二一~二四

   二一 下山組家

「こいつが祭りで使う?」

「そう、御神輿。黒澤のおじさんに頼まれてね、うちで組んだんだ」

「よく受けたな」

「最初は断ったんだけどね、どうしてもって」

 うちは一般住宅や公共性の高い建物の建造を請け負う工務店で、神輿造りの専門ではない。ノウハウもないし、何十年ぶりというお目出度いお祭りに出せるような神輿なんて到底用意する自信はないと訴えたのだけれど、うちが一番信頼できるということでおじさんに押し切られてしまった。買いかぶりだと思う。父さんの時代であればともかく、今の下山にそんなに突出した技術力はない。もちろん、うちで働く大工や職工の方々の腕は確かだ。それだけは間違いない。でも、いくら従業員の腕が確かでも、建造物のスケールはその指揮を任された現場監督の器量に左右されてしまう。そして黒澤のおじさん立っての希望として今回の現場の監督を任されたのが、この下山の棟梁である、ぼくだ。

 ぼくには自信がなかった。黒澤のおじさんの、それに祭りを待つ双見の人々の期待に応えるなんて、とてもではないけれど不可能に思えた。けれど自信がないなりにぼくは、神輿造りを進めた。

 過去使われていた神輿は大戦前に兵器製造の部品として解体され、また唯一の神輿職人であった方は空襲の際に亡くなってしまわれたという話で、失伝された技術を掘り起こすためには一からの勉強が必要だったけれど、父さんの時代から勤めてくれていた職人さん方の支えもあって、なんとかこうして形にするまでには至れた。でも、これが果たして本当に双見の神輿として受け入れられるものになっているのか……やはりぼくには不安だった。

「どう、かな?」

 既に神輿の周りを練り歩き始めていたきっちゃんに、ぼくは問いかける。細部まで覗き込んで観察するきっちゃんの仕草ひとつひとつに、何か瑕疵を見つけられたんじゃないかとどきりとする。

「他を知らんから比較はできんが……」

 できんが? できんが、なに?

「いや、大したものなんじゃないか、大したもんだ。何より迫力がある」

 強張っていた肩が、弛緩する。

「えへへ、きっちゃんにそう言ってもらえると自信がでるよ」

「それで、こいつはこれで完成なのか?」

「ううん、実は『合背』では二つの神輿を用意するらしくて、そっちはまだ全然」

「同じものを、二つ?」

「うん。月俣男つくまたお様と北俣女ほくまため様、それぞれにお乗りになって頂くっていう体で」

「ああ、なるほどな」

 造りかけのもう一台の神輿は、別の倉庫に保管していた。何でも双子の神様が常に一緒にいてしまうと力が傾き片側の山が崩れ、双見という町自体が立ち行かなくなってしまうという言い伝えがあるのだそうだ。この言い伝えに従いそれぞれの神様がお乗りになるこの神輿も別々の場所に安置しておくことが習わしとなっており、対面させるのは三年に一度の祭りの時だけと決められていたのだという。ぼくは特別信心深い訳ではないけれど、先人の教えに無意味に反発するような趣味もなかった。こうすることで納得する方がいるのなら、いくらでも従えばいいと思う。

「それでね、ちょっときっちゃんに協力してほしいことがあるんだけど」

「なんだ?」

「神輿のね、この、内側なんだけど」

 そう思いながらぼくはいま、信仰の面から言えば決して赦されない禁忌を侵す。小さな鳥居の後ろ、子供でなければくぐれそうにない扉を開く。

「ここにね、神様の魂が腰を下ろすんだ」

「……ずいぶんと殺風景だな」

「そうなんだ。この内装をね、どうすればいいか全然思いつかないくて」

 扉を開け放ち、その中身をきっちゃんに見てもらう。昔気質な方々が見たら激怒するか卒倒するか、たぶんいまぼくはそれくらいのことをしている。この小さな部屋は神様のためにのみ用意された神聖にして不可侵の領域であり、唯一神の座に立ち入ることを認められた『息重』の方々であってもみだりに覗くことは許されず、いわんや部外者の手が触れるなど言語道断だそうだから。でも、他ならぬ神様のためにより良いものを造ろうとしているのだから、少しくらいのルール違反なら神様だって大目に見てくれるんじゃないかと、ぼくは思う。なにより、いまこの内側は空洞、手つかずの木材がむき出しになっている状態だ。こんな見た目では、神様もこれが自分の部屋だとは思わないんじゃないだろうか。きっちゃんはどう思う? そうやってぼくが問いかけると、きっちゃんは怪訝そうな顔をしてぼくを見た。

「おいおい、まさか俺に、この中をどうすりゃいいか考えてほしいとでも言うつもりか?」

「そのつもりだけど、どうかな?」

「俺は素人だぞ。何も思いつくわけないだろ」

「そうかな、きっちゃんならぼくなんかには思いつかないアイデアを出せるかと思ったんだけど」

「なんでそう思ったのか逆に問いたいくらいだ」

 そう言いつつもきっちゃんは小部屋の内側を穴が空きそうになるくらいに睨み通し、うんうんと唸り声を上げ――やがて、左右に首を降った。

「……わからん、自分で考えるべきだろやっぱり」

「んー、そっか……そうだよね」

 実際の所、この部屋の内装が双見の人々の前で明らかにされることはまずない。町を巡って双見の人々に見てもらうことを目的とするなら、内装の用意は優先度の低い、重視する必要のない工程なのかもしれない。けれど祭りというものがそもそも神様のために開かれるものであるなら、周りからは見えないこの場所にこそ一番の気を払わなければならないのではという思いもある。なによりも……一大工として父さんには遠く及ばないぼくではあるけれど、それでも手を抜いた仕事はしたくないという矜持は持っているつもりだった。例えそれが、僅かなものであったとしても。だからぼくがいま取れる最良の手段としてきっちゃんに協力を仰いだのだけれど……そうそううまくはいかないということかもしれない。

「……それでも」

 小部屋に頭を入れたまま、きっちゃんがつぶやく。

「それでも敢えて考えるなら、俺なら一つで用の足りる完璧なものにはしないだろうな。双見の双子神はひとつの背骨を共有する、一本の柱だろう? 独立した二つの柱ではないんだ。だったら互いに補い合うことで完璧に……って、まあ、そんな感じにするんじゃないか?」

「きっちゃん……」

 きっちゃんの言葉を受け、頭を回転させる。一本の柱、不完全なそれぞれが補い合うことによって完成する構図――光、きらきら、頭を巡る、駆ける。……これは、いい感じだ。ばらばらだったものがくっついて、見えなかったものが見えるように、なかったものがあるように、形が次々頭に浮かぶ。

「……すごいよきっちゃん、やっぱりきっちゃんはすごいや!」

「……はっ、だろう?」

「うん、助かったよきっちゃん。方向性が見えた気がする!」

「はは、そいつはよかった」

「ごめん、ちょっと待って、少しメモしておきたいんだ」

「わかったわかった、俺は好きにやらせてもらうからな」

 そう言ってきっちゃんは、今日みたいな日のために貯蔵しておいた秘蔵の『合輪転』を開ける。双見の水と米をふんだんに使った脳を痺れさせるような匂いに誘惑されかけるも、いまはそれ以上に楽しいことに取り掛かりたい気持ちでいっぱいだった。ぼくは図面にかぶりつくと、その端に思いついたことをどんどんと書き連ねていく。書けば書くほど頭の中が活性化されるようで、ペンを握る手がすごい勢いで動いたまま止まらなかった。

「ああそうだきっちゃん、この神輿造りね、ウロくんも手伝ってくれたんだよ」

「ウロが?」

『合輪転』を傾けるきっちゃんの姿を視界の端に捉えながら、ぼくは話を続ける。

「ウロくんね、筋がいいんだよ。ちょっとした大工仕事ならもう簡単にこなしちゃえるんだ。力なら元々うちの誰にも負けないし、すごいね、才能あると思うんだ」

「……へぇ、ウロがねぇ」

「物静かだけど真面目でがんばりやだし、職人さんたちからもかわいがられてるんだよ。がんばりやと言えば色月くんもさ、いい子だよね。いっつもにこにこしてて、ちょっと気を使いすぎなんじゃないかって思う時もあるけど、でも、やさしくていい子だよ。なんでみつるちゃんは、色月くんにあんなに厳しいのかな」

「……なんでだろうな」

「みつるちゃん、どうしてなのかな。昔はあんなにかりかりしてる子じゃなかったのに。すっごい人見知りで、いつもゆめさんの陰に隠れてるような子で……あ、そうか。みつるちゃん、ゆめさんがいなくなって――」

 ペンを握っていた手が、止まった。きっちゃんを見る。きっちゃんは、『合輪転』を注いだ杯を傾けていた。

「あ、違うんだきっちゃん。ぼくは――」

「ヤネ、謝るなよ。お前が謝ってしまったら、俺はここにすらいられなくなってしまう」

 きっちゃんが、口元から離した杯を見つめる。

「なあヤネ、こんな俺でも、お前とだけはダチのままでいたいんだよ」

「きっちゃん……」

「頼む」

「……光栄なことだと受け取っておくよ、守護天狗様」

「それでいいさ、下山の棟梁殿」

 杯を見つめていたきっちゃんの視線が、横目でぼくの方へと向いた。その口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。ぼくはペンを図面の上に置き、自分の分と用意した杯に『合輪転』を注いだ。


「なあヤネ、生まれ変わりって、信じるか」

「生まれ変わり?」

 二人で瓶を半分ほど空けたとき、目の座りかけてきたきっちゃんが言った。ぼくもそう強い方ではないけれど、きっちゃんもお酒には弱い。それでもこうして付き合ってくれるのだから、きっちゃんもそれなりに楽しんでくれているのだと思う。

「『廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る』……双見で生まれた者はいつかお山の神様の下へ還り、その一部となりて、いずれは再び双見へ生まれ直す……」

「よく聞かされたよな」

「きっちゃんはまだいいよ。うちは父さんが熱心だったから」

「ああ、そうだったな。形建なりたてさん、俺にも口うるさかった」

「だから、ね、ぼくもそういうこと、考えたことがないわけじゃないよ。神様とか、生まれ変わりとか――」

 生まれ変わり。自分自身でその言葉を口にした瞬間、ふと、一人の人物のことが脳裏をよぎった。

「ねえきっちゃん。もしかして、色月くんのこと考えてたりする?」

 目の座ったきっちゃんが、更に杯を傾ける。問に対する返事はない。

「だいじょぶだよ、これ以上は言わないから。ぼくだって早々、友達に頭なんて下げたくないんだからね」

「……言うね、お前も」

「三○年近くもきっちゃんの友達やってればね」

「……はっ」

「でも、そうだね。生まれ変わり、ぼくはあったらいいなって思うよ。だって死んでも終わりじゃないって、とても救いがあるじゃない」

「救い、ね……」

 煮え切らない感じの、きっちゃんの声。

「きっちゃんはそう思わないの?」

「俺か? 俺は……生まれ変わりなんて、ただの迷信だと思ってる」

「あ、ずるいな、人には言わせておいて」

「知らなかったのか?」

「知ってたけどさ」

 二人で、声を合わせて笑う。笑うと酔いが、更に回る。心地の良い酩酊感に、ふわふわとした幸福感を覚える。

「あのね、きっちゃん。話、もどるんだけど」

「生まれ変わりの?」

「ぼく、ウロくんに下山を継いでもらえないかって考えてるんだ」

「……話、飛躍してないか?」

「もちろん、いますぐって訳じゃないよ。先の話ではあるけど、でも、真剣に考えてもいるんだ」

 ろれつが少し怪しくなっているのが、自分でも判った。不真面目に感じられるかも知れないけれど、でも、ぼくは真剣だった。

「さっきも少し話したけどさ、ウロくん、人望あるんだよ。彼にはこう、人を引きつけるものがあるんだ。筋もいいしさ。あとニ、三年もすれば、きっと一端の大工として指示を出す立場にもなれると思う。父さんの息子って理由だけで下山を継いだぼくなんかより、ウロくんの方がよっぽど棟梁という立場に適ってるって、そう思うんだ」

「お前だってよくやってるじゃないか」

「ぼくはだめさ、まるでだめだよ。父さんが倒れて、ずいぶんいろんな人の信用に背いてしまったしね。次へ繋ぐので精一杯さ」

 父さんだからと従っていた職人さんも、結構な数が離れてしまった。年月をかけてもどってきてくれた人もいたけれど、それもまだ、全員ではない。

「だからね、その為にも、ウロくんを養子に取ろうかと思ってる」

「……また、飛躍したな」

「もちろんウロくんが認めてくれればだけどね。でももし頷いてくれたなら、すすぐちゃんも、それに色月くんも引き取りたいと思ってるんだ。うちも一時期に比べれば余裕、でてきたからね。三人くらいならなんとかなると思うんだよ」

 父さんが倒れた直後は大変だった。同情してくれた人もいたけれど、決断できないぼくに苛々を募らせた人も大勢いたに違いない。そうして離れかけた人をつなぎとめるために、強くもないお酒の力に頼って下手な愛想を振りまいたりもした。それが、一概に悪かったとは思わない。でも、その結果――。

「みつるちゃんだってさ、あんまり近すぎるからよく判らなくなっちゃってるんじゃないかな。一度距離を置けば、きっと冷静になれるよ。そしたらきっと、色月くんともうまくいくようになる。そしたら――そしたらきっちゃんも、安心でしょ?」

「……人のことより、娘との間をどうにかするのが先じゃないか?」

 きっちゃんが、ぼくを睨む。

「やっぱり、判っちゃった?」

「そりゃあな」

 ぼくは、きっちゃんを睨む。

「まあまずは、おもやちゃんと仲直りするこったな。ウロや色月のことはそれからだよ、おとうさん」

「血がつながってるほうがむずかしいこともあるんだよ。きっちゃんだって、父親になれば判るよ」

「やめろよ俺が父親なんて。そんなのあんまり、ガキが不憫だ」

 お互い同士に睨み合って、それで――お互い同時に、吹き出した。きっちゃんが杯を持ち上げた。ぼくも倣って、持ち上げる。

「親父になれなかった俺たちに」

「出来損ないなぼくたちに」

 掲げたそれを、ぼくらはちょっとばかり乱暴にぶつけ合った。

 跳ね跳んだ『合輪転』の水滴が、放り投げた図面の端に染みを描いた。


   二二 平太

「神輿、見に行こうぜ!」

「タテ……」

「お主、いま何時だと思っとる……」

 朦朧とする頭を揺らしながら、闖入してきたタテのやつに文句を言う。外は既に星明かりだけが残された真暗闇。わしも随分前にはもう眠りについていて、声の調子から、ゲンのやつも状況は同じであるようだった。その中で、一人タテだけが興奮気味に声を上ずらせる。

「いまだからだよ。真っ昼間じゃさすがに忍び込めないだろ」

「忍び込む?」

「そうさ! 鎮息殿ちんそくでんにさ、おいらたちで忍び込むんだよ!」

「お主……」

 話している間に、少しずつ意識が覚醒してきた。神輿、鎮息殿……ああ、あの、祭りの。神輿、すごい迫力だった。確かに、見れるものならすぐにでも見たい。……いやでも待て、待て待て待て。

「……ダメじゃ、ダメじゃ。鎮息殿は神職以外、入ってはならぬのであろう? わしはそう教わったぞ」

「そうだよ?」

「『そうだよ?』ではない! 行かぬに決まっとるじゃろう、何を考えとるんじゃお主!」

「でもよ、触れなかっただろこの前の祭りで、神輿」

「むっ」

「イタだって悔しがってたじゃんか、子供は担いじゃいけないって言われてさ。それに、何も盗みを働こうってんじゃないんだ。ちょっと見に……触りに行くだけだよ。それに数年後にはおいらたちだって担ぐんだ。だから……そうだ、前借りみたいなもんだよ。前借りにちょっと担ぐ真似をしたって、バチは当たらないって!」

「むぅ……」

 タテの言葉には、それなりの説得力があった。盗みに行くわけではない。ちょっと見て、ちょっと触って、満足したらすぐに帰る……それだけだ。それだけなら、誰の迷惑になるだろう。それにタテが言っていた通り、わしは悔しかった。神輿、担ぐどころか、触ることすら許してもらえなかったのだから。子供だから。そんな、適当な理由で。だったら、少しくらい、よいのではないか? ……いや、だが、しかし。もし、もしもバレてしまったら――。

「……いや、ダメじゃ、やっぱりダメじゃ。決まりは決まりじゃ、自分勝手に破ってよいもんではない。約束を破るとは信頼に背くということじゃ。そんな真似、わしはしとうない」

「そうか、なら俺は行く」

「ゲン!?」

 ゲンの発言に、わしは驚く。ゲンが賛同するなど、まるで想定していなかったから。タテは、判るのだ。タテは双見で生まれた者だから。もしバレたとしても、怒られて、ゲンコツくらいはくらうかもしれないが、たぶん、それで終わりだ。でも、わしは違う。わしとゲンは、違う。外から双見に入ったわしらは所詮、余所者に過ぎない。どんなに受け入れてもらえたように思えても、始めから双見人として生まれた者とは、大きな隔たりがある。それなのにもし、もしこの双見における禁忌を破ってしまったとしたら……ゲンよ、お主は、怖くはないのか?

 わしの想いを知ってか知らずか、軽々とその場に身を起こしたゲンのやつが、まだ横になったままのわしを見下して、言った。

「……びびり」

「なっ……!」

「タテ、行くぞ。夜明けまでには帰らないといけないだろ」

「お、おう……?」

「待て、ゲン、待て! だれがびびりじゃ、わしはびびってなぞないぞ!」

「足、震えてるぞ」

「ふる!? ふ、震えてなぞ!」

 立ち上がろうとして、うまくいかず、一度強く両足を叩く。血が通った足に力を込め、わしは立ち上がった。そしてわしを置いて行こうとするゲンに向かって、叫ぶ。

「待て、待て、待て! ゲン、タテ、わしも行く、わしも行くぞ!!」


 大いなる月俣男ノ神、大いなる北俣女ノ神。どうかどうか、ご覧になってください。あなた方のお陰で双見は平和にございます。あなた方のお陰で双見は強うございます。飢えに苦しむこともなく、新たな生命を迎えられるのも、それもこれも、すべてはあなた方のお陰なです。ですからどうか、かしこみかしこみ申します。大いなる月俣男ノ神、大いなる北俣女ノ神、偉大なる両神背中併せに、これよりも我らをお見守りください。両神の慈悲と慈愛を我らが双見に、いついつまでもお恵みください――。

 田中のおばばが教えてくれた。『合背祭ごうはいさい』とは、一柱の双子の山神に双見のお姿を見て頂くためのお祭りであると。双見とは即ち“双子の神が見守る里”を意味し、そこに息づく者たちの賑やかに息を吐く姿をお見せすることは日々の御恩返しでもあるのだと、そう教えてもらった。神様の実在。お山籠りの『息重』の方々のような超能力を持たないわしに、それを感じることはできない。しかし神様への御恩返しであるお祭り、掛け声、ひりつくほどの熱気であれば、わしにも存分に感じられた。あれは、凄まじい熱であった。かつてない衝撃であった。

 師匠の教えで歩き方を覚えたわしのこの足。鎮息殿へ向かうまだまだ覚束ないその足取りは、正直、軽かった。いけないこととは知りつつも、胸の高鳴りは止められなかった。わしだって、ずっとあの神輿に惹かれていたのだ。熱い祭りの一体感。その中心に在ったのは、紛れもなくあの神輿であったと。

 わしは考えていた。双見の外から来たわしは、まだ双見の者ではない。けれどもし、もしあの神輿に触れ、担ぎ、あの一体感と自らの息を合わせることができたなら――その時初めてわしは、双見の一員になれるのではないか。双見の者として認められるのではないか……そう、思っていたのだ。そうだ、もしかしたら……もしかしたらゲンのやつも、同じようなことを考えていたのかも知れない。考えていたからこそタテの誘いに、二つ返事で応えたのかも知れない。わしと同じように、師匠に拾われ双見へ入った、このゲンも。

 前を行くゲンのことを、わしは見る。わしの視線に気づいたゲンは、わしの足を見て、その次に手を見て、それから、わしの顔を見ながら、言った。

「……引っ張ってはやらないぞ」

「誰が!!」

 わしはまだ完全には操ることのできない足を早回しし、二人の前へと出た。背中からタテの、お前ら仲良くしろよーという困ったような声に追われた。


 鎮息殿は、殿という名が付けられている割にはこじんまりとした、自然の隅にひっそりと築かれた隠れ家のような社だった。確か東側にも同じ建物があると、田中のおばばは言っていたはずだ。北と南の双子山。その双つの円が重なる東西の地点、町と山との境界に、山から降りた神様がいつでもお寄りになれるよう安置されているのだとか。山は神様と『息重』の方々の領域で、町の者はみだりに立ち入ったりはしない。それはこの鎮息殿も同じ。山の獣すら寝静まった虫たちの時間であることも手伝って、辺りには人の気配など微塵もなかった。

 それでもわしらは忍び足で、警戒しながら鎮息殿へと近づいていった。そして一番に扉の前へとたどり着いたわしは、二人に目配せをした後、細心の注意を払いつつ力を込めてその大きな扉を押す――。

 開かなかった。

「……タテ、どういうことじゃ。締まっとるではないか」

 引いてみる。ぎしぎしと木の擦れる音こそ立てられるものの、結果に変わりはない。

「そりゃーね。入っちゃいけないことになってるし」

「それでは無駄足でないか」

「ふっふっふ……それがそーでもないんだな」

「考えがあるのか?」

「ま、この下山形建様にどーんと任せなさい」

 そう言うなりタテは鎮息殿の横へと回り、開け放されたままの窓を見上げた。わしらの背よりも高い場所にある窓。しかし開け放されているとはいうもののその窓には木製の頑丈そうな柵がしっかりと組まれており、とてもではないがあそこから入ることなど不可能に思える。だが、タテはあくまで余裕の笑みを崩さなかった。彼が、上着から何かを取り出す。尖った鉄の塊と、小さな木槌。あれは、大工道具か何かだろうか。そう思う間もなくタテは取り出した道具を持ちながら窓に張り付き――ガコンガコンと小気味良い音と共に、組み込まれていたはずの柵を次々と外していってしまった。一○秒もかからなかったろうか。あっという間の出来事に、止めなければと思うことすらできなかった。

「タテ、お主というやつは……」

「へーきだよへーき、なんてことないって。帰りにはちゃんと元にもどすからさ」

 それよりもほら、さっさと入ろうぜ。悪びれた様子などまるでなく、タテは自身が開いたその空間から中へと潜り込んでいった。さすがにやりすぎではないかと言いかけたわしの前を、ゲンが横切る。そしてタテに続いて中に潜ろうとしたゲンは、その途中に一度、わしのことを見た。小馬鹿にするような目つき……に感じられた。

「……わかったわい!」

 二人の後を追ってわしは、開かれたその窓の縁に向かって飛び上がった。


「……おお」

「なんか、雰囲気違うな」

「う、うむ」

 外観通り内側もこじんまりとした鎮息殿。神輿を見つけるのに、苦労はなかった。祭りの時に太陽の下で揺らされていた神輿とは違い窓から差し込む月明かりに照らされているこの神輿には、静謐で、何か近寄ってはならない厳かさのようなものが漂っていた。生唾を飲む音が聞こえた気がした。それが自分のものか、二人のものかは、定かでなかった。

「……触ってみるか」

「そ、そうじゃな、そのために来たんじゃし……」

「よ、よし……じゃあおいらから……」

 タテのやつがまず、手を伸ばした。わずかに震えているタテの指先が、台座の端にぴとっと触れる。

「ど、どうじゃ?」

「いや、なんか……すごく、硬い」

「……俺も」

「わ、わしも!」

 タテに続いて、ゲンとわしも手を伸ばす。触れた瞬間に思ったこと。重い。何か、とても、重い。持ち上げようとしている訳でもないのに、そんなふうに感じる。これを、担ぐのか。こんなに重たいものを。一人では絶対に無理だ。力を合わせて担がなければこんなもの、持ち上がるわけがない。そこまで考えて、わしは理解した。ああそうか。だからこそ重いのか、と。重くなければならないのだ。重くなければ、力を合わせることもできないのだから。あの一体感は、得られないのだから――。

 始めこそ恐る恐る触っていたものの、緊張が解れていくに連れ段々と気も大きくなり、潜めていた声もいつしか興奮した大声のそれに変わっていった。わしらは少しだけ大胆に、三人で担ぎ上げる真似事をしたり、普段であれば絶対に見ることのできないような細部まで観察したりした。もちろん気をつけてはいた。壊してしまうなど言語道断であったし、汚れ一つだって付けるつもりはなかった。敬う気持ちだけはゲンもタテも、もちろんわしも、忘れないでいるつもりだった。しかし――。

「……なあ。二人共」

「なんじゃ?」

 小さな鳥居の奥に備えられた、小型の扉を見ながらタテが言う。

「この中、見てみないか?」

 タテが言っているのは神輿の中央、全体の核とも言うべき神座のことに違いなかった。『息重』の方々だけが開くことの許される神域。いったいどのようになっているのか。興味がないと言えば、うそになる。しかし、そこは。

「だってさ、こんな機会そうないぞ? もしかしたら、この先一生ないかもしれないんだぞ?」

 もし、万が一神座を覗いて、そのことがバレてしまったら。その時わしらは、いったいどのような罰を受けることになるのか。

「おいらさ、知っておきたいんだよ。だってこの神輿だって、いつかは壊れるかもしれないじゃないか。そうしたらさ、誰かが造るわけだけど、それならおいらが造ったっていいはずだろ? でも、そん時にこの中がどうなってるのか判らなきゃ、そんなのどうしようもないじゃないか」

 双見に、いられるのか。

「どんなにすごいもんでも誰かが継がなきゃ、いつかはなくなっちまうんだ。なあ、お前らなら判ってくれるだろ?」

「俺は反対だ。ここに来たのは神輿に触れるためで、そんな真似までするつもりだったわけじゃない」

「ゲン、でも――」

「反対だ」

 わしの考えも、ゲンと同じだった。神輿の中身、それは気になる。タテの言も、判らなくはない。しかし誰かが知っておかなければならないとして、それがわしやタテである必要はないはずだ。双見には、それを専門とした職人もいるのだから。わざわざ危険を侵してまで――今更かもしれないが――信用してくれている大人たちを裏切ってまで強行すべきこととは、わしにも思えなかった。神輿に触れ、担ぐ真似をし、数年後の自分を思い描けた。それだけで十分、満足だった。

 しかし――わしの口から飛び出たのは、そうした理性からは掛け離れた言葉だった。

「……ゲン、びびっておるのか?」

「なに?」

 ゲンがわしを睨む。わしはその視線を無視し、神輿に向かった。固まったままであったタテを脇へ押しやり、鳥居の後ろに備えられた扉へと手を伸ばす。全身が、強張っていた。特に、足が。こんなこと、すべきではない。今すぐやめるべきだ。理性がそう叫んでいる。けれどわしは、わしの身体は意固地になって、どうしても、どうしても止まる方法が判らず――。

「もし、誰ぞおるのですか」

 つま先から脳天まで、電流が走った。聞こえた、声が、外から。大人の声、呼びかけられた、バレている、いることが。「もし」。また、聞こえた。更に、別の音。鎮息殿、その入口から。扉から。鍵だ、鍵を開けようとしている。入られる。見られる、顔、バレる。師匠に、バレる。

 タテが、いち早く動いた。入ってきた窓から、外へ出る。音もなく。ゲンが続いた。ゲンはもっと、タテよりも早く、タテよりも音なく外へ出た。出てから、顔を覗かせる。早く来い。そう、手振りで急かす。わしも、窓から出ようとする。頭より高い位置にある、あの窓。あの窓につかまろうとする。膝を曲げ、勢いそのまま飛び上がろうとする。

 曲げた膝が、固まった。

 膝を、腿を、叩く。動かない、動かない。まるで、昔のように。師匠に拾ってもらう前の、お荷物であったあの時のように。あんなに、あんなに師匠に鍛えてもらったというのに。あんなにがんばってきたのに。なぜじゃ、なぜ、なぜこんな時に限って――。

 鍵の解かれる乾いた音が、鎮息殿の内側に響いた。

「おや、あなたは――」

 扉を開いたのは、西側の神社を管理している神主だった。一度、顔を合わせたことがある。とはいえそれも、本当に挨拶程度のものだ。記憶に残っていなくともおかしくはない。わしは祈る。どうか気づかないでくれ、気づかないでくれと必死に祈る。わしがどこの誰であるか、どこで寝泊まりしているか、いま、だれの世話になっているのかを。どうか、どうか忘れていてくれ――。

 神主がぽんっと、拳でてのひらを打った。

「そうです、相道殿の」

 ああ、おしまいだ。最悪の想像が、現実のものになってしまった。双見の人々は、わしのことをどうするだろうか。約束を破り、その信義に背いたわしのことを。師匠は、どうするだろうか。もうダメだ、わしは許されぬことをした。きっとわしはもう、双見には――。

「俺が」

 神主が、後ろを振り向いた。神輿と同じように白い月光を浴びた影。そこには――。

「俺が、誘いました」

 そこにはゲン。あやつがいた。


「口を開くな、身動ぎもするな。よしと言うまで動くこと罷りならん」

 稽古場の縁側に正座させられたまま、既に半日が過ぎた。罰を下した師匠はどうも稽古場を離れたようで、逃げようと思えばいくらでも逃げられそうではあった。もちろん、そんな真似をするつもりはない。この程度の罰なら、いくらでも、何日でも受けるつもりだった。

「子供のした事ですからね。相道殿の方でお叱り頂けるなら、わたくしからは何も」

 あの時、あの場所でわしを見つけた神主は、そう言ってわしとゲンを師匠に引き渡し、恭しく頭を下げてすぐに帰ってしまった。もっと何か大事に発展するのではないかと危惧していたわしは些か拍子抜けしたものの、それでもまだ緊張が解けたわけではなかった。

「あの、師匠、わし……」

「俺、その……」

「黙れ」

 肩が跳ね上がる。鋭い言い方ではなかったものの、師匠の声には特別な迫力があった。神主の態度に緩和しかけた不安が、再び高まる。もし師匠に捨てられてしまったら、わしはもう、どこへ行くこともできないのだ。両親に売られたわしには、もう。けれど師匠は、出て行けとは言わなかった。その代わりに命じたのが、先の言葉。正座をしながら反省しろ、というものだった。

 太陽の日差しが、今日は一段と強かった。じっとりとした汗が額を伝う。拭いたい。しかし、拭わない。もう二度と信用を裏切るような真似は、師匠を裏切るような真似はしたくなかった。足は痺れの段階を過ぎ、既に感覚もない。もしかしたら一生このまま、足の感覚がもどってくることはないのではないか。そんな不安も頭をよぎったが、それでもわしは動かなかった。動かず、ただ、目だけは動かした。横目で、自分と同じように正座しているそいつのことを見た。

 ゲン――戒厳かいげん。わしと同じように師匠に救われ、わしと同じように師匠に拾われた親無し児。詳しく事情を聞いたことはないものの、こいつにも帰るところがないことくらいは容易に想像できた。行き場所などないはずだ、こいつだって。だのに、なぜ。なぜゲンは、あの時――。

 ゲンが横目で、わしを見た。わしは慌てて視線をもどす。時間は過ぎていく。額を伝う汗同様、じっとりと、なめくじのような歩みで。


 あれだけ高らかに掲げられていた太陽も自らの重さには耐えきれず、もはやその半身を地平の彼方へ隠していた。疲れ果てた赤が双見を覆う。わしらはまだ、座っていた。もはや汗も流れず、足を含めた身体の強張りもなくなって、ある意味では自然体でいられたのだが、ひとつだけ、ただひとつだけどうしても我慢のできないことがあった。腹が、減ったのだ。昨日の深夜から昼を過ぎ、夕方。おそらく一日ニ四時間のうち、四分の三程度の間こうしているのではないだろうか。幸か不幸か眠気はなかったが、とにかく腹が減っていた。腹が減って腹が減って、なんでもいいから食べたかった。

「おい」

 背筋が自動で伸びる。師匠だ。背後から師匠の声が聞こえた。いつ帰ってきたのか、気配なんてまるでなかったのに。真面目に罰を受けていたつもりだが、無意識に気を抜いていた所を見られたのではないかと不安になる。叱られるのではと。しかし、師匠はわしらを叱り飛ばすようなことはしなかった。

「来い」

 それきり師匠は何も言わなかった。まだ背後にいるのかどうかも判らない。わしはゲンのやつと顔を見合わせ、どちらともなく身を捩った。立ち上がることができず、手で這いながら稽古場の中へ入る。入って、すぐに気がついた。匂い。甘い、甘い、あんこの匂い。

「田中の婆さんからの貰い物だ。腐らせるのも悪い、食え」

 稽古場の中心に無造作に置かれた大皿には山のようなあんこの塊――おはぎが積み重ねられていた。腹の虫が鳴く。口の中がよだれで溢れる。生唾を飲む。でも、本当に食べていいものなのか。伸ばしかけた手が、空中で止まる。

「どうした、食え」

 促され、止まった手を再び伸ばした。山の中から一番小さそうなおはぎをつかみ出し、口へ運ぶ。甘い。甘くて、おいしい。おいしくて、苦しいくらい、おいしい。ゲンも隣で、おはぎをつかんだ。ゲンは両手でふたつもつかんでいた。そしてそれを、押し込むようにして一気に食べた。わしも真似をして両手につかみ、食べた。食べて、食べて、もっと食べた。食べて、泣いた。涙を流しながら、嗚咽を漏らしながら、わしは食べた。ゲンも泣いていた。二人で泣きながら、不格好で不揃いな、ひとつひとつが異様に巨大なおはぎの山を、腹が千切れそうになるくらいに平らげた。その間師匠は、ただのひとつにも手を付けることなく、次々におはぎを口へ放っていくわしらのことを黙って見つめていた。


「なんだい悪ガキども、何のようさね」

 後日わしとゲンは、田中のおばばの所へおはぎのお礼をしに参った。形は不格好だったけど甘くておいしかった、ありがとうと。そう言うとおばばは意味深な笑みを浮かべ、待ってなといってそのまま奥へと引っ込んでいってしまった。

「なんでわしを庇った」

 おばばを待っている間、わしはゲンに尋ねた。それ以上言葉を加えることはしなかったが、それでもゲンには通じるはずだった。なぜ庇った。あの日、何故わしを置いて逃げなかった。そうしたって、おかしくなかったのに。そうする方が、当たり前なのに。

 お前だって、怖かったはずなのに。

「師匠が」

 ゲンが、朴訥としたその人柄通りに、話し出す。

「師匠が俺達の父さんで、もし……」

「もし?」

「もし、家族になれるんだと、したら」

「……したら?」

「兄弟なんだろ、俺達は」

 たぶん。拗ねるようにゲンは、そう付け加えた。兄弟。わしと、ゲンが。師匠とわしらが、家族。

 ああ、それは。それは、とても――。

「出来の良い弟を持てて、わしは幸せもんじゃ」

「は? どう考えても弟はお前だろ」

「……なんじゃと?」

 どっちが兄だ、どっちが弟だで、わしらは言い争う。傍からみたら、醜い争いに見えたかも知れない。犬猿の仲の二人が、罵り合っているように見えたかも知れない。しかしわしは表の態度とは裏腹に、こうしてゲンと言い合うことに楽しさを感じていた。以前はそうではなかった。以前は本気で腹を立てても居た。いまは違った。それはたぶん、ゲンも。

「前言撤回じゃ! お主など弟なものか!」

「兄だからな」

「うがー!!」

「あ、平太に戒厳!」

「げ、ひな!」

「平太、『げ』とは何よ、『げ』とは!」 

 ひなだ。おばばの孫娘のひな。わしはこいつのことが苦手だった。一つしか違わないのに妙に年上ぶろうとするところが、面倒に感じられたのだ。

「なによ、そんな態度なら連れてきてあげるんじゃなかった」

「なんの話じゃ、相変わらずよく判らん女じゃな」

「あのねぇ! はー……私もつくづくお人好しよね。まあいいわ、ほら、いらっしゃい。……いらっしゃいって言ってるでしょ、ここまで来てなに隠れようとしてんのよ!」

「う、うう……」

「タテ!」

 ひなの後ろから出てきたのは、あの日以来別れたきりのタテだった。タテは落ち着きなく視線を左右に動かしながら、背中を丸めている。ひながその背中を引っ叩く。悲鳴と共に、タテの身体が前へ押し出された。

「よく判らないけど、あなた達に謝りたいことがあるんですって。グチグチ言ってたから引っ張ってきたわ、感謝なさい」

「あ、あの、おいら……」

 ひなに押し出されたタテは尚もその場でもじもじとしていたが、わしら二人を順繰りに見た後に、勢いよくその頭を下げた。

「ご、ごめん、二人共ごめん、おいら、どうしても怖くて、言い出せなくて……」

 ごめんなさい。絞り出すように、タテが言う。下げられたままのタテの頭。その頭頂には、よく見るとたんこぶが出来ていた。それでわしは、察した。そうだ、タテも受けたのだ。別の場所で、タテの罰を。わしやゲンと同じように。だったらもう、わしがするべきことはない。

「はいはい泣くな泣くな、形建泣くな。ちゃんと謝れたあんたはいい子だ、いい子だね」

「おいら、おいら、いい子じゃねえよぉ……」

「なんだい、下山んとこの倅も来たのかい」

 ま、いいさ。一人二人増えたって食いきれないくらいには造ったからね。そう言っておばばは、また家の奥へと引っ込んでいってしまった。どういうことかと固まっていると、奥から「なにやってんだい、さっさと入んな!」という声が聞こえてきた。わしとゲンは、ひなに頭を撫でられて慰められているタテを連れて、おばばの言う通り田中の家にお邪魔する。家の中からは、甘い匂いがした。甘い、つい最近嗅いだことのあるあの匂いだ。果たしてそこに置かれていたのはあのあんこ粒の塊、おはぎだった。

「覚えておきな、これが田中ババ様特製のおはぎだ。どこかのぶきっちょが握ったもんなんかと間違えるんじゃないよ」

 ま、案外あいつの握ったやつのがうまいかもしれんけどね。なにせ愛情が違うからね。おばばはそう言いながら、ぶっきらぼうにさっさと食いなと促してくる。わしは手を伸ばそうとして、隣のタテが俯いたままであることに気がついた。

「タテ、食べよう」

「でも……」

「食わないならいいけどな、お前の分まで食っちまうから」

「戒厳このいやしんぼ! ほら形建、あんたも食べなさい! こんなやつの思い通りにさせちゃダメなんだから」

「う、うん……」

「こんなやつ……」

「なんでもいいからさっさと食いな! まずくなるよ!」

「じゃあ……」

 タテがおはぎをつかむ。つかんで、躊躇いがちに、それを口に含んだ。もぐもぐと口を動かして、飲み込む。おいしいと、タテはつぶやいた。つぶやきながら、また涙を流していた。ひながおざなりにタテの頭を撫でていた。その光景を脇に見ながら、わしもひとつつまんだ。綺麗な小判型に揃えられた、一口大のおはぎ。甘くておいしいそれを飲み込んだ後、わしは隣を見た。隣のゲンも、わしを見ていた。顔を見合わせて、わしらは笑った。

「なに二人でにやにやしてんのよ、ずるいじゃない、私も混ぜなさいよ!」

「いやじゃ、これはわしとゲンの秘密じゃ」

「なによー!」

 ひなが頬を膨らませて怒る。その顔を見てわしは笑い、ゲンも笑っていた。それにつられたのか、タテのやつも笑って、ひなが一人なによ、なによと繰り返していた。それがおかしくて、楽しくて、わしはいつまで笑っていた。幸せな、本当に幸せな時間だった。


 わしらのために不得手な菓子作りをしてくれた師匠。愚痴をこぼしながらもよく面倒を見てくれたおばば。一癖も二癖もあるわしやゲンの友人で居続けてくれた形建。それに――それに、ゲン。みな、善い人達だった。家族として、双見の一員としてわしのことを受け入れてくれた、暖かくて心地の良い人達だった。大切な、わしの宝だった。


 いまはもう、誰もいない。


   二三 黒澤太平太

「友為よ、本当に必要なことであろうか。既に調べは終えているのであろう。ならばお主らだけで十分なのではないか」

「東はリュウ大人が関わりました。黒澤太平太が出ないとあっては、あちらの面子を潰してしまうことになります」

「道理は認めるがな……」

「ならば道理に従いください。如何に不合理なシステムであろうと、それで守られるものも確かに存在するのです」

「……むう」

 黒澤太平太という名を必要とする絡繰り。その絡繰りをこそどうにかしたいと、わしはそう思っているのだが。しかし守られるものもあるとまで言われては、無碍にもできない。友為が言っていることもまた、真実の一面であるのだから。納得の言葉を漏らし、友為に案内させる。扉が開かれる。部屋の中には既に、黒澤組の基幹を成す幹部連が揃っていた。物々しい雰囲気だ。しかし一人ぽつんと中央に座る青年は、そのような空気などまるでお構いなしの様子で周囲の組員に何事か話しかけ続けている。中々の胆力だと感心しながらわしも、部屋の中へと入っていった。敬礼のために立ち上がりかけた何人かの組員を御し、用意された座布団の上に尻を置く。

「洞四四くん……間違いはないかね?」

 わしが入っても構わず組員に絡んでいた青年が、自らの名を呼ばれたと同時に勢いよくこちらへと顔を向けた。青年の目は、異様な程にきらきらと輝いている。年相応のそれではない。まるで無垢な童のようだと、そのような第一印象をわしは抱いた。

「そのとーりっす! 四四は四四! うつろなよんよん!」

「うつろな……?」

「組長、被疑者の言動には独特な癖があります。気にせず進行するが得策でしょう」

「そうか」

 友為の助け舟を素直に受け、質問を続ける。どこから来たのか、これまで何をしてきたのか、なぜ双見に来たのか。友為の言う通り洞四四の返答は癖が強く所々で脳が理解を拒みかけたが、それでも誠実な態度であろうとしている彼なりの気配は伝わってきた。そしてその返答は、友為が行った事前の調査とも一致している。

 この会合は東との衝突を起こしかけた洞四四を査問し、その是非を問い、滞在か放逐かを判ずるために開かれたものである……というのは、表向きの理由であった。実態はただの儀式に過ぎない。会合を開く以前に友為の手によって洞四四という者の人となりは把握済みであるし、なにより東の頭目であるリュウ大人が一連の出来事を不問と処したのだ。理屈から言えばリュウ大人の許しを得た時点で、問題は解決済みであるはずなのだ。

 だが人と人、組織と組織とが相争う際に生じさせる面子や体裁といった不純物が、問題を複雑化させる。極単純であったはずの出来事を、無数の思惑でがんじがらめにしてしまうのだ。そのがんじがらめの縄を解き解すために開かれたのが、この会合なのである。そしてその会合を東側にも納得のいく形として成立させる主因が黒澤太平太――いや、黒澤太平太という“名“なのである。

 黒澤太平太が直々に関わった。必要なのは、その一事であった。内容ではない。結果は予め決められている。それは洞四四を除く、ここにいるもの全員が理解している。結果へたどり着くために、決まりきった劇――儀式を行っているだけなのだと。故に始めから、会合の中身に意味などなかった。

 今回のような事例が度々起こるわけではない。かといって、皆無と言えるほど滅多に起こらないという訳でもない。特別という訳ではない。東に限らず、外との因縁についてもそうだ。このような時勢、争いの種など踏まずに歩く方がむずかしい。大小様々な競り合いなど、それこそ日常茶飯事だった。その度に、黒澤太平太という名は強い効力を発揮した。黒澤太平太という名によって起こり得た衝突を未然に防いだことは、一度や二度ではなかった。黒澤太平太が仲介するならば。黒澤太平太が出るならば。黒澤太平太が許すならば。黒澤太平太という名は年月と共にうず高く積み重ねられ、北東ヤ国の隅まであまねく膨れ上がっていった。その名が持つ特別性を知らしめていった。双見の外に。そして――内に。

「ふむ、では本題に入ろうか。洞くん、きみは誤って西側から双見に入った。間違いないね?」

「間違いねーです! にし? から入ったと思うですよ! 四四も迷ったのですよ、どっちがどっちか判りにくくて。ちゃんとひがしはひがし! にしはにし! 判るようにばばーんと名前を張り出しておくべきだと思うです! 名前は大事っすよ?」

「検討しておこう」

「ありがとです!」

 一切の物怖じなく、洞青年は歯切れよく回答する。幹部の何人かはそれが不満であるのか屈折した感情を面に出していたものの、わしはむしろ好感を抱いた。畏まれられるのは、好きではない。

「話を続けようか。きみが無断で東に入ったこと、これも問題と言えば問題じゃが、意図したことでない上にきみは部外者、目をつむってもよかろう。じゃが、盗みを働いたことは見過ごせぬ。なぜそのようなことをしたのかね?」

「盗み? 四四は泥棒なんてしてねーですよ?」

「していない? しかしわしの下にはきみが食料品を盗もうとしたと届けられているが?」

「四四はただ、頼んだだけっす。『四四にもちょーだい』って。『分けてくーださい』って」

「頼んだ? どういう意味かね?」

「みんなでこう、輪っかになって、お米とかお野菜とかむしゃむしゃばりばり食べてたのですよ。四四もお腹空いてたし、あんなふうにみんなでつまみ食いできるくらい余ってるなら四四にもくれると思ったのです。でも、みんな臆病っすよねー。ちょっと声かけただけで、あんなに追いかけてきたんすから。それも、すっごい形相で! ……あは、いま思い出しても! あは、あは、あははは!」

 洞青年はお腹を抑え、芯から楽しそうに笑う。何がそこまで楽しいのか、やはりどこか掴みづらいところのある青年だ。だが、いま気になるのは彼の態度ではなかった。彼の言と、東の言との食い違い。明らかに矛盾が生じていた。どういうことかと、友為に尋ねる。

「断言はできませんが、あちらから提出された証言書には疑わしい点も少なく有りませんでした。虚偽の可能性は否定できません。鑑みるに、洞四四の言葉にも一定の信憑性はあるかと」

「なんじゃと? ならば問題など始めからないではないか」

「判断までは私の責務にございませんので」

「融通の……まあよい。洞くん」

「あは、あは……あは?」

「確認してもよいかな?」

「いっすよー! どんと来いです!」

「ふむ、では……」

 わしは友為から聞いていたこと、及びこの会合で得た情報を整理しながら、最終確認にと洞青年に尋ねていく。

「きみは中央で霊素研究を専門としている学者の卵で」

「卵っす!」

「その能力を見込んだ純に頼まれ、双見へ赴いた」

「頼まれて赴いたっす!」

「だが本来西で待ち合わせする所を誤って東から入ってしまい、物取りどもの狼藉に巻き込まれた……間違いないかね?」

「おーるおっけー間違いなーし! おっちゃんすごいですねー、完璧っすよ! 四四マスターっす!」

「そいつは光栄だ」

 興奮気味にわしを持ち上げる洞青年を置いて、わしは考える。霊素研究家の卵。霊素の研究が純の仕事にどう役立つのか、そこに疑問はある。特邏、それも純のように特殊な任務を負っている者と、霊素などという科学や医療関係者でもなければ接することのないようなものの間にどのような接点があるのか。しかしその疑問は洞青年にではなく、純本人に問い質せばよいことだ。顔も出さないあやつにはニ・三、ぶつけてやりたい愚痴もある。

 体を崩したわしは、会合に集まった幹部連中をぐるりと見回す。

「どうじゃろう諸君。話してみればこの洞青年、幾らか変わった所はあれど答弁自体は虚偽なく答えてくれたように感じられた。彼のことを信用し、その上で双見への滞在を認めてよいとわしは思うが、誰ぞ意見のある者はあるか」

 声を上げる者は一人もいなかった。当然だ。こうして意見を募る体を装ってはいるものの、どのような決が下されるのかは彼らとて理解しているのだから。彼らもこの無意味な儀式から、内心はさっさと解放されたいと思っているだろう。東への義理は充分果たした。これ以上長引かせる必要はもはやない。

「なさそうじゃな。では、決を――」

 下す――と、そう言おうとしたわしだったが、その言葉を最後まで吐き出すことはなかった。「組長」と、隣で友為が呼びかけている。しかしわしはそれを無視し、部屋の中のある一点、ふいに気を惹かれたその場所を見ていた。そこには見慣れぬ若者が、幹部連の中に混じって座っていたのだ。末席にて必死に眠気を堪えている様子のその若者を見て、それが友為の放った“間者“であることに勘付く。しかし、気になったのはそこではなかった。あの顔、あの風貌。どことなく見覚えがある。あれは、あの面影は――そうか。

「――いや、その前に最終確認をしておこうか」

 あの子は確かひなの孫で、まさるの息子の――。

「中くん、じゃったかな」

「……うぇ!?」

「おや、違ったかな」

「違わなねーっすよ! そいつはタナカのアタルくんで間違いねーのです! ね、アタル? アタルはアタルでアタルですな?」

「なんでてめぇが答えんだよ! あ、い、いや、そうです、中です。田中中」

「友為の命で、尾行もしていたと」

「え、あ、はい」

 やはり若者は、あの中だった。以前見た時よりもずいぶんと大きくなっていて、すぐには気が付かなかった。年月の速さを感じつつ、ひなから愚痴を聞かされた時のことを思い出す。孫が偉くなる偉くなるといって聞かないのだと。異人との抗争で息子を亡くしたひなとしては、孫にはもっと落ち着いた生活を送ってもらいたいのだろう。だが往々にして、保護者と被保護者の意思は一致せぬものだ。ひなには悪いが本人が望むのであれば、黒澤組の長として多少の華を持たせてやるのも悪くはない。

「そうか。では中くん、なんでもよい。お主が見たこと、感じたことで、どんなに下らないと思ったことでもこの場で遡上に載せていない何かがあれば申してみてはくれんか」

「お、俺が見たこと、ですか……?」

「そうじゃ」

「いや、でも、そう言われても……」

 どうやら中は突然話題を振られたことに萎縮してしまったようで、どんどんと声量を落としていく。その様子に逆に悪いことをしてしまったかもしれないと思いながら、それでも何か、この幹部連が揃っている状況でひとつだけでも覚えがよくなるようなことをさせてやりたいと、呼び水となる言葉を探る。

「むつかしく考える必要はない、些細なことでもよいのじゃ。なんぞ、ひとつくらいでもないだろうか」

「そんな、急に言われても…………あ」

「なんじゃ、あったか?」

「あ、一応。でもこんな、ほんとにどうでもいいことで……」

「よい、申してみい」

「なら……えと、そのですね。こいつ――相道純の妹に、その、プロポーズ、してたような……あ、すみません。やっぱりどうでもいいことっしたよね」

 ……ぷろぽーず?

「……友為?」

「……いえ、私の方でもそのような報告は受けていません」

 相道純の妹――みつるに?

「え、あ、いや俺、わざわざ言うほどのことかって――」

「アタルー、ほうれんそーは人間関係のキホンっすよ? しっかりしないとすぐにがらがら人生転落。お先真っ暗の、がっくし腰砕け。ほらアタル、のこった、のこった!」

「だ、だからなんで話しかけてくんだよ!」

「洞くん」

 中をおちょくって笑う洞青年が、こちらを見る。

「彼の言っていることは、本当かね」

「アタルの言ってることはよく判んねーですけど……家族になる約束はしたっす! ちゅーも!」

「……ほう、ちゅーも」

 ほう…………ほう。

「なぜそのようなことを?」

「なぜ!? いまなぜって言ったっすか!?」

 洞青年が腰を浮かせる。

「なんでそんなこと聞くのか逆に不思議ですよ! そんなの……愛を感じたからに決まってるじゃねーですか!!」

「…………愛?」

「愛っす!!」

 ヒートアップした彼は既に座布団から離れ、膝立ちの格好になっている。

「愛、愛っすよ! 世界でなにより一番最も大事で大切で何が何でも忘れちゃいけなくてずっとずっと死んでも死なれても守り続けなきゃいけないのが、愛っす! 愛だけが人間を人間にしてくれるですよ! 愛に比べたらお金も決まりも信仰も国も言葉も霊素も人種も生命も、ぜーんぶくっだらないがらくたっす! 愛のためなら、愛のためならどんなことだってするべきなのです! そんでもって四四は――」

 完全に立ち上がった格好で、彼はそれを、高らかに宣言した。

「ぼくはみつるさんを愛してる!!」

 しんとした空気が漂っていた。ここにいる誰もが、北東ヤ国にその名を知らしめる黒澤の幹部が、揃って言葉を失っていた。……ただ一人、わしを除いて。

 わしは、笑った。声を立て、大声で笑った。洞青年も笑っていた。わしのそれに負けない大きさで、なんとも気持ちよさそうに笑っていた。

「いや四四くん、お主中々おもしろいではないか。わしはお主に興味が湧いたぞ」

「四四もおっちゃんおもしろいと思うですよ! 仲良しこよしでうれしいですな!」

「ば、ばかおま――」

「まったくじゃな、はっはっはっは!」

「あっはっはっはー!」

「組長」

 場の空気などには一切左右されることのない、友為の平坦な声。

「組長、既に聴取は終えています。東への面目も充分立ちましょう。これ以上黒澤太平太という名を安売りする必要はないかと」

「最終決定者としてこの場にわしを引っ張ってきたのはお前じゃ友為。舌の根も乾かぬうちに自らの言をひっくり返すなど、そのような男に育てた覚えなどわしにはないぞ」

「ですが――」

「くどい、お主それでも黒澤の若頭か!」

 友為は引き下がる。平時に置いて黒澤の全権を委任しているとは言え、友為はあくまで子。親のわしに逆らうことはできない。それをしてしまったが最後、黒澤組という強固な城が土台から揺らいでしまうことなど、友為自身が誰より理解している。

 しかしまさか、最後の最後になってこのような爆弾が投下されるとは思いもしていなかった。これはもう東や西、黒澤といった問題ではない。――そうだもはや、黒澤太平太としての役割は終えている。

「みなご苦労じゃった、査問会はこれで開きじゃ。わしはこの者を連れて少し出かける。中くん、きみも付いてきたまえ」

 ここから先は、相道という家の話だ。


   二四 平太

「……平太よ、おるか」

「はい師匠、平太はおります。ここにおります」

「すまんが水をくれるか。のどが、少しな」

「ただいま」

 わしは予め用意しておいた水差しから、特別に用意したコップへと水を注いだ。口の先が尖ったそのコップを、師匠の口元に近づける。頭を抱え、角度を調整しながら、口の中へと注ぎ入れる。師匠の焼けただれた顔が、わずかに歪んだ。しかしそれは一瞬のことで、わしはそれを見ぬふりしたまま中身がなくなるまで流し込み続けた。

 先日、双見の東で爆発事故が起こった。来る戦争に備え増産された科学兵器工場から出火が起き、連鎖爆発を起こしたのだ。土地は広く汚染され、負傷者の数も優に三○○を越えている。なんとか脱出できたものの病院へ搬入できる数には限りがあり、軽症であったはずの者が重症に、重症で済んでいた者が帰らぬ人となる事例も増加した。双見の歴史の中でも五指に入る、凄惨な事故だそうだ。だがそれでも、被害者の数は抑えられた方なのだ。師匠が、相道太大たいだいがその身を呈して何十人もの――いや、百人以上もの人を救助したが為に。燃え盛る工場の中へと飛び込み、その身も顧みず逃げ遅れた人々を助け出していったが故に。

 その代償として、師匠は全身に火傷を負った。右手は五本のうち三本の指を失い、左腕は肘から先を失った。足も、左右共に二度と動くこと叶わないと診断された。わしに歩くことを教えてくれた、強く、逞しく、蹴れば大木すら揺さぶった師匠の、その、足が。

 それでも師匠は、一切の泣き言をこぼさなかった。不幸を嘆かず、特別にと用意された病床に入ることも断った。もっとそれを必要とする者のために使って欲しいと言って。師匠は、泣き言などこぼさなかった。たった一度、ただの一度だけ、火傷の高熱にうなされ意識の混濁した夢現の境にてつぶやいた言葉を除いて。「もっと励んでおれば、もっと助けられただろうか」と、そうつぶやいたことを除いて。それ以外に師匠は、事故のことについても、自らの身体のことについても言及することなかった。

 師匠は、相道太大は、強かった。こんな姿になろうと、立ち上がれなくとも、武術家として二度と再起すること叶わなかろうと、この人は強かった。何があろうと、この人には勝てないと思った。近づくことすら叶わないと感じた。しかし、だからこそ近づかなければならないのだ。この人が生きた証を途絶えさせない為にも。

 相道を、繋いでゆくためにも。

「平太」

「はい」

「戒厳はどこか」

「それは……」

「山の娘の所か」

 山の娘。ねむという名であるそうだが、話題に上る際にその名で呼ばれることは殆どない。ある日山から降った彼女を双見の者は口を揃えて山の娘と呼び、忌避した。最後の『息重』――間東の家を慮って。彼女に同情的な想いを抱える者も、居ないではない。出自がどうであれ、彼女自身に否がある訳でないことなど、誰もが知っていたのだから。それでもやはり『息重』とは、間東とは、双見において大きな意味を持つものなのだ。この、双子の神に見守られる地においては。

 しかしそのような状況下に置いても彼女は、人に尽くすことを辞めようとはしなかった。いまも爆発に巻き込まれた被害者のため、寝食を惜しんで看護に勤しんでいるはずだ。例えそこに、なんらの見返りも期待できなかろうと。そしてゲンは――戒厳は、そんな彼女の側に在り続けようとしていた。彼女を山から降らせた、その責任を果たすために。

「呼び戻して――」

「よい、あれとて理解はしている」

 言って、師匠が身体を起こす。だが、いまの師匠の身体はそのように動ける状態などでは決してない。現に師匠の身体は歪に傾き、平静を装いきれない顔には苦悶の表情が浮かんでいる。とっさに、手が伸びた。しかし師匠はわしの手を制し、長い時間を掛けながらもあくまで自力に上半身を起こしきった。身を起こした師匠の顔は、いつもわしやゲンに指導を付ける時の、あの、相道たる武術家の相貌を取っていた。

「平太。相道の名は相道を修め極めた者のみが継げるもの。二人共に継がせることはできん。判っておるな」

「判っております」

「ならばなぜ、譲ろうなどと考えておる」

 一瞬、返答に、詰まる。

「……そのような、ことは」

「平太よ、お前は私が思う以上に強く育った。その足は私のものよりも、戒厳のものよりも硬く、強く、多くの者を支えてなお揺らぐことのない巨木と成った。戒厳と併せ、お前たちは私の誇りだ」

「師匠……」

「だがその強さが、お前を増長させてしまった。生来より抱く“守らねば”という気質と合わさって、な。言うなればお前は、人を信じておらぬのだ。人の、生命の有する生きようとする力を」

「師匠、そんなことは――」

「戒厳は強いぞ」

「……存じております」

「知らぬさ。お前が知っているのは、かつてのあれに過ぎない」

「……どういう意味でしょうか」

「名を持てぬ苦しみを、あれはよく知っておるということだ。あいつは死にものぐるいで相道を継ぎにくるだろう。山を降り、名乗ることを禁じられた娘のために。迷いなき者は、強いものだ」

「……」

「その頑迷さこそが、あれの弱さでもあるのだが」

 明鏡の瞳が、未だ戸惑いの最中にあるわしを見据える。

「平太、お前は強い。だが、弱くもある。戒厳もそうだ。強く、同時に弱い。お前達だけではない。私も、双見の者も、みなそうなのだ。絶対の強者も、絶対の弱者も存在しない。強きと弱きが背反の間隙に見惑する者、それが人間なのだ。故に、傲ってはならぬ。故に、見限ってはならぬ。故に、閉ざしてはならぬ。故に……故にお前たちは、正しく己と向き合わねばならぬ。他ならぬ、己自身の為に」

「己の……?」

「励め、平太。よく励み、侮らずよく生きよ。それが願いだ」

 その言葉を最後に師匠は目を閉じ、張り詰めた力を解いて床に崩れた。そこにはもう、傷と火傷に全身をやられた当たり前の肉体しか存在していなかった。その姿は、諦めを抱かせるのに足るものであった。おそらくは、もう、師が自力を取り戻すことは――。

「一つだけ、宜しいでしょうか」

 返事を期せず、願いを吐く。

「負けるつもりでは挑みませぬ。ですが万が一……万が一敗れた時には、その時には――」

「――許す。お前の好きにするがいい」

 期せずして与えられた返答を、受け取る。わしは深々と、これまで受けたすべての恩と想いとを込めた頭を下げ、師――相道太大によって鍛えられた足で立ち上がった。


「……平太」

「戒厳」

 ゲン――いや、戒厳は、師の言葉通りに覚悟を決めていた。なれば、もはや言葉は必要ない。これより先、雄弁なるは口ではなく、拳となる。構える。互い、向かい合って。師より受け継いだものを――相道を、絶やさぬために。


 どちらが先であったかは、定かでない。あるいは、同時であったのかもしれない。その日、その時の、その瞬間。一人の相道が、この世を去った。一人の相道が去ると共に、一人の相道が誕生した。そして――ただの戒厳は相道戒厳となり、黒澤平太は、黒澤“太”平太となった。


 間もなくして、戦争が始まった。あの、世界を一変させてしまった戦争が。ヤ国は破れ、ヤ国の裡にある双見も敗戦の影響に抗えず、その有り様を変じていく。それでも双見は、わしの故郷であった。数々の思い出と、数々の愛しき人の住まう、魂の故郷。わしは、双見を守りたかった。守らねばならなかった。双見を――相道の生きる、双見を。そのためには、必要だった。力が必要だった。もっと、もっと大きな力が。何者にも侵されぬ絶対的な力。それに――知恵が。


 そしてわしは、八重畑代議士と出会った。


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