一七~二◯

   一七 相道みつる

「うきゃー! いた、いたはぁー! いゃーはははー!」

「……なに、これ」

「ウロ?」

「……一応は、止めたんだ。でも平気だって言うから連旋脚、教えてみたら……」

 兄の連れてきた洞とかいう男が、腿の付け根を押さえてのたうち回っていた。悲鳴を上げていたのは私のあの子ではなく、こいつだったのだ。心配して、損した。痛みを覚えた分の気力を返して欲しい。

「やっぱり、教えない方がよかったよな……」

 兄さんは呆れた様子で、特に気にしてもいない。でもこの子は。この子は違う。責任感が強くて、思いやりに溢れたこの子は。気にすることなんてないのよ、あなたのせいじゃないんだから。そう言いたいけれど、きっと、何もしない方がいいのだろう。言った所で、この子は喜んでくれない。口をつぐんでいる方がまだ、気分を損ねないだけマシなのだ。

 頭が痛い。こいつのせいだ。こいつが出来もしないことを教わろうとしたせいでこの子も嫌な思いをして、私の頭も痛くなるのだ。それにしても……なんなのこいつ。のたうち回って悶絶してるくせに、なんで笑ってるのよ。本当に気色悪い。脳みそカビてるんじゃないの。

「きーとさん、きーとさん、いてぇです! なんとか、なんとかしてくださー!」

「うるせぇなぁ……壊すのはともかく治すのは苦手なんだよ」

 面倒くさそうに頭を掻いた兄が、億劫そうに洞を見る。兄の手が洞に触れる度、いひぃとかぴぎゃっとかといった聞くに堪えない悲鳴が上がった。悲鳴は何度も上がったけれど、その分の見返りはどうやらないようで、兄は早々に諦めたとでも言いたげなポーズを取った。それで、伺うような目つきで――私を見た。

「みつる、頼んだ」

「はぁ!?」

 私が? こいつを? 冗談じゃない。なんで私がそんな気持ちの悪いこと。しかし兄は、それがさも当然みたいな口調で私に命令する。

「お前按摩、妙に得意だったろ。稽古場でも、ちょっとした脱臼なんか訳なく整復してよ」

「昔のことじゃない! それにだからって、こんな気色の悪いやつ――」

「みつる」

 不安そうな声が、私の熱を止めた。

「俺からも、頼む」

 頼むよと、もう一度彼が、繰り返す。両の拳を、固く握って。

 家族以外の、それも男の身体なんて、触れるどころか見ることすらいやだった。『あんどろぎゅのす』だって払いがいいから続けてるだけで、他に仕事があればとっくに辞めてる。汚らわしい男ども。例外なんてない。男なんて、男ってだけで、汚いんだ。年がら年中どろどろとしたものを身に溜めて、臭くて、下品で、いやらしくて。考えるだけで、身震いするくらいで。でも、この子は違う。この子だけは綺麗なのだ。綺麗で、やさしいのだ。どうしてと思うくらい。

 愛おしいのだ、どうしてと思うくらい。

「……判ったわよ」

 座ったままこちらを見ていた兄さんを除けて、のたうつ洞の側に寄る。手を伸ばす。少し震えているのが、自分でも判る。けれど――触れた瞬間、震えは止まった。なぜかは判らない。判らないけれど、昔からこうだった。稽古場で誰かが怪我をした時、その怪我をした誰かに触れると私は、どうすればその痛みを取り除くことができるのか瞬時に理解してしまえたのだ。いまも、そうだった。洞の腿に触れる――ああ、これなら簡単。一瞬で終わる。力を込め、ズレた関節を寸分の狂いなく在るべき位置へと嵌め直してみせる。神経を、筋肉を傷つけないよう、ミリの精度と繊細さを以て――。

「終わったわよ」

 果たして洞は、みっともなく喚くのを止めた。元々大した怪我じゃない。痛みだってもう、殆ど感じてないはずだ。だいたい騒ぎ過ぎなのよ、あの程度で。父さんや兄さんなら、あんなみっともない真似しなかったわよ。……とにかく、私の役目は終わり。これでこの子の、私を見る目もきっと――。

 悪寒がした。なに? 反射的に、頭を動かしていた。上半身を起こした洞が、私のことをじぃっと見つめていた。

「な、なによ……」

 洞は、笑っていなかった。これまであんなに、無意味なほどに笑っていたのに。無表情に、だけど黒目がちな目だけが異様な輝きを湛えて、私を見ていた。そしてその顔が、その目がどんどん、どんどんとどんどんと近づいてきて――。


 は?


「……………………は?」

 いま、こいつ、え? なに? なに?

 だっていま、私とこいつの、あのあれが、唇が、唇と、唇が――――。

「みつるさん!!」

 満面の笑み。

「ぼくと家族になって、ずっと、ずぅぅぅっと! 一緒にいてください!」

「なん、なん、なん、なん…………!?」

「この先一生、ぼくはあなたを愛します!!」

 ……言葉が、でない。

「あー、えっと……みつるくん、愛する我が妹よ。いまのこの状況でお願いするのはえらく躊躇してしまうのだが、実は俺たち宿を決めてなくてね。よければその、何日間か寝泊まりさせてもらえたらなぁなどと思う次第なのだが……」

 兄を見た。兄は、さっと視線を逸した。見たことがないくらい、情けのない顔をしていた。私のあの子を見た。困惑した様子で、両手を忙しなく動かしていた。洞を見た。満面の笑みを浮かべていた。

 私は叫んだ。


 出てって!!!!


   一八 下山形建

「どうだゲン! どうだイタ! これが祭りだ! これが神輿だ!」

 走る、走る、走る。逸る気持ちを抑えられずに、おいらたちは走る。おいらは走る。見せたくて。教えたくて。おいらの自慢を、おいらの興奮を知ってほしくて。

「おいらたちの、これがほんとの双見だ!!」

 両手を広げて、双見をぶわっと見せつける。そうだ、そうだ、これが双見だ、おいらの双見だ! イタも、あのぶっきらぼうなゲンまでもが、目を輝かせて双見を見ている。身体を震わせて、腹に響く振動を踏ん張って受け止めている。そうさ、双見はすげーんだ。この熱気が、この一体一丸が双見なんだ。山も、川も、人も、その全部を合わせて双見なんだ。それで――お前達だってもう、双見の一員なんだ。おいらたちは仲間で、ひとつの双見なんだ!


「むぅ……」

「おいイタよう、いい加減機嫌直せや」

「なにを、一体一丸と言ったのはタテではないか! それを、それを子供はダメなどと……」

「しょうがねーだろ、神輿担ぎにゃ怪我も多いし。第一手が届かねーよ、大人に混じっても」

「知らん、わしは担ぐ! 来年は絶対に担ぐ!」

「残念だけど、来年はやらねーよ。『合背』は三年に一度、次は三年後になんだ」

「なんじゃと! むむむ……ならば三年後、三年後こそ絶対じゃ!」

「イタの足じゃ無理だろ」

「なんじゃとぉ!!」

「いや、ゲンの言う通りじゃねーの? そこまで歩けるようになっただけですげーけどよ、さすがに無理っしょ」

「タテまで言うか! ふん、今に見ておれ。すぐにお主らなんかよりも強くて立派な身体に鍛えてあげて、わしだけでも担いでみせるからな!」

「……単純筋肉馬鹿」

「ゲン、聞こえたぞ! どうしてお主はいつもいつも!」

「ほんとおめーらは、仲が良いんだか悪いんだか……ん?」

「どうした?」

「おいゲン、無視するな! 撤回せい、わしは単純馬鹿じゃ――」

「いや、ちょっと……わりー、二人は先に行っててくれ」

 言って、おいらは踵を返す。ゲンに向かってぎゃあぎゃあと食って掛かるイタの声が聞こえてきたことに苦笑するも、それでもおいらに心配はなかった。なんだかんだ、あの二人の相性は悪くないのだ。本人たちは認めないだろうが、あの二人は本物の兄弟になれるとおいらは思う。相道の、師匠の後を継ぐ兄弟に。

「……っかしいな」

 見間違いだったのだろうか。二人と話していた時、ちらっと見えた気がしたのだ。子供。おいらたちと同じくらいな年格好の。別に、是が非でも追いかけなければいけない訳じゃない。ほんの少し、ほんのちょっぴり気になったから追いかけてみた。あの赤い襟巻きが、なんとなく目を引いて。それだけの理由に過ぎない。だからいますぐ踵を返して、ゲンやイタの所にもどってもよかった。その方が賢いとも思った。だけどおいらは、もどらなかった。癪だったのだ、ここまで来て引き返すなんて、なんだか負けたみたいで。

 地上から聞こえる祭り囃子が、少しずつ遠ざかっていく。月山の木々は厚く高く、それでも不思議と暗さのない、暖かでやさしい森を抱えている。月山は、双子の北山と共に神代の時代より変わりなく、いまの形のまま大きな怪我もせず静かに暮らし続けてきたのだと田中のばあさんから教えてもらったことがある。話だけだと眉唾だと思うことも、こうして分け入りゃ実感する。ああ、ここには神様がいらっしゃるんだと。双子の神に見守られた地、双見。北と月の双子山と同様に、この先もずっと変わらないといい。清涼な空気を取り込みながら、おいらはそう思う。

 木々と葉の通路を抜け、開けた場所に出た。遮るものの一切ない、太陽の恩恵を一際強く感じられる場所。そこに、そいつはいた。気のせいかと思いかけていた、俺が見かけたあの赤色の襟巻き。

「おーい」

 呼びかけても、そいつは反応しなかった。見たことのないやつだ。「なに見てんだ?」おいらはもう一度声を掛けつつ、そいつの隣まで歩いていく。そいつが見ている先に、視線を向けながら。眼下に映ったのは、双見の全貌――いや、ここからだと西の半貌か。何にせよ、祭りに沸き立つ賑やかな双見の光景が、その熱気が、遠く離れたこの山の上にまで伝わってきた。ぞくぞくっと、興奮する気持ちが更に増す。

「おめーどこの家のもんだ? 見かけたことねーけど。なんだ、肌しっれーな。……もしかして山のお人だったりする……しますのか? ……まーいいや。上とか下とか、今日なら関係ねーだろ! な、行こーぜ。そんなとこに居てもつまんねーよ。祭りは飛び込んでなんぼだからな! ほら――」

 おいらは、そいつの手をつかんだ――直後、慌てて離した。冷たかった。氷みたいに。こちらの手まで、凍らされそうなくらいに。

「……ごめんなさい、いけません。あそこへはもう、いけないんです」

 ぽろぽろと、そいつの目から玉の涙が零れ落ちた。拭いもせず、流しっぱなしに。涙と言うには細かに過ぎる粒の結晶が、次から次から零れていく。零れて、落ちて、砕けていく。

「な、なんだよ、やめろよ。やめろって。これじゃまるで、おいらがおめーのこと虐めてるみてーで――」

 突然、上空に何かが現れた。同じ形をした何かが複数。鳥みたいな姿をしたそいつらは凄まじい速度で双見の空を横切り、その腹から細長い卵をいくつもいくつも落として――。

 なんだ、あれ。

「……え?」

 目が、眩んだ。光、暴力的な。それから熱。振動。なんだ、なんだ、なにが起こってるんだ。眩む目を、それでもなんとか開いてみせる。起こった何かを、その目で見る。

 目に映ったのは、信じられない光景だった。

「月山が……!」

 月山が、焼けていた。焼けて、抉れて、砕けた岩石が岩壁を砕いて、木々を巻き込み転がっていく。燃えた塊が爆ぜては増えて、雪崩となって自壊する。神代から続いた土地が、双見の心臓が――神様が、殺されていく。

「父ちゃん、母ちゃん!!」

 西の双見を見下ろす。父ちゃんに母ちゃん、ゲンにイタ、田中のばあさんに、師匠。他にも大勢、大勢の顔が頭に浮かんだ。みんなは無事か……いや無事だ、無事なはずだ。だって、あんな卵なんかにやられていいはずがあるもんか。首を伸ばして、そのまま落っこちても構わないってくらい身を乗り出して、双見を見る。おいらが帰る、場所を見る。でも、本当に信じられないのは、ここからだった。

 そこには、おいらの知らない町並みが、広がっていた。

「なんだよ、これ……」

 おいらの知らない町並み。それに、おいらの知らないやつら。熱気なんてない。どこか張り詰めて、どこまでも疲れ果てて。双見に似た、双見ではない場所。おいらは知らない。こんな所、おいらは知らない。

「あそこは――」

 燃えていた。知らない町の一角で、知らない建物が燃えていた。あの火は空襲の火ではない。猛り狂う、鎮火することを知らない炎。いやな、炎だった。見ていると、異様に気分が悪くなった。炎、炎――炎の中で、踊る影がひとつ、ふたつ。知らない影だ、あんなものは知らない。あんなの知らない、おいらは知らない、知らない、知らない、知らない――。 


 おじいちゃん、おかあさんが、おかあさんがぁ――!


 いや、違う。違う、違う。おいらは知っている。変わってしまった町並みも、削れた月山も、見たことのない人々も。そして、あの、建物も。おいらは全部、知っているはずだ。知っているのだ、何もかも。何もかも。

 ああ、そうか。

 ……おもや。

「ごめんなさい。ぼくにはもう、あなたを連れて行ってあげることができないんです――」

 ……組家くみやね

「そうか、そうか……おいらはもう、あっち側にはいけねんだな」

「……ごめんなさい」

 広げた両手を、然と見る。皺だらけにやせ細り、見る影もなく衰えた我が手。釘の一本すらまともに掴めそうにない、この骨と皮だけの指。これがいまの――現実の、おいら。

「あれが、おいらの罪なんだな……」

 あの建物を焼く業火はおいらたちの下まで触手を伸ばして、乾いた我が手は既に炭と塵とに還元しつつある。全身が燃え尽きるのも、時間の問題だ。おいらは、それでよかった。だが――。

「泣くなよ、なあ、泣かんでくれよおまえさん。おまえさんに泣かれたらどうしていいか、おいらにはとんと判らなくなっちまう」

 燃えているのは、おいらだけではなかった。目の前の少年。ぽろぽろと珠の涙を零す少年もまた、おいらと同じように燃えていく。焔に焦がされ、粒子の涙が落ちきる前に蒸発する。

「あれはおいらの罪で、おまえさんのもんじゃねえ。それなのに……ああそれなのにおまえさんは、どうして、どうしてそんなに――」

 目の前のすべてが焔の朱に染まる。その不確かな視界の中でも、少年は身じろぎせずにそこにいた。何も悪くないというのに。罪などないというのに。それでもそう、ただそこにいることが罪であるかとでも言いたげに。

 おまえさん、おいらにゃもう、見ていられない。

 おまえさん、おまえさん……おまえさんはどうしてそんなに、自分を虐めたがるのさ――。


   一九 下山組家

「色月くん!?」

 お盆に乗せたお茶が、ひっくり返りかける。かたかたと揺れる湯呑が転ばぬようなんとかバランスを取ってからそれでもぼくは、慌てて彼の下へと駆け寄った。

「大丈夫、何があったんだい?」

「いえ――」

 胸を抑え、小刻みに震えたまま彼は、ぼくを見る。

「ごめんなさい、ご心配をおかけして。でも、大丈夫です。泣いているのは、ぼくではありませんから……」

 色月くんは、泣いていた。ぽろぽろと涙を零し、心なしか顔色も悪い。けれど彼はそんな状態にあってなお、微笑んでいた。自分のことよりも、慌てるぼくを労るように。何も言うことができず、ぼくは無言でハンカチを手渡す。小さくお礼を言って彼は、溢れる涙を拭き取った。仄かに輝く涙の珠が、無地のハンカチに吸われていく。

「……父さんに、何かひどいことでも言われた?」

「いいえ、そんなことは。形建なりたてさんはいつも通り、いろんなことをやさしくお話してくださいました」

 やさしく話をする父。想像できなかった。父さんを見る。わずかに口を開いたまま、横になって動かない父。呼吸だけはしているけれど、注意深く観察しなければそれだって気づかない。死んでいると言われても、驚きはしないだろう。棟梁として頑固に、けれど一本気に仕事をこなしていた父は、もういない。父は、寝たきりだった。もう何年もの間。


「形建さんに呼ばれて来ました」

 そう言って色月くんは、ぼくの前に現れた。最初は、何かのいたずらだと思った。なぜって彼が来たときにはもう父は病に臥せ、誰と交流することもできなくなっていたのだから。父が誰かを呼ぶなんて、そんなことはあり得ない。それが、常識的な考えというものだろう。けれどぼくは、彼を招くことにした。やさしい顔をした彼が寝たきりの父に酷いことをするとも思えなかったし、何より彼の態度には、冗談では済ますことのできない真剣味があったから。彼がみつるちゃんの息子だと知ったのは、そうして彼がもう、一○回以上もうちに来るようになってからのことだった。

 色月くんは、父と話すことができるのだという。寝たきりの父と、言葉以外の言葉にて会話することができるのだと。真実なのかどうか。それを確かめる術は、ぼくにない。けれど彼が時折話してくれる“父の伝言“は、確かに父にしか判らず、また父の言いそうなことばかりで。

息重そくえ』、山の人。神の息と息を重ね、その意を訳し下界の我らに賜ってくださる神なる者の代弁者。その心は神のみでなく、市井に生きる一人ひとりの裡にまで精通し、時には話せぬ者の声となり、時には狐の悪憑きを見事に祓ってみせたという。双見にはつい最近まで、こうした人々が確かに存在していた。とはいえ彼らに所謂そうした神通力があったのか、その実までは定かでない。というのも彼らは基本山にこもり、滅多に麓へは降りてこなかったから。そして数年前。北山の頂にて長く『息重』を継ぎ続けた唯一のお家も、当代の主の失踪が切欠となってついには途絶えてしまったから。そのため真実は、結局のところ誰にも判らない。

 けれど、ぼくは思うのだ。もしかしたら、色月くんは『息重』と同じようなことができる子なのではないかと。そしてそう思う根拠は、何も伝承への盲目的な信仰に由来するという訳ではない。ぼくは、知っているのだ。あの人を。色月くんと同じように赤いマフラーを頚に巻き、ぼくたちみんなの慈母のようであった、あの人のことを。色月くんも、あの人と同じなのではないかと――。


 玄関から、呼び鈴が鳴らされた。お客さん? 誰だろう、こんな時間に。外はもう真っ暗だ。仕事の話であれば、こんな時間に来るとは思えないけれど。腰を浮かせかけ、はっと気づき、色月くんを見る。

「組家さん、ぼくなら大丈夫ですから」

 もう涙の止まった色月くんが折りたたんだハンカチを膝に載せ、微笑みながら見上げている。けれど、元々白い肌の色は、先程以上に血色が悪いように見える。

「……本当に、大丈夫なんだね?」

「はい」

「そう……判った。でも、無理はしないでね。辛かったら横になって構わないから」

 お茶、まだあったかいと思うから。そう言ってぼくは、運んできたお茶を色月くんの前に滑らせた。色月くんは小さく首を傾げながらお礼を言って、けれど湯呑に手を伸ばそうとはしなかった。


「よう、ヤネ。二年ぶり」

「きっちゃん!」

 扉を開けた先には、懐かしい親友の顔があった。くたびれた上着に、揃えることを放棄した無精髭。それに面倒だからといって切ることを諦め括った、長く背中まで垂れた後ろ髪。二年前から何も変わっていない。きっちゃん。親友の姿が、そこにあった。

「え、どうしたの? いつ帰ってきたの?」

「親父さんとこのトラックに乗って、今朝方な。ま、なんにせよ元気そうでなによりだ」

「きっちゃんこそ!」

 きっちゃんが腕を上げた。合わせて、ぼくも同じように上げる。そして掲げた二人の腕を、手首の辺りで交差するようにぶつけ合う。軽い、心地の良い衝撃。この感覚も、ずいぶんと久しぶりだ。と――。

「純さん、ここがこれからのお宿っすか?」

 掲げたぼくらの腕をくぐって、一人の青年が家の中へと潜り込んできた。青年は既に靴を脱いで、きょろきょろと左右を見回している。

「おま……お前はほんとに厚かましいやつだな、遠慮って言葉を知らんのか」

「えんりょー?」

「ほんとに知らないのかよ……まあでも、厚かましいのは俺も同じか」

「どういうこと? そちらは?」

「四四は四四っす! 洞四四! うつろなよんよん! よんよんよん!」

「う、うつろな……?」

 なんだろう、ずいぶんと子供っぽい子だな。明るくて、悪い子ではなさそうだけれど。

「こいつのことは気にしなくていい、混乱するだけだから。それよりな、実はみつるのやつに追い出されちまって泊まる場所がないんだ。それでな、もしお前さえよければしばらくの間、二人分の寝床を貸してもらえると助かるんだが……」

「なんだそんなこと、ぜんぜん構わないよ! 部屋ならいくらでもあるしね。じゃ、ね、入って、入って」

「悪いな、お言葉に甘えさせてもらう。だが、その前に……」

 そう言ってきっちゃんは、上半身だけを倒して地面に腕を垂らした。その先にあったのは、卵大の石ころ。きっちゃんはそれを拾うと、途中の動作なんて殆ど見えないくらいの速度でその石ころを放った。草むらから、悲鳴が上がった。

「見送りご苦労、今日はここで寝泊まりするから尾行はもういいぞ! てめぇも帰ってさっさと寝な、不向き者!」

 どたばたと不揃いな足音が、ひゃ~と言った哀れを誘う悲鳴と共に遠ざかっていった。きっちゃんの顔を覗く。意地悪そうな、いつか見たいたずらっ子の笑みがそこにはあった。

「黒澤の若頭様と悶着あってな」

「……相変わらずだねぇ、きっちゃんも」

「純さん?」

 廊下の奥から、声が聞こえた。色月くんだ。きっちゃんの声が聞こえて出てきたのだろう。その証拠に、色月くんは普段なら見せないような安心した顔をして、そして、そして――糸が切れたように、その身体が、沈んで――。

「しづ――」

 きくん――というぼくの言葉を、音速の風が切り裂いた。音と衝撃の波動。反応速度を越えた現象に、数瞬遅れで認識が追いつく。いまこの場で起こったことの、その結果だけが目前に現れる。その結果とは、地面に倒れるはずであった色月くんの身体が、無事に受け止められたということ。そしてその色月くんを受け止めたのが、一秒前まではぼくの隣にいたはずのきっちゃんであるということ。それが、結果だった。

「おかえりなさい、純さん」

「た……」

 倒れた色月くんを両手で抱えるきっちゃんが、その手の内で最も目立つ赤色を見つめる。

「……マフラー、まだ巻いてくれてたんだな」

「もちろんです。だってこれは、純さんから初めて頂いたものなんですから」

 色月くんが、自身の頚に巻いたそのマフラーに触れた。赤い生地に彼の白い指が、アンバランスに浮かび上がる。

「ありがとう、純さん。少し立ち眩みしてしまっただけですから、もう大丈夫です」

「……色月」

「そんな顔、しないでください。本当に大丈夫ですから。それにその、この格好はぼくも、少し……」

「あ……あ、ああ。そうか、そうだな」

 色月くんのことをつかむように抱きとめていたきっちゃんが、その手を緩めた。色月くんはきっちゃんの肩を借り、多少ふらつきながらではあったもののしっかりと自分の足でその場に立った。それを確認し終えてからようやく、きっちゃんも立ち上がる。

組家くみやねさんも、ごめんなさい。心配させてしまって」

「ぼくはいいのだけど、本当に平気?」

「はい、もう平気です。それから、えっと……」

「四四っす!」

「四四さん。あの、どうされました?」

 色月くんに言われて気づいたけれど、洞くんはいつの間にか、ずいぶんと奇っ怪な格好をしていた。両足を投げ出して座り込み、壁に背中をくっつけた状態で両腕をバンザイ、その両腕もびたっと壁にくっつけている。

「ふっとばされたポーズっす! 壁にどっごーんっすけど、ポーズなんでなんてことないっす! ムテキっす!」

「なんてことないなら、よかったです」

「色月」

 むーてきむてき、むてきの四四がごーごごーと、なんだかへんてこな歌を歌い続ける洞くんのことを完全に無視したきっちゃんが(ぼくの方は妙なノリの良さがあるその歌を完全に無視することできず、不覚にも少し聴き入ってしまった)、懐から包装された四角い何かを取り出す。

「その、これなんだがな」

「これは?」

「海外でな、新しく作られた機械なんだそうだ。確か、テープレコーダーとかって名で。テープというのに、こう、音を録るんだそうだ。吹き込んで……まあ、そういうおもちゃだ。土産のつもりで持ってきたんだ。もらってくれないか」

「いいんですか?」

「ああ、そのために買ったからな。むしろもらってもらわないと、困る」

 押し付けるように渡したきっちゃんのお土産を、色月くんは両手で丁寧に受け取る。そして受け取ったそれを、胸の裡へと大切そうに抱きしめた。

「ありがとうございます。大切に使わせてもらいます」

「ああ、うん。そうしてもらえると助かる。助かるんだが……」

「純さん?」

 頭を掻いて、きっちゃんは色月くんから目を逸らす。

「いや……こんなものでほんとに良かったのかと、いまさらな。よく判らずに買ってきてしまったんだが、もっと相応しいものがあったんじゃいかと――」

「そんなこと!」

 頭を掻くきっちゃんの、その手が止まる。

「……そんなこと、ありません。テープレコーダー、でしたね。とても素敵なものだと思います」

「……そうか?」

「それに、それにぼくのこの喜びは、何よりも純さんのお気持ちがもたらしてくれたものですから。だから純さん、そんなふうに言わないでください。ぼくのありがとうを、言葉のままに受け取ってもらいたいんです」

「そうか、うん……そういう、ものか」

「はい、そういうものです」

「……判った。それ、ウロたちと一緒に色々遊んでみてくれ」

「はい!」

「四四の歌も録るっすか!」

「黙れ」

「ふぉう」


「色月、本当に平気なのか?」

「そうだよ色月くん。もうちょっと休んでからでも……」

「ありがとうございます。でもこれ以上遅くなると、母さんを心配させてしまいますから」

 正直心配は尽きなかったけれど、本人からそう言われてしまってはこれ以上引き止めることもできない。せめてもと玄関先まで見送りに出たぼくときっちゃんに、色月くんが恭しく頭を下げた。

 家の中からは、一人玄関に残った洞くんのハミングが聞こえてくる。さっきまで歌っていたのと同じメロディだ。もしかしたら、怒られないラインを探っているのかもしれない。……まずい。これ、耳に残ってしまいそうだ。

「色月」

 既に歩き出していた色月くんを、きっちゃんが呼び止める。

「……その、みつるに、よろしくな」

「はい。母さんもきっと、純さんが帰ってきて喜んでると思います」

「……色月、みつるは――」

「あ」

 路地の向こうの暗がりから、人影とそれに先行する犬の影が現れた。はふはふという興奮気味の息遣いにぴんと立った耳は、紛れもなくわだちのものだ。当然そのわだちを連れているのは、ぼくの一人娘、おもやで。

「おもやちゃん、こんばんは」

「あ、色月さん。はい、こんばんは、です」

 引っ込み思案で人見知りなおもやであるけれど、それでも彼女なりに目を合わせて挨拶している。そんな主とは似ても似つかぬ人懐っこいわだちは二足歩行犬となって色月くんに飛びかかろうとしていたけれど、色月くんは距離を取り、「ごめんね、またね」と言って行ってしまった。わだちはなおも諦められないのか色月くんの後を追おうとしていたけれど、おもやは許さず無理に引っ張り、家へと連れて行こうとこちらに向いた。おもやはそこでようやく、気づいたようだった。家の明かりを背中に受けたぼくと、視線が合う。おもやはすぐに、目を逸した。

「あの、おかえり、おもや」

「……」

「おもや、その、いいかな。今日からしばらく、人を泊めることにしたんだ」

「……」

「おもやも覚えてるよね、純おじさん。昔、何度か会ったことあるもんね。知らない人ではないし、許してくれるよね。それからそうだ、ちなみちゃんにも伝えておきたいのだけど」

「……」

「そういえば、ちなみちゃんはどこかな? 今日は朝から一緒だったんじゃ――」

「お父さん。あたしちょっと、疲れてるから」

 おもやはぼくを見ないまま、言葉短くそう告げた。

「あ、ごめんね。ごめん、疲れてるのに」

「わだち、こっち」

 そのままおもやは庭を回り、わだちを連れて家の敷地へと入っていった。その間、一切ぼくとは目を合わせないままに。それで結局、娘と交わした今日最初の、そしてたぶん最後であろう会話は、呆気のないままに終わってしまった。

「……あはは、ごめんねきっちゃん。もう入ろうか」

 玄関では洞くんが先程と変わらず、両手両足を投げ出した直角のポーズのままハミングを口ずさんでいた。きっちゃんにお願いして、動かしてもらう。彼が跳ね上がりながら立ち上がったのを確認して、ぼくは二人を家の中へと案内する。案内している間、背後から二人の会話が聞こえてきた。

「誰っすか、さっきの色月とかって子」

「みつるの子だよ。…………お前、まさかとは思うが」

「なんすか?」

「……色月に手ぇ出したら、その頚捻じ切るからな」

「んー? 言ってる意味がよく判んねーです!」

 賑やかに突拍子もないことを口にする洞くんの対処に、きっちゃんは些か苦労しているようだった。でも、なんだかんだ言いながら対応してあげている辺り、案外いいコンビなのかもしれない。そんなことを思いながらぼくは、二人にばれないよう小さな声で、少しだけ笑った。


   二〇 相道すすぐ

霊触症れいしょくしょう』。“ある瞬間”を境に爆発的に増加、世界的な認知を得るに至った病の俗称。罹患者、及びその予備軍まで含めると、世界全人口の凡そ三割ほどまでがその対象と目されている、極めて発症率の高い病。

 その症状は軽重幅広く、軽度の罹患者であれば日常生活を送ることも可能だ。ただし、気をつけなければならないことがある。罹患者は自らの感情を抑制し、常に自己を管理し続けなければならない。何故なら軽症罹患者が重篤化する原因はただ一点、強い感情の発露に起因しているから。それが負の感情であろうと正の感情であろうと、閾値を越えた感情は主体たる罹患者自身を襲い、侵す。そして病に侵された罹患者は――目を覚ますという力を、永久に失うこととなる。この病の重篤化とは意識、及び意識の覚醒機能の損傷、即ち植物状態と化してしまうことを意味していた。

 また、この病に罹った者は往々にして突発的な非覚醒状態――つまりは睡眠状態に陥ることが観測されている。これは急速な眠気、あるいは瞬間的な気絶といった形で心理的な負荷を強制的に遮断し、脳の損傷を防ごうとする防衛反応なのではないかと見られている。ただしこの反応それ自体が重篤化の引き金となり、以降二度と目を覚まさなくなってしまうというケースもまた、枚挙に暇がなかった。

 霊触症。この世界中に蔓延する病の罹患原因は、実のところはっきりとしている。

 高濃度の『霊素』に曝されること。それが、この病の唯一にして絶対の原因だ。

 霊素――海外ではプネウマニウムと呼ばれ新たな元素として数えられている粒子状の物質。石油燃料に代わる次世代エネルギーの筆頭候補として注目されるもその作用に置いては未知な部分も未だ多く、その危険性を指摘して慎重論を唱える学者も少なくない。

 まだまだ解明の目処すら立たない状態のこの霊素であるが、それでも現時点で判明している特徴もいくつかはある。その特徴とは、以下の通りだ。

 一つ。霊素は濃度の差こそあれど、この世界中のありとあらゆる場所でその存在が観測されていること。海中、地中、空気中。無機物である鉱石、有機物である木々や昆虫、鳥類、哺乳類。大型の動物に――そして当然、人体の内部にも。霊素の存在しない場所。それを探す方が困難な程、この未知の元素は世界中の隅々にまでその生息域を広げていた。

 一つ。高濃度の霊素に曝されると脳神経系に異常を来たし、超現実的な光景――所謂幻覚を見る場合があること。個体によるものか、それとも症状の軽重によるものかは定かでないが、霊素に曝されたすべての者がこうした幻覚を見るわけではない。しかしその報告例は信頼に足るだけの数が揃っており、検証の結果からも霊素にこうした幻覚作用があることはまず間違いないと推定されている。霊素によって齎される幻覚はサイケデリックで無秩序なケースが大半であると共に、非常に秩序だった、ある種の物語性を備えた映像として現れる場合もあった。そしてその物語とは過去の自分の追体験、関係の深い友人知人、死に別れた家族と再会するといった個人の経験に由来する割合が多く、認知症治療や心療内科といった分野からの注目も集めている。

 またこれは更に少数の事例ではあるが、未来に起こる事件の予知、あるいは前世の記憶が目覚めたという者も中にはいた。ただしこれらの少数事例はその検証数も少なく、また発表された論文にも不明瞭な憶測や論理の飛躍が多々見られた為、話題集めの狂言と目され信憑性は薄いものとされている。

 一つ。上記のような霊素の影響を受けるのはホモ・サピエンス、人間だけであるということ。少なくとも、マウスなどを使った実験からは薬物投与を施した時のような異常行動を取る個体は観測されず、またどんなに高濃度な霊素に曝そうとも霊触症を患う個体は一匹も現れなかった。実験室内での観測に限らず、世界中のどの地域からも、大小問わず霊触症を患ったと思しき動物を発見したという事例は報告されていない。現時点においてではあるが以上のことから、霊素が起こす特徴的な現象は人間という限定的な哺乳動物にのみ作用するものでまず間違いないという考えが通説となっている。では、なぜ人間だけなのか。これについては諸説あり、多くの研究が為されているがどれも仮説の域を出ず、明確な答えは出ていない。

 そして、最後の一つ。兵器転用が可能であるということ。他の分子や原子と結びつく、あるいは離れる際に莫大なエネルギーを生み出す霊素は、過去に類を見ない大量破壊兵器となり得るポテンシャルを有していると、その発見初期の段階から見いだされていた。実際霊素は先の世界大戦時、ア国によって兵器転用され、敵対国であるヤ国に対し使用されている。霊素爆弾――通称霊爆、海外ではプネウマティック・ボムと呼ばれるその兵器は、人口三○○万を超えるヤ国の中央都市を完全なる更地へと壊滅させる破壊力を世界中に見せつけた。この一撃によりヤ国は完全に戦意をくじかれ降伏、戦争は集結することになる。だがこの霊爆の投下が齎したものは勝利だけでなく、予想外の、そして勝利の旨味など帳消しにしてしまう痛手を全世界中に残してしまうこととなった。

 霊触症だ。霊触症が世界中に蔓延した“ある瞬間“とは、この瞬間のことだ。

 地中に蓄積していた霊素が霊爆の衝撃によって地表に噴出、直接被害を受けたヤ国のみならず世界中の人類が同じ瞬間、同じ時に、高濃度の霊素に曝された。世界大戦という特異な状況によりどの国も余裕がなかったこと、またそれを調べるだけの技術や知識が不足していたことなどから、霊爆投下と霊触症増加の因果関係が正確に証明された訳ではない。しかし状況証拠からこのア国による霊爆投下こそが霊素蔓延の主原因であると、当事国であるア国を除く先進国内では有力視されている。それはヤ国国内でも同様であり、誰からともなく霊爆を落とされた日のことを『霊触の日』と呼び始め、この霊素噴出による全世界規模で起こった災害のことを『大規模霊触』と呼ぶようになっていった。そしてこの『大規模霊触』によって苦しめられている者やその家族は、いまなお相当な数に及ぶ。

 父も――間東稜進りょうしんという男性も、霊触症を患っていた。

 西双見総合町立病院。この病院の一室をもう三年近くも専有している稜進は、その病の発症から一度足りとも目を覚ましたことはない。暑くとも、寒くとも、痛くとも、苦しくとも、稜進は目覚めない。稜進がかつて稜進であったという器だけが、そこに置かれている。こんなもの、死んでいるのと何が違うというのか。肉体的な生命活動が維持されていると言うだけで、こんなものが生きていると言えるのだろうか。余計な期待を抱かぬ分だけ、亡くなる方がまだしも良い……良いのではないかとすら、思ってしまう。

 私も同じだ。

 喜んではならない、悲しんではならない、驚いてはならない、怒ってはならない。感情を一定に、表情を平坦に。心を乱すありとあらゆる驚異に背を向け、背く孤独の恐れを恐れ、人の裡へと我を置く。揺れる振り子の綱渡り。それが私だ。かつて間東と呼ばれ、厚かましくも相道を名乗り生を存する、感情均衡調整器。それが私。

 霊触症罹患者の、相道すすぐ。

 私と稜進は、違う。私と稜進は霊爆――『大規模霊触』によって霊触症を患ったのではなく、間東という家に在ったことが罹患のその遠因であると言えた。でも、結局は同じだ。軽症罹患者であれば気をつけている限り日常生活を送れるといっても、心を乱さずに生きることなんて人間には不可能なのだ。行き着く先はみんな同じなんだ。誰も、私も――。

 いやだ、考えたくない。考えることが怖い。考えることが怖いのに、頭の中は不安を掻き立てる考えでいっぱいで。いやだ、怖い、止まって、止まって。念じる声。けれどその声すら私を煽り、焦燥に心を圧迫して、まっすぐ私を殺しに来る。

 死ねない死へと殺しに来る。

 私は思う。思ってしまう。こんなことなら。こんなに苦しいなら、こんなに不安なら。

 生きることがこんなに辛いのなら、いっそ、いっそのこと、私、本当に――。


「……だれ?」

 病室の扉が、静かに開いた。時間はもう夜更け近く。私の場合主治医のお医者様の助けで特別に通してもらっているだけで、本来は面会時間だってとっくに過ぎている。それに、眠ったままの父に会いに来る人など、いまはもう、そうはいない。扉がゆっくりと開いていく。肘当てを強く握りしめ、入り口を凝視する――隙間から、見慣れた赤色が覗いた。

「……色月さん、色月さん、色月さん、色月さん!」

 もし私の足が不自由でなければ、駆け出して彼に飛びついていたかもしれない。けれど現実の私はそんなふうに自分の足で立つことなんかできなくて、ただ前傾しただけで、車椅子から落ちたらなんて頭によぎって、冷静に、平坦に、いつもの姿勢にもどるだけで。怖いこと、痛いこと、不安なこと。そんなことにばかり敏感になっている自分がいやで。気を抜いても、気を抜かなくても、私が私を殺しに来て。

「……私、酷い子なんです。傷つけるって、嫌な気持ちにさせるって判っているのに、冷たい態度しか取れないんです。こんな私を見捨てずにいてくれる友達に、ちなみに、おもやに、友達らしいことなんかぜんぜん返してあげられないんです」

 ちなみは、いい子だ。明るくて、元気で、行動力があって。がさつに見られがちだけど、実は細かな気遣いのできる子で。心からお父さんを尊敬しているちなみは、いつだって輝いてる。あの子のお陰で私の心がどれだけ救われてきたか、あの子はきっと、それを知らない。

 おもやは、いい子だ。友達思いで、愛情深くて。引っ込み思案に思われがちだけど、いざという時にはちなみ以上に大胆だったりすることもある子で。あの子との約束がどれだけ私を支えてくれているか、あの子はきっと、それを知らない。

 ちなみも、おもやも、二人ともやさしい、やさしい良い子だ。

「今日だって、そう。おもやもちなみも何にも悪くなんかないのに、私、一人で帰ったんです。二人がどれだけ気まずい思いをするかって、知っててそうしたんです。自分の都合で、二人を振り回したんです。でも、でも私、……どうしていいのか判らなくて、怖くて――」

 それに比べて、私は。

「那雲崎さんのことが、怖くて」

 私は怖がりだ。人一倍に怖がりで、怖いことを見つける名人だ。だって私は、こんなに那雲崎さんのことを怖がっている。昨日のあの出来事からずっと、那雲崎さんのことが頭から離れず怯えている。那雲崎さんが、あの人がウロを――お兄ちゃんを何処か、私の足では届かない何処か遠い所へ連れて行ってしまいそうに思えて。

 一度は断ったちなみの誘いを受けたのも、ちなみから逃げ出したのも、それが理由。那雲崎さんのことを考えないようにするため付いて行って、那雲崎さんに関わることを怖れて離れたのだ。杞憂だってことは判ってる。勝手な思い込みで、悪い方、悪い方へと考えているだけなんだって。そんな自分勝手のために友達の好意を利用して、踏みにじって、自分が最低のことをしているんだって、他の誰より私が一番自覚している。

 でも、ダメなんだ。一度そうだと感じたら、私の心はそれを耐えるようにはできていない。違うという否定はより強い否定に上書きされ、定着した疑心は私そのものと化してしまう。そうなればもう、私にできることなんて、ひとつもない。それに――。

 それにあの時、ウロは確かに危うかったのだ。ウロはあの時、そのまま消えてしまいそうな、そんな顔をしていたのだ――。

「しづきさん……」

 泣き出してしまいそうだった。でも、ダメだ。泣いたらダメだ。泣いたら私は、壊れてしまう。父のように、なってしまう。こんなになってもまだ……あるいはこんなであるからこそ私は、父のようになりたくなかった。それだけは……それだけが、なにより恐ろしかった。

「しづきさん……」

 色月さんを呼ぶ。私の救い、私の神様……私の感情。色月さん。涙の人。私には流せない私の涙を、私の代わりに流してくれる人。私の涙。揺れる振り子が抱える荷物。呪われたそれを代わりに背負い、その身一つで浄化してくれる人。色月さんのお陰で、私は未だ、生きていられる。ここにいて、私自身を保っていられる。あなたのお陰で、私は在る。あなたが、いてくれるから――。

 扉の前に立っていた色月さんが、私の側へと寄ってくる。色月さん、色月さん。お願いします、抱きしめて、頭を撫でてください。そうしてもらえるだけで私は私を、今日から明日へと運んでいけます。私でいられるんです。だから、色月さん――。

 色月さんが、私の前に立った。そして、色月さんは、彼は――覆いかぶさるように、私の上へと、倒れた。彼の重さを受けた車椅子が慣性のままからからと後退し、そのままがつんと壁にぶつかる。彼の薄い息遣いが、耳元で、かすかに聞こえた。

 色月、さん?

「……ごめんね。思った以上に、時間がないみたい」

 触れた皮膚。異様に冷たく、熱のない、その肌。

「すすぐちゃん、よく聞いて。全部、大丈夫だから。きっとみんな、うまくいくから。すすぐちゃんも、ウロくんも……だから――」

 落ち着いて聞いてほしい。色月さんは、そう言った。敬愛する色月さんのお願い。どんな願いだって、私にできることなら聞いてあげたい。けれど私は、私には、そのお願いを叶えてあげることができなかった。彼は、言った――。


 ぼくはもう、死んでいるんだ。


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