五~八

   五 相道みつる

「兄さん――!」

 目を覚ますと、手が見えた。私の手。何かをつかもうとするように天井へ向けられた、皺の目立ち始めてきた手。手を下ろす。てのひらが、顔に近づく。てのひらの皺が近づくにつれて現実感が強まり、接触した時には完全に覚醒していた。

 兄さんの夢を見た気がする。稜進兄さんの。私を追い出した戒厳父さん。姉さんを殺した純兄さん。それに、私を置いていってしまった稜進兄さん。どいつもこいつも自分勝手な、相道の男たち。でも、他の二人は恨んでも、稜進兄さんを恨んだことはなかった。その理由が、私にはずっと判らなかった。でも、いまは。今朝はなぜか、直感的に、理解してしまった。

 私が稜進兄さんを恨まなかった理由。それはたぶん、あの人が弱い人だったからだ。武術を使えないとか、腕力がないとか、そういう意味じゃない。もっと根本的な、核心の部分で、あの人は弱かった。弱いことを知っていたから、私はあの人を恨めなかったんだ。いつも何かを求めて、求めて、求めているのに、なのに助けを求めて手を伸ばすこともできないような、そんな人だったから。

 ほらの顔が、思い浮かんだ。なんでよと、自分で自分を叱る。洞、洞四四しよん。うるさくて、へらへらしてて、何をしでかすか判らない奴。理知的で穏やかな稜進兄さんとは正反対。一致するところなんて何もない。何もないのに、それなのに私の頭は、稜進兄さんとあいつのことを、重ねて考えるように働いていた。ああ、と、私は息を漏らす。もしかして、私。あいつに会ったから、判ったのかな、兄さんのこと――。

 電話が鳴った。瞬間、激しい頭痛に襲われた。頭が痛い、割れるように痛い。ならあれは、“いやなもの”だ。私を苛めるものだ。取りたくない。取ったって、碌なことにならない。布団を被って、耳を塞ぐ。頭を抱える。けれど電話は、いつまで経っても鳴り止まない。頭痛は、止まらなかった。

「なんなのよ……」

 観念して、布団から出た。布団から出て、電話に出た。

 電話を掛けてきたのは、純だった。


 病室の前では、兄さんが医者らしき男と話をしていた。医者は私に気づくと一礼し、足早に去っていく。私は「こっちだ」という兄さんの案内に従い、病室内へと入っていった。そこには――椅子に背をもたせてだらしない格好で寝ている洞と、車椅子に座ったまま目の前の病床を虚ろに見下ろしているすすぐと、病床に横たわった色月しづきとがいた。

 色月は、死人のような顔色をしていた。

「……化け物でも、死ぬのね」

 兄さんが私を睨むのを感じた。でも、だからなんだっていうのよ。私に何て言ってほしかったのよ。どう思って欲しかったっていうのよ。私の気持ち、兄さんだって知ってるくせに。

「……衰弱してはいるが、一命は取り留めている。快復の可能性も充分に見込めるそうだ」

「それって、稜進兄さんと同じってこと?」

「……」

「あはっ。そんなの、死んでるのと変わりないってことじゃない」

「みつる、いい加減にしてくれ。色月はまだ生きて、声だって聞こえてるんだ」

「なによ兄さん、こんなになってもこいつが大事? 私なんかよりも、こんなやつの方が大事なんだ? それじゃこいつの面倒、兄さんが見てよ。私がどんなに頼んでも双見にはいてくれなかったけど、こいつの為ならいてあげられるでしょ? ねえ兄さん、そういうことなんでしょ? 私や姉さんなんかよりも、こいつを取るってことでしょ?」

「俺は――」

 口ごもった兄さんは、会話を打ち切るように舌打ちをした。その舌打ち、嫌い。昔っから嫌いだった。お前の話なんて聞きたくない。そういう態度が顕れていて。

「……昨晩、下山の親父さんが殺された」

 直ぐ側で、金属の軋む音が聞こえた。色月を見つめて固まっていたすすぐが、先程までの位置から僅かに動いていた。

「……そう。それは気の毒ね。だから?」

「殺したのはウロだ。ヤネの奴が目撃していた」

 一瞬、言葉に詰まる。私の目の前にひとつの光景が――いや、よく似た二つの光景がぴたりと重なり、まるで元々ひとつのものであったかのようなそれらが、浮かび上がる。視界を、現実を、乗っ取りに来る。

 人殺し。つぶやいて、すると、二つで一つのその光景は消えた。目の前には、現実の兄。

「……それで? それでなんだっていうの? それが何か悪いこと? あんな寝たきり。役に立たないどころか、面倒にしかなってないものを処分して、それで誰か困るの? そうよ、あの子はやさしいもの。誰もやりたがらないことを、代わりに引き受けてあげただけだわ。そうに決まってる。それならみんな、感謝すべきよ。下山さんだって肩の荷が下りたはずだもの。形建さんだってお荷物であることから解放されて、神様の中で喜んでるはずだわ。きっとそうよ。ほら、それで? それでどうしたっていうの? 人一人殺したくらいのことで何か、私とあの子に何か問題があるっていうの?」


「ウロは『无』だ」


 ……は?

「もう一度言う。ウロは『无』だ」

 兄は、真顔だった。

「『无』って……あの?」

「移民法成立に当たり北東ヤ国を跋扈した、あの『无』だ」

「……なに言ってるのよ兄さん。やめてよ、笑えないわよ、そんな冗談」

「こんなこと、冗談で言えるものかよ」

「だって、だって……ありえないじゃない、そんなこと。だって……おかしいわよそんなの、あべこべでしょ? あべこべじゃない!」

 だって移民法が決まったのはもう五年? 六年? とにかく数年も前のことで、その頃あの子は、それどころではなかったはずだ。あの女のせいで、あの子は――いや、その頃にはもう、外へ出ていた? あの女が“神隠し”に遭った後だった? ……違う。違う違う。そうじゃない、そんなことを考える必要なんてない。そんなことはどうでもいいんだ。どうでもいいはずなんだ。あの子が『无』。そんなのあり得ない。事実はそれだけなんだ。

 兄が、話を続ける。

「“奴ら”はまだ存在している。かつて程に目立つ活動を行っていないだけで、いまも暗躍を続けている」

 奴……ら?

「『无』の捜査を困難にしていた要因のひとつには、その神出鬼没性――移動力が挙げられる。一昼夜の裡に三つの県を跨いだ五人の標的を殺害するなど、奴の行動は余りにも人間離れしていた。単独で行えるものではない。『无』とは複数いるのではないか。そういった論は、早くから本部でも上がっていた。だが同時に、奴の仕事は常人が容易く行えるようなものではない。誰にも見つからず、対象を確実に葬り去る手際。このような手練がそう何人もいるとは考えられない……いや、考えたくはなかったんだな、当時の我々は。故に本部は、ホシが単独犯であるか複数犯であるか、それすらも絞ることが出来ずにいた。だが――」

 兄が、私から視線を外した。そして新たに視線を向けた先には、目を閉じ寝息を立てている洞。だらしなく口を開けてよだれを垂らす、洞四四がいた。

「最新の研究で判明したことだが、霊素には生命体の記憶、性格や人格といった生体情報を記録するという性質があるらしい。なぜ霊素にそのような性質があるのかは不明だが、それはこの際どうでもいい。重要なのはこの記録が、ふとした切欠で他者へと伝染する可能性があるということだ。判りやすくいうなら……他人になっちまうんだよ。意識を乗っ取られてな」

 兄は補足だがと付け加えながら、説明を続ける。霊触症が発生するメカニズムも昨今では、霊素から送られてくるこの膨大な外部情報の過負荷、この多大な負荷に耐えきれず脳の一部が損傷することで発生するのではないか――という説が有力視されている、と。『大規模霊触』によって霊触症患者が一気に増えたのも、この説であれば説明できると。車椅子からまた、金属の擦れる耳障りな音が聞こえてくる。

「そうした情報を元に、俺たちは考えたのだ。先の疑問を解決する、ある可能性を」

「かのうせい……?」

「『无』という概念が人から人へ、霊素を伝って場所を越え、亡霊のように憑依を繰り返しているという仮説。実証には至っていないものの、信憑性は極めて高いと上は見ている。俺も同意見だ。霊素を介した超常現象なら、ガキの頃から何度も目にしてきたからな」

 色月の上に広げられたマフラーが視界に入る。赤い、赤い、あの、マフラー。

 ゆめ姉さん。

「下山の親父さん、そして数日前に殺害された八重畑丑義やえばたけ うしよし。そのどちらもが片目を抉り抜かれていた。これは『无』特有の手口だ。そしてこの手口は模倣犯防止のため、公には報じさせていない。これを知っているのは直接の捜査に当たったことのある一部の者か……あるいは、当人以外にありえないんだよ」

「……結局兄さんは、何が言いたいの?」

「ウロは捕まえるべきホシだ。それが『无』という“記録”の一端に過ぎなくとも、手がかりを得ることはできる。『无』の委譲がどのような方法、法則で行われているものか突き止めることができれば、この不毛ないたちごっこを終わらせられるかもしれないんだよ。それに、それに例えいたちごっこが終わらなくとも、今まで影も踏むことのできなかった『无』を処したとなれば……外夷によって汚染されたこの国を前進せしめる一歩には、なる」

 一歩には、なる。吐き捨てるように言ったその言葉を最後に、兄さんは口をつぐんだ。話はそれで終わりのようだった。これ以上話すことはない――いや、“これ以上は話したくない”。兄さんの態度には、そういった後ろ暗さが含まれていた。

 私は、兄の異名を思い起こした。『特邏の頚折り天狗』。異人を、移民を、殺す者。存在そのものを否定する存在。兄さんが、『无』を追い続けてきたその理由は――。

 ねえ、と、私は兄に、呼びかける。

「まさか兄さん……殺すつもりじゃ、ないわよね?」

「……」

「ねえ、なんで黙ってるの? 冗談なんでしょ? 本気じゃないんでしょ? だって、だってあの子、兄さんを慕ってるのよ? 家族なのよ? 私の、最後の家族なのよ? まさかそんな、そんな酷いこと、いくら兄さんだってしないでしょ? しないわよね? しないって言って?」

「……」

「しないって言ってよ!!」

 きし、きし、と、聞こえる。金属の擦れる音。

「色月さん、起きてください、色月さん、起きて、お願い、色月さん――」

 すすぐが、色月を揺すっていた。すすぐが色月を揺するたび、車椅子が揺れる。車椅子が軋む。きしきし、きしきし、きしきし、きしきし――ああ……ああ!

「いっ……!」

 すすぐが、私を見上げている。ほほを抑えたすすぐが、呆けた顔で。手が、じんと熱を帯びている。私の手。熱い。気づけば、すすぐを叩いていた。熱い。手だけじゃない。熱い、熱い。

「あんたが!!」

 熱が、猛る。

「あんたのせいだ! あんたが、あんたが誑かしたから! あんたがあの子を、家族でもないのに! 家族でもないのに家族の振りして! あんたなんか、あんたなんか……兄さんの子でもないくせに!!」

 留めていた憎悪が、猛りうねって噴出する。

「兄さんはね、あんたが父親だと思ってた稜進兄さんはね、子供を作れない人なの。相道の家を出る時、自分から作れない身体になってくれたの。せめてもって、そうしてくれたの。私のために。私の、子どもたちのために!」

 あの子の前では隠し続けてきた“間東の女”に対する憎悪が、止めどなく溢れ出てきた。言葉となって燃え、激情となって燃え、身体となって燃え、怒りは熱となって燃えに燃え、燃えて、燃えて――。

「そうよ、あの子達は、あんたが気安くウロって呼んでるあの子はね、“稜進兄さんと私の子供”なのよ!! 私だけの家族なの!! それなのに、それなのにぃ! 他人が、人の家を、掻き回さないでよぉ!!!!」

 燃えて、もう、私は、立っていられなかった。私はその場に膝から落ちた。膝から落ちて、顔を覆うと、てのひらの裡に様々な光景が浮かんだ。幸せだった頃の、姉さんがいた頃の私達が、見えた。直視することができず、目を閉じた。

「国がなによ、双見がなによ……そんなものより私は、家族が大事なのに……家族さえいれば、他には何もいらないのに……どぉしてよぉ…………」

「色月の側にいて、今度こそ息子として扱ってやれ。お前にはそれしかないんだ」

「いやぁ……いやよぉ……」

 色月なんて知らない。色月なんて聞いたことない。そんなやつ、私は受け入れられない。絶対に受け入れない。受け入れたりなんかしてやるもんか。私の子供は二人だけ。一人はあの子だ。兄さんによく似たあの子だ。ウロなんて名前じゃない。でも、あの子だ。あの子は私の子だ。でも、色月は違う。こいつは違う。こいつは化け物だ。家族の振りをする化け物だ。だって、だって――。


 私のあの子は、私の目の前で死んだんだ。


 兄が、部屋から出ていった。すすぐが、部屋から出ていった。私は出ていかなかった。私は立てなかった。私は座って、そのままずっと泣いていた。

頭の中はぐちゃぐちゃで、過去と今とがごっちゃになっていた。その全てが、私を苛んでいた。うれしいことも、嫌なことも、全部が全部、私の敵だった。

 あの子が欲しかった。クスリが欲しかった。私を忘れたかった。私を忘れさせてくれるものが必要だった。私を忘れさせてくれる劇物に溺れたかった。

「……ふぁ」

 間延びした、あくび。平和な、呑気な、頭の空っぽな、最低な。

 家族以外な。

「……あ、みつるさんじゃないっすか。目覚まし早々みつるさんに会えるなんて四四、超ラッキーですなー!」

 立ち上がって、近寄って、振りかぶって、思い切り、ひっぱたいた。

「笑うな!」

 八つ当たりだ。これは八つ当たりだ。そんなことは、百も承知だった。八つ当たりでもよかった。理解した上で、それでもぶつけなければ耐えられなかった。耐えられず、壊れてしまう気がした。また、壊れてしまう気がした。

「……なによ」

 この男は、底抜けのバカだ。常識知らずの間抜けで、知恵足らずだ。どんなに悪態を吐いたって、どんなに邪険にしたって、どんなに叩いたって何も感じない、何も思わない、壊れたおもちゃみたいなやつだ。こいつは、そういうやつだ。

 そういう奴のはずでしょ、あんたは。

 なんで、よりによって……よりによって、今なのよ。やめなさいよ、やめてよ。その、傷ついたみたいな、顔。私に向けないでよ。……私を、加害者にしないでよ。

「ウロくんのことですよね?」

 壊れていなかったおもちゃが、しゃべる。

「ウロくんを連れてきたら、四四と家族になってくれますか?」

「……どうして」

「四四は知ってます、ウロくんの居場所」

 声にならない声を上げながら、洞につかみかかる。頚の締まりかけた洞がこひゅっと、潰れた息を吐き出す。

「みつるさん、このまま連れ帰ってもウロくんは家族になってくれません。四四の家族にも、みつるさんの家族にも。色んなものが、邪魔してるんです。ぼくらが家族になることを、邪魔してるんです。だから、協力してほしいのです」

「……」

「みつるさん?」

「……いや」

 つかんでいた手を、離す。

「どうせ、裏切るもの。約束なんかしたって、どうせ守ってなんかくれない。私は嫌。裏切られるのは嫌。誰にも協力なんてしない。したくない」

「みつるさん」

 離した手を、つかまれた。

「みつるさん、ぼく、信じてほしいです。どうしたらぼくのこと、信じてくれますか。こうしたら、信じてもらえますか」

 つかまれた私の手が、洞の顔に近づく。伸ばされた指が、人差し指が、洞のそれと重なり鋭い針の形を作る。洞は止まらなかった。自分の手を、私の手を、どんどん、どんどんと自分の顔に近づけて。

「な……に……」

 ぐにゃりとした、怖気の立つ感触。洞の、私の、二人の指の第一関節より先が、見えなくなった。眼下に潜り込んで、見えなくなった。指は止まらない。洞は止まらない。更に奥へ、更に奥へと侵入していく。異物の侵入に耐えられなくなった球体が、その形を歪ませながら外へと漏れだした。ぷつんと、何かの切れる感触が、指先に伝わった。飛び出た球体が、こぼれ落ちて、床の上に転がった。

「やめてよ……」

「もっと突っ込めば信じてもらえますか? それとも潰したほうがいいですか? 片方じゃ足りないですか?」

「やめてよ!」

 洞の指が止まった。必然、私の指も止まる。重なったまま、私達は止まる。どろりと、暗いそのくぼみから赤いものが流れ出した。指を伝い、手へ、手首へ、腕へとそれは、私へと侵食した。なんでよと、私はつぶやいた。それが精一杯だった。洞は、言った。

「ぼくはただ、愛されたいだけなんです」

 そう言って洞は、にこりと笑った。


   六 多々波ちなみ

 走ることだ。何かひとつの目標を見据えたなら、脇目も振らずにひたすら走る。そうすれば悩みなんて、考えている暇もなくなるものさ。父さんが残してくれた言葉。真実だと思う。常に真実を追っていた人の遺した、真実の言葉。あたしはそれが真実であることを、自分を通して知っている。父さんの真似事をし続けてきたあたしには、それが判る。『己に殉ぜよ』って言葉も、きっと同じ意味なんだ。あたしという目標に向かって、必死に走る。そういうことなんだ。父さんが、アニキが、あたしの尊敬する人たちが言っているんだ。これは、間違いのないことなんだ。絶対なんだ。

 だからおもやは、神隠しの調査をするべきなんだ。あたしと一緒に。悲しいことを、一時でも忘れるために。気持ちが整う、それまでの間だけでも。一人で塞ぎ込むのだけは、ダメだ。一人だとそうなってしまうなら、二人でいるんだ。二人なら、あたしならなんとか引っ張ってあげられるはずだから。でも、それでもダメなら。もしも二人で、足りないなら――。


「すすぐ!」

 すすぐは病院前にいた。誰といるでもなく、何をしているでもなく、車椅子に深く腰掛けたまますすぐは、ぼうっと空を仰いでいた。おもやの手を引っ張り、すすぐの側へと駆け寄る。

「探したんだぜ、家にいなかったからさ。でも見つかってよかった。すすぐにさ、用があったんだよ」

 話しかけてもすすぐは空を向いたまま、あたしを見ようともしなかった。少しだけむっとしながらも、衝突するために来たわけではないと堪える。

「なあ、この間はその、さ、お互い勝手だったっていうか……ごめん、あたしが悪かったよ。すすぐ、嫌がってたのに、わがまましちゃってさ。その上で頼むのは、なんか、すげぇー言いづらいんだけど、でも、やっぱりさ、あたしだけじゃ力不足ってーか……」

 力不足……というのは方便だけれど、行き詰まっているのは、事実だった。でも今は、事実がどうだとかは、関係ない。いまは、おもやのことだ。おもやのために――。

「なあすすぐ。神隠しの調査、また付き合ってくれないか」

 すすぐに付き合ってもらう、それが“目標”だ。けれど、すすぐからの返事は中々来なかった。「すすぐ」と、あたしはもう一度呼びかける。返事はない。「なあ」と、あたしは一歩、すすぐに近づいた。そして、見た。上向いて、よく見えなかったすすぐの顔が――すすぐがいま、どんな顔をしているかが、見えた。

「……まだ、そんなことしてたんだ。そんなこと、もう、する必要なんてなかったのに」

「すすぐ、お前、笑って……」

 空を見ていたすすぐの目が、あたしたちを、捉えた。


「だってね、犯人、ウロだから」


「……らしくないって、そんな冗談。なんだよ、まだ怒ってるのか? なら謝るよ、謝るからさ、だから、やめようぜ、な、そういうのはさ」

「神隠しも、しるしさんのお祖父ちゃんが亡くなったのも、他にも、他にもね、全部、全部、ウロが犯人なの」

「だからすすぐ、今はそれどころじゃ――」

「下山のお祖父ちゃんを殺したのも、ウロなの」

「な、お前、なんで知って――」

 からからと、車輪が回る。手が、痛い。私のものより二周りは大きいおもやのその手が、万力のように強く、強く私の手を握りしめる。

「でもね、犯人はウロだけど、ウロの罪は、ウロのものじゃないの。だってウロは、ウロのために殺したりなんかしないから」

「……すすぐ、もう止めてくれよ。変なこと言わないでくれよ。そんな話をするために来たんじゃないんだよ」

「あのね、おもや。ウロはね、私のために殺すの。私以外のために、殺したりなんかしないの。ウロがしたことは、私がしたことなの。だからね――」

「すすぐ!」

「おもやのお祖父ちゃん、殺したのは、私なの」

 手が、痛い。痛くて、千切れる。千切れて、バラバラになる。バラバラになってしまう、感覚がある。

「……おもや、落ち着いてくれ。冗談だから、ただの冗談なんだからさ、本気にすんなよ。すすぐも、すすぐもだ。頼むよ、なあ頼むよ。あたしだって、あたしだってさあ、もう、もう――」

「……返してよ」

 あたしの手が、解放された。

「お祖父ちゃんを返してよ、すすぐを返してよ! あなたなんか知らない! あなたなんか私知らない! あなたは誰、誰なの? 返してよ、私の神様返してよ! 神様の振りして、私を苦しめないでよ! この偽物! お化け! 恥知らず! この、この――」

 私から離れた手が、すすぐへと伸びかけて――。

「人殺し!!」

 丸まって、止まった。

「……あは」

 すすぐが、笑った。笑って、手を伸ばした。何かを求めるように伸ばされた手は、何を手に取ることもなく虚空を切り、そして、落ちていった。傾いた車椅子。金属のひしゃげる音。倒れた身体。倒れたすすぐ。倒れたすすぐと、共に落ちた手。

「……すすぐ?」

 動かないすすぐ。まばたきもしないすすぐ。笑ったままのすすぐ。止まった時間。車輪だけが、からから回る。おもやが、悲鳴を上げた。


 なんでだよ……なんでだよ。なんで、こんなことになるんだよ。あたし、あたしは、こんなつもりじゃ――。


   七 黒澤太平太

「どうしても行くのか」

「……イタ。ああ、俺は行く」

「家族を置いてか」

「ねむを死なせたのは俺だ。ゆめの死も、俺の傲慢が招いたようなものだ」

「違う、それは違うぞゲン! 時代じゃ、そういう時代だったのじゃ。お主一人の問題ではない!」

「それであいつらが……みつるが納得するとお前は思うか」

「それは……」

「それに、家族がいようといなかろうと、俺は行かねばならんよ。あれは、俺の罪の形だ」

「ゲン、それこそ憶測じゃろう。なぜそう背負おうとする。あやつがお主のいう大陸の者であるなどと、そのような証拠はどこにもないはずじゃ」

「いや、間違いない。あれが使っているのは“相道の技”だ。相道の、人を殺すための技だ。平太、俺は確信を持って言える。『无』を生み出してしまったのは……俺だ。その責は、俺自身が償わなければならない」

「生命に替えても……などと言うつもりではなかろうな」

「……」

「ゲン!」

「……イタ。いや、黒澤太平太たいへいた殿。相道戒厳はこれ以上、八重畑丑義が傀儡に成り下がったあなたと交わす言葉を持たない。相道戒厳には、八重畑丑義を信用することができない」

「ゲン……」

「だが……何者でもないゲンとして、父の下で共に相道を磨いた兄弟のイタに、頼みたいことがある」

「…………」

「相道と、双見を、頼む」


 ……任された。


   八 黒澤太平太

 空気が淀んでいる。双見を覆う空気が。重く、息苦しいそれ。そうと口にしなくとも、みな感じているのだ。何かが起ころうとしている気配を。何かとんでもない、双見そのものを崩しかねない厄災が起こりつつあることを。

 タテの死から三日。犯人はまだ見つかっていなかった。八重畑代議士の件も同様に、目星すらついていない。『无』の仕業なのではないか。『无』がこの町にいるのではないか。戒厳令を敷いているにも関わらず、町には既にこのような噂が飛び交っていた。そして、時期を併せるように目撃例の多発し出した『屋無やなし』ども。

 あやつらのことをわしは、認めたくはなかった。あやつらの在り方も、その行いも、わしには赦せぬものでなかった。特に、“王”を僭称するあの男のことは。しかし八重畑代議士は、あやつらの存在を擁護した。あやつらが、『屋無』が生み出す金は、双見にとっても有用なものになると、代議士は言っていた。ようは、使いようであると。

 わしはその言葉を受けた。受け、旧国軍基地をやつらの土地として制定した。旧国軍基地に住み着いたあやつらの“商売”は、確かに双見を潤わせた。やつらの“支援”がなければ黒澤組が、双見がここまでの力を得ることはなかったかもしれない。八重畑代議士の判断は、慧眼であったと言わざるを得ないのだろう。そしてわしも、あやつらの所業を見過ごしてきたわしも、所詮は同じ穴の狢なのであろう。じゃが、それでも、認めたくはなかった。あやつらのことを、認めたくはなかった。認めたくはなかったが、しかし、認める以外の選択肢を、当時のわしは持ち得なかった。

 わしは、八重畑代議士を信用しきっていた訳ではない。彼が目的のためであれば手段を選ばぬ者であることなど早々に気づいていたことであるし、それがわしの、師から教わった在り方に反するものであることも感じていた。彼の協力を仰ぐということは汚濁に手を突き込む、薄汚れた外道に堕ちるのと同義であることも。その道中で老若問わぬ大勢に、不幸の涙を流させなければならないということも。

 それでもわしは、代議士の手を取った。わしには必要だったのだ。双見にとって何が必要であり、何が不要であるか。その見極めを正確に下す頭脳がわしには、戦後の双見には不可欠だった。強い双見、生き残る双見となるためには。

 今の双見が八重畑代議士のおかげで成り立っていることに、疑いの余地はない。彼の尽力に感謝を抱かぬ訳ではないし、そこらを笑い駆ける童に誇らしさと幸福感を覚えもする。大局的な戦略として、誤りだったとは思わない。

 しかし、同時に思うのだ。“黒澤太平太という個人をここまで担ぎ上げたこと、それが真に双見のためであったのか”、と。黒澤太平太という象徴を威光として掲げることで成り立つ双見は、逆に言えば黒澤太平太という象徴を絶対に失えないことを意味する。黒澤太平太が守らなければならなかったはずのものが、黒澤太平太を維持するために切り捨てられる。そのような現象が、起こり得る。いや、実際に。現にそのための損失を――取り返しのつかない大きな損失を、我々は過去に被ってしまった。絶対的な欠陥、致命的な脆弱性。八重畑代議士ともあろう者が、その程度の弱点を予測できなかったものであろうか。

 あの事件は、彼の犠牲は、不可抗力なのではなく、あるいは、そう、初めから仕組まれたものであったのでは――。

「組長」


『こんなことを、いつまでも繰り返させてはならない』


「……友為か」

 いつか戦場で出会った子供二人。一人は小さく、目の前の光景を震えながら見つめ。一人は震える者の手を握り、亡骸の積み重なった死と腐敗の跡地を冷たい目で見つめ。

「首尾はどうじゃ」

「芳しく有りません。つきましては、『屋無』区調査の許可を頂きたく」

 兄弟の一方を、ゲンに託した。男児に恵まれなかったゲンの下で、跡継ぎに育ってくれればという期待も込めて。

「友為。あの洞という若者、お主はどう見る」

「そのことであれば、既に判を下したはずでは」

「お主の見解が聞きたい」

「……見かけ通りではないかと」

「わしもそう思う」

 もう一方は、わしの下に置いた。素性はすべて聞いた。それを知った上でわしは、この子供を自らの息子とした。川の側に在りて友を助く者。佐々川友為と、わしは名付けた。

「友為、わしがお主を拾った時にお主がつぶやいておった言葉。いまもまだ、覚えておるか」

「『こんなことを、いつまでも繰り返させてはならない』」

「その気持ち、いまも変わらぬか」

「組長。これは何かの試験でしょうか」

「答えい」

「変わりません。あの頃から私は、何一つ」

「『屋無』と手を組み、何やら企んでいるのもその為か」

「……ご存知でしたか」

「気づかぬでか」

 友為は優秀だった。わしが生家でくすぶっていたのと同じくらいの歳にして、世の中というものを既に俯瞰的に捉えていた。常人が気づかずに気づき、組の存亡をその才知によって切り抜けさせたことも、一度や二度ではなかった。友為には、わしには見えないものが見えていた。

「友為、わしはお前を信じておる。あの戦場を前に震えることも憤ることもなく、ただ解決のみを望んだお主の性を。故に黒澤組を任せた。故に双見を託した。お前ならば、わしには築き得なかったものを築けると信じて」

「もったいなきお言葉です」

「……これよりも、信じてよいのか、友為」

「私にあなたの代わりが務まるかどうか、不安はあります。しかし私なりに、精一杯務めさせては頂きたいと――」

「虚飾は良い。本心を言え」

「虚飾などと……私があなたを尊敬していることはご存知のはずです」

「友為」

「……言ったはずです。あの頃から私は、何一つ変わっていない」

「そうか……であれば、決して純を見限るな」

「純?」

 相道の技も、友為は驚くべき速度で吸収していった。所謂、天才であったのだろう。まだ一五やそこらの若造を相手するのに、あのゲンが本気を出さなければならなかった程の。だが友為は、相道の技を磨くことには興味を抱いていない様子だった。おそらくは自身の役割を果たす上で有利になるが故に身につけると、その程度の認識であったに違いない。

 友為は感情を面に表さない子であった。そもそも、感情の振れ幅が極端に小さかったこともあるのだろう。なにもかもを人並み以上にこなせてしまうが故に、何にも熱することがなかったのかもしれない。

 それでも友為は、相道の稽古場に通い続けた。ゲンのやつが八重畑代議士の傀儡となったわしに愛想を尽かし、わしに付いた友為までもが破門の扱いを受けるまでの間は。そこに何か、何か相道とも違う興味を見つけ出して。

「なぜ、純の名を?」

 本人も、気づかぬままに。

「……もうよい、後は任す。お主の好きにせい」

 友為は天才であった。あらゆる面において。あらゆる面において、わしより優れていた。わしには行えないことを行い、わしには届かぬものに届き、わしには見えないものを見ることができた。高く、高く、高いところから双見を、世界を、人の世を見ることができた。それは、上に立つものとして欠かせぬ資質であった。わしにはなく、故に八重畑代議士に頼らなければならなかった資質。友為はそれを持っていた。しかしその視点は同時に地上の、現にそこに生きる者と同じ目線を共有しなければ十全には機能しない。友為よ。お前にとっての地上とは、おそらく――。

「友為……結局お前はわしを、“親父”とは呼んでくれなんだな」

 部屋の外へ消えた友為の背中に投げかける。

 師よ。わしは、あなたのようにはなれなかったかもしれません。あなたのような強く子を導く父には。それでもわしは、やらなければなりません。あなたから“太”の冠を受け継いだ者として。

 わしは“彼”を犠牲にした一件以来、後進に双見を、黒澤組を移譲することこそが、わしが為せる最後の仕事であると考えておりました。行き過ぎた黒澤太平太という偶像をあるべき大きさへと縮めることが、これからの双見には必要なことであると。そしてその切り、古き時代を終わらせる儀式に、新しき時代を迎える門出に、わしらの時代にはついぞ興すこと叶わなかった祭りを開きたいと。次なる“ハレ”へつなげるための『合背祭ごうはいさい』を起こしたいと、わしはそう、願ったのです。

 その考え、その想い自体が間違ったものだとは思いません。『黒澤太平太』は、双見の為にも消滅するべきです。しかし、しかしです。もしそれすらも、その心の動きすらも何者かの思惑の上であるのならば――。

 わしはまだ、『黒澤太平太』であらねばならない。


「……誰じゃ」

 がさごそと、庭の端から物音が立った。音のした場所に向け、わしは当たり前に声をかける。脅威は感じなかった。間者であれば、もう少し気配を殺すものだ。このようにあからさまな侵入、却って悪意のなさが透けて見える。果たして、姿を現したのは細身の女であった。女は両手を重ねて細い身を更に細くし、そのまま恭しくお辞儀した。しばらくして、女の頭が上がる。頭を上げた女は、小首をかしげ、艶っぽく笑った。

「お久しぶりです、おじさま」

 そこにいたのはゲンの娘、みつるだった。


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