五~八

   五 那雲崎しるし

 胸が痛い。痛くて苦しい。苦しくて苦しくて、胸や頭、心を生み出すその原因になるものの一切合財を、暴力的に取り除いてしまいたくなる。それくらい苦しくて、つらくて……ボクは、どうしようもなく、悲しんでいる。

 ある程度は覚悟していた。八重畑丑義やえばたけ うしよし――ボクの、お祖父様。本当の祖父のように、ボクの面倒を見続けてくれた人。その人を喪う、殺させるということの、その意味を。悲しいだろうとは、思っていた。でも、これほどとは、想像もしていなかった。気を静めるためにと淹れてもらったハーブティー。両の手のひらに包まれたカップのその水面は絶えず細かなさざなみを立てて、一ミリとて減ることのないまますっかりと冷え切ってしまっている。

 冷たかった。

「……ハザマ」

 返事はない。でも、判る。振り返るまでもなく、ハザマはそこにいる。それが、判る。

「ボク、間違ってないよね……?」

 触手のように飛び出た包帯の端切れの、そのこすれ合う音が聞こえる。

「本当にこれで、いいんだよね……?」

「私は」

 ハザマの、焼けたかすれた声。

「お前に、道を示しはしない。ただ――」

 けれど不思議と、耳に馴染むその声。

「お前の道を阻む者あらば、それが例え何者であろうと斬り伏せてみせる」

 言葉以上を伝えてくれる声。

「何があろうと、私はお前の刃だ」

「うん……うん」

 カップの中のさざなみが、止まっていた。

「ハザマ、ありがとう」

「礼は不要だ」

「うん、ありがとう」

「……うむ」

 カップを口へ近づけて、裡のハーブティーを傾ける。冷たくなってしまってはいたものの、味は感じた。美味しい訳じゃない。でも、何かが身体の芯へと浸透していく。薬と思って、それを飲む。なによりこれは、ハザマが淹れてくれたものだから。

 ボクは、“偽物さん”じゃない。ハザマとなら、きっとそれを証明できる。

 証明する。

 その時、外から騒がしい、猿のそれみたいな叫声が聞こえた。

「なにかしら?」

 声は家の直ぐ側――というより、この八重畑やえばたけ邸の目前から響いているようだった。カップを置き、窓の外を確かめる。ボクはそこに、見知った顔が揃っているのを確認した。

「相道さん! 下山さんに、多々波たたなみさんも!」

 念の為にと黒澤組から召喚した守衛の人に、引き剥がされまいと必死の形相で壁をよじ登ろうとしている多々波さん。その横を、おろおろと困った顔をして右往左往している下山さん。それに、そこから一歩離れた場所で成り行きを傍観している相道さん。気持ちがぱぁっと明るくなったのが、自分でも判った。

「きっとお茶しに来てくれたんだわ!」

 お迎えに行かなくっちゃ! 勢いボクは立ち上がり、背後に控えていたハザマの手を取って駆け出そうとした。けれどハザマはその場で根を張ったかのように動かず、高い高いその背の先からボクを見下ろしている。

「ハザマ?」

「しるし、私は行けない」

 小さく、それと判るか判らないかの振れ幅で、ハザマの触手が左右になびく。

「私の姿は軽々に陽の下に晒して良いものではない。それはお前も理解しているはずだ」

「でも、これからはいつも付いてなさいってお祖父様も――あっ」

 忘れかけていた出来事を、再び思い出す。明るくなりかけた気持ちが、急速にしぼんでいくのが判る。痛みが、苦しさが、また顔を出そうとする。ハザマが、それを止めた。長い手足を折りたたんで座り、私と目線を合わせて、彼は言う。

「心配することはない。お前には見えずとも、私はお前を見ている」

「……心配なんか、してないわ」

 ハザマは笑わない。笑ったところを見たことがない。でも、ボクは笑った。笑って、ハザマから手を離した。

「行ってくる!」

 言葉通り、ハザマは付いてこなかった。どこにもその姿はない。けれどボクは、すぐそこにハザマがいることを感じ取っていた。ボクの刃がそこにいることを、絶対的に確かな事実として感じ取っていた。


   六 下山おもや

「むぎぃぃぃ!!」

「ぎぃぃぃ!!」

 発狂した猿みたいな声で叫んで壁に張り付くちなみを、これまた名状しがたい声を上げて黒澤組の方が引き剥がそうとしている。二人の叫声は単純な足し算を越えて合算され、硝子を引っ掻いたほうがまだマシといえるくらいの凄まじい騒音を生み出していた。わだちなんか、しきりに耳を塞ぐような動作を見せている。

 まだ早朝だからか人通りは少ないものの、あまりのうるささに目を覚ました人たちがなんだなんだと窓から顔を出していた。山から獣でも降りてきたかという声が聞こえてきて、顔から火が出そうだった。というか出てた。出ていたと思う、たぶん。一方相道さんは距離をとって、「私は無関係ですよ」とでも言いたげな涼しい顔をしている。ずるい。

 事の発端は、わだちだ。盗人橋からマフラーの匂いを嗅いで出発した後、わだちは一直線にここへ向かってきた。ここ――つまり、八重畑様の邸宅に。

「……怪しい!」

 ぎらんと目を輝かせたちなみだったけれど、彼女の邸宅侵入はすぐさま阻まれることとなる(そもそも当たり前に侵入しようとしないで欲しい)。というのも、門前には二人の守衛が立っていたから。二人は何度か町で見かけたことのある、黒澤組の組員の方々だった。彼らは普段、町内の見回りや治安活動に従事しているはずで、一個人の家に常駐しているということはまずない。ましてや祭りを控えた、この忙しい時期であればなおさら。ちなみでなくとも、何かあったのではないかと気になるのは自然なことだった。けれど私なら、気にはなってもそれまでで、きっと素通りしていたと思う。ちなみは違う。守衛の二人に、友達に挨拶でもするかのように近づいて――。

「いいから帰れ帰れ!」

 取り付く島もなかった。というか、あからさまに警戒されていた。それもそうだろう。この二人の守衛の方々にはちなみが、これまでに何度も“お世話”になっているのだから。近寄るなこのやっかい娘め、面倒起こすな、家で勉強でもしてろスカタンと注意されても、文句は言えないと思う。

「へいへい、わかりましたよーだ」

 ちなみも、素直に従う様子を見せた。違和感しかなかった。しきりに敷地内の匂いを嗅いでいるわだちを引き連れ、ちなみは歩きだす。私も相道さんの車椅子を押しながら、その後を追った。

「ねえ、ちなみ――」

「……うし、この辺りでいいか!」

 一度邸宅から離れ、しかし門から離れた場所で再接近し、その後ぐるりと外周をなぞっていたちなみが、両のてのひらをぱちんと打ち鳴らして止まった。と思うと、彼女は自身の背の二倍はありそうな邸宅の塀にぴょんと飛びつき、よじよじと登りだそうとし始めたのだ。

「ちょ、ちな――」

「あー!!」

 ちなみの突然の奇行に戸惑う私の声を合切かき消す大声が、背後で響き渡った二人の守衛の、片割れだった。おそらく余りにも素直にすぎるちなみの態度に、この人も違和感を覚えていたのだろう。警戒して見回っていた所、決定的な瞬間とかち合った。それで――。


「むぎぃぃぃ!!」

「ぎぃぃぃ!!」

 こうなった。

 本当にもう、恥ずかしい。やめてほしい。心なしか、視線の数も増えている気がする。けれどちなみは、それに守衛の方も、どちらも譲る気なんて一歩もないようで、この不毛な引っ張り合いはいつまでも終わる気配を見せなかった。守衛の方が、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「降りろ、降りろってんだこのバカ! アホ! ロケット娘! オバ先に言うぞ!」

「うるせぇバーカ! こんなチャンスに誰が降りるか! あたしは、あたしはなぁ――」

 顔を真っ赤にしたちなみが、叫ぶ。

「この手で八重畑の悪事を暴いてやるんだよ!!」

「その必要はありません」

「あ――」

 鼻をつんと上げたわだちが大きくその鼻腔を膨らませると、次の瞬間にはもう、私の足元を駆け抜けていた。反射的に、彼女の動きを目で追う。するとそこには、私たちの見知った人物が立っていた。

「先輩」

 果たしてそこには、那雲崎なぐもざき先輩が立っていた。

「御機嫌よう、下山さん、多々波さん、わだちさん。それに――」

 自分の周りを高速で回るわだちに翻弄されつつ、先輩はあくまでも那雲崎先輩らしさを貫いた様子で慇懃に挨拶をし、そして、最後の一言を述べるその前に、視線を私たちの後方――少し離れたその場所へと向けた。

「相道さん」

 相道さんは、返事をしなかった。何も返さず、ただ、顔を背ける。無表情の、そのままに。

 忘れようとしていた何かが、浮かびかける。

「多々波さん」

 先輩が、塀につかまるちなみの側へと近寄る。

「ねえ多々波さん、あなたのことですもの。事件の臭いを嗅いだらいてもたってもいられなくなってしまった……それで、こんなことをしているのですよね?」

 ちなみは塀につかまったまま降りようともせず、先輩を睨んでいた。剥き出しの敵意を隠そうともしない。けれど那雲崎先輩はそんなちなみの敵意に気づいているのか気づいていないのか、気安い様子で微笑んで、それから、口を開いた。

「いいですよ。ボクが知っていることなら、全部お話します」

「な、ちょ、お嬢さん!」

 慌てたのは、ちなみをつかんでいる黒澤組の守衛だった。しかし先輩は慌てる守衛の方とは対象的に、あくまでも彼女らしい態度を崩さないまま応対する。

「これはボクの家の事情で、ボクという個人にとっては極めて私的な出来事でもあるのです。であるなら、事のあらましを私的な友人へ打ち明けることに、一体何の不都合がありましょう」

「いや、しかしですね、俺たちも若頭から命じられてて……」

「そうですね。ボクもあなた方を困らせることが本懐ではありません。ですから――」

 両手を広げる。

「ねえみなさん、長々立ち話というのも品がありません。中でお茶でもしながらお話しましょう?」

「ざけんな」

 ちなみが、塀から飛び降りた。二本の足で立ち、間近から先輩を睨む。背の低いちなみのこと、必然、見上げる形になる。

「あんたからお零れ頂いた情報だって? そんなもんに価値があるとでも思ってんのか?」

「……ないのですか?」

「当たり前だ! お前の話だって? そんなもん、どうして信用できると思う! あのな。判ってないみたいだからこの際はっきり言っといてやる。八重畑、それに那雲崎。あんたたちはな、あたしと父さんにとっての――」

 わだちが、先輩の顔を見た。

「敵だ」

「……そうですか」

 先輩の顔には、それと判る形で影が差していた。けれど――。

「でも」

 影が差したのは、一瞬のこと。次の瞬間には、その顔も。

「それならやっぱり、ボクたちは友達になれると思います」

「あ?」

 晴れて。

「だってお祖父様――八重畑丑義は、亡くなってしまったのだから」

 浮かんでいたのは、清々しい、笑み。

「……な」

 ちなみは、言葉を失っていた。

「せ、先輩、その、私なんて言っていいか……」

 ちなみに変わって私の方が、意識しないまま自動的に口を動かしていた。

「あの、でも、こう言っては何だけれど、もうよいお歳でしたし、その、きっと、大往生で、だから、あの……」

 言ってから、後悔した。いや、後悔しながら、言っていた。慰めにもなににもならない。それどころか、こんなの、神経を逆撫でるだけなんじゃないか。そう思いながらも、一度動き始めた口は止まらず、頭の回転よりも早く想定すらしていない言葉をつむぎだしてしまう。けれど先輩はそんな私の言葉を聞きながらも浮かべた笑みを崩さず、むしろなだめるように穏やかな動作でそのてのひらを私へと向けた。

「下山さん、ありがとう。あなたのお気持ちは嬉しいわ」

「そんな……」

「でもあなた、勘違いしていらっしゃるみたいね」

「え?」

 私へ向けられた先輩のてのひらの、揃えた指が空を撫でる。

「八重畑丑義の死因はね、老衰ではありません。病死でもない」

「え、それじゃ――」

 ゆったりと裡に向かって描かれる円。艶やかに流れる彼女の指は最終的に、ぴたり、目的地へと到着する。

「殺されたの、こう――頚を、折られてね」

 彼女の指の動きは、留まらなかった。

「きっと、よっぽど恨まれていたのでしょうね。死後にはそう、こんな風に――」

 頚をつたい、頬をつたい、そして更に上昇し――。

「目の玉まで、くりぬかれていたのだから」

「でたらめぬかすな!」

 押し込むように目玉を指す彼女の指が、怒声を浴びて緊張する。叫んだのは、ちなみだ。

「八重畑だぞ……? あの、あの八重畑が、そう簡単にくたばるわけ――」

「ちなみ……?」

 怒りに任せた、彼女の顔。けれどその声は、およそ彼女らしさに欠けて弱々しく、震えていて。

「不思議な人。あなたはむしろ、喜んでくれるとおもったのだけれど。ねえ、多々波さん」

 対象的に先輩は、一層明るい声で語りかけてくる。

「ボクもね、理解したの。きっと多々波さんの言う通りだったのねって。八重畑丑義は、殺されても仕方のないような人でした」

 明るいというよりも、もはや、常軌を逸した興奮に包まれているかのような上ずり方で。

「多くの人を騙して、うそをついて。人の気持ちなんかぜんぜん判らない……ううん、判っていながら欺き続けてきたあの人。ボクも……ボクも、すっかり騙されてしまいました。双見の人たちみんな、あの人に騙されていたんです。いまだって、そう。知らないからみんな、先生先生って敬える。知らないから、なんにも知らないから。でも、知ってしまったら? 知ってしまったのなら、そんなふうには見られない。知ってしまったのなら、あんな人、ボクだって、ボクだって――」

「身内が!!」

「ちなみ!?」

 ちなみが、先輩につかみかかった。怖いくらいの、本気の形相で。

「身内が、そんなふうに――」

 反射的に、ちなみを止めようとする。けれど私が止めるまでもなく、ちなみの先輩をつかむ手からは、力が抜けていた。

「那雲崎先輩……?」

 那雲崎先輩は、笑っていた。

「あ、あれ」

 笑いながら、泣いていた。

「おかしいな、ボク、こんな」

 笑いながら、流れる涙を拭った。

「こんなの、那雲崎じゃ――」

 拭っても拭っても、流れる涙は拭いきれなかった。やがて先輩は拭うことすらもできなくなって、両手で顔全体を覆ったまま固まってしまった。固まって、ひくひくとのどを鳴らしていた。普段の先輩からは考えられないくらい弱々しく、小さな姿に見えた。

「ほら、もういいだろお前ら。行け、行け」

 守衛の人が落ち着いた声で言いながら、ちなみの肩を押した。呆然とした顔で先輩を見つめていたちなみは目の前の先輩から目を逸らさぬままゆっくりとつかんでいた手を離し、一瞬なにか言いかけるような動作をした直後、結局何も言わずにぱっと他所を向いた。そして、先輩から離れた。離れて、すすぐさんを追った。

 すすぐさんは、自分で車椅子を操作して、すでに移動を始めていた。「あの」と、私は一言つぶやきながら結局何も言えず、先輩の足元で身体全体をこすりつけるようにしているわだちに「行こう」と告げた。わだちはそこから動きたがらないような様子を見せたけれど、もう一言促すと「ふぅん」と一鳴きしながらも受け入れてくれたのか、先輩から身体を離した。わだちを連れて、私は二人の後を追った。

 今度こそお茶しましょうね。

 聞こえるか聞こえないかの瀬戸にあるような小さな声が、微かに背中に触れた。すすぐさんは、止まらなかった。


   七 田中中

 怖いのは嫌いだ、痛いから。

 子供の頃、生死の境を彷徨ったことがある。一ヶ月ほど熱が引かず意識も混濁した状態で入院し、本当に五分五分であったところを運良く生還したそうだ。それは丁度、黒澤組の組員である親父が外征へ赴き、そしてそのまま帰ることのなかった時期と一致していた。

 それからだ、俺のこの奇妙な体質が発現したのは。怖くなると、痛くなる。勘違いなどではない。実際に、痛むのだ。無数の針に皮膚を貫かれるような、そんな痛みだ。この体質のせいで、子供の頃は随分と苦労した。地震が起これば痛い痛いと喚き散らし、雷が落ちれば痛い痛いとのたうった。父が死に、そのずっと前に母も死に、唯一血のつながりを持つババアに俺は、みっともない声を出すんじゃないと叱られながらよく、いつどこで作らえたものかも判然としない黄色いねばねばとした軟膏を塗りたくられた。それが俺の、子供の時分の日常だった。

 痛みは、地震や雷などの自然災害だけに反応する訳ではない。腐りかけた木の側に立ったり、公園の遊具で無茶な遊びを試そうとした際にも痛みは起こった。臆病者と思われたくなかったので平気なふりをしていたが、いつも痛みに耐えていた。だが、それらの痛みはまだマシな方だった。とりわけ強い反応、強い痛みを及ぼしたのは、人間――人の敵意だとか、害意だとか、そういった感情に触れた時だ。それは特段、俺に向けられたものでなくとも関係ない。二件隣の親父の怒鳴り声だとか、女が藁に釘を打ち付けている場面だとか、異人との衝突だとか。そういった光景を耳にしたり目にしたりするとたまらなく怖くなって、たまらなく、痛くなった。皮膚が裂けて、そのまま全身の血が吹き出るんじゃないかと思うほどに。

 だから俺は、怖いのが嫌いだった。嫌いだ。怖いのが嫌いで、だから、出世がしたかった。出世がしたい。出世して偉くなって、安全で安定した、怖いものを遠ざけることのできる生活を送りたい。そのために俺は黒澤組の組員として、手柄を立てなければならなかった。この双見において、いやおそらくはヤ国全体を見渡したとしても、黒澤組の幹部という地位以上に俺のこの理想に適した場所はそうないはずであるから。そして現実的に、理想を実現しうる対象といえるのも。

 俺のこの体質は大概俺を困らせてばかりの厄介者だったが、それでも物事は表裏一体、便利な面も見つけようと思えば見つけられるものだ。俺のこの痛みはセンサーのように怖いもの、危険なものを教えてくれた。目に入るもの、耳に届くものだけではない。集中して探り出そうと思えば西双見で起こっている、あるいは近い未来に起こりうる可能性を持つ大小様々な事件事故の、そのおおよそを知覚することも可能だった。それも痛みの大小で、それがどれだけの出来事であるか、どれだけの危険であるかを事前に報せてくれるのだ。むろんその痛みは数字のようにはっきりと明示されるわけではないが、一○年以上も付き合えば程度というものも皮膚感覚で理解できる。

 弱い痛みの、弱い危険。それが狙い目だった。町で起こった諸問題の解決も黒澤組組員、特に俺のような新参若衆の大事な役割で、その解決件数はそのまま俺自身の評価にもつながってくる。極力リスクを減らし、点数を稼ぐ。これが俺の、出世への道筋だった。……どういう訳か、中々思う通りの結果を出せてはいないが(お前は物事を治めたいのか煽って炎上させたいのかどっちなんだと、先輩には怒鳴られた。大きなお世話だ、四○になっても平の若衆のくせに)。

 その日も俺は、手柄はないか手柄はないかと双見の町を練り歩いていた。すると慌てた様子の町人から、『あんどろぎゅのす』周辺で東の連中が暴れまわっているという通報を受けたのだ。チャンスだと直感した。『あんどろぎゅのす』はこの隔絶された西と東の双見において、唯一両陣営の交流が許されている場所だ。故にその領域での争いごとは厳禁。一歩間違えれば容易に勃発しうる報復合戦を防ぐため、刀傷沙汰など起こらぬよう厳格な取り決めが交わされている。つまり『あんどろぎゅのす』とは、西東双見の均衡を保つ要衝なのだ。そしてそれは、そこで起こった問題を解決することが大きな、それこそ一発で役職付きにまで昇進するくらいの価値があることを意味していた。『あんどろぎゅのす』での暴力沙汰は厳格な取り決めの下、厳罰が課されるよう定められている。そのことは西であろうと東であろうと双見に生きる者なら知っているはずであり、逆に言えば『あんどろぎゅのす』周辺での事件など早々起こりはしない。だからこそ俺は、一人で向かうことに決めた。こんなおいしい話を山分けにしてたまるかってんだ。

 痛みは、あった。それは向かう先に危険があることを意味して、即ち怖い何かがそこにあるってことでもあった。いつも俺が解決している(場合によっては他の組員の手を借りる時もあるが、まあ解決してると言ってもいいよな)雑多な事象に比べるとやや強い、ややひりひりと皮膚を刺激する痛み。物怖じする気持ちもないではなかったが、それでも俺は、なんとかできると思った。普段よりも痛いとは言ってもそれは想定できる範囲内での痛みであったし、何よりこちらは組から下賜されたライフル銃を携帯しているのだから。銃で脅せば、大抵のやつは手を上げて従う。だってみんな、痛いのは怖くていやなはずだ。そうだろう?

 だから俺は、一人で『あんどろぎゅのす』へと向かったのだ。

 そこにあんな――あんな化け物が待っているとも知らずに。


「な、なん――」

 現場に着いて、絶句した。その、想定を遥かに上回る惨状を目の当たりにして。そこに広がっていたのは、倒れ伏した人の群れ。どれもこれもが苦悶に顔を歪め、呻き、荒く息を吐き、あるいは息を吸い吐くことすら耐え難いかのように身を捩っている。中には骨が折れているのか、腕や足があらぬ方向に曲がっている者もいた。

 その中にあって三人――いや、正確にはたった二人だけ、この凄惨な現場において自らの足で地面を踏んでいた。後ろに束ねた髪を風まかせに揺らしている男と、鼻の下全体がびっしりとした髭に覆われた男。そしてこの場にもう一人、呻き声を上げずに済んでいる者。対峙する二人を少し離れた場所から座って眺めているそいつは、状況にそぐわない楽しげな笑顔を浮かべ、ご機嫌そうに首と肩を左右に振っている。

「――で、どうするおっさん。俺はこいつを迎えに来ただけなんだ。逃げるってんなら、別に邪魔はしねぇよ?」

 後ろ髪を束ねた男には、見るからに余裕があった。にやにやと人を小馬鹿にしたような笑みを、目の前の男に投げかけている。対する髭面の男は、髭がなく顕になった皮膚部分を真っ赤にして、目の前の男を睨みつけていた。ふーふーと息も荒く、相当興奮していることが判る。痛みを感じた。怒り、憎悪――あるいは、恐怖。そういったものを、髭面の男から感じる。肌を刺す、無数の針の痛み。やばい、危険だ。こいつは、怖いものだ。

 髭の男が吠えた。吠えながら懐から、何かを勢いよく抜いた。刃物だ。それも、かなり大きい。牛の首でも両断できそうな肉厚の光り物。髭の男は、なおも吠え続けていた。吠えながら、刃物の尻を自身の腹に据え、真っ直ぐ、真っ直ぐ目の前の長髪男にその凶器を向けながら、爆発するように突進した。殺意、怖い、痛い、痛い。

「待っ――」

 痛みに身がすくみ、反応できなかった。動けなかった。止めないと。そう思う間もなかった。刃物を携えた髭面の突撃は早く、その瞬間、接触は、まばたきひとつ程の猶予も待たず、訪れた。鮮血が、行為に対して起こりうるべき当然の帰結だ。血を流した男が、長髪の男が今度は腹から刃物をはやして地面に突っ伏す。それがこの一瞬の間に想像した未来の絵図だった――が、実際は、そうはならなかった。

「……あーあ」

 長髪は、倒れなかった。血を流すこともなかった。ただ地面を踏んでいた二本の足が今は一本だけになっているという、そんなわずかな違いしかそこには見られなかった。逆に吠え声を上げ、殺意を、痛みを振りまいていたあの髭面の方が、地面に倒れ伏していた。先程までの吠え声からは信じられないくらいに情けのない声を上げて、両手をその立派に蓄えた髭の前で震わせていた。確かめるまでもない。髭の上からでも、一目瞭然だ。顎が砕けて、陥没している。よく見れば、あの肉厚な刃物は髭面のすぐ側に落ちていた。中程で綺麗に両断されたそれを見た時にはもう、痛みなど、感じられなくなっていた。

「ま、だとは思ったさ」

 長髪男の掲げられた足がひっそりと、再び地面にもどった。何をしたのかは、見えなかった。けれど結果が、そこに転がる身体が、ここで何が起こったのかを物語っていた。それでも、にわかには信じられなかった。蹴った。おそらく。しかし人の、人間の蹴りくらいで、人体とはあんなふうに壊れてしまうものなのか。折れた刃物。痛みの原因であったあれがいまは、ちゃちな子供のおもちゃに見える。

「行くぞ四四しよん、さっさと立て。無意味に動き回ったせいか腹が減ってきたんだ俺は」

「了解っすぅ! やー双見、楽しみですねー! 楽しみですね双見町ふたみまち! 霊素れいそ溜まりの双子山! 霊触れいしょくの地! 父さんの故郷!! 今度こそ会えますかねぇ、今度こそ四四は、父さんに会えますよねー!」

「おい、余計なことべらべらしゃべってんじゃ――」

「ま、待てぇ!」

 何事もなかったかのような足取りで歩き始めた二人を呼び止め、銃を構える。緩慢な動作で、二人が振り返った。

「お、お前らが、これ全部お前ら二人でやったのか!」

「四四は何もしてねーですよ!」

 子供のように弾んだ声をした若い男――俺と同じくらいだろうか――が、声と同様にその場でびよんと飛び跳ねた。

「ぜんぶぜぇーんぶ、純さんが一人でやったのですよー! びっしんばっしんで、びったんばったん! ちょーすげくて、すげくてすげくてすげかったなー!」

「す、すげ……? ……おい!」

「あははー!」

 弾む声の男が両腕を広げ、とつぜん走り出す。笑顔で、銃を向けられているなんて気にもせず、そもそも銃なんてものを知らないかのように、俺の回りをぐるぐると器用に身体を傾かせて走る。なんだ、こいつ。頭おかしいのか。

「黒澤組の若衆かい?」

 今度は長髪の男だ。にやにやと笑う男の声は、その表情同様軽薄な、どこか人を小馬鹿にしたものに感じられる。

「ちぃっとばかしやりすぎたかもしれねぇが……ま、正当防衛だ。大目に見ろや」

「正当防衛って……」

 言われ、思わず地面を見渡す。怒りに身を置く余地すらない苦痛と苦悶の吹き溜まり。呪詛のように空間を淀ませる呻きの重奏。だが、少なくとも生きている。意識すれば呻きの中に、意味を含んだ言葉が混じっていることが聞き取れた。とはいえ、その意味する所は理解できない。こいつらの言葉が、大陸のそれであるから。通報では、東側の連中が集団で暴れているという話だった。件の集団というのは、この倒れている連中のことで十中八九間違いないだろう。ということはある意味で、これは仕事の完遂を意味しているのかもしれない。でも、それなら――あの男は、どういう立場の何者なんだ。あの、刃物よりも凶悪な蹴りを放った男は。

「なんだ、俺達を連行するつもりで呼び止めたんじゃないのか?」

 視線を上げる。長髪の男は、脱力した様子で両手を上げている。

「抵抗はしないぜ。長いものには巻かれる主義なんだ」

「ええぇー!!」

 背中に、衝撃を受けた。

「四四びっくり! 純さんなら『連行だぁ? 上等だこら俺様の邪魔をするつもりなら頚の一○やニ○は覚悟しろよおらぁ』って感じにバッキンバッキンシカバネの山を築くと思ったですよ!」

「お、おい、やめ……」

 いつの間に俺の肩をつかんでいたのか、声の高い男の方が俺の身体を力任せに前後へ揺する。不意を突かれたその振動に、為すすべもなく三半規管が揺さぶられる。

「屍の山って……お前なぁ、俺のことなんだと思ってんだ? 元はと言えばてめぇが間違えてなけりゃこんな面倒なことには――」

「あはあはー! だって四四、西とか東とかむつかしーことよくわかんねーですもん! 判りづらいのが悪い! ちゃんと入り口に西! 東! 上! 下! 真ん中って書いておくべきですよ! 名前は大事! 四四くん悪くない!!」

 前後に加え左右まで加わった振動に為す術なく揺さぶられながらしかし、同時に俺は安堵に弛緩しつつあった。自分のことを四四とか呼ぶこいつの頭がぶっ飛んでいることは間違いないだろうし、後ろ髪束ねすかし野郎――キートの足が凶器である事実に変わりはない。だが、こいつらを前にしても俺のセンサーは、危険危険と訴えてはこなかった。こいつらは、おかしい。だが、怖くない。だったら、何の問題もない。そうだ。それどころか素直に言うことを聞くというのだから、これはむしろ好機といえるのではないか。

「……一緒に来てもらうぞ。妙な真似はすんなよ」

「へいへい」

「へーへー!」

 少し驚かされはしたが、死者は出さずに場を収めることに成功し、重要参考人も捕まえることができた。当初の予定とは異なるが、これはこれで大手柄と言って差し支えないだろう。細かい事情は後ほど聞き出せばいい。それは俺の役目じゃない。とはいえ――この死屍累々。地面に転がる移民ども。こいつらのこと、果たして放っておいてよいものか。ざっと確認したところ、確かに生きている。生きてはいるが、こいつらこのまま放っておいて、知らぬ間にくたばったりしないだろうな。どこか内臓でも痛めていて、呆気なくぽっくりなんて――そんなことになったら、洒落にならないんじゃないか。重大な責任問題に発展して、その責任はもしかして、俺にも降りかかってくるんじゃないか。

「おいおいどうした、トラブルか?」

「う、うるさい! 黙って待ってろ!」

 キートは心の中を見透かしたかのような小馬鹿にした声色で煽ってくるし、四四とかいう大人ガキは何の意味があるのかその場でくるくると回っていやがるし。恐れはない。ただ、すこぶる腹が立つ。……仕方ない。本部へ連絡を入れるか。事後処理を頼む程度なら、手柄の山分けにはならないだろ。無線機を取り出し、本部へとつなぐ。しかし聞こえてくるのはノイジーな騒音ばかりで、聞こえてくるべき「こちら黒澤組本部」という声はついぞ俺の耳へと届いては来なかった。なんだよ、故障かよくそ。くそ、どこかすぐにでも連絡を取れる場所はないか。どこか。

 辺りを見回し――気づく。ああそうだ、なんで思いつかなかったんだ。ここは西と東の境界。ってことはすぐ側に、『あんどろぎゅのす』があるじゃないか。あそこには黒澤組と直通の専用電話があるって話を聞いたことがある。一般の組員が使用していいものかは判らないが、西東の衝突を防ぐためと言えば『あんどろぎゅのす』の主人も、首を横には振らないだろう。会ったこともないしどんな男かも知らんけど、両陣営から信託されるような奴だ。それくらいの分別はあるはずだ。なら、よし、それで決まりだ。

「おい、行くぞ。付いてこ――」

「※※※※※※※!!!!」

 激痛。痛い、なんだ、何の痛みだ。何の怖さだ。叫んだ。誰かが。誰だ。上じゃない。横でもない。下だ。地面だ。地面に伏した移民ども。そのうちの一人、白髪交じりのそいつが、上半身を反り返らせていた。叫んでいた、何かを、言葉を。大陸の言葉。何を言っているのかは、さっぱり判らない。だが、そこに含まれた、感情。痛い。針が皮膚を、肉を貫通する。

 だが、この痛み。この激痛すらも、ただの前哨に過ぎないことを、俺はすぐに知ることとなる。


「……あ?」


 肉の内側から切れ味の悪い無数の剃刀が、薄い皮膚を無理やり引き裂いて表に出ようとする。それが瞬間、俺が感じた痛みの言語化。白髪交じりの東の移民の仕業――ではない。

「お前いま、なんつった?」

 キートだ。

「聞こえねぇよ、おい。なんて言ったんだよ、え、畜生風情が」

 白髪混じりの移民が、悲鳴を上げた。

「話せよ、ほら、話せってんだよ。人の言葉を話せよ。人の言葉だ、人間の言葉だよ、人間様の言葉だよ。畜生の言葉なんて判んねぇんだよ、判んねぇっていってんだろ、なあおい、無視すんなよ」

 膝が砕かれる。指を踏み潰される。割れた歯が吐き出される。歪んだ眼球が零れかける。暴力の音が上がる。暴力の音が上がる度に、悲鳴が上がる。キートが動く度に、悲鳴が上がる。

「ほら、言えよ、言えって。言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え」

 呪文のように繰り返される「言え」。その声が響く度、打ち付けてくる度、痛みが増していく。骨が無理やり拗じ折られる。目の奥から釘が飛び出す。腹の内側を鋸で抉られる。痛い。痛い、痛い、痛い。

 怖い。

 だって、こいつ。こいつはきっと、このままじゃ――。

「言え」

 人を、殺して――。

「やめろ!!」

 銃声。振動。熱。引き金を、引いていた。誰が? 俺が。無意識に。

「……なにしてんだよ」

 銃弾は、どこに? どこでもない。銃口が、どこでもない方向を向いている。

「何してんだよお前! 答えろよ! 何してんだ! なんなんだ、なんなんだよてめぇ!」

「……庇うのか?」

「庇うってなんだよ! 何をだよ! 知らねえよ! 俺だって移民は嫌いだよ! うざってえよ! 死ねばいいって思ってるよ! でも双見だろ! ここは双見だろ! だったら判るだろ! ここがどこだか判んだろ! 判んねえのかよ! だいたいてめぇは誰なんだよ! 俺はてめえなんか知らねえぞ! てめえは誰だよ、誰なんだよ!」

 訓練。弾込め。無意識に。撃つ、込める、構える。撃つ、込める、構える。四十路の若衆の先輩。ムカつくあのハゲ。

「答えろよ! 答えらんねえのかよ! そうかてめえ、スパイだろ! 東側のスパイだろ! 全部狂言なんだろ! 難癖付けるための芝居なんだろ! そうなんだろ、なんとか言え、なんとか言えよ、ええ、この、この――」

 痛い、怖い。そんなものは、全部嫌いだ。

 嫌いなものは、全部消えればいい。消えろ。消えちまえ。

「この移民の、寄生虫野郎が!!」

 消えてくれ。

「……なあ」

 キートは、消えない。

「お前、人を殺したことは?」

「あぁ――」

「ああいい、答えなくていい。もう判った。判ったし、もう、どうでもいい」

「う、動くなぁ!!」

 キートは、来る。

「う、撃つぞ! 脅しじゃねえぞ! 今度は……今度はほんとに当てるぞ!」

「ああ、当てろ。絶対に外すなよ」

「ば、バカに――」

「よぅく狙え、よぅく、よぅくだ。よぅく狙って、俺を殺せ。殺して、殺して、殺しきれ。でなけりゃ――」

「なーんだー!」

「ひっ!」

 背中から、ガキの声。すっかり忘れていた、四四とかいうガキ大人。

「純さん結局、バキバキすんじゃねーですか!」

 くるりと回って、俺から離れて。

「頚、ちゃんと守るですよ? でないと死んじめーますからなー!」

「は、あ? く、び――」

 息が、できなく、なった。頚が、のどが、苦しい。締められている。強い力で。痛い、痛い、痛い。キートが、来る。笑っていない。感情の判らない、無表情。しかし、感じる。確かに伝わる、それ。

 殺意。

 殺される。

 本気だ――本気だ。本気であいつ、殺す気だ。俺には判る。痛みで判る。あいつは本気だ。本気で俺を、殺すつもりだ。いやだ、死にたくない。死ぬのは怖い。怖いのは痛い。痛いのはいやだ。いやなのは、死ぬことだ。死ぬことだけは、いやだ。涙が出てきた。しゃっくりのような嗚咽までもだ。息はできないのに、嗚咽だけは漏れた。

 いやだ、死ぬのはいやだ。殺されるのはいやだ。こんな痛みはいやだ。怖いのはいやだ。殺されるのはいやだ。殺されたくない。殺されないためだったら、なんだってする。どんなことでもする。でも、だったら、どうすれば。でも、だったら、けれど、だったら――。

「ひ、や――」

 そうだ、殺せば。

 殺せば。

「やあああああああああ!!」


「……お前、向いてねぇよ」

 引き金は、引いた。しかし、銃弾は、当たらなかった。銃口がまたも、あらぬ方向を向いていたから。あらぬ方向に、向けていたから。首筋に、ひやりとした感触が走った。想像の痛みではない。現実の感触。痛みはなかった。ただ、直感した。

 俺、これで、死――。


「――撃て」


 キートの身体が、跳ねるように飛び退った。その直前か、直後か、それを判断できるほどの余裕のない俺に僅かな時間の前後など図れるはずもなかったが、とにかく銃声が、連続する爆発音が、俺の背後から幾つも重なって轟いた。

「純」

 複数の足音が、規則正しく揃って集う。銃を構えた、仮面の部隊。顔を覆った揃いの白い仮面は、その中身における一切の情報を遮断する。だがしかし、その仮面そのものが、彼らの存在をなにより如実に表す証明。同じ黒澤組組員であっても滅多に遭遇することのない特務部隊――通称『白影』。“ある人”による訓練を施され、“ある人”の命によってのみ動く直属の親衛隊。仮面の白き壁が、割れた。その割れ口から、一人の男が入場する。白い影の中にあってただ一人、仮面を被らぬその人が。

「お前は、畜生だ」

「……はっ。お久しぶりじゃないですか、若頭様。昔となっに一つ変わってないようでなによりですわ」

 若頭! そう、叫ぶ。いや、叫んだつもりが、声にならなかった。しかし俺が叫ぶも叫ばないも、この際何の変わりはない。現れたのは紛れもなく、あの人。この双見において黒澤太平太に次ぐ黒澤組若衆筆頭の地位を不動の立場とする者、佐々川友為ささがわ ともい、その人であった。

 若頭が、キートの目の前で、立ち止まった。

「黙れ。今の貴様など、言葉を交わす価値もない」

 眼鏡の奥の鋭い目が、目の前のキートを冷たく見据える。

「これでは“ゆめ”も浮かばれん」

「……………………へぇ」

 束ねられた後ろ髪が、揺れる。

「いいぜ、白黒つけようじゃねえか」

 二人が対峙するその姿が、薄白くぼやけていく。酸素が足りない。息が吸えない。キートの矛先が俺から変わってもなお、頚に係る痛みと圧迫感は薄れることなく、どころか時間と共にその勢いを増しているようにすら感じられた。特にある瞬間、若頭がある一語を放った瞬間、不可視の輪はより深く肉へと食い込み、肉に守られた頭蓋を支えるその脆い骨を軋ませた。若頭が放った、言葉。

 ゆめ。ゆめという、一語。

 なんの、ことだ――?

 しかし意識は、それ以上の推察へ進むことを拒んだ。酸素の不足は既に深刻な域へと達し、考えるなどという余計な行為に興じる機能を強制的に断ち切ってしまったのである。あとは、もう、ただただ薄れゆく意識の縁にうずくまって苦しむことだけが、俺に残された唯一の自由だった。なんでもいいから、早く、呼吸を、息を――。

 助けは、予想外の所から現れる。

「はい、ストップ!」

 手を打ち鳴らす、景気の良い音。

「二人共、そこまでにしましょ」

 不思議なほどに潤いを帯びた声色と、果物のような爽やかな香り。

「……アイ」

「ね、ともくん。ダメよあなた、黒澤組の若頭様なんだから。みんなのお手本にならないと、ね? 気持ちは判るけれど、ケンカなんてしちゃ“めっ”ですよ」

「ケンカなど――」

「それに、あなたも」

 うっすらとした視界の中に映る、日の光りを透かしてしまいそうな白い肌。

「あなたの感情、こんなところで発散させてしまってよいものなのかしら?」

「……誰だ、てめぇ」

 金の、髪。

「これはご挨拶が遅れました。わたくし、そこの『あんどろぎゅのす』にて雇われ店長を任されているアイと申します。ご家族のみぃちゃんやしぃちゃんにはいつもお世話になっていますわ、相道純さん」

 蒼い、瞳。

「『あんどろぎゅのす』が東西隔てのないお店として広く愛好して頂けているのも、二人の力添えがあってのこと。二人の思いはともかくも、私は二人を家族のように思っています。その上で、烏滸がましくもお願いさせて頂きます」

 これは、瞭然だ。

「もしこのままあなたがとも君とぶつかったりすれば、そうなればもう黒澤組も黙ってはいられない。それは太平太の親分さんだってそう。あなたのことをどれだけ気に入っていたとしても、無罪放免という訳にはいかないでしょう。組には組の、面子というものがあるから。そうしたらみぃちゃんはきっとまた、兄さんのバカって怒るわね。そうしたらしぃちゃんはきっとまた、頼る場所を失くしてしまうわ」

『あんどろぎゅのす』の主人は。

「ねぇ純さん、相道さんちの純さん。家族を大切に思う気持ちがあるならどうか、ここは矛を収めて頂けないかしら」

 ア国の女、だったのか。

「……発端は」

 キート――相道純の声にはもはや、先程までの張り詰めた様子が抜けていた。

「そこの、そいつだ」

「四四のことっすか!」

 視界の隅で、飛び跳ねる物体が見えた。

「そう、四四くん。あなたのこともあったわね」

「四四のことっすか! 四四のことっすか!」

「あらあら、元気ねぇ」

「もちろん元気ですよー! 四四は四四ですからー!」

 びゅおーん……風切り音を声にしながら、四四はまたも身体を傾けながら駆け出した。ガキそのものの四四。そんな四四を微笑ましそうに目で追いかけながら、潤うその声でアイは言った。

「でも、彼のことならきっとすぐにも解決すると思うわ」

「なに?」

 アイの言葉に、若頭が反応する。

「アイ、貴様、伝えたのか」

 うふふ、と、『あんどろぎゅのす』の女主人が口を抑えて艶っぽく笑う。

「余計なことを」

「余計で結構。だって私は『あんどろぎゅのす』の店長さん。どちらか一方へ肩入れする訳にはいかないもの。私はあくまで公平な存在。悦びも悲しみも、無限の問題も、有限の幸せも――みんなみんな公平に、ね?」

 脳をとろけさせるような声で、アイは言う。そしてその言葉で、そう言えばと俺は気づく。いつの間にか、視界がクリアになっていた。息苦しさも、痛みもない。あまりにも強い痛みに曝されたためか身体の感覚こそ未だ不完全であるものの、もはや完全回復も間もないと経験的に感じ取れた。故に、辺りを見回す余裕もできた。

 四四とかいう、バカみたいに大口開けて笑い続けている大人ガキ。ある意味で、一番意味の判らない存在がこいつだ。どう眺めても何も考えていないパッパラパーにしか見えないが、しかしこいつは、平然と言ってのけたのだ。「でないと死んじめーますからなー」。その不均衡感ははっきり言って、不気味以外のなにものでもない。

 アイ。『あんどろぎゅのす』の主。まるで彫刻か何かで作られたかのような、人間離れした美貌。そしてその肌、髪、目には、はっきりとある特徴が見て取れる。かつての敵国にして宗主国、ア国人の人種的特徴が。八百人人でも、大陸人でもない存在。本人が言っていた通り、西側にも東側に加担しない調整役として、うってつけの人物と言えるのかもしれない。そういえば『あんどろぎゅのす』は酒場として、西や東の人間を受け入れていると聞いたことがある。東側の連中と顔を突き合わせるかもしれないような場所に好き好んで足を運ぶやつの気がしれなかったが、アイ、この女主人の存在を知り、少し納得する。

 それから、若頭――黒澤組若衆筆頭、佐々川友為。この双見において第二位の――いや、引退を表明し半ば隠居の身に自身をやつした黒澤太平太に代わり、実質的にこの双見の実権を担っているこの地の頂点。……俺の未来の、その明暗を握っている人物。細面にフィットした眼鏡の奥のその目からは、何を思考しているのかうかがい知ることはできない。そしてそれは、若頭直属の部隊――『白影』の面々にしても同様。『白影』の連中は相道純に銃を構えたその格好のまま、静止していた。言葉通りに、本当に、一寸足りとも動かないままで。呼吸をしているのかどうかすら定かでないほどに。その様に、人間的な気配は微塵も感じ取れない。『白影』は、若頭が直々に訓練を施した特務部隊なのだと噂に聞いたことがある。……これくらいできるようにならなければ、出世にはつながらないのだろうか。

 そして、そして――相道、純。その名前を、俺は知っていた。『特邏の頚折り天狗』。こいつが、あの、“天狗”……。痛みはもう、なかった。息苦しさも、あの凄絶な恐怖感も。だが、だが――頚に、触れる。皮膚が、粟立っていた。

 こいつは――。

「ほら、あちらも役者が揃ったみたい」

 相変わらずの潤った声が、その場にいる全員の注目を一点へ向ける。始めは、何もなかった。耳をすますと、何かが聞こえてきた。笛、それに、太鼓。わずかにしか聞こえてこなかったそれは時と共に大きく、はっきりと聞こえだし、そしてその音の正体とその音が引き連れているものも顕とした。それは、“東”からやってきた。金と赤の、目に痛いほどにド派手な輿。一目で威と贅とを認識させるその輿の下には十人近くの担ぎ手が、周りには整列した楽隊が、更にその楽隊を囲むように網籠を背負った男たちの集団が配置され、そしてその奇妙な隊列の先端、先頭には赤い鬣が目を引く馬と、その馬に跨った若者が、一人。

 太鼓と笛の音、それにお経のような歌を歌う籠持ち達。その重奏の速度が、加速していく。どこまで早くなるのかというほど早く、早く、狂ったように早くなったそれは弾けるようにして、すべてが同時に最大音を響かせ破裂し、そして止まった。同時、この一群の進行も、止まる。

「伏せよ!!」

 馬に跨る先頭の若者。鋭角に尖った細い眉と、両眉の間に刻まれた赤い花弁の入墨。若者は花弁本来の形が判らなくなるくらいに眉間に皺を寄せ、叫ぶ。その声に呼応したように、あのド派手な輿の周囲を取り巻いていた楽隊と籠持ち達が地に膝を下ろす。そしてその変化は、彼らの間だけに留まらなかった。『白影』の者たち、それに『あんどろぎゅのす』のアイも、同じように膝を付く。俺はと言えば、まだ全身に力がもどらないために、呻く移民どもと同じように地面に伏したままの格好をしている。

 つまりこの場であの釣り細眉以外に伏せていないのは相道純、ガキ大人の四四、それから――若頭のみ、ということになる。

「佐々川友為、何故伏せぬ。その無礼、事によっては宣戦の布告とみなすぞ」

 苛立ちを隠そうともしない、若者の攻撃的な声。その声に俺は、痛みを感じた。振りではない。こいつは本気で、若頭に憤慨している。しかし若頭はそれを知ってか知らずか、あのどこどこまでも冷静で抑揚のない独特の話し方に従い、言葉を返す。

「私は黒澤組が組長、黒澤太平太より全権を委任された者だ。それは即ち、私の恭順が黒澤組全体の恭順を示することを意味する。ならば頭など、早々垂れられるものではない。まして――とうの昔に枯れ果てた老人が相手となれば尚のこと」

「この、痴れ者が――!」

 馬の蹄が、地面を叩いた。痛みが増す。いまにも爆発しそうなその憤怒に、しかし歯止めをかけたのはあちら側の存在だった。金と赤のド派手な輿。その輿の全面に垂れた薄絹がさっと横に開かれ、裡に秘されたものが顕となったのである。そこにいたのは、老人だった。輿と同じ赤と金で装飾された服と帽子とを身にまとった、小柄な老人。細長く切れた目元は開いているかどうかも判然とせず、長く伸びた髭は顔半分を覆って口が開いているかどうかも不明にさせた。ただ、もぞもぞとその白い髭が動いているところを見るに、まだ生きていることだけは間違いないように見えた。

「リュウ大人ターレン。東側の、そうね……黒澤の親分さんと八重畑センセを足したような人よ」

 柑橘系の、甘酸っぱい香り。突如鼻腔を刺激したそれに、思わず身を引きそうになる。反射的に目を向けたその先には、金髪碧眼のその顔が――『あんどろぎゅのす』の主の顔が、横目でこちらを見ていた。女主人は俺に向かってくすりと微笑み、もう少しの辛抱だからねとささやきかけてきた。

 俺は、なぜか、微笑む女を直視していることができず、目を背けた。目を背けた先では細眉が輿の老人に向かって、語気荒く何かを訴えていた。大陸の言葉だ。細眉は何度か喰い下がる様子を見せたが結局受け入れられなかったのか、悔しさを隠そうともしない顔で“西”へと向かい直し、指先まで神経の張り詰めた腕を上空へと掲げる。

「我が名はコウ・エンペイ、リュウ大人の代弁者也! 我が言葉はリュウ大人の御心そのもの、御言葉そのものと心得よ! 貴様、それから貴様、これは主命である、前へ出よ!」

「……はいはい」

「四四っすか! 四四のことっすか!」

 指を刺された相道純と四四が、一方は億劫そうに、一方は楽しげに弾んで前へ出る。その自然体な様子に更なる苛立ちを募らせながらも細眉は、二人が前へ出てくるまでの間を黙って待った。そして二人が目の前に来たことを納得するように一人でうなずいてから、左右の楽隊に支持を出した。笛が吹かれ、太鼓が鳴らされる。

「リュウ大人の名の下に、貴様ら罪人へ決を下す! 案ずるな、大人は偉大にして寛大な御方。不要な争いや混乱は求めておらぬ。そう、すべては――」

 旋律のない打と吹の協和。その協和をかき乱すような荒々しい声で、細眉は火を吐くように叫ぶ。しかしその叫びは、およそこれまでの言動とは、その声色とはとても似つかわしくないものだった。細眉は、両眉の間に刻まれた入墨をこれでもかという程に歪めながら、こう言ったのだ。


 共に双見に住まう隣人同士が共存の為に、と。


   八 エンペイ

 共存など、ありえるものか。

 リュウ大人ターレンはこの場を穏便に済ませることで西の黒澤に借りを作る算段のようだが、奴らはそのような殊勝な羊ではない。奴らは豚だ。因果に思考を巡らす知恵もない、目の前の餌を醜く貪る豚だ。蓄えた脂肪に厚かましく肥え太った、醜悪なヤ国の豚共だ。もし奴らに人としての倫理が欠片にでも備わっていたならば、豊穣の西を独占するなどと言う専横はできなかったはずだ。大戦時の遺物たる化学工場が亡骸の群に汚染された東の土壌は、作物の一本すらまともに実りはしない。それはつまり、食の自給が不可能であることを意味している。奴らはそれを知った上で、我らに東を明け渡したのだ。頭を垂れ、西に隷属すれば自分たちがさんざ食い散らかした後の残飯を恵んでやると、常から奴らは突きつけているのだ。突きつけているのだ、貴様らの生命など我々の胸先三寸で決まるものだと。

 なんたる傲慢、なんたる悪辣。咽返る悪臭に嘔吐感すら覚えるほどの賤劣ではないか。

 聞けば事の発端は、あのヤ国人の男が我らの貯蔵する食料を盗み取ったという話だそうではないか(あの男……四四――洞四四ほら しよんという名だと聞いた。悪趣味な響き、里が知れるというものだ)。奴らには判るまい。一日分の食、一食分の材が、我らにとって如何に貴重なものであるか。乳を出す栄養すら得られず、婚後一○年の待望集めし我が子を餓死させてしまった母親が現に、現に存在するなどと。奴らには判るまい、判るはずがないのだ。

 首を斬って処すべきだ。洞四四の行いは、生まれ育つはずであった赤子を殺害したも同然なのだから。死には死を、殺には殺を。それこそが正しき律というもののはずだ。そして切り取った生首を、ぶくぶくと肥え太った豚どもの中心へ投げつけてやるべきなのだ。これは、この男一人が示した罪の証なのではない。貴様ら全員が贖うべき罪の象徴であるのだと。

 だが……だが。リュウ大人は、絶対だ。絶対なのだ、我らにとって。私の怒りもリュウ大人が認めぬ限り、律なき私憤を脱することはできない。律を無視した怒りの行使は獣の暴走に過ぎず、引いてはリュウ大人に唾を吐きかけることにもつながる。それだけは、その禁だけは、如何な正当性を立てようと犯すことはできない。私が――コウ・エンペイが今なお『架族かぞく』である限り。 

 大陸全土で起こった大飢饉。それは農作を知らぬ共産党による人災でありその責を負うべきは党中枢の無能共にあること明瞭であったが、歴史の常として失政の痛みを被るは民草、市井に生きる無辜な人民であると相場が決まっていた。党本部は飢えた人民に糧ではなく鉛玉を携えた軍警を寄越し、一家庭が設けられる子の数を厳格に制した。叛意を封じ込め、人口の増加そのものを抑えることで急場を凌ごうとしたのだ。だが、それも焼け石に水だった。当然だ。当時の大陸が年間に生産できる食料は、いま現に生きる人々の、その三分の一すら満たせぬ程度であったのだから。鉛玉では、腹は膨れぬ。そこで奴らは考えた。食料を劇的に増加させる手立てはない。人口の増加を防いでも、即効性はない。ならばいまいる者たち、この国にとって不要な、害悪となり得る者達を追い出してしまえばよいと。そして奴らは、見つけ出す。“運がよいこと”に、国力を増強させるための労働力を求め、移民を受け入れるための法整備を推進している、手を伸ばせばすぐに届き得る近隣に位置するその国家を。

 八百人の国――ア国の占領から脱し独立を果たした島国の、その北東。

 移民として選ばれたのは、共産党との政争に破れた国民党関係者、あるいはその疑いを掛けられている者、及びその親族が主であった。その選出の意味する所は説明の必要がない程度には明白であったが、彼らのかつての同士諸氏が辿った末路を鑑みるに、その処置はあるいは寛大な温情であったとすら言えるかもしれない。いずれにせよ彼らには、居場所など初めからなかったのだから。あの広大な大陸の、その片隅にすら。だが、我々は違う。共産党も国民党も、我々には関係ない。

 架族。そして、架国。我らが故郷。大戦時、大陸内において唯一ヤ国による植民地政策の恥辱に処された地。言葉を奪われ、文化を潰され、愚昧な帝国主義に敷された当時の架族は――ヤ国人と同等の地位と権利と財産の保有を許され、施政を執る側となって内外の大陸系他民族を圧した。我らにはそれだけの力が有り、またそうするだけの特権があると信じて。狡猾な統治者の、その傀儡と化している屈辱から目を背けながら。だが、大戦後。宗主国であったヤ国が完膚無きまでの敗北を喫し、政争の果てに現共産党が大陸全土の支配者となった時代。我ら架族は、不遇をかこつこととなった。公用語としてヤ国の言葉を学び、ヤ国の文化を受けた我ら架族は大陸の他の民族から“ヤ国被れ”と呼ばれ、忌み嫌われるようになったのだ。彼らが言では架族は大陸を売った売国奴であり、母なる大地に身を預けるその資格を有しないのだという。我らは、大陸の者とみなされては居なかった。ヤ国に隷従した異国、更に言えば敵国に類する民であり――そして我らは、ここ〈双見〉へと追われたのである。

 だが、だがしかし、だ。架族は大陸史上において全土統一を成し遂げた、最初の民族だ。大陸に通底する根本思想を築いたのは他でもない、我ら架族の偉大なる祖王なのだ。そしてその裔。架王朝に連なる皇の貴き血を継ぐ御方こそ、我らが抱きしリュウ大人その人なのである。我らと我らの文化こそが大陸の在るべき本道であり、国民党も共産党も、所詮は邪道の紛い物に過ぎぬのだ。

 即ち、大陸とはリュウ大人そのものであり、リュウ大人こそが大陸そのものなのである。

 私は、リュウ大人に逆らうことはできない。つばを吐くことも、独善の愚行によってその顔に泥を塗るような真似もできない。それは私の、コウ・エンペイという架人が存在そのものの否定であるが故に。だが同時に、見て見ぬ振りをしているられるほど、か弱き兎でも私はない。架族の架族たる核心。その絶対不可侵の領域を犯さんとする蛮行を、指を咥えて見逃せるほど堕落してなどいない。

 西の黒澤太平太は、『合背ごうはい』なるこの地に伝わる祭りの復活を企図し、その参画を我ら東に住まう者達へも迫った。西と東の共存共栄、友好と調和をその名目に掲げて。なんと白々しいことか。奴らの真意など、そこらで鼻を垂れている幼児にすら見通せるほど見え透いているというに。文化による侵略、制圧。同化という名の民族浄化。言葉は文化に依りて、人は言葉に象られる。文化を奪うことは言葉を歪めることであり、言葉の歪みは人の歪みを導く。大陸を追われ、異国に逃げ延びて、それでも架族であるという誇りでまとまった、我らが魂。その魂をこそ奴らは、砕かんと目論んでいるのだ。これは杞憂ではない。事実として奴らはかつて、それを行ったのだ。我らが故郷、架国において、それを。

 それに……それに。

 私は、見たのだ。遠きかつての幼き日。幼き我が目は、然と見たのだ。我らが故郷に建てられた、あの施設を。秘されし施設の薄暗きその裡に、ずるずると蠢きし醜悪なるものを。悍ましきそれを。鬼畜の所業を。


 畜生共。


 この国の者共は、人を人とも思わぬ。

 奴らは滅ぼすだろう。我らの魂を。そして貪るだろう。抜け殻と化した肉叢を。

 ただ手をこまねいていても、待ち受けているのは滅び、だけだ。

 殺さなければ、殺されるのだ。

 やらなければ、やられるのだ。

 共存など、ありえるものか。


 リュウ大人には、御子息がない。皇の血を継ぐ御親族も、先の大戦の折に軒並み崩御されてしまわれた。そして、リュウ大人御自身も、補助具なしでは活動の維持すら困難な御高齢だ。

 猶予は、残されてはいないのだ。架族が架族として存続するための、その猶予は。

 リュウ大人は、絶対だ。絶対であり、大陸であり、我らを架族たらしめる根幹そのものである。リュウ大人の御言葉は私自身の言葉以上に私の言葉であり、故にこの場は、矛を収めよう。相道純。洞四四。中立気取りの雌狐――いや、雌狐ですらない醜怪の端者。それから――佐々川友為。事実上、黒澤を司る者。不明に狂うヤ国の蛮族共よ、貴様らが起こした瑣末事など、寛容の見地にて見逃してやろう。何れにせよ、未来は一つ所へと収束するのだから。


 架族は永久に、滅びぬのだから。


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