一三~一六
一三 相道ウロ
『大したもんだ、本当に飲み込みが早い。真面目に修練し続けりゃ、黒澤の親父さんにだって勝てるかもしれねぇぞ』
『……それでも、あんたには届かない』
『当たり前だ、俺を誰だと思ってる。相道流始まって以来の大天才、相道純様だぞ?』
『それでも……それでも俺は、あんたに勝ちたい。勝たなきゃいけない。……忘れないでくれ、約束』
『忘れやしないさ』
『純』
『睨むなよ。とぼけて反故に――なんて真似をするつもりはねぇさ」
『絶対だぞ、絶対に忘れないでくれ。もし、もし俺があんたに勝てたら』
『勝てたらな』
『勝つよ。絶対に勝つから。だから絶対に帰ってきてくれ。それで、今度こそ』
『ああ、今度もだ』
『今度こそ、俺が勝てたら、その時には、勝てた時には――』
『……はっ。そん時ゃ――』
お前の頼み、何でもひとつだけ聞いてやるよ。
二年前のことだ。二年前、純が双見から出ていった日。俺は純に挑んで、負けた。実力の差は明らかで、勝てるはずのない勝負だった。それでも俺は、挑まずにはいられなかった。純が今度、いつ双見へもどってくるのか――本当にもどってくることがあるのか、それすらも定かではなかったから。だから俺は、挑まなければならなかった。挑んで、負けた。
純に勝つ。それが俺の、この二年間のすべてだった。純よりも速く、純よりも強く、純よりも巧みな自分を虐め造る。当たり前に鍛えたって、絶対に勝てはしない。だって相手は、あの純。『頚折り天狗』の相道純だ。尋常の外に在る者。だったら俺も、同じように外へ出る以外に勝ち目はない。
見えぬものを見て、聞けぬものを聞く。感じ得ぬものを感じ、触れ得ぬものに触れる。在るものでありながら、無きものとなる。それくらい、当たり前にできるようにならなきゃいけない。そして――その体得と実現こそ相道流の基本であり深奥だと、純はそう言っていた。
磨いてきたつもりだ、限りを越えて。来たるべき、その日のために。そして――そしていま、その結実が、目前に見えている。
後部でひとつに結った、あの長い髪。
間違えるはずもない。純だ。
いつ帰郷していたんだ――なんて、そんなことはどうでもいい。隣の男。知らない。それはいい。そいつが誰かは重要じゃない。話をしている。無防備に。そこだ。
足音は立てない。足音だけじゃない。息も、視線も、分泌も、細胞が刻々循環するその不随意な生理も。ありとあらゆる己の己をここから消し去る。俺はいま、存在しない。存在しないと同時に、ここに在る。全部、純に習ったことだ。純に習ったことを、純以上に実践する。実践して、純が俺を俺と気づく間もなく、勝つ。勝ってみせる、今度こそ、純に。
己を消したまま、一気に駆ける。そこだ、すぐそこだ、届く、もう、すぐ。
「――で、だ」
約束に――。
「なあウロ、そんなもんで気配を断ったつもりかよ?」
「っ!?」
気づけば、身体が宙に舞っていた。世界が上下、反転している。――投げられた。いつ。どうやって。違う。いまは、どうするかだ。
「おっと」
足を開き、鎌に変えて空を薙ぐ。狙いは純。もちろん、当たりはしない。しかしコマのように足を回すことで、反転した世界が元にもどる。自分と純、彼我の姿が把握できる。コマを止めない。ただし横薙ぎであったそれを、縦薙ぎのそれへと転変する。最小の見切りで、鼻先を通った俺の蹴りを純は躱す。更に回転する。切れ間なく行う連撃を、純は難なくさばいていく。だが、それでいい。人が人である以上、死角は常に存在する。肉体的にも、心理的にも。
頭を狙う、頭、頭、頭。そして、コマを回してから最も高く掲げ、最も速度を増した一撃を、純の頭へ叩き込む――それも、外れる。ここからだ。回転を、止める。身体をねじり、逆に回転させる。ただし、縦薙ぎではなく、横薙ぎに。頭ではなく足元を、間断置かず、刈る――純が、跳ねる。回った足が空を切る。それも、想定通り。回る。回って、手を伸ばす。横薙ぎの蹴りを躱すため、宙に浮いた純。制御の利かないその人体を、折り曲げられた足首を、取る。極める。折る――。
「……だろうさね」
悪寒。触れるよりも先に、触れられた頚。肘で地面を叩く。既の所で、純の手から免れる。転がる。距離を取る――。
「一息つく場面じゃねぇぞ?」
「――ッ!?」
目の前に、純。地を這う蹴り。顔面を狙った。両腕を上げ、盾にする。間に合う――も、痺れ。しかし、蹴りの勢い。それを利用し後方へ“跳ねる”ことで、距離を稼ぐことはできる。体勢を、立て直すんだ。跳ぶ――が。
足が、捕まれ――投げ、関節も。ダメだ、防げな――。
「……なーんてな」
足に掛けられた圧が、失せた。身体が自由を取り戻す。今度こそ距離を取る。しかし、対する純は、自然体で笑っていた。
「まったく、ずいぶんな歓迎じゃねえかウロくんよ。ま、らしいっちゃらしいけどな」
「お、お、お? なんすか? なんでしょーか?」
「何って……まあ、久々の弟子との再会、みたいなもんかね」
「びゅんびゅんでぐいんぐいんってことですなー!」
「いや、意味わかんねぇよ」
面倒くさそうに歓談する純の姿は、どこから見ても無防備なそれとしか思えない。無防備で、いくらでも手の打ちようがありそうな、そんなふうにしか。しかし、できない。攻めにでれない。奇襲が通用しないことは既に先程、実証されてしまった。速さでは通用しないと、突きつけられてしまった。
俺は――俺は、速さだけなら、黒澤太平太にだって負けないと思っている。まだまだ成長途中である俺の身体では、純や太平太のような完成した大人の肉体に、力ではどうしたって敵わない。だから俺は、素早いこと。瞬間における反応速度という一点を、何よりも伸ばしてきた。けれど純は、それよりもずっと速い。速さだけじゃない。力も、技術も、経験も。どれひとつとっても俺に、純を上回っている所なんて有りはしない。いま五体満足で居られるのも、純にその気がなく見逃されたから、ただそれだけの理由に過ぎない。本気であったなら、最初に投げられたあの時点で、決着はついていたはずだ。
未だ俺は、純の足元にも及んでいない。それだけが事実。純は強かった。記憶の中の幻影などよりも、遥かに。
それでも。
「お、まだやるか? いいねえ――」
勝機の、あるうちは。
「いいぜ。お前の七○○幾日、俺が判定してやる」
来な。純が言う。合わせて、飛び出す。真っ直ぐに。拳を握り、突き出す。純がそれを躱す。けれど本命は、そっちじゃない。
「……お?」
「ふぉ?」
純と話していた男。男の腕をつかむ。そしてそれを、身体ごと、投げる。全速と全力を掛けた、俺の最迅。純、それに黒澤太平太には及ばなくとも、素人にどうこうできるものではない。受け身も取らせない。地面は土。それでも、衝撃は計り知れない。確実に、骨は折れる。そして、最悪の場合には――。
だが、純なら。純なら止める。止めてくれるはずだ。あんなふうに歓談する相手を、むざむざ見捨てる純じゃない。純は、そういう男じゃない。だから、そうだ――。
「お、お、お?」
投げを、止められる。純の手が、男をつかむ。
純。自分への加撃なら、簡単に躱すこともできるだろう。一寸のズレもなく、常に全状況に対応した姿勢を維持することも可能だろう。しかし、他人を助けるとなれば、事情は違うはずだ。
見える。
手を離す。そしてそのまま、潜り込む。開いた純の、その懐へ。背中をぶつけて。勝つために。
純を一撃で倒せる技。そんなもの、俺にはない――たったひとつを除いては。一撃必殺の奥義。相道流を極めた者だけに実現可能な、深奥の更なる奥に秘されし神技。“それそのもの”の力を以て果たす、完全なる静止の現象。
そうだ、放て――放て、相道ウロ。無窮の一撃――『
一四 相道みつる
頭痛がする。酷い頭痛。頭が割れそうな。
憂鬱だ。こんな頭痛の日は、決まって悪いことが起きる。家を追い出されたのも、兄さんに裏切られたのも……あの子と、引き離されたのも。全部こんな、頭痛のする日に起こったことだ。いやだ、いやだ。今日はどんな仕打ちに合わされるのか。どうして私だけが、こんな目に遭わないといけないのか。『あんどろぎゅのす』がお休みで、せっかく身体を癒せると思ったのに。浸しっぱなしの食器。埃っぽい部屋。うんざりする。ああ、なんで私がこんなこと。
そうだ、
……なに、今の音。庭から? ああもう、どたばたとみっともない。まるで、実家の稽古場みたい。もしかして、目が覚めたのもあの音のせい? この頭痛も? なによ、なによ、なんなのよ。どうして、どうしてみんなして。
「逆転狙いの大技一発賭け。お前が俺を倒すにゃそれくらいしかないのも、確かに事実だろうさ。だがな、そういうのは基本を修めてから身につけるもんだ」
堂々と、人の庭で話なんてして。
「『総身相気』なんてモンはな、修練を怠らないために掲げた架空の目標、ただのおとぎ話なんだよ。そんなモンに気を取られてるから、どうだ。反応も判断も、何をとっても三流のままじゃねえか。なってねえ、なってねえぞウロ。それに――」
何様のつもりよ、常識ないんじゃないの。
「お前、何処か壊れてるな?」
それにしても、不快な声。嫌な声。まるで、あいつみたいな。
「常在戦場も一つの真理ではあるが、そのために万全を常とするのもまた真理だ。まずは治せ。それで今度こそ、万全で挑んで来い。勝つつもりがあるんならな。でなきゃ万が一すらありえねぇぞ」
あたしを……あたしたち家族を滅茶苦茶にした、あいつみたいな――。
「なあ、ウロ」
ウロ。
ウロ、ウロ、ウロ。
気安く呼ばないでよ、その名前を。呼ぶな。呼ぶなよ。その子は私の、最後に残った宝物なんだから。私だけのものなんだから。だから、触らないでよ、盗まないでよ。私のものだ、私だけのものだ。誰にも奪わせてなんかやるもんか。だから、帰って。帰れよ。誰だか知らないけど、誰だか知らないけど、あんたが、あんたなんかに――。
「よお、みつる。久しぶり」
……ああ、やっぱり。頭痛の日は、悪いことが起こる。それも今日は、とびきりに最悪だ。だって、純が――兄が、帰ってくるだなんて。
一五 下山おもや
「神隠しの調査をやめる?」
「そう、調査は今日でおしまい。悪かったね二人共、一日連れ回しちゃったのにさ」
欄干に身体をもたせながら、あっけらかんとちなみは言う。その突然の心変わりに、相道さんがどう思っているかは判らないけれど、私は困惑するばかりだ。ちなみが、小石を投げた。小石は放物線を描いて橋の下へと落下し、流れの速い川に小さな波紋を生んだものの、すぐに飲み込まれて消えてしまう。
私達は盗人橋にもどっていた。朝とは違い、
「ならもう、神隠しには関わらないの?」
勝手だなあと、思わなくもなかった。神隠しなんて関わりたくないしちなみにも関わってほしくないのは変わらないけれど、だったら今日の出来事はなんだったのとも思ってしまう。それに、ちなみはあの青いマフラー、神隠し捜査の要をなくしてしまったのだという。気づいた時には手元になくて、探してみたけど見つからなかったって。たぶん、どこかに落としてしまったのだろうって。でも、あれだけ得意気にひけらかして、肌見放さず身に付けていたもの、そう簡単になくしてしまうものだろうか。
なんにもなかった。
合流した時、ちなみはそう言っていた。熟れた果物が落ちて割れていただけだって。「わだちの鼻もあてにならねーなー」だなんて軽い調子でちなみは言っていたけれど、それは、本当に本当なのだろうか。だって、田中さんも言っていた。ちなみは、困った時ほどおちゃらけるって。
「んー……どうかな。場合によるかも」
「どういう意味?」
「もし関わりがあるなら、手を出すこともあるかもしれない。でも、目的は違うとこにあるって感じだよ」
「多々波さん、言っている意味が判らない」
「私も判らないよ。ちなみ、何が言いたいの?」
「あたしはさ――」
言葉を溜めて、ちなみは中々話し出さなかった。上向いて顎の裏と、華奢な喉元を晒している。手元では、首にかけたもどきの懐中時計をいじっている。「ちなみ?」私は呼びかける。返事はない。その代わりに返ってきたのは、「はぁ……」という、吐息。凡そ彼女らしからぬ、なんだか弱気で、憂いを持った。
「……よし!」
上向いていた顎が、元の位置へともどった。もどった彼女の顔は、笑っていた。にかっと、並びの良い歯を見せて、笑っていた。笑ったままちなみは、おかしなことを言い出した。
「那雲崎しるし。あいつの悪事を暴くから」
先輩の……悪事? なんのこと? おそらくは怪訝な顔をしていたであろう私の表情から疑問を読み取ったのか、ちなみは少し思い出してくれと、私の頭を指す。
「今日のさ、那雲崎。おかしいと思わなかったか?」
「それは、まあ……」
ちなみに言われ、今日の先輩を思い出す。おかしいと言われれば、それはおかしい。八重畑様のことをあんなふうに罵ったり、かと思えば泣き出してしまったり。普段の先輩から考えてみても、明らかに様子がおかしかった。
「でも、ご家族が亡くなったばかりなんだよ? 普通でいられない方が、普通だよ」
「それだけだと思うか?」
「それ以外、何があるっていうの?」
「あるよ。たぶん、間違いないと思う」
「だから、なんのこと?」
「八重畑丑義を殺したのは、那雲崎だよ」
一瞬、言葉を失った。言葉の意味が理解できなくて。私はなんとか、「まさか」とだけ絞り出すことに成功した。だけどそれも、苦笑いをしながらに。
「まあ聞けよ。おもやは否定するかもしれないけど、八重畑は麻薬の売り買いに関わっていたことがある。それだけはあたし、知ってるんだ。噂とかじゃなくて、実際にそうだって」
「信じられないよ」
「移民法が決まって、大陸からたくさんの人が来てさ。それからすぐに麻薬中毒者が激増したって話、おもやだって聞いたことあるだろ? 旧国軍区画も人に溢れるようになって……ていうのは、おもやは知らないかもしれないけど。つまりさ、そういうことなんだと思う。八重畑は移民法反対派だったけど、最後には寝返ってた。たぶん、最初っからそうだったんだ。あたしたちの知らない所で全部成り行きは決められてて、そういう取引も、裏で約束されてて」
「ねえちなみ、本気?」
「でもさ、もし、八重畑が麻薬ビジネスを辞めたがっていたら? それでもし、那雲崎が麻薬ビジネスを続けたがっていたら? 詳しくは知らないけど、麻薬って、すごい高値で取引するんだって聞いたことがあるんだ。あの、カッコつけの那雲崎がさ、もっと自分を飾るためにお金が必要だと考えたら……殺したって、おかしくはない。そうは思わない?」
「……本当に、本気なの?」
「本当に本気だよ」
ちなみはもう、笑ってはいなかった。笑ってくれていた方が、まだマシだった。だって、こんな、いつになく真面目な顔をして。
「私には、ちなみが冗談を言っているようにしか思えないよ。だって、そんなの……ちなみの勝手な想像でしょ?」
「そう、全部ただの想像。妄想って言ってくれてもいい。もしかしたら、あたしが早とちりしてるだけかもしれない。あいつが言ってた通り“本当のこと”を知って赦せなくて、衝動的に殺してしまっただけなのかもしれない。麻薬なんて関係ない、もっと全然、全然違う理由なのかもしれない。もっと、もっとずっと邪悪な……。もしくはおもやの言う通り、那雲崎は本当に清廉潔白なのかもしれない」
「だったら――」
「でも、だからこそ調べるんだ。調べて、暴くんだ。真実を。それにさ、これだけはあたし、核心を持って言えるんだよ。那雲崎しるしは何かを隠してる。公にできない、後ろ暗いことを。そう、言ってるんだよ。あたしの勘が、そう言ってる」
神隠しだって、ほんとのところは、あいつらが――。小さな声で、ちなみはそう付け加える。でもその声は、私や相道さんに向けられたものというより、ちなみ自身に言い聞かせるような声色で。それが却って、彼女の本心を鮮明に浮かび上がらせていて。
ちなみは、本気らしかった。
だけど――。
「ありえないよ」
私には、認められない。
「だって、那雲崎先輩だよ? ちなみは悪く言うけど、先輩はそんな、悪い事のできる人じゃないよ。ちょっとズレてるところはあるけど、根はやさしい普通の女の子だよ。それに私、知っているもの。先輩は八重畑様のこと、本当に慕ってた。お祖父様、お祖父様って、血はつながってなくても、本物の家族みたいにして。今日のはちょっと、気持ちが昂ぶっちゃっただけで、本心なんかじゃないよ、絶対違う」
『あなたが、下山さん?』
那雲崎先輩――しるしさん。
『ごめんなさい。父が頼んだばっかりに、あなたのお母様まで巻き込んでしまって』
自分に否なんてまるでないのに、私のために頭を下げてくれた人。
『困った時は、なんでも言って。ボクのことは姉だと思って、いつでも頼っていいのだからね』
自分だってお父様を失ったばかりなのに、初対面の私を慰めようとしてくれた人。姉妹になってくれようとした人。正直、ちなみとは違う意味で危なっかしくて、頼りにするにはちょっとばかり心許ない。変わり者で、学校で浮いているのも間違いない。でも、それでも……先輩は、悪い人なんかじゃ、絶対にない。
だから、私には、認められない。
「おもや、でも――」
「ううん、ダメ、言わないで。ちなみ、ダメだよ。いくら嫌いな人のことだからって、言っていいことと悪いことがあるよ。ちなみは八重畑様や先輩が憎くって、考えちゃいけないこと考えてる。考えるだけじゃなくて、口にしてる。そんなの、そんなことって――」
「なあおもや、あたしは、あたしはさ――」
「おかしいよ、ちなみ」
「あたしは!!」
わだちの耳が、びくんと立った。荒風川の、赤い反射が一瞬止まる。ちなみの強い感情。それを直にぶつけられた私はいま、いったいどんな顔をしているだろう。声を荒げた当人のちなみは、なんだかとても……とても、傷ついたような顔をしている。
「おっきい声出して、ごめん……。でもさ、あたしは父さんの仇を討たないとなんだよ。そうしなきゃあたしきっと、大人になれないんだ。でも、そのためには、もうさ――」
いまにも泣き出してしまいそうな、そんな顔を、している。
「もう、那雲崎しか、いないんだよ……」
「多々波さん」
掴んだ取手から、伝わる振動。
「それはもう、決めてしまったことなの?」
「……うん」
「そう。ならあたし、もう協力はできない」
「相道さん……?」
相道さんが、私を見た。彼女は無言で、私の手に自分の手を重ねる。つかんだ取手、そこから手を離してほしいという意思表示。私はもう、ここにはいたくないから。相道さんの目が、そう告げていた。でも、相道さん。私は、彼女を行かせたくはなかった。このまま別れてしまったら、もう二度と、三人でこんなふうに集まることができなくなってしまう気がしたから。
私と相道さんの手。その手の上に、新たな手が、重ねられた。
「いいよ、おもや」
ちなみの、私たちのものより一回り小さな手。
「でも、ちなみ」
「いいんだ。だってさ、あたしがいけなかったんだよ。今日のことだけじゃない、最初っから。二人を連れて、遊び半分で。そんなだから、今更になってやらなきゃいけないことに気づいて……。だから、さ」
ちなみの指が、私の指を相道さんの車椅子から剥がしていく。一本、一本、普段のちなみからは考えられないくらいやさしく、丁寧に。抵抗できなかった。ムキになった力づくであれば、反発だってできたかもしれない。だけど、これは、無理だった。私には、抵抗できなかった。
自由を得た相道さんは、器用に車椅子を操って、盗人橋の舗装された地面に車輪の痕を描いた。それで、橋から降りる直前。直進していた車椅子を止めた彼女は少しだけ軌道をずらし、私やちなみからだと車体の側面が見えるような角度に車椅子を傾けた。相道さんの横顔が、赤い日に照らされているのが見えた。
「多々波さん」
いつもどおりの、平坦な、彼女の声。
「なに、すすぐ」
「私、今日の一日、不快だったわけではないから。……たぶん、三人でこんなふうに遊ぶことは……楽しかったんだと、思う」
「そっか……ありがとな」
「……ん」
平坦な、彼女らしい素っ気のない言い方。でも、私は、初めて聞いたかもしれない。彼女の口から、“楽しい“という言葉を。“いまの”彼女と、出会ってからは。車輪のきしきしという音が、再び回りだした。相道さんはもう、止まらなかった。大した間もなく相道さんの姿は、どこにも見えなくなってしまった。
「おもやも、ごめんな」
わだちもごめん。隣でちなみがつぶやく。わだちは名前を呼ばれたことがうれしかったのか、ちなみを見上げながら尻尾を振る。
「もう、無理に付き合ったりなんかしなくて大丈夫だから。これまで振り回してきて、ほんとごめん。……あたしも調べたいことがあるから、行くな」
「あ――」
つかつかと、大股開きの早足で歩きだす。ちなみはそのままもう止まらず、相道さんが向かったのとは逆の側から盗人橋を降りて、林立する家屋の最中に消えていってしまった。残された私は、右を見て、左を見て――結局どちらへ行くこともできないまま、その場に座り込んだ。
「わだち、私、どうすればよかったのかな……」
わだちは私を見ている。私も、わだちを見ている。どことなく不安そうに見えるのは、私が勝手に自分の気持を投影しているだけなのか。それともわだちだって、何かを感じてくれているのか。
私は……私も、相道さんと同じだったのだ。文句ばっかり言って、ちなみを止めなきゃだなんて偉そうにしていたけれど、こうして三人で走り回ることを、なんだかんだ楽しんでいたのだ。この喪失感は、きっと、そういうことなんだ。
気持ちが沈んでいるだけなんだと思う。ナーバスになって、後ろ向きなことばかり考えるようになってしまっているだけなんだって。もう、これまでみたいにはもどれないなんてそんな考え、そんなのはきっと勘違いのはずだって。次から次から沸いてくる心を重くするような考えを、私は意識的に振り払おうとする。全部、全部杞憂だって。
お兄さんを叩く相道さんの姿。その光景が、あらゆる不安と結びつくように思い起こされた。
振り払うことなんて、できなかった。たったの一つだって、私には。
一六 相道みつる
「……おかしいわね、とつぜん耳が遠くなったみたい。なんだかね、兄さんがとてもバカらしいことを言ったように聞こえたのよ。ねえ兄さん、申し訳ないけど、もう一度おんなじことを言ってもらえるかしら?」
「……ま、そういうしかないよな、お前としたら。いいぜ、どうせすぐに認めてもらえるとは思ってなかった。何度でも言ってやる」
コップを握り、私は待つ。兄の言葉を。間をおかず、兄はすぐに言葉を繰り返した。そして私は、私の耳がおかしくなった訳ではないことを再確認する。
「ウロは連れて行く。双見から離れ、然るべき教育を受けさせる」
コップの中身を、兄に向かってぶちまけた。うちに溜まった液体が、兄の顔を盛大に濡らす。よれた服に、伸ばした髪までびしょ濡れだ。でも、うろたえるような様子はなかった。兄は、避けもしなかった。目すらつぶらずに、私の怒りを被った。まるで始めから、私の行動を予期していたみたいに。その綽々とした態度が、余計に私を苛立たせる。
「あいつは天才だよ、本物のな。認めるのは癪だが、才能だけなら俺以上のものがある。さっきもな、本気で驚かされたぜ。たったの二年程度だぞ? たったの二年であいつ、相道流をあそこまで自分のものにしやがった。それも、まともな師もいないこの双見でだぜ? 紛れもなくあいつは逸材だよ。もしかしたら、相道が始まって以来の」
「……知らないわよ」
「だがな、才能ったって磨かなきゃただの石ころだ。そこらの雑多な凡石に埋もれて、日すら差さないじめじめとした暗闇に生涯を終える石ころ。俺はあいつに、そんなつまらない人生を送ってほしくないのさ」
「だから!」
付着した液体を軽く払う兄の手が、止まる。
「そんなこと、私はどうでもいいの! どっちが強いだの弱いだの、バカじゃないの? そんなこと決めたって、なんにもならないじゃない!」
「そうでもないさ、案外、そうでもな。それに、強くならなきゃ何時何処で喰い殺されるか判らないご時世だ。双見だって、黒澤の親父さんのお陰で今でこそ安定してるが、それでも何時どうなるか判ったもんじゃねぇ。どうしたって力は必要なんだよ。守りたいものがあるなら、尚更な」
「でも、あの子だって――」
「あいつは力を求めるよ。俺がそうだったように」
「……」
「すすぐにウロと一遍に引き取って、ここまで育ててきたのは確かにお前の功績だろうさ。だからといって、あいつの意思を抑圧する権利なんて誰にもない。そうじゃないか、“お母さん”?」
「ぬけぬけと……家族を捨てて出ていった人が偉そうに!」
「……弁解はしねぇさ。でもな、お前こそ偉そうに言えるほど立派なもんか?」
「なによその言い方、私がどれだけがんばってきたかも知らないくせに! 私だって、私だってねぇ、一生懸命あの子のために――」
「その挙げ句がクスリで借金か?」
「なっ……!」
なんで、それを。思わずつぶやきそうになった疑問。けれど兄は、私がそう口にするより早く、疑問の答えを口にする。
「耳の敏い知り合いがいてな」
「……サイッテー」
「なんとでも言ってくれていいさ。それで事実が変わるわけでもないからな」
私を見下ろしていた兄の視線が、あらぬ方向を向いた。つられて私も、同じ方を向く。壁に遮られて見えはしないけれど、その先にあるのはうちの庭だ。耳をすますと子供っぽい、頭の痛みを更に増幅させる耳障りな声が聞こえてくる。兄が連れてきた、洞とかいう男の声だ。無意味ににやにやして、一目でいけすかないと感じた。あんなふうに笑うやつは、どこかに疚しいところがあるんだ。信用できない。直感的に、そう感じた。
なのに兄は、あの子に洞の相手をさせている。洞のやつが、相道流を学んでみたいとか言い出したから。兄が自分で教えればいいのに、人に教えるのも良い修練になるとか適当いって、兄は面倒をあの子に押し付けたのだ。あの子が得体の知れないやつといる。そんなこと、許したくはなかった。考えるだけでも気が狂いそうになる。でも、私には止められなかった。だってあの子が、あの子自身が、兄の言葉を受け入れてしまったから。あの子は、兄の言う事を疑わない。慕っているのだ、兄を。純を。私なんかよりも、ずっと。
いや、むしろ。あの子はたぶん、嫌っている、私のことを。家族でもないのに馴れ馴れしい、気持ちの悪いおばさんだって。
それでも構わない。一緒にいられるなら。それでも、いいから。
「あいつのあの格好、ヤネんとこのだろ。週にどれくらい働いてんだ」
「……言いたくない」
「ならいいさ、言わなくて」
「……しょうがないじゃない。すすぐだけは学校に行かせるって、あの子の方から頼んできたんだから。どうしようもないじゃない……」
「判ってたことだろ、引き取る時には」
「すすぐ、あのガキさえ追い出せば……」
「許すわけないだろ、当のウロが」
「……」
すすぐ。
「とにかく、これで判ったろ。ここにいる限りあいつは、貴重な成長の時間を浪費しちまうんだよ。俺ならそうはさせない。これでも公務員様だからな。ウロ……それに、すすぐもか。ガキ二人を養うくらいならどうとでもなる」
「だったら――!」
だったら、兄さんが双見に――。
「居られねえよ、俺は、居られるわけがない。そうだろ? 俺にはもう、この町に居場所なんてないんだよ。ゆめが――」
瞬間、鋭い痛みが、脳を抉る。
「……いや、お前だって、俺の顔なんて見たかねぇだろ」
「……どうして、今なのよ」
「タイミングだよ。俺だって別に、年中暇してるわけじゃないんだ」
居住まいを正した兄が、もう一度私を見る。微笑んで、まるで“おにいちゃん”みたいな顔をして。
「何にせよ、もう判っただろ。お前に子供三人を育てるだけの器量はなかったんだ。言っておくが、それ自体を責めるつもりはないからな。よくやったってんなら、お前はよくやったんだろうさ。曲がりなりにも雨風凌いで、口に糊してきたんだからな。ただ、至らなかった。それだけのことなんだよ。だからウロは俺が連れて行く。それだけの話なんだ。別に落ち込むことはないだろ。結局は、元にもどるだけなんだ」
……元に?
「元にさ。ウロやすすぐを迎える前の、元の状態に。だからお前は――お前は昔みたいに、色月と二人で暮らせばいいんだ」
「色月……」
色月、色月、色月――。
「……色月、色月、色月色月色月!!」
結局、結局そういうこと。今まで話してきたことなんて、全部、このための――!
「結局色月じゃない! あたしのことも、あの子のことだってどうでもいいんだ! 兄さんが気にしてるのは色月だけ、あいつのことだけなんでしょ!」
「落ち着けよみつる。ただ俺は――」
「知らないから、私はあんなの知らない! あんなやつ、私の子供じゃない! なのになによあいつ、母さん、母さんなんて……気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い! 馴れ馴れしいのよ! さっさと出てけばいいのに! それなのに色月! みんなして色月、色月、色月!! ああもういや、死ね死ね死ね死ね死ね死ね! 色月がなによ、なんだっていうのよ! あんな、あんな――あんな、化け物!!」
頚の後ろが、ぼきりと鳴った。鈍痛。視界が白んで、白んだ視界には、天井が映っていた。強い力に引っ張られて、頭ごと上を向いたのだ。私は顎を上げたまま、目だけで下方を睨んだ。兄の手が、私の襟をつかんでいた。兄が、目を見開いて、私を凝視していた。
「……なによ、殺すの? 私のことも。移民みたいに殺しちゃうの? そうよね、あんたそういうやつだもん。殺せるわよね、だってあんた、殺したもん。ゆめ姉さんを、殺したもん……!」
「……」
「笑っちゃう、笑っちゃうじゃない。あは、あは、あははは、あははははは!! 殺すんだ? 色月のためなら、家族だって殺しちゃうんだ? 家族より、あの化け物なんだ? ……いいわよ、やりなさいよ。そんなにあの化け物が大切なら、姉さんの時みたいにやってみなさいよ!!」
「……」
「どうしたのよ、殺せばいいじゃない。簡単でしょ? あんた、殺すの得意なんだから。殺しなさいよ。でなきゃ、返してよ。返しなさいよ、姉さんを。早くしてよ、頭が痛いんだから。私はもうずっと、ずっとずっと頭が痛くて仕方ないの! ああ痛い……痛い、痛い、痛い! ずっと痛いの、あんたのせいで! 返してよ、あんたが壊したもの、全部返してよ! じゃなきゃ殺せよ、殺せ、殺せっていってるでしょ! この――」
「……」
「人殺し!!」
涙が出ていた。何の涙かも判らない。兄が憎いからか、色月が憎いからか。それとももっと別の、いるのかいないのかも判らない、神様とかいう無責任な奴らへの怒りからなのか。とにかく、憎かった。憎くて憎くて、憎いことが悲しくて、私は涙を止められなかった。止めなかった。
兄が、手を離した。
「…………とにかく、クスリはもうやめろ。それでお前は色月とやり直せ。受け入れて、抱きしめるとか……親らしいこと、してやれ」
「……絶対にいや」
「二週間くらいは滞在するだろうからな。それまでに整理、つけとけよ」
一方的にそう告げて、兄が席を立った。ウロか、もしくはあの洞とかいう奴の所へ行くつもりなのだろう。背中を向けて、二年前よりも更に伸びた後ろ髪を揺らす。
「……金が」
束ねたその後ろ髪を、私は睨む。
「金があればいいんでしょ。あの子が働かなくてもすむくらいの金が」
私から姉を奪ったその髪を、私は睨む。
「いいわよ、集めてみせるわよ。ぐうの音も出ないくらい、かき集めてみせるわよ」
今また私から家族を奪おうとするその髪を、私は睨む。
いつもいつも私から家族を取り上げる兄を、私は睨む。
「みつる、俺は――」
兄が、何かを言いかけた。小さく、殆ど聞こえないような声で。そしてその声は、より大きな声に掻き消された。
悲鳴。兄が反応する。私も腰を浮かす。頭じゃない。心臓が、きゅうと締まって、痛んだ。
悲鳴は庭から聞こえた。
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