三三~三六
三三 相道色月
後悔はなかった。望みに殉じた自分の選択に、後悔することは何もない。けれど、甘くみていたのも事実かもしれない。身体的な消耗が、こんなにも急なものだとは思っていなかった。不安がよぎる。間に合わないかも知れない。このままだと、もう、ぼくは――。
「大丈夫っすか?」
「……ごめんなさい、面倒をお掛けして」
「いいですいいです、旅は道連れ世は情け! それに――」
四四さんの肩を借りてぼくは、先行したみんなの後を追う。わだちを追って山を登ったみんな。わだちはすぐに見つかったことだろう。ウロくんがいる限り、心配することはない。けれど、その後はどうだろう。わだちを発見した、その後。みんなはそのまま、先を進んでくれているだろうか。そうだと信じたい。すすぐちゃんが、そうしてくれているはずだと。
もし間に合わないにしても彼女が成し遂げてくれるなら、それで構わないだろう。もしかしたら、その方がいいくらいかもしれない。それ以上を望むことはきっと、贅沢だろうから。簒奪者であるぼくに、そんな幸福を甘受するだけの権利などきっと、ないのだから。
ウロくんの幸せを奪ったぼくには。
「四四もきみに、聞きたいことがあったですから」
「……ぼくに?」
途切れかけていた感覚が、肩から伝わる振動によって呼び戻された。
「『廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る』。双見の言い伝えですな?」
言い伝えられる神の言。双見の思想の、その根幹を為す一文。その言葉を聞いてぼくは、風に翻った青いマフラーを目に浮かべる。
「四四はこの考え、好きじゃないです。はっきり言って、虫酸が走りますなー」
四四さんは、にこにこと笑っている。
「判るっすよ、いい気はしねーですよね。だってきみは、『息重』っすもんね」
幸せな、世界のすべてを肯定するような笑みで。
「いや、息重とおんなじってだけですな。でも、どっちも大差ねーですか。何れにせよ、霊素を読んでるってことに変わりねーんですから」
その笑みの奥に抱く感情が、彼の言葉と共に溢れ出てくるのを感じた。
「これでもあちこちお出かけしてるっすから、他にも似たようなのを知ってるのですよ。でも、そんなことはどうでもいいっすね。四四のことはどうでもいいっす。四四はどうでもいいっす。それより双見のことですよ。双見の人は神様の一部に還ることを救いみたいに言ってるですけど、四四にはそうは思えねーんですよ。だって神様と“重なる”って、自分が自分じゃなくなるってことじゃねーですか。それって、名前を失うってことじゃねーですか」
「……名前、ですか?」
なだれ込んでくる。
「名前っす、名前、名前。名前は大事っすよ。だって人って、名前があるから人間になれるですよ。名付けられて、区分けられて、ようやく生まれることができるものなのですよ。名前がないってことは、生きてないのと同じってことなのですよ。生きてないってことは、愛されることもないってことなのですよ」
この人の願いが。
「ぼくは、愛されたいですよ」
過去が。
「色月って、いい名前っすよね。色を帯びた月。夜に浮かぶ光。いい名前っす。四四は心からそう思うです。でもこの名前、正直きみには合ってない気がするのですよ」
……ああ、どうして気づかなかったのだろう。
「ねえきみ。その名前、いったい誰から奪ったものなんですか?」
この人は――。
「……四四さんは、霊素研究のために双見へ訪れたのですよね」
……いけない。
「ここから少し行った場所に、息重だった方の家が残っています。息重の家には神の息――霊素を感じるための呪具や専心所が用意されていたそうです」
この人を近づけさせては、いけない。
「どうでしょうか、四四さん。案内しますので、よければそちらへ寄ってみませんか――」
この人を彼に……ウロくんに、近づけさせては――。
三四 下山おもや
あの日。五年前に母が亡くなり、母と会うため月山へ登ったあの日。私の神様と出会ったあの日。あの日から私は、月山に入ることはあっても、その奥まで歩を進めることは決してしなかった。思い出を、思い出のままに保存しておきたかったのだ。その時が訪れるまで。陽光の聖地。神様と約束を交わした、私だけが有する信仰の記憶を。
だからこの場所へ足を踏み入れるのはずいぶんと久しぶりのことで、内心私は怯えてもいた。願いの裡に美化された記憶が、知らず現実を書き換えてしまっていはしないかと。記憶をこそ真実と捉え、目の前の現実に虚構を感じてしまうのではないかと。勝手に生み出した齟齬に落胆してしまうのではないかと、そのような不安を私は抱いていたのだ。
不安は杞憂だった。聖地は、聖地のままだった。身の回りでは変わってしまったことも少なくなかったけれど、この場所は、ここから見える双見の西は、あの頃のままでいてくれた。静止した時間が、あの時から続く空が、そこにはあった。
舞台は、整っていた。
「あの……色月さん、遅いですね」
私達は何をするでもなく、三人と一匹並んで眼下の双見を眺めていた。沈黙が続き、それに耐えきれなくなった私が発した言葉も、曖昧なふたつのうなづきが返ってきただけで、それでもうなかったことにされてしまう。気まずい。どうしよう。もっと何か、もっと気の利いた話題でも振った方がいいのかな。ねえ、わだちはどう思う? 頭を撫でると気持ちよさそうに首を伸ばしたものの、わだちは何のアドバイスもくれはしなかった。
座っていたウロさんが、音もなく立ち上がる。
「すすぐ、やはり俺は色月を迎えに――」
「二人共、いいかしら」
ウロさんの言葉を打ち消すような格好で、相道さんが言葉を被せる。「すすぐ」とつぶやくウロさんの声。けれど相道さんはそれを無視して、携帯していた小さなバッグから、四角い、見たことのない手のひらサイズの機械を取り出して私達の前に見せる。
「これは?」
「テープレコーダーって言うらしいわ」
脇の下から、わだちが頭を滑らせた。濡れた鼻をふんふんと鳴らし、一点を見つめて寄り目になっている。相道さんがわだちの鼻先に、そのテープレコーダーなるものを差し出す。
「どうしたんだ、これは」
「……ここをね、こうして赤いボタンと一緒に押すと、吹き込んだ音を録ることができるの。こんなふうに」
わだちの前へと差し出したまま、相道さんがその機械を操作する。私とウロさんは、相道さんの行いを静かに見守る。その間、一〇秒程だったろうか。わだちの鼻先から胸元へと機械を寄せた相道さんが、先程とはまた違う操作を行う。そして準備が出来たのか、「よし」と小さくつぶやいた彼女は、機械の表面を私達に向けた。
「わうっ!」
反射的に飛び退ったわだちが、同時に一声吠えた。さすがにわだちみたいな反応はしなかったけれど、私も少し、びくりと身体が浮き上がりかけた。相道さんの持つテープレコーダーという機械から、わだちの「ふんふんふんぶしゅう、ふんふんふこっ」という鼻を鳴らす音が本来の数倍の大きさになって流れてきたのだ。友達が隠れているのかと勘違いしたのか、わだちがおっかなびっくりな様子で相道さんの後ろへと回り込んでいく。けれどそこには誰もいなくて、結局一周して元の場所にもどったわだちの顔には、一見してそれと判る疑問符が浮かんでいた。わだちまで騙してしまえるような本物そっくりな音が流れてきたことに、私はびっくりしてしまった。
「それで、これがどうしたんだ」
びっくりした様子なんて微塵もなく、ウロさんが問いかける。相道さんはウロさんのことを見ず、手元の機械をなにやら弄くっている。
「……タイムカプセルっていうの、どうかなと思って」
「タイムカプセル?」
「うん、タイムカプセル。タイムカプセルっていうのは――」
そう言って相道さんは説明を初めてくれたけれど、タイムカプセルであれば私も知っていた。今から未来への贈り物。小学校を卒業する少し前に、同学年の子が全員で一斉に埋めたのだ。学校で毎年行われている、恒例なのだという話だった。確か思い思いのことを書いた紙を封筒に納め、それを更に一つの缶に集めて土に埋めたような覚えがある。
けれど、タイムカプセル。どうなのだろう。あの時の私がなんて書いたのか、それぞれの想いを詰めた缶がどこに埋められたのか、たった一年くらい前のことなのに、記憶はすでにあやふやになっている。思い出せるのは時間内に間に合わせなきゃという、そんな焦りばかりで。
「それでね。録音したテープを埋めて、数年後にみんなで聞いたらどうかなと思って。……その、思い出したり、忘れたりしないために」
かちゃかちゃと音を鳴らして相道さんは、蓋にあたる部分を開けたり閉めたり繰り返している。何か意味があるのだろうか。端から見ている限りでは、そうは思えない。
「それはいいが……なにを?」
「未来の――」
ばちんと、蓋が閉じた。
「未来の自分に向けた、メッセージ、とか……」
そう言って、相道さんは口を閉じた。口を閉じて、双見を横目に見下ろして、何も言わない。手も動かない。ウロさんも、何も言わなかった。相道さんを見下ろしたまま何も言わず、むずかしい顔をしたまま固まっている。静かだった。降り注ぐ陽光は温かいけれど、私達の周辺だけ、何度か温度が下がっているように感じられた。感じた。このままにしていたらたぶん、このままはこのままのまま終わってしまう。そんなこと、私は――。
「やりましょう!!」
二人の視線がこちらへ向いた。一瞬のどがうっと詰まりそうになるものの、そんなことを気にしている場合ではなかった。気にしている場合じゃ、ない。
「二人が思いつかないなら、私が一番になっちゃいますから! 相道さん、貸してください!」
固まったまま私を見つめる相道さんから、テープレコーダーをひったくる。思ったよりもずっしりとした質感が、両手の上にのしかかった。この重さはきっと、切欠の重さ。相道さんがウロさんとの関係を改める、その勇気を得る切欠の。
さっきまでは半信半疑だったけれど、いまはもう、確信を持って言える。相道さんはここで、ウロさんと向き合うつもりだ。いままでそんな素振りを見せなかった彼女がなぜ、今日という日を選んだのか。それは判らないけれど。でも――。
「……えっと、聞こえないようにやって、いいんだよね?」
「う、うん」
相道さんがそれを望むなら。きっと、いまなんだ。いまこの瞬間が、役割を果たすべき時なんだ。臆病な彼女の背中を、私が押してあげる時なんだ――!
「み、未来の私へ!」
彼女のために、私は私の願いを描く。未来の私を想って耽る。いろいろなことが思い浮かぶ。浮かびすぎて、選べない。そうだった。小学校の時も私は、思い浮かぶことが多すぎて、どれも大切なようで、どれも笑われてしまうような気がして、選べなくて、最後に焦って思い出せもしないようなことを書き込んだんだ。
できるなら、そんなことはしたくない。いまこの時の神聖に、不純な異物を混ぜたくない。私は、未来の私に、何を願う。相道さん――。相道さんを見る。相道さんを見る、ウロさんを見る。二人を見る。ああ、と、私は思いついた。そうだ、私。私、あの人とのこと――。
「……は、はい! 次は相道さん!」
「わ、私?」
「そうです! はい、受け取って!」
「う、うん……」
ひったくった時よりも激しい勢いで、私は相道さんにテープレコーダーを押し付ける。……緊張した。どうだろう。うまく吹き込めただろうか。きっと大丈夫だと思うけれど、声は自分が思っていた以上に小さくなってしまったし、少し、不安が残る。相道さんは、どうだろう。彼女もあっさりとは行かないようだった。何度かテープレコーダーに顔を近づけようとして、結局離れるという動作を繰り返している。
「相道さん!」
私は彼女に笑いかけた。応援するつもりで、最高の笑顔を贈るつもりで。たぶん、結果はぎこちのないものであったに違いない。けれど相道さんは私の顔を見て、それで――何かを決めたようだった。彼女の顔が、再びテープレコーダーに接近した。今度は離れなかった。声は聞こえない。でも、彼女の口元は、きちんと言葉をつむぐ動きをしていた。
「……はい」
自身の番を終えた相道さんが、私達二人分の重みも加わったテープレコーダーを両手に乗せ、それをウロさんの前へと掲げる。ウロさんはむずかしげにしていた顔に、更に濃い影を作った。
「……俺もやるのか?」
「自分だけ逃げるつもり?」
「そうですよ! ウロさんもやってください!」
「……」
私達二人の圧力を受け、ウロさんが無言でテープレコーダーを受け取る。けれどウロさんは片手に握ったそれを睨んだまま、動かなかった。その顔は困っているようにも、怒っているようにも、なんだか泣き出してしまいそうにも見える。
「ウロ。考えながらでいいから、聞いてくれる?」
止まったままのウロさんを前に、相道さんが話しかけた。静かで、柔らかな話しかけ方だった。
「私ね、いまみたいになってから、色々考えたの。どうしてこうなっちゃったんだろうとか、これからどうなるんだろうとか、色々、色々……」
「……」
「本当言うとね、すごく、不安。今も不安だよ。不安で不安で堪らない。先のことを考えると、居ても立ってもいられなくなるの。だから、先のことなんて考えたくない。昔のことも怖いよ。明るい過去も、暗い過去も、今の私を浮き彫りにしてしまうから。でも、過去は変わらないでいてくれる。どんなに残酷な過去でも、“それ以上”にはならないでいてくれる。そういう、安心みたいなものも感じるの。でも、未来は違う。一〇年後だって、一年後だって、一ヶ月後だって、一日後だって、一時間後だって、一分後だって、一秒後だって……それがどれだけ近い未来であっても、未来は未来である限り未知だから。……判りきったいまに留まっていたい、いつまでこのままでいられるんだろうって、そんなことを考えてしまうから」
彼女の長い、長い告白を耳にしながら私はふと、気づいた。
「――でもね」
相道さん。口調が、変わってる。
「私、判ったの。いまこうして、自分と向き合ってみて。私が……私がほんとは、どうしたいのかってことを」
……ううん、これは。
「それが、未来にしかないってことも」
もどってる。あの頃に。あの時に。
「だから、ウロ。私ね、ウロにも、ウロに――」
神様だった、すすぐに――。
「あなたに――」
「みなさん御機嫌よう。こんなところで奇遇ですね」
真っ先に反応したのは、ウロさんだった。口元へと近づかせかけていたテープレコーダーを放り投げかねないような勢いで身体をひねり、声の聞こえた方向へと正対する。そこに現れた、人影と。
「先輩、どうしてここに……?」
そこにいたのは、那雲崎先輩だった。いくら月山が緩やかな山であろうと先輩の格好は余りにも普段通りに過ぎて、逆に普通であることから掛け離れているように感じられた。山という特異な空間を上書きする、非日常を超越する日常。暴力的。有無を言わせぬ迫力を伴って、那雲崎先輩という名の日常〈違和〉がそこにいた。
日常が、動く。
「御機嫌よう下山さん。どうしてってことはありません。ここの景色はボクもお気に入りですからね。でも――」
聖域が、日常に歪む。
「下山さん、それに相道さん。今日あなたたちと出会えたことはきっととても素敵な幸運で、ボクも先日交わしたお茶の約束を果たしたいとは思うのです。けれど偶然に……そう、偶然にではあるのですが、先約ある殿方とお会いしてしまいまして」
日常が、聖域に侵入する。
「お久しぶりです、相道ウロ。よもや忘れてしまったとは思いませんが、改めて願いましょう。相道ウロ、小さな天狗よ。この那雲崎しるしの誘い、今一度お受けして頂けますね?」
日常に、聖域が。
「さあ」
聖域が――。
「ダメだ!」
風が吹いた。麓から吹き付け、山の斜面を駆け上ってきた風が。顔付近にまで浮き上がった砂や土を退けようと目を細め、顔を背けたその時に、私は見る。風に乗った赤色が、陽光の白に浮かび上がっているのを。
「……色月」
ウロさんがつぶやく。光を浴びた赤色。そこには色月さんがいた。けれど色月さんは自分の名をつぶやいたウロさんには目もくれず、その前を通り過ぎる。通り過ぎた色月さんは、そのまま――日常に、向かう。
「那雲崎さん、ダメだよ……これ以上は本当に、あなたが泣けなくなってしまう」
「……なんのことかしら」
「判るはずだよ、今のあなたになら。お祖父さんを喪ってしまった、あなたになら」
そう言いながらも色月さんは、一点を見つめていた。視線を向けていた。会話相手の先輩に向かって――ではなく、どうしてか、私に向けて。胸を抑え、今にも倒れそうに疲弊した色月さんは、それでも強い意思を伴った目で私を見ていた。
な、なに――?
「そんなこと……」
か細い声。声の主を見る。声の主――那雲崎先輩も、私を見ていた。けれど先輩は私と目があった瞬間、慌てたようにその視線を下方へ追いやった。そうした彼女の振る舞いを見た私は、異常な程に張り詰めていた“日常”の空気が薄れているのを感じた。那雲崎先輩の身体もとても小さく――いや、等身大に見える。急速に、山という空間に彼女が溶け込んでいく。
「そんなこと言われたって、ボク、もう、いまさら……」
縮こまって、合わせた両手を握りしめて、更によく見ると、彼女は小刻みに震えていた。弱々しくて、抜けきれない幼さを感じさせる女の子。私の知っている先輩が、そこにいた。背伸びをしようとして、だけどどうしても背伸びしきれない先輩。母を喪った私に、「いつでも頼っていいから」と言ってくれた、あの。
家族を喪う辛さを分かち合ってくれた、あの。
「いまさら……」
「那雲崎さん、大丈夫。まだ間に合う、間に合うんです。あなたの悔悟も、憧れも、いまなら、まだ――」
「あー、やっと着いたっすー!」
場違いに大きな、その気配。間違えようのない、この声、この調子。
「酷いじゃなねーですかマフラーくん。四四のこと、あんな場所に置き去りにして。そんなにみんなのとこに行きたかったんすか? それとも……始めから置いていくことが目的だったとか?」
「四四さ――」
「あー! それ、テープレコーダーじゃねーですか! きーとさんがマフラーくんにあげてたものー!」」
「……なに?」
「ね、マフラーくん、ですよなー?」
「あ、ちが、色月さんは――」
「なんすかすすぐちゃん? あ、もしかしてあれっすか? 実は秘密だったとか? 発起人はすすぐちゃんじゃなく実はマフラーくんで、これを使って遊ぶのを考えたのもマフラーくん。なんのつもりか知らないけど、マフラーくんがぜーんぶ裏でシナリオを描いてた。そういうことですかなー? 違うっすか? 違くないっすよね? はい、当たり、当たり当たり。バレバレですよー、顔がそう言ってるじゃねーですか。ダメっすよ、そういうの。家族に隠し事なんて、そんなのよくないですな。だってそんなの仲間外れ――違うか、家族外れにするってことですからな。家族外れなんて可哀想っすよ、家族は全員愛しあうべき! 愛し合えないなら、そんなものは家族じゃねーです。ぼくは認めねっす。ねえ、そう思わないっすか? ねえすすぐちゃん、ねえマフラーくん、ねえウロくん、ねえ、ねえ、ねえ! そうは思わないっすか?」
「あなたは――」
「思ってくれるみたいっすね、よかった! じゃあ、隠し事もなくなったことですし、四四も遊びに混ぜてくーださーいなっ!」
完全に、完全に彼の独壇場だった。誰も、ここにいる誰一人もが、口を挟むことなどできなかった。彼の発する熱量に気圧されて。その、鬼気迫る、勢いに。
「……色月、お前が」
ウロさんが、ぼそりとつぶやいた。
「お前がすすぐを唆して――」
「ウロくんぼくは――」
「黙れ!!」
ウロさんの手に握られたテープレコーダーが、みしりと音を立てる。
「俺が……俺が何のためにお前を――」
何のために……。苦しそうに吐き出された、ウロさんの声。その先で控えた何かを予感させるその言葉は、しかしそれ以上続けられることなく、草葉の折れる微かな音に掻き消されてしまった。何かが、頭上から、降りてきた。
「子天狗よ」
「ひっ」
突如として現れたそれに、私は思わず悲鳴を上げる。ひょろりと細長い、腕と足。今にも折れ曲がってしまいそうな体躯を支える、刀のように湾曲した杖。そして――そして、最も異様な、その頭部。そうだ、この人は、いつか見たあの――。
「覚悟は決めたか」
包帯の。
ウロさんは、包帯の人の言葉に応えなかった。応えず、その前を素通りする。素通りして、そのまま、那雲崎先輩の下に向かって歩いていく。聖域から、約束の場所から、彼が、ウロさんが、出ていこうと――。
「ウロ!!」
結わえられた後ろ髪が、無防備な背中を撫で、止まる。
「……私、絶対に赦さないから! このまま行ったら私、あなたのこと絶対……絶対一生、赦したりしないから! だから――」
掠れた声で、相道さんが「だから」とつなぐ。けれど、漏れ出た声はそこまでで。何かを懸命に吐き出そうとしている彼女は、しかしそれを形にすることができずに苦しんでいるようで、彼女に在るまじき、辛そうな顔をして……。
正直、いま何が起こっているかなんて全然判らない。矢継ぎ早に変わる展開に翻弄されるばかりで、頭も心もついていけてないのが本当のところだ。でも、判ることもある。このままにしてはいけないってことは。それだけは、判る。このままウロさんを行かせては……このまま相道さんに、ウロさんを拒絶したままにさせては。それだけは、阻止しなきゃいけない。
押さなきゃ、背中を。彼女の背中を。だって、だって私はそのためにいるんだから。そのために、約束したんだから。だから、押すんだ。私が押すんだ。押さなきゃなんだ。彼女の背中を、私が、私が、私が――。
私なんかが、どうやって?
「あ、あの……また今度、今度こそお茶しましょうね?」
……ああ、それで。たったそれだけで。それでもう、行ってしまった。先輩も。包帯の人も。それに……ウロさんも。虚無感と、喪失感。何か大切なものが、決定的に喪われてしまった感覚――母を喪った時と、同じ感覚。そんな払拭しようのないものに、私は包まれていた。でも、これで……これでいったい、私達は何を喪ったというのだろう――?
「……わだち?」
わだちが吠えていた。一声二声、なんてものではない。わん、わん、わん、わん、何度も、何度も吠えている。狂ったように。どうしたの。これ以上、何があるっていうの。わだちを見る。わだちの側で、倒れているものが目に入る。
「色月、さん……?」
相道さんが、わだちの側のそれを見下ろしていた。人の形をしたそれ。ぴくりとも動かず、まるで、そう、まるで、死体のような、それを――。
「あらー? 雨、みたいですなー」
言われ、空を仰ぐ。あれだけ差し込んでいた太陽の光はどこにも見えず、見えるのはただ、私達まで押し潰してしまいそうな雨雲による空の支配、それのみで。陽光は、雲に呑まれて死んでいた。
雨滴がほほに突き刺さった。
三五 下山組家
思うようにはいかない、中々、何事も。きっちゃんからもらったヒントとアイデア。頭の中ではうまく整合されていたはずのそれも実際の形へ落とし込もうとすると、一と考えていたものの一〇〇倍もニ〇〇倍も多くの障害と複雑性が立ちはだかってくる。新たに書き起こした図面を何枚も何枚も無駄にしながら、それでもぼくはこの終わりの見えない作業に没頭しようとしていた。
ずぶ濡れで帰ってきたおもや。明らかに平生ではない様子のあの子に、ぼくは結局何を尋ねることもできなかった。よっぽど声をかけるべきだとは思ったのだ。でも、ぼくにはできなかった。年々死んだ母親に似ていくあの子が、母親に似ていきながらぼくに憎悪を向けるあの子のことが、ぼくは、怖かった。直視することが、できなかった。だからぼくは、仕事に没頭する。没頭している間は、余計なことを考えずに済むから。
外は雨。暖かな日差しが降り注いでいた昼間とは打って変わって、無作為な憎しみを叩きつけるかのように自らを無数に投げ落とす豪雨。豪雨が屋根を、壁を、雨戸を叩く音以外には何も聞こえない、雨と自分しか存在しない閉鎖空間は、集中を促進させるという観点から見ればとても有意な孤独といえた。
「……うん?」
だから実は、案外時間が経ってからのことだったのかもしれない。雨音に混じったそれに気がついたのは。微かな、木の擦れるような音。なんだろう。耳を澄ます。どうやらそれは、家の中から聞こえてくるように感じる。おもやかちなみちゃんか。あるいはこんな雨だというのに何処かへ出かけたきりのきっちゃんが帰ってきたのか。
もしきっちゃんだとしたら、さぞ寒い思いをして帰ってきたことと思う。拭くものでも用意してあげようか。ぼくはそう思い、軽い気持ちで自室から出た。廊下へ出たことで、音がより大きく聞こえるようになった。かりかり、かりかり、がりがり。正体不明の音は、殆ど途切れることなく一定のリズムで鳴り続けている。どうもこれは、きっちゃんではないのではと思い始める。
気味の悪さはあった。けれど放置しておくこともできず、雨音に紛れて足音を隠しながらぼくは、音のする方へと近づいていった。おっかなびっくり、廊下の軋みに怯えつつ。音は、止む気配を見せなかった。近づいて、近づいて、もう、すぐ、そこまで迫っている。音の発生源は、まず間違いなくそこから起こっていた。父の部屋の前。ぼくは、廊下の角からそっと、頭だけを覗かせる。そこにいたのは――なんのことはない、わだちだった。雨ということで家の中に入れてもらっていたわだちが、父さんの部屋の扉を両足で掻いていたのだ。
「わだち、いけないよ。父さんが……起きてしまうよ」
わだちを捕まえ、抱っこしながらぼくはいう。けれどわだちは暴れまわって、ぼくの腕から無理やり降りてしまう。そしてまたかりかりと扉を掻き始め、その合間合間にきゅうきゅうとせつなそうな声を上げて鳴いていた。わだちの様子は、尋常ではなかった。まさか、と、ぼくは思う。父さんの身に、何か――。わだちと一緒に、扉を開く。
強い風が、一斉になだれ込んできた。
閉めたはずの雨戸が、窓が、空いていた。外から吹き込む雨と風が、容赦なく部屋の中を荒らしている。その中心には、父さんがいた。寝たきりで、目を覚ますことなく、床についたままの父さんが。そして――父さんの側に、誰かが立っていた。誰かの背中が、見えた。
小さい頃のきっちゃんと同じく、きつく縛った後ろ髪が。
「……ウロくん?」
髪が、揺れた。くるりと円を描いて、見えなくなる。その代わりに、見えたもの――。
目の前が、真っ白に光った。一瞬遅れて、轟音。雷だ――そう思った次の瞬間にはもう、目の前にいたはずの人影は消えていた。影も形もなく。夢かと疑う。けれどあの髪型は、あの顔は、確かに――。
わだちが鳴いていた。きゅうきゅうと、せつない声で。せつない声を上げて、振り込んだ雨に濡らされている父さんの顔を、しきりに舐めていた。
「父さん……?」
わだちに舐められている父さんはもちろん起き上がるなんてことはなく、舐められるがままになっている。べろべろとわだちがその舌を動かす度、父さんの皺だらけの皮膚が伸ばされる。伸びて、もどって、たるむ。延々と繰り返されるその運動を見ていて、ぼくは気づく。父さんの顔。その閉じたまぶたの片側が、奇妙なくぼみを形作っていることに――。
三六 下山形建
「おいらはさ、あいつらに負けたくなかったんだよ」
ゲンにイタ――戒厳に平太。相道のお師匠さんの下で、相道の武術を磨いていった二人。親父に言われ、おいらも一時期学びに行ったことがある。とてもではないが、おいらに付いていけるものではないとすぐに悟った。根性なしだとか言って親父はおいらに拳骨を食らわせてきたけども、できないものはできないと、おいらは頑として譲らなかった。あんなの、無理だって。人間が耐えられるものじゃないって。……でもあいつらは、それを修めたんだ。愚痴も文句も一切言わず、逃げ出す素振りも一度も見せず。平太なんか、始めはまともに立つことすらできなかったってのに。
あいつらに負けたくなかった。少なくとも、あいつらと並んで恥ずかしくない自分になりたかった。友達として。男として。腕っぷしじゃ敵わなくとも、何かひとつ、たった一つでいいから、胸を張ってあいつらのダチだと言えるものを、成果を打ち立てたかった。
神輿を造りたかった。
「組家のやつにはさ、そんな引け目を感じてほしくなかったんだよ」
ゲンの奴が拾った純に、平太が拾った友為って坊主。お師匠さんの厳しさが乗り移ったみたいなゲンのシゴキにもめげずに耐えていくこの二人を見ていると、どうしたって幼い頃のゲンとイタを思い出さずにはいられなくて。それに、ゲンが拾ったもう一人の子もだ。稜進。こいつも、武術の腕はともかく将来は学者だなんだって言われるくらいに頭が良くて。組家にも――息子にも、負けてほしくはなかったんだ。すごいダチに囲まれて、惨めな思いを感じてなんか欲しくなかったんだ。
「それでだろうな。あいつは人の顔色を伺うような性格になっちまった。厳しくしすぎちまったんだろうな」
実際のところ息子には、モノ造りという分野において比類なき天禀が宿っていた。その才能を伸ばしたくて、やりすぎてしまったという面もある。もちろん、良かれと思ってやったことではある。そうすることがあいつにとっても、誰にとっても最善なことだと信じて。しかし結果的に、おいらのしたことはあいつから自信を奪い、更にはもっと大事なもんまで手放させることになっちまった。
唯一無二の、家族ってもんを。
那雲崎のお嬢さんにも、ずいぶんと酷い思いをさせちまった。たくさん辛い思いをさせて、だのにおいらはぐーすか一人で寝こけてやがった。面倒事は全部、起きてる奴らにおっかぶせたままで。だから、いいんだ。殺されることは、いいんだ。それは仕方ない。自業自得ってもんだろう。恨んじゃいない。恨むようなことじゃない。むしろこんなに綺麗に殺してもらえて、バチが当たらないかってくらいだよ。
……でもよ、どうにも心残りがあるんだよ。どうしたって、心から離れないことがあるんだよ。おいらの息子と、孫娘のこと。おいらが引き裂いちまった組家とおもやの、これからのことがよ。残ったたった二人の家族がいがみ合ったままだなんて、おいらも死ぬに死にきれねえんだ。
だからさ、頼みたいんだよ。他ならぬ、お前さんに。虫のいい話ってのは百も承知さ。恩を受けてきたのはおいらで、ほんとはおいらがお前さんに恩返ししなきゃならない身分なんだってことは。それでもおいらは、お前さんに縋るしかないんだよ。恥を承知で頼むしかないんだ。その代わりにおいらも――“おいら”を、やるから。おいらなんかがどれだけの足しになるか判らないけども、それでも何もないよりゃマシってもんだろ? お前さんだって、このままじゃ終われないだろ?
だから、頼むよ。ついででいいんだ。一回だけでいいんだ。あいつらが、組家とおもやがまともな家族にもどるその契機を……切欠なんかを与えてくれや、しないだろうか。
なあ、“神様”よ――――。
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