんは穏やかで、知的で、相道だけれど、相道らしくなかった。私と、親しい所にいてくれる人だった。稜進兄さんだったらきっと、助けてくれたはずだ。私が困っているって知ったら、絶対に。

 けれどもう、稜進兄さんはいない。抜け殻になってしまったから。残っているのはそう、かつて稜進兄さんだったものだ。稜進兄さんは、そんなものになってしまった。あの女のせいで。間東の、あの女の――。

「…………さーん」

 ……なに? なにか、聞こえて――。

「……つるさーん」

 声? 何か、こっちに近づいて――。

「み・つ・る・さーん!!」

「あなた――」

 昨日の――そう言いかけた私の言葉は、吐き出されることなく霧散する。衝撃。重い。男の身体。体臭。

 気持ち悪い。

 ぶつかってきたそいつの身体を、反射的に突き飛ばす。私とそれの身体が離れる。間違いない。そいつは昨日、私に……私を、侮辱した――。

「……なんなのよあなた、昨日からいったいなんなのよ」

「ふぉん?」

 洞四四とかいう、イカれ野郎。

「みつるさん、どうしたですか?」

「来るな!」

「でも――」

「聞きなさいよ!」

 しまりのない顔で、にやにや笑って。

「私はね、いま、あなたなんかに構ってる余裕はないの。それどころじゃないの。なのに……なのになんなの! ほんとに、ほんとに、ほんとに! なに、なんなのよ!!」

「四四は四四っす!」

「そういうこと言ってんじゃないの!!」

 なに笑ってるのよ、なにが楽しいのよ。私はこんなに困ってるのに、苦しむ私が楽しいっていうの? 滑稽だっていうつもり? ふざけんじゃないわよ。みんなして私をバカにして、私を裏切って。知ってるわよ、周りからどんなふうに見られてるかなんて、知ってるのよ。でもしょうがないじゃない。だって私には、私にはもう――。

「関わらないでよ。あんたなんか、私、知らないんだから。知りたくないの。私に、私に必要なのは――」

 ――あの子しか。

「家族だけなんだから!」

「じゃあ、家族になりましょー!」

 ……家族? 家族ですって?

「……」

 私の、私の前で、そんな、軽々しく――。

 家族になる、ですって?

「……いいわ、だったら飛び込みなさい」

 私は地面の、更にその下を指差す。

「だったら飛び込んでみなさいよ! ここから! 川に!」

 盗人橋の下を流れる荒風川を、うねる奔流を指し示す。盗人橋から荒風川までは、相当な距離が空いている。ここから落ちたら相当痛い思いをすることは間違いないし、まかり間違えば大怪我、一歩間違えれば死ぬことだって充分にあり得る。遊びや冗談で飛び込める高さではない。それに、風吹く今日のこの双見では、荒風川のうねりは一層狂い増していた。一度沈めば、浮き上がることすらできないかもしれない。

「なにしてんのよ、さっさと行きなさいよ!」

 飛び込める訳がない。普通の感性をしていたら、飛び込んだりなんかできるはずない。

「……四四が飛び込んだらみつるさん、うれしいですか?」

「ええうれしいわ、うれしいからさっさと飛び込みなさい!」

 どうせ適当なことを言ってごまかすんだ。それっぽい理屈を付けて、有耶無耶に済ませるんだ。できるわけない。できるわけが。だってあんたは――家族じゃないもの。

「なら、いいっすよ」

「ほら、そうだ。男なんていつも口だけで、結局なんにもできやしないくせに――」

 ……え?

 なによ、なにしてるのよ。そんなところによじ登って。どういうつもり? そんな振りで、私が騙されるとでも思ってるの? その手に乗るもんですか。直前でやめるんでしょ? 私が止めて、それなら仕方ないって、そんな形で私から折れるように仕向けたいだけなんでしょ? あんたの考えなんか、全部見抜いてるんだから。全部、全部。私は、私は騙されてなんか――。

「ちょ、ちょっと」

「みつるさん」

 騙されてなんか――。

「見ててね」

「バ――――」

 思わず、手が伸びた。届かない。ゆっくりと倒れていく。にやけ面の男が、十字架の格好のまま、背中から倒れて――遥か下方から響く、重い音。

 ……は?

 ほんとに、ほんとに飛び込んだの? なんで? だって、こんなの、おかしいじゃない。普通じゃないわよ、普通しないでしょ。バカなの、バカなんじゃないの!? やめてよ、私、そんなことされたって、うれしくもなんとも――。

 助けなきゃ。

 橋を下り、土手を下る。川の横を走る。容赦なく吹き上がる飛沫が、つぶてと鳴って顔を打つ。どこ、あいつ。あのにやけ面。

「……あっ」

 見つけた。あいつ。川岸の、大きい岩に運良く引っかかって。無事だ、無事だ。でも、様子がおかしい。ぜんぜん動く気配がない。気を失ってる? それに、身体の殆どはまだ川の中に浸かっていて、これではいつ流されてしまうかも判らない。助けないと、助けないと。

 駆け寄って、腕を伸ばす。つかむ。重い。川そのものの重さが、私の腕にのしかかってくる。手が、腕が、千切れてしまう。こんなの無理。こんなの、このままじゃ、私まで呑み込まれて。そこまでする義理なんてない。だいたいなんで、なぜ私がこんなことしなきゃいけないの。だって、こいつが勝手に飛び込んだんじゃない。突き落とした訳でも、蹴り飛ばした訳でもない。こいつが勝手に落ちただけじゃない。このまま手を離したって、誰も見ていないじゃない。助けたって、いいことなんか何もないじゃない。……だけど、だけど、だけど!

 だけど私だって――相道なんだから!

「……ぁぁぁああ!!」


 ……息、してるわよね。手をかざす。ああよかった、大丈夫そう。それにしても、どうして飛び込むのよ。飛び込まないでしょう、普通なら。だって、こんなに怪我をして。判るじゃない、あんなの、本気にするものじゃないって。……あれ? でも、待って。この怪我、おかしくないかしら。川に呑まれた時って、こんなにあちこち怪我するものだったかしら。それに、これ。いまさっきついたって感じでも――。

 思っていると、横になっていた四四が、目を開いた。ちょっと驚いたような、魂がもどりきっていないような、そんな顔。あ、と思う。そう言えば昨日も、こんな状況で――。


「……あなたね」

「ちゅーすれば、元気いっぱい!」

「……なんなのよ、もう。ここで突き飛ばしたら私、本当に悪者じゃない……」

 四四の顔はもう、私もよく知るあのにやけた面にもどっていた。にやけた面をした四四はそのままもぞもぞと身体をよじり、ちゃっかりと私のひざへと頭を載せてくる。私はもうなんだか疲れてしまって、跳ね除ける気力も出なかった。

「それ、どうしたのよ」

「それ?」

「怪我。それに痣も。いまついたわけじゃないわよね?」

「これは……決闘っす!」

「……はぁ?」

「黒澤のおっちゃんと、みつるさんを賭けて決闘したっす!」

 黒澤のおじさまと?

「あれ? そういえば四四は結局、おっちゃんの許しをもらえたんですかねー?」

「私に聞かないでよ……」

 ま、いっか。あっけらかんと、彼はいう。怪我だらけの身体で。おじさん、また余計なことをしたのね。肝心な時には何もしてくれなかったくせに、どうでもいい時だけ親類ぶって。あなたに望んでいたのは、こんなことなんかじゃないのに。こんな、武術のぶの字も知らないような素人をいたぶって。

 ……こんなになるまでいたぶられて、でも、こいつ、諦めなかったってことよね。ぶつかったってことよね、あのおじさまと。私と――私なんかと、家族になるために。

「……どうして私なのよ」

「ふぉう?」

「あなた、若いじゃない。他にいくらでもいるでしょ。私なんてもう、とっくの昔におばさんよ? 見向きもしないでしょ、普通。もっと若い子の所に行けばいいじゃない。なんで私なんかに構うのよ……」

「母さんに!!」

「え?」

「母さんに似てるです!」

「……それ、言われて喜ぶとでも思ってるの?」

「いやっすか?」

「……私で良かったわね。他の女なら、ビンタじゃすまないわよ」

「みつるさんで良かったっす!」

 そう言って彼は、一層破顔する。それを見て私は、気づいてしまった。ああ、こいつ、悪意がないんだ。全部本心で、本気で、こういうやつなんだ。だからなんだって話だけれど、でも――。

「……私ね、昔ここで、溺れかけたことがあるのよ」

 でもいまは、嫌じゃない。

「姉さんがね、助けてくれたの。助けてくれて、その時ね、私のこと膝枕してくれて」

 こうして、話をするのも。

「母さんは私を生んで亡くなっちゃったから、私にとっての母さんはずっと姉さんだったの。姉さん、姉さん、ゆめ姉さん……。姉さんはね、不思議な人だった。私は口下手で、自分の気持ちを言葉にすることが苦手だったのだけど、でも、姉さんはそんな私の気持ちも全部判ってくれて」

 見上げる視線を、受けるのも。

「川から引き上げられた後、兄さんたちは早く家に帰ろうって言ったわ。風邪を引いてしまうからって。でもね、姉さんは動かなかった。こうやって……いま私がしてるみたいに膝枕をしてくれて。姉さん、ずっと膝枕してくれて。怖くて震えていた私の頭をやさしくやさしく撫でてくれて。自分が濡れることなんかぜんぜん気にしないで。私ね、その時――お母さんっていうものを、心から感じたんだ。それが、それがね――」

 膝枕を、してやるのも。

「泣きたくなるくらい、うれしくて――」

 ……姉さんみたいに、してあげるのも。

 静かだった。あれだけ賑やかにしていた四四は、いつの間にか眠っていた。まったく……騒がしくて、突拍子なくて、加減なんかしらないから力を使い果たしたらぱたりと眠っちゃって。バカね、本当に、バカ。おバカな子ども。不安なんて知らない、心地の良い寝息を立てて。本当に、ちょっと身体が大きいだけの、ただの子供みたい。

 バカな子供の、頭を撫でた。やわらかな感触。一瞬、つながった気がした。遠い昔に置き忘れた、大切な、何かと――。


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