三章

一~四

   一 間東稜進

 犬を拾ったのです。白い犬。それはそれはころころと丸っこい、雪玉のようにふわふわな子犬でした。子犬の見せる一挙手一投足の愛らしさに私はたちどころに参ってしまったのですが、拾われ子である私には犬を飼いたいなどと言い出す勇気は持てませんでした。いえ、ただの拾われ子であれば、多少の抵抗はあれどそのように願い出ることもできたかもしれません。ですが、私にはできませんでした。流れる血の半分が、在留異人のものである私には。あまつさえ、その事実を隠して八百人やおと人を装い、その裡へと紛れ込んでいる私には。

 自身の出自を隠しているのは、兄からの厳命によってでした。いまこの八百人では、八百人の者と異人とが激しくいがみ合っている。異人と知れれば、例え子供であろうと容赦はされない。生き延びたければ欺け。他人も、自分も。そう、兄は言ったのです。おぼろげな記憶の中で唯一鮮明に残る光景。放られた火炎に爆ぜた、父と母。あのような姿に、私はなりたくありませんでした。それは、恐ろしいことでした。ですから私は、兄の言葉に従いました。私のこれまでをなかったこととし、兄も兄とは呼ばず、見知った他人という関係へ留めるに徹したのです。

 私のこうした努力は、幸いにも真っ当に機能していたようです。同じ時期に“兄弟”となった純が本物の記憶喪失者であったことも、私の助けになったのかもしれません。相道の家。双見という町で生計を立てている戒厳という男性の、その息子となることに私は成功しました。

 それでも私は、いつも怯えていました。私のうそがいつ暴かれてしまうものかと、常日頃から気が気ではなかったのです。特に、相道の家の長女。ゆめという名のその人が、私には恐ろしかった。何もかもを見透かすような彼女の目。彼女の目には、私の真の姿が映っているのではないか。私が何者であるのか、彼女は既に知っているのではないか。ふとした瞬間、ふとした瞬間に、そう感じてしまうのです。

 彼女は、やさしい人でした。ゆめちゃん、ゆめさん、ゆめ姉さんと慕われる彼女は誰に対しても分け隔てなく、底抜けにやさしく、また、私とそう歳も変わらぬはずなのにどこか神秘的な空気をまとった、不思議な人でした。彼女を嫌う人がこの世にいるのだろうかなどと思ってしまうくらいに、彼女が素晴らしい女性であったことは間違い有りません。ですが別け隔てがないからこそ、偏見がないからこそ、清も濁も裏も面も一緒くたにして、私が八百人にとっての忌み者であることを口走ってしまうのではないか。悪気のないままに、私の正体を、双見のすべてへ明かしてしまうのではないか。そのような形で、私は彼女を怖れていたのです。

 ですから私は家族に、ゆめ姉さんに子犬を飼いたいと言い出すことができなかったのです。藪をつついて蛇を出すような真似を、したくなかったのです。かといって、こんなに愛くるしい子犬を放っておくことも、私にはできませんでした。家族以外の双見の者、近所に住む町の人々に頼ることも考えましたが、よく知りもしない人に子犬を預けることの不安を払拭することもできませんでした。人には、頼れない。そのような結論に至った私はそこで――山へ登ることに決めました。

 双見の山には、神様がいる。神様であれば、きっとなんとかしてくれる。いま思えば浅はかな考えですが、当時の自分としては子供なりの懸命さで、それしかないという結論に殉じようとしていたのです。後先のことなど考えられない、愚か者の力強さを動力にして。

 そして私は、彼女と出会います。

「かわいい子。あなた、お名前は?」

 山の木陰からひっそりと現れた女の子。浮世離れした、私とは違う何かを見ているかのようなその瞳。どことなくゆめ姉さんと似た雰囲気をまとったこの女の子を見て、しかし私はゆめ姉さんへ抱いたものとは真逆の感情を覚えました。私は何故か、一目で思ってしまったのです。彼女なら、大丈夫だと。それでも念の為、自らの出自のことは伏せながら私は、子犬を安全に任せられる場所を探していると説明します。彼女の答えは、簡明でした。それなら私が飼うよ、と。でも、と、彼女は続けます。ひとつだけ条件があると。特徴的なその瞳で私の瞳を覗き込みながら、彼女は言いました。

「この子の名前、一緒に考えてくれるなら、いいよ」


 それから私は、暇を見つけては山へ登るようになりました。誰にも、特に姉には気づかれぬよう細心の注意を払いながら。子犬と、彼女と会うために。こうしたこそこそとした振る舞いは以前であれば後ろめたさと緊張とで精神に強い負荷を感じたものでしたが、彼女と出会ってからはそのスリルすら楽しんでいる自分がいました。私は、彼女との密会を楽しんでいました。双見に訪れて初めて、心の安らぎを感じることができました。彼女といる間だけは、自分が異人の子であるという事実を忘れることができたのです。彼女は彼女で私と会っていることを周囲に言える立場ではないらしく、二人だけで共有する秘密という特別な感覚も、私の中の彼女をより大きな存在にしていたのではと思います。子犬と、彼女と、私。先のことを考える力のなかったあの頃の私は、この関係が永遠に続くものと思っておりました。

「もう、会えない。だから、来ないで」

 それは、私達の名付けた子犬がもはや子犬とは言えなくなりかけていた頃のこと。彼女の言葉は、余りにも一方的なものでした。それだけ告げて、子犬を連れた彼女は私の前から立ち去ろうとします。そんな唐突な別れ、到底納得できるものではありません。私はすがりついて、彼女に問いかけます。なぜ、どうして、なにが悪かったのと。彼女は説明をしぶりましたが、私はどうしても諦めきれず、彼女に喰い下がって問い詰めました。すると彼女は、あの神秘的な瞳から、涙を流し始めたのです。

「『感息座かんそくざ』に入れられるの。私はいなくなる。私じゃないモノになる。だからもう、あなたに会えない」

 泣きながら、彼女はそのようなことを言いました。『感息座』とは何なのか。いなくなるとはどういうことなのか。それがなぜ会えないことになるのか。彼女の言葉のその殆どが私には理解のできないものでしたが、それ以上彼女を追い詰めるようなことはできませんでした。嗚咽を漏らし、見たことのないくらいくしゃくしゃに顔を歪めて泣いて、それなのにごめんなさいごめんなさいと謝り続ける彼女に追い打ちをかけるようなことなど、できるはずがなかったのです。だから私は、言いました。言いづらいことを言葉にしてくれた、彼女に向かって。

 ぼくは、異人の子なんだ。

 私は彼女に告白します。自分が異人の子であること。異人であることを隠して双見に、相道の家に潜り込んでいること。同じように双見へ潜り込んだ兄を、見て見ぬ振りをしていること。他にも、様々なことを告白しました。自分が如何にずるくて、卑怯で、情けのない男であるかを示す例をあげつらえるだけあげつらって私は、曝け出せる限りを彼女に曝け出しました。でも、それでも。それでもぼくはと、私は続けます。

 それでも、もしそんなぼくでもいいと言ってくれるなら。きみがぼくを拒絶しないでくれるなら。ぼくは必ず、君を迎えに行く。だから、忘れないで。忘れないで、ぼくのこと。絶対に、絶対に迎えに行くから。ぼくが、迎えに行くから。

 例え君が、君じゃない何かになったとしても。

 彼女は泣いていました。彼女が泣き止むことはありませんでした。けれど彼女は、泣きながら笑いました。笑って私に、こう言いました。「こんなに情けのない人、忘れてなんてあげないんだから」。

 そうして私達は、私達の名付けた子犬を唯一の証人として、約束を交わしました。どれだけ掛かっても絶対に、絶対に“私達みんなで”会いましょう〈君を迎えに行く〉〈あなたを待ってる〉という約束を。


 私は、“相道”になることを目指しました。今までのような偽りの相道ではなく、胸を張って“相道”だと自称できる自分になることを。本当の意味で八百人の者になることを、私は目指したのです。唯一それだけが、あの子を迎えるための手段であると信じて。

 ですが“相道”を目指した途端、私の前に大きな壁が立ちはだかることとなります。兄とも弟ともつかない兄弟のきいと。それに、黒澤氏の下から相道流を学びに訪れていた佐々川友為ささがわ ともい氏。驚異的な飲み込みの早さと驚くべき運動神経の高さ。そしてなによりも、彼らが見せる勝利に対する貪欲な意思。どれも、私に欠けているものでした。それが才能というものであるならば、彼らにはそれが有り、私にはそれが欠けていました。武術で相道を目指すことが、私にはできませんでした。

 ならばと、私は勉学に励みました。義父が相道を継ぐ強い子を望んでいることは感じていましたが、それでもこれからの時代、学やまつりを知っておくことは相道にとっても、双見にとっても、引いてはヤ国にとっても必要なことだと思ったのです。いや、必要なことだと思い込もうとしていたのです。幸か不幸か私には、学ぶという行為に対する素養があったようで、学問の世界へ没頭するに苦しみを感じたことはありませんでした。また、そうして身に付けた知識を披露することで周囲が自分を褒めそやしてくれる事実に、心地良さを感じていたことも否定はできません。

 いえ、正直に申しましょう。当時の私は自分を頭の良い人間だと思い、天狗になっていたのです。態度は増長し、自尊心は肥大化し、高慢な腐臭を放つようになった私の伸び切った鼻。その鼻が折られるのに、そう時間は掛かりませんでした。それはむしろ、幸いなことであったと言えるでしょう。高慢にも虚飾を身に纏った私では、彼女も私に気づけなかったでしょうから。しかし、それは折られたのが私の鼻だけであった場合の話。折られたのは……砕かれたのは、私の鼻だけでは済まなかったのです。

 ある時、下山工務店の職人が複数人の男に袋叩きにされるという事件が起こりました。犯人は、当時双見の一部を不当に占拠していた異人の集団。大規模な抗争により黒澤組の主力が不在となった隙きを突いて侵入した彼らと正面から衝突するだけの余力は、当時の双見にはありませんでした。賊は徒にこちらの領域を犯そうとはしていない。先の事件も、かっとなった双方の言い合いから発展したものだ。ならばいまは、事を荒立てないほうがいい。たった一人の被害で済むのなら。町に残った黒澤組の幹部は、そのような決断を下します。

 多くの者が、納得しませんでした。戦うべきだ、犠牲を払ってでも追い出すべきだ。怒りに満ちた声が、そこかしこから噴出していました。黒澤組幹部の弱腰な声明が却って町の人々を燃え上がらせ、その心を一体とさせていました。私は――これを好機だと感じました。相道になるための好機。双見の人間であると、八百人の者であると証明するための好機。異人の血を引く私が、この騒動を解決する。それも、悪しき異人を完膚なきまでに叩きのめすことによって。これ以上の証明方法はないと、私はそう思ったのです。

 もちろん、私にそのような力はありません。それなりの心得は受けたと言っても所詮は子供。大人の、それも複数人の腕力を前に、私の武術など無力に等しいものでした。逆立ちしても、私一人で解決できるような問題ではない。本来であればこの夢想も、愚かしい子供が空に描いたただの餅として雲散するはずだったのです。

 ですが私の隣には、強力無比な兄弟がおりました。純。私と違い、子供だ大人だなどという枠を超越した、絶対的な強者が。兄弟の欲目などではなく事実として、彼に敵うものなど双見には数えるほどしか存在しませんでした。

 それでも、相手は大勢です。純一人では流石に無理がある。返り討ちにあってもおかしくはない。一人では。でも、二人ならどうか。純の武術と、私の頭脳。この二つを合わせれば、あのような無法者の集団、充分に追い払えるのではないか。二人なら。二人で双見の英雄に。それが、私の思い描いた絵図でした。純さえ協力してくれたなら、絶対に実現できる。私はそう思いました。

 純は承諾してくれました。彼にも思うところがあったようで、交渉らしい交渉もないまま、二つ返事で彼は引き受けてくれました。計画や準備も滞りなく進み、決起より二日程度で、私は私を証明する為の作戦を実行に移します。そして――私達は圧倒的な勝利を収め、しかし……圧倒的な敗北を、喫することとなりました。

 私の作戦が十全に機能したことと、何よりも純の鍛え上げられた武術の技。この連携に対抗できる異人は、一人もいませんでした。私達は確かに、その場にいる全員を打ちのめすことには成功したのです。……成功した、はずだったのです。

 そいつは、幽鬼のような空気をまとった男でした。すべてが長く、すべてが細いこの男はどうやらここの異人の統括者のようでしたが、何よりも部下であるはずの異人たちこそがこの男に畏れの目を向けていたことを、私はよく覚えています。理解の範疇を越えた、畏怖の対象。それがすっと、朧に身体を傾けた次の瞬間――純がその場に、倒れていました。倒れたままの格好で、純が手を伸ばします。それの足を、純がつかみます。しかし、そこまででした。コンッ、というような軽い、空洞の木を打つような何気ない音が鳴ったかと思った時には純は上向いて、白目をむいて、気絶していました。「純」と、私は呼びかけようとしました。ですがその声を発することは叶いませんでした。声よりも早く私の下へ出現したそれによって、私の意識も閉ざされました。

 結果から言えば私達は、生き延びることはできました。大きな、余りにも大きな代償を支払うことによって。異変を察知し助けに現れてくれたゆめが、彼女が私達の身代わりになってくれたことで。


 いえ――――純にゆめを、殺させることによって。


 思えばあれが、決定的な転換点だったのでしょう。姉は、ゆめは、相道の中心でした。姉という中心によって結ばれていた相道という家は、彼女の喪失により分解していきます。強く……強く抵抗した妹の狂奔も虚しく私達は、相道はばらばらになってしまいました。


「ゆめみたいな奴が生きられる世界を」

 ゆめを喪った純は以前にも増して力を求め――そしてそれ以上に、異人という存在への憎しみに取り憑かれていきました。純は言っていました。この国にいる異人を――畜生共を、一匹残らず殺してやる、と。そして彼は、それを実現する為の手段として、白眼視されることも厭わず特邏とくらの一員と――特邏の頚折り天狗となったのです。

 私は彼と誓いました。姉のような人が生きられる国を造ろうと。そのために私は、政治の道を目指しました。純は武によって、私は政によって、八百人の国を在るべき姿に改めようと、そう誓い合ったのです。

 ですが私は、本心では姉のことなど考えてはおりませんでした。私はただ、慄いていたのです。異人を憎む純の想念に。そしてそれが、この国の総意であるという事実に。

 私は那雲崎なぐもざき氏の下へ弟子入りしました。引退した八重畑やえばたけ氏から地盤を引き継いだ那雲崎氏は、師である八重畑氏という後ろ盾を存分に活用することで政界内に確固たる地位を築いていた方で、また、異人排斥を標榜する若き旗手として国内の青年団を率いる先導者でもありました。どこかヤ国人離れしたルックスに加え自然に醸す洒脱な空気を纏う彼には、天性のカリスマとでもいうべきものがあったのです。

 そうした那雲崎氏が師である八重畑氏と共に、裏で善からぬ事業に手を染めていることにはすぐに気が付きました。彼らが世間で言われているような清廉潔白な人物ではないと、私には判ってしまったのです。その、僅かな片鱗に触れただけですら。

 しかし、それがなんだというのか。事実がどうあれ那雲崎氏には当時、絶大な支持が集まっていたのです。彼は紛れもなくヤ国の、ヤ国に生きる民の味方でした。異人の敵でした。そしてそれは、彼と同じ道を歩む私も同様であるはず。そうです。私の頭はあの時、“自分が八百人の者であると証明すること”、ただそれ一色に染まりきっていたのです。何を置いてもただそれだけが、私にとっての大事となっていました。例え誰を傷つけようと。例え誰を欺こうと。例え――最低の形で約束を踏み躙ろうと。構わない。この怖れを、雪げるのであれば――。


 その結果が、この有様です。

 霊触症れいしょくしょうという、理不尽な平等。その末期まつごに堕ちた私はもはや生ける屍として、現実に干渉する力を持ちえない身となってしまいました。我ながら、相応しい結末であると感じます。自分かわいさが故に逃げて逃げて逃げ続けてきた者に相応しい、情けのない終わりであると。この意識がいつまで保たれるのか。間もなく消えるのか、それとも永久に消えることはないのか。それは定かではありませんがなにもできないのであれば、そのなにもできない終わりを甘んじて受け入れるべきであると、私はそのように思うのです――。

 真にこれが、終わりであったなら。

 どうやら事実は幾らか異なるものと、私は知ってしまいました。このような身に堕ちたからこそ、このような身の故にこそ可能な領域もあるのだということを、感じ取れるものがあるのだと、私は知りました。私はまだ、終わってはいませんでした。

 そう思った瞬間、多くの顔が目の前に浮かび上がりました。慈しむ者の顔。負けず嫌いの顔。冷厳な顔。泣き虫の顔。他にも、他にもたくさんの顔、顔、顔――見知った、私の人生において大きな意味を与え、私を形作った人々の顔。そして、そして――暗闇の底に佇む、少女の顔。

 私はなぜ、この国の者になりたかったのか。

 このようなモノにもならなければ自らを省みることもできない己を、どんなに愚かな存在かと嘆きたくもなります。ですが、嘆くのは今すべきことではないでしょう。未だ行えることのあるうちは。例えそれがどんなに細く、不可能に思える道であったとしても、足掻かなければならない。己の心に、気づいてしまった以上は。


 ねえ、そうじゃありませんか――純。


   二 相道純

』。北東ヤ国に現れた、姿なき怪物。影すら踏ませぬ者。殺さなければならなかった、畜生共の象徴。

 独立後、ア国の支配より脱した北東ヤ国では、人も物も、何もかもが不足していた。その不足を補うために、ひとつの法案が国会に提出された。それがあの、『移民法案』。国外の畜生共を自ら招き入れるという、最悪を超える最悪の法。その馬鹿げた法案を提出した者は、大陸から送り込まれた工作員だった。そして工作員は、そいつ一人ではなかった。この国の中枢には既に、この国を食い物にすることしか考えていない者共の傀儡が大量に紛れ込んでいたのだ。

 それでもその数は、全体から見ればまだまだ少数と言えるものであり、この馬鹿げた法案も順当に行けば当然棄却されるはずのものであった。そう、順当に行けば――だが、法案は可決されてしまった。移民法は施行され、そして、この国には無数の移民が――畜生共が、薄汚い幻覚剤と共に流入した。すべては『无』という、存在なき存在の手によって。

『无』という名は、特邏が便宜上命名したものであって、正式な名称ではない。正式な名称があるのかも知らない。奴は影も形も、俺達の前に現しはしなかったから。奴の存在を証明するのは、その行為の結果のみ。殺人という行為。移民法案に反対する議員やその後援者、各地の有力者を狙った殺人。狙いは余りにも明白だった。だが、奴の殺人を止めることはできなかった。どんなに厳重に警護しようと、どれだけ姿を隠そうとも、奴は狙った対象を確実に始末した。我々には奴が複数犯であるのか、単独犯であるのか、それすらつかむことはできなかったというのに。そしてヤ国はそのまま対抗する術なく、『无』という暴力に屈してしまった。

 すべては力がなかったからだ。力がないから、『无』という力に抗することができなかった。力がないから、戦争に負けた。個人であろうと国であろうと、変わりはない。力のない者が生存に執するならば、それは惨めな生を選択することと同義なのだ。


 力なき俺が生を望んだが故に、ゆめは死んだのだ。


「なあ、稜進りょうしんよ。お前が本心から誓ってたわけじゃないってことくらい、俺にも判ったさ。けど、それでもよかったんだ。一人じゃ、あんまり心細かったから。異人討伐に誘ってくれた時もな、本当はうれしかったんだよ。言わなかったけどな」

 たぶん、お前も俺と同じだったんだろう。戒厳かいげんに拾われて、家族として迎えられて、けれどどこか、居心地の悪さを感じていた。周りが悪いんじゃない。自分自身の問題として。俺はここにいていいのか。俺は何者なのか。俺は彼らにとって、異物なんじゃないのか……。

 拭えない不信感と、そのような考えを抱くこと自体への呵責。その拭いきれない辛苦を拭おうと、家族の一員になろうと、必死だった。それだけだったんだよな。俺も、お前も。

「だから俺はな、お前を恨んでなんざいないよ。あれはお前のせいじゃない。あれは……俺が、そういう生き物だったからだよ。巻き込んじまったのは、俺の方さ」

 そういう生き物だから。俺たちは、俺たちだけで決められるものではない。生まれる前から俺たちは、俺たちになることを定められている。国が、言語が、環境が、遺伝子が、血が、霊素が――自由選択の余地なきままに、俺という生き物の方向性を決定づける。歴史というものの集積と堆積が、俺という醜悪なキメラを産み落とす。遡り、遡り、遡っていけば――遡及的に辿り着く、その始点から。

 ふざけた話だよな。

「だからな、稜進。俺は決めたのさ、俺一人でも誓いを守るって。どんな手を使ってでも。お前ならもう少しマシな方策を考え出してくれたのかもしれないが……お前はもう、寝ちまったからな。だから――」

 だから後は任せておやすみ、相道稜進。兄とも弟ともつかない兄弟だった、唯一の同胞。

 たぶん、これでお別れだから。

 雨音だけが響き渡る稜進の病室を、俺は後にする。


   三 下山組家

 父さんは、厳しい人だった。誰に対しても厳しく、けれど自分には一層厳しかった父さんは、その腕の良さもあって多くの人から慕われていた。下山形建なりたての下山工務店は双見の建築を一手に担う町の屋台骨に間違いないと、誰もがいった。父さんがいる限り、下山は安泰だった。安泰による安定が、これから先もずっと続くと思っていた。父さんがいなくなるなんて、考えたこともなかった。

 父が、作業中に高所から落下した。頭を強く打ち、言動も曖昧になり、それから寝たきりになるまで時間はそう掛からなかった。なお悪いことに、どこからもらってきたのか、父は霊触症を患っていた。父の快復は、絶望的だった。下山工務店を存続させるためには、新たな棟梁が必要だった。父の子というだけの理由によって、ぼくは下山を継いだ。しかしぼくには、父のような人望がなかった。

 折しも移民法騒動の動乱で、双見も混乱していた時期のこと。黒澤のおじさんを筆頭に面倒を見てくれた人は限りなかったけれどもそれだけでは、家族や従業員を食わせていくのには足りなかった。仕事が必要だった。仕事と、仕事を得るための信用が。そのためにぼくは頭を下げ、床に手を付き、苦手な酒も付き合いの裡と吐くまで飲んだ。それでも資金繰りは芳しく無く、妻は外へ働きに出た。昼夜もなく働き通しだった妻は目の下に隈を作って、それでも気丈に笑って勤め先へと出掛け、その勤め先で起きた火災事故に巻き込まれ、死んでしまった。死なせてしまった。

 おじさんと八重畑先生のお陰で移民法騒動を切り抜けた双見は徐々に安定を取り戻し、下山工務店にも余裕が生まれていた。もちろん父が取り仕切っていた時とは比ぶべくもないものの、それでもちなみちゃんのようなみなし児を預かるくらいの余裕はできたのだ。ぼくはこれで、悪くないと思った。このまま変わらず、安定したまま、下山が存続していけばいい。下山と、親しいぼくの友人たちが幸せに暮らしていければいい。そう思っていたんだ。

 父が死ぬなんて、思ってもいなかった。しかもそれが、殺人でだなんて。

 それも、それも――――。

組家くみやね

「……はい、おじさん」

「本当に、犯人を見てはいないのだな」

「…………はい」

 ウロくん。

 見間違いかも知れないとは、何度も思った。部屋の中は暗かったし、何より一瞬のことだったから。けれどあの顔は、稲光の閃光に照らされたあの顔は、確かに彼のものだった。見間違えようのない、あの顔。ぼくの代わりの棟梁にと、密かな期待を寄せていたあの顔。ウロくん、本当にきみなのか。きみが父さんを殺したのか。殺さなければならないほどの何かが、きみにはあったのか。憎かったのか。でも、だったら、だったらなぜ……どうしてきみは、あんなにも泣き出してしまいそうな顔をして――。

「タテ……」

 ちなみちゃんに抱きしめられたおもやが、ぼくの後ろですすり泣いている。黒澤のおじさんは、おもやのように泣きはしなかった。病で眠っていた時とは違う血の通っていない顔色をした父を、おじさんは静かに見つめていた。ただ、ぼくは聞いてしまった。おもやの泣き声に混じってつぶやいた、親父さんのつぶやきを。「これでもう、わし一人、か」という、掠れたつぶやきを。

「組家」

「はい」

「あるいはこれは、タテの意に反することかもしれん。じゃがわしとて、いつまでこの心の臓を拍動させていられるものか判らぬ。伝えるべきことを秘したまま土に還るような真似は、したくない」

 何のことですか。そう問いかけたぼくへと向き直り、おじさんは神妙な顔をして、告げてきた。

「お主に神輿の建設を依頼したのはわしではない。依頼主はタテじゃ。お主の父親じゃ」

 ……父さんが?

「タテはお主の腕を認めておる。お主が考えているよりも、ずっとな。お主は信じられぬかもしれぬがタテはよく、お主のことをわしに自慢しておったよ。あいつは天才じゃ、ヤ国一の大大工になる男じゃと……。故に、お前なんじゃ。己がついぞ叶えられなかった本願。それを任せられるのは、叶えてくれるのはお主しかおらんと、タテはそう信じておった」

 父さんが、ぼくを?

「この馬鹿者め。わしに頼んできおったのじゃ。わしからお主に依頼するようにな。こやつが寝こける、その直前のことじゃ。そんなこと、自分の口から言えばよかろうに。……じゃが、それをできないのがこのタテという男だったのじゃろう。お主に余計な気負いをさせたくなかったのかもしれん。しかし組家、わしは言う。そのような小細工なしに告げるべきじゃと、今は思う。この依頼が、下山形建という男の人生を集約した遺言である以上は」

 父さんの、遺言。

「今一度頼もう。下山の現棟梁組家よ。この仕事、受けてくれるな」

 おじさんは、どこまでも真剣だった。偽りはないのだろう。おじさんは、どこまでも真実だけを語っている。それがぼくにも判った。父さんがぼくを認めてくれていたということ。ぼくを信じて依頼してくれたということ。その真実を受け、その上でぼくは、親父さんに向き直った。

 ぼくは、言った。


「……お断りさせていただきます」


 生前の、まだ健在だった頃の父が思い浮かぶ。一度だって褒めてくれたことのない父。十を出せば百を、百を出せば千を求めてきた父。

「依頼主が期待する以上の物をお出しろ。小さい頃からぼくは、父にそう教わってきました。その教えを守れている自信はありません。それでもなんとか納得して頂ける程度のものは提供できるよう、自分なりに精一杯やってきたつもりです。いまの下山が在るのも、うぬぼれかも知れませんがその成果の結果であると信じています。他所に負けない、期待に答えるだけのものを作り出してきた結果であると。ですが、依頼主が父であるというのなら、話は違います」

 父がぼくの腕を認めてくれたいたというおじさんの言葉は、確かに真実なのかもしれない。認めているからこそより高いハードルを、より高いレベルを課してきていたのかも知れない。例えそれが、叱責と折檻という形のものであったとしても。だとしてもそんなこと、勇気にはなりえない。ならないんだ。そうだ、ぼくには確信があった。そう――。

「ぼくには……下山組家には、下山形建の期待に応える腕などありません」

 父さんがどう思っていたかも関係ない。ぼく自身が、そう、思うのだ。ぼくは父の期待に応えられない。落胆させてしまうだけだ。それは、目に見えた未来だ。父との間に培ってきた経験の蓄積だ。ただの一度も父を満足させてあげられなかったぼくに、うまくいくビジョンなんて思い浮かべられるはずがない。

 父と向き合うということはぼくにとって、自分の無力に向き合うことと同じなんだ。

 父の人生を集約した遺言だなんて、そんなもの。そんなに重たいもの、とてもではないけれど、ぼくには……。

「ですからこの依頼、誠に申し訳有りませんがお断りさせて頂きたいと――」

「どうして!!」

 背後から、絶叫で殴られた。強い痛み。振り返ると、おもやが立ち上がってぼくを睨んでいた。

「おもや……?」

 拳を固めて震え、溢れる涙もそのままに、おもやが――妻によく似た顔をしたおもやが、ぼくに怒りの目を向けている。

「どうしてお父さんはいつも、いつもそうやって逃げて……お母さんのことも、お祖父ちゃんのことも、私のことも――」

 んくっと、何かを飲み込んだおもやののどが、蠕動する。

「お父さんがもっとしっかりしてればお母さんも……お祖父ちゃんだってきっと、死ななかった。死んだりなんかしなかったのに――」

「おもや、お父さんは――」

「お祖父ちゃんもお母さんも、お父さんが殺したんだ!」

「おもや!」

 部屋を飛び出していったおもやを、ちなみちゃんが追いかけていった。どたどたと、廊下を走る音。遠ざかり、家から飛び出た音が聞こえた。聞こえたのは、そこまでだった。

「組家」

 おじさんの声。

「お主も人の親じゃ。部外者のわしがあれこれ余計な口出しをしようとは思わん。じゃが――お主、それでよいのか」

 おじさんがぼくを見ているのは感じていた。けれどぼくは俯いて、目を合わせることを拒んだ。静かな時間が流れた。おじさんが、深い溜め息を吐いて後、部屋を出ていった。ぼくは、その場に座ったままでいた。ぼくはおもやを追えなかった。


   四 多々波ちなみ

「あの、下山さん――」

 那雲崎なぐもざきが、いた。おもやを追いかけ、外へ出たら、那雲崎がいた。玄関前で座り込んでいるおもやの前に、那雲崎しるしがいた。あたしはおもやを抱きかかえ、おもやの盾になるよう那雲崎へと背中を向ける。

「何の用だよ」

「……その」

 那雲崎の様子は、見るからにおかしかった。何かに怯えるようにして、目を合わせようとしない。あの余裕を気取った態度の、その片鱗も見られない。明らかに、いつもの那雲崎とは違っていた。明らかに様子のおかしい那雲崎が、いまこの時、下山の家の前にいる。まさか、こいつ――。

「お前、知ってんのか……?」

「あの、ボク……」

 直感が、確信をもたらす。知っている、こいつは。おもやのじいちゃんが、死んだことを。殺されたことを。


 やっぱり、こいつが。


「……あたしたちに構うな。判るだろ」

 爆発しそうになる感情を、奥歯を噛み締めて、堪える。いまは、言及する時じゃない。そんなことよりもいまは、おもやを落ち着かせてやらなきゃいけない。

「行こう、おもや」

 おもやを立ち上がらせる。おもやの重たさに多少よろけながらも、あたしは友達の身体をしっかりと支える。しっかりと支えて、歩き始める。

「お前らのせいだ」

 すれ違いざまに、つぶやく。那雲崎の肩が、びくんと跳ね上がったのが見えた。おもやを支えながら、あたしは歩く。すぐ後ろから、消え入りそうな声が聞こえてきた。声は、同じ言葉を何度も繰り返していた。あたしはそれを無視し、下山の家から、那雲崎しるしから離れていった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返される声はいつまでも、いつまでもあたしたちの背中を追ってきた――。


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