二章
一~四
ねえあなた、よくも生きておられますね。
一
「お前も移民か?」
「いや、ぼくは……」
「ああ、異人か。いや、異人の子か」
つい先程まで陽気な顔を浮かべていた彼が突如、疑うような視線を向けてくる。うかつだった。彼の疑念が膨れ上がる前に、努めて素早く弁明を行う。
「うん、そうだ。父も母も、両親とも、戦前にヤ国へ移り住んだ大陸系の異人だよ」
「そうか、両親ともか、うむ」
瞬く間に、彼の表情が元にもどった。胸を撫で下ろす。このような些事でせっかくの機会を棒に振りたくはない。聞いてもいない身の上話を延々と話し続ける彼へ適当に相槌を打ちながらぼくは、姉さんのことを思った。心配だった。早く会いに行きたかった。そのためにも、この仕事は確実に完遂しなければならなかった。
号令。現場の指揮を任されたリーダーが、ぼくらに準備を促す。よく飽きないなと思うほどに騒がしかった隣の彼がその号令を受け、目出し帽を被った。途端、あれだけ人間的であった彼から人間的なものの一切が失せ、覗く瞳はぎょろりと異常者のそれのように映りだす。彼に続き、ぼくも目出し帽を被る。自分が自分ではない何者かへと変貌したような気がした。これから行うことは、自分の意思で行うのではない。それはこの目出し帽に宿る暴力的な何かの念がぼくの身体を操るために起こる、一種の降霊術の副次効果なのだ。だからそこで何が起ころうとも、それはぼくが気に病むことじゃない。それは、ぼくの意思ではない。
人気のない荒れ地を、一台のトラックが土埃を上げて走る。定位置に付く。同業者に合わせて。同業者たちはみな同じ格好、同じ姿をして、もはや個人個々を識別することもできない。息を潜め、待つ。トラックがクラクションを鳴らし、運転手が一人、飛び出した。それが合図だった。
リーダーが吠え声を上げる。倣い、ぼくらも吠え、一斉に駆け出し――トラックに向け、発砲した。
金が必要だった。金。生まれてこの方ずっと、金に困ったことのない日などなかった。物心ついた時にはもう、両親はいなかった。死んだのか、それとも捨てられたのか、確かめる手段もない。ただおぼろげな記憶と、つたないながらも操る自身の言語が、自らのルーツを証明していた。そのためにぼくは、生き残るためにずいぶんな苦労を背負わなければならなかった。
生まれる前に起こって終わったあの大戦は、けれど終わると同時に何もかもを元通りにしてくれたわけではなくて。戦前戦中に海を渡って移り住んだ移住者たちは確かにその
そうした争いの渦中に、ぼくもいた。ぼくは大陸の言葉しか知らない。大陸の言葉を使うということは、異人であると自ら触れ回るのと同じことだった。つぶてを投げられ、鍬で追い回された。ならばと言葉を封印して、人の裡へと潜り込もうとしたこともあった。黙ってさえいれば本邦の者と区別がつくこともない――そう思って。しかし初めは受け入れられようと、無言でいることを怪しまれれば、扱いは結局元のそれと変わりなくて。本邦の人間たちの間に、ぼくの生きられる場所はなかった。
だからぼくは、ぼくたちは、同じ境遇の子供だけで共同体を築き、互いを家族と呼び、協力しあってなんとか生きてきた。子供でも、異人でも、金さえあればなんとか生活はできた。真っ当な手段で金を稼ぐことができない以上、入手の方法は限られた。その過程で家族に犠牲がでることもあったが、一々気にしてはいられなかった。自分の生存。最優先は、それだった。ぼくだけじゃない。みんながそうだった。
姉さんだけが、例外だった。
分け与えること、手を取り合うこと、そうしたことを教えてくれたのは、姉さんだけだった。薄っぺらな言葉でなく、実践としてそれを、姉さんはぼくたちに教えてくれた。文字通り身を削って、ぼくたちに今日を生きる糧を分け与えてくれた。姉さんだけだった。姉さんと呼んで、本当の意味での家族として慕いたくなったのは、姉さんだけだった。姉さんのためであれば、生命すら惜しくはなかった。そんな気持ちは初めてだった。
姉さんが、病を患った。重く、放っておけば死に至る病。共同体の家族たちは、姉さんを捨てると決めた。動くこともままならない姉さんを養っている余裕などないというのが、家族の判断だった。納得できなかった。できるわけがなかった。姉さんの病は、治る病なのだ。ただ、薬が必要なだけ。薬を得るために、金が必要なだけ――。
金が必要だった。
双見の噂は聞いていた。黒澤組という暴力集団が統治する、北東ヤ国でも有数の豊かな地。噂は事実だった。複数台のトラックを一地方で所有していること自体に、その金満ぶりが物語られている。ぼくは戦後移民ではなく戦前移民の子であり、当時ぼくらは確かにこの国の人間として扱われていたはずだ。ぼくの両親も、元はヤ国人なのだ。その子供であるぼくも、ヤ国人のはずだ。そのはずだ。だからこれは、無法じゃない。自らの欲得によって正しく分配されるはずだった資源や資産を独占する悪漢から、正当な取り分を取り返すための義戦だ。だから、それに係る行いはすべてが許される。それに関わる選択は、すべてが認められる。例え、見知らぬ誰かを傷つけようと。例え、どんな乱暴を働いたとしても。
例え、人を殺したとしても。
「逃げたぞ、撃て!」
個性を喪った仲間の誰かが、叫ぶ。トラックの荷台。そこには物資だけでなく、人間も積載されていた。双見へ出稼ぎに行くつもりだった者たちだろう。大陸の言葉を扱える者はいなかった。全員がヤ国人だった。ぼくらは荷台から下ろしたヤ国人たちを拘束し、地面に這いつくばらせた。それ以上、なにかする気はなかった……なかったのだ。ぼくたちの目的はあくまでも物資の強奪であり、不要な面倒事を増やしても利益になることなどひとつとしてないのだから。少なくとも、ぼくはそう思っていた。
そいつは、そうは思わなかった。荷台から下ろした男たちの一人。顔も判らない。背中を向けて走り出したから。どこへ逃げようとしたのか。きっと本人も判らなかったのだろう。どうしてこいつを逃してはならないのか、それがぼくには判らなかったのと同じ様に。仲間たちが次々に、逃げる男に向かって発砲した。弾は当たらなかった。当然かも知れない。おそらくここに集まったのはみな、訓練など受けたことのないそこらの浮浪者ばかりだろうから。そしてぼくらに用意された銃は単発式の小銃で、一度外したが最後、次弾を装填している間に標的は更に狙いのむつかしい彼方へと離れていく。
「撃て、撃て!」
誰かが叫ぶ。いや、叫んでいるのは一人ではないのかも知れない。声まで似たようなものに聞こえてきて、誰が誰なのか本格的に判らなくなる。ただその中にあって、ぼくだけがみんなと異なる個性を持っていた。何故か。答えは簡単。ぼくだけが、銃を撃たなかったから。特別な意味はなかった。理由のはっきりとしない曖昧な躊躇いはあった。その躊躇いも、すぐに消し飛んだ。肩を乱暴に叩かれた。罵声を浴びせられた。顔のない仲間の誰かが「撃て!」と、ぼくに銃口を向けていた。曖昧な躊躇いなどに、抑止力はなかった。ぼくは逃げる男を狙った。既にもうだいぶ離れ、その姿も親指の先ほどにしか見えなくなっていたが、とにかくぼくはそれを狙い、狙い、狙いすまして――引き金を引いた。
全身に、痺れが走った。
逃げる男の後頭部が、赤色に破裂した。
「当たったぞ!」
耳元で叫び声が聞こえた。肩を、再び乱暴に叩かれた。しかし罵声は浴びせられなかった。ぼくの肩を叩くこの男は、どうやら喜んでいるようだった。そしてそれは、この男だけではないようだった。仲間たちが合わせたように狂喜して、雄叫びを上げていた。ヤ国人が死んで、喜んでいた。人が死んで、喜んでいた。
ぼくは――よく、判らなかった。共同体の家族の中には、人を殺して生きてきた者もいた。ぼくは、初めてだった。人を殺したいと思ったことも、あった。けれど実際、殺さなかった。何かがぼくを止めていた。人を殺すという事実に耐えられないと、そのように思っていたのかも知れない。ショックは、なかった。うれしいとか、悲しいとか、なにか、思うということもなかった。いまの自分の感情が、よく判らなかった。ただ、失くなった。何かが。何かが決定的に、失くなってしまった。そうとした言いようがなかった。
姉さんの顔が、思い浮かんだ。
「あーあ……」
場違いに間の抜けた声が聞こえてきた。一斉に振り返る。拘束した男たちの中から男が一人、ふらりと立ち上がっていた。無防備な、眠りから醒めたばかりのような脱力した姿勢で立っていた。凝りを解すように回した頚に連動して、後部で一つに縛った髪が揺れる。
なんだ、こいつ。
仲間の一人がいち早く、銃口を突きつけて詰め寄った。あの空洞、その先から飛び出る鉛は、たやすく人を殺傷せしめるものだ。それはついさっき、ぼく自身が身を持って理解した。だというのに男は薄笑いを浮かべたまま平然とした様子で、突きつけられた銃など見てすらいなかった。まるで白痴か――あるいは、自殺志願者でもあるかのように。
男の腕が、上空に上がった。
仲間が叫んだ――直後、硬直した。肩は、胴は、足は、そのままだった。銃を突きつけたその腕も、変わらなかった。首だけが、おかしかった。男を睨んでいなければならないはずのその首が、ぼくらの方へと向いていた。仲間の首が、ありえない角度まで、こちら側へと拗じられていた。
間があって、土埃と共に、硬直した仲間の身体が地面に倒れた。
「……あ?」
誰かがつぶやいた。誰かではなく、ぼくかもしれない。いずれにせよ、意味のあるつぶやきではなかった。何が起こったのか、理解が及ばなかった。男が腕を振り上げた。仲間の首がありえない方向に曲がった。その後、倒れた。事実として認識できたのはこれだけで、間が、そこにあるべき過程が抜け落ちていた。男は薄笑いを浮かべている。倒れた仲間は、起き上がってはこなかった。
「ここまでやられちゃ、黙って傍観って訳にもいかねぇよなぁ」
ヤ国の言葉。何を言っているのか、ぼくには判らない。ただその言葉の中身が好意的な内容でないことくらいは感じ取れた。それでもぼくは動けなかった。誰もが動けずにいた。そんなぼくらに向かって男が、順番に指を差す。ゆっくりと、数でも数えているみたいに。指先が、ぼくへと向けられた。
薄笑いが、消えた。
「せいぜい後悔して死ね、“畜生”ども」
一番近くにいた仲間が、骨の砕ける嫌な音と共に地面へと叩き伏せられた。悲鳴を上げることもなかった。叩きつけられたせいなのか、それが直接的な原因でないのか、それは定かではないがとにかく、目出し帽から覗く目に生気はなかった。
誰かが発砲した。当たらなかった――いや、当たったと言えば、当たった。悲鳴もあった。男によって投げ飛ばされた仲間の一人が、空中で銃弾を受けていた。慣性に従って、投げ飛ばされた仲間と銃を撃った仲間が衝突した。そこに、男が追随した。二つの砕ける音が響いた後、仲間二人の頭蓋がひしゃげていた。パニックが起こっていた。誰もが恐慌状態で、冷静な判断を下せる者など一人もいなかった。誰もが勝手に喚き、勝手に撃ち、勝手に泣き叫んでいた。その渦中を、男が移動した。男が移動するたび、誰かが死んだ。一方的な虐殺だった。一人、また一人と、生きていたはずの者たちから、生命が奪われていった。
ぼくは――逃げ出していた。生きなければならなかった。姉さんのためにも。……けれど実際は、そんなことを考える余裕もないままに、ただただ逃げていた。次々と倒れていく屍体の群れ。その裡のひとつになりたくなかった。怖かった。怖いという感情が、すべてだった。銃声がした。バランスを崩し、倒れた。足を見ると、腿の辺りから出血していた。痛みはなかった。這いずって、少しでも逃げようとした。這わせた腕が何かで切れた。気にしている暇はなかった。這って、這って、逃げて、逃げて――その先で、ぼくは何かが倒れていることに気がついた。ぼくが撃ち殺した、ヤ国の男。先程は見えなかった顔が、ここからは確認できた。――ぼくと同じくらいの、まだ子供みたいな顔をした、青年だった。
足音が、ぼくの間近で止まった。長い髪を後ろで一つに縛った死神が、そこにいた。
「……いやだ」
意識より先に、言葉が出た。
「お願いだ、頼む……頼みます! 見逃してください!」
這いつくばって、頭を下げた。
「姉さんが――姉がいるんです! 姉がぼくの帰りを待っているんです!」
頭を地面に叩きつけた。何度も何度も叩きつけた。
「ぼくがもどらなければ、姉さんまで死んでしまう! 姉さんは何も悪くない、悪くないんだ!」
喉も頭も裂けそうだった。裂けていたかもしれない。それでも――。
「だから、お願いだ、お願いします……」
それでも――。
「殺さないで――」
死ぬよりは、良かった。
「判るさ」
肩に、手を置かれた。
「お前は何も悪くない」
穏やかな声だった。
「お前だって被害者なんだよな。判るとも。お前だけじゃねぇ、この世界に生きるやつら全員、クソみてぇなこの世界の被害者なんだよ」
ヤ国の言葉で、意味はまるで判らなかったが。
「だからな、俺はお前らのこと、恨んでなんざいねぇよ」
危害を加えてくるような態度では、なかった。
「お前が生きたいって願うなら応えてやりたいって、そう思いもするのさ」
助かるかも、知れなかった。助かるかも知れない。助かるかも。感情が、溢れた。強烈な嘔吐感すら感じる、激しい情動を。
「あ、あり、あり、ありが――」
「でもな」
激情のままに述べかけた感謝の言葉は、しかし伸ばされた指先によって遮られた。男がぼくを見ていた。ぼくはその時になって初めて、男の顔をはっきりと確認した。男が浮かべる薄笑いの、ぼくを見るその目の、その瞳の奥に宿っていたものを――。
「でもな、これは悲しい、とてもとても悲しいことなんだが――」
昏い、昏い、あまりにも、昏い、それを――。
「畜生の言葉なんざ、理解できねぇんだわ」
――人を殺して生きてきた、共同体の家族。いつか外へ出た彼が、二度と帰ってこないことがあった。もしかしたら、もっと心地の良い住処を見つけたのかも知れない。その可能性だって、まるでないわけじゃない。けれどそう考える家族は、一人もいなかった。誰もがみんな、彼が死んだものと思っていた。どうせ物取りにでも行った所、返り討ちにあったのだろうと。そんなことは、日常茶飯事だったから。けれど一人だけ、ぼくらとは異なる認識を抱いている者がいた。
「天狗に殺されたんだ」
帰ってこない彼とよく一緒に行動していたそいつは、そう言っていた。天狗。この国にはぼくら外から来た者の存在を決して許さない、超常の妖がいるのだと、そいつは言っていた。超常の妖。馬鹿げた話だと思った。でもぼくは、その話をよく覚えていた。そいつが、この話をしたそいつが、いまにも気が狂ってしまうのではないかというほど怯えていたのが印象的だったから。
天狗。あいつの怯えた姿と共に、ぼくはその言葉を思い出していた。震えたあいつが絞り出した、その名前を。『
頚に、冷気が、触れた。
姉さんに会いたかった。会えないことが悲しかった。
二 イタマ
「“霊触の日”。この日を境とした敗戦によって、八百人の国は四辺に分断されました。そして私たちが暮らす北東ヤ国も遠き海を隔てたア国の支配下に置かれ、三十余年もの間自立権無き植民国家としての窮状にあえいできたのです」
トキワ先生は語る。ア国の植民地支配政策が、おれたちの国にどのような影響を及ぼしてきたのかを。そこで生まれた組織のことを。当時、北の共産連邦国家が掲げるイデオロギーと世界を二分する形で対立していたア国は、地政の要衝でもある北東ヤ国が敵対思想に染まらないよう、自国で掲げる理念とは真逆の方策を取った。つまり――教育の制限、製造の制限、貿易の制限……そしてなによりも、移動の制限。寸断されたヤ国の一部位である北東ヤ国内にすら明確な区画の寸断を行い、そこからの移動、逃亡に厳しい条件を設けた。土地の者は、土地の場所に。家の者は、家の場所に。生まれた者は、生まれた場所に。閉じた世界への隷属。自由の剥奪。ア国が課した、それが敗残者である北東ヤ国への制裁だった。
これは北東ヤ国と隣接する北西のヤ国が、正に敵対思想の共産連邦国家の支配下に置かれていたことも大きな要因のひとつといえた。実際に北西ヤ国を通じて北東ヤ国へと送り込まれた工作員の例は枚挙に暇がなく、どんなに厳しい制限を設けようとも人の流入を完全に防ぐことはできずにいた。また南東の支配権を得たものの大戦の疲弊によって早々にその支配権を放棄した、前時代の覇権国家である連合王国。その連合王国に代わり南一帯を支配することになった大陸国家の台頭も、ア国の悩みの種であった。
北の共産連邦と源流を同じくしつつも独自の発展を遂げることでただの亜流ではない一大共産勢力と化したこの国も、ア国にとってはやはり望ましい存在ではなかった。彼らも北の共産連邦同様、あるいはそれを上回る勢いで北東ヤ国への支配権闘争を仕掛けてきたのである。
なにより彼ら大陸の者の容貌は、ヤ国の者と区分けすることが困難な程に似通っていた。ヤ国の言語を駆使されれば判別することは事実上不可能であり、彼らはこの“相似”という特性を活かしてより巧みに、より狡猾に、北東ヤ国に対して自分たちの都合の良い思想文化を浸透させる方策を実行していた。そしてその文化侵略は無視することのできない勢いでヤ国内へとなだれ込み、水面下における着実な侵食を起こしていたのである。
これら西や南の侵略者に、しかしア国はただ手をこまねいているだけではなかった。ア国より派遣されたア国進駐軍のトップは、北東ヤ国特別警邏隊――通称『
特邏の構成員は基本的に、“純粋な”ヤ国人のみとされていた。彼らが主な標的として監視していたのは当然北東ヤ国の外より訪れる外敵であったが、戦後に国外へ退去することのなかった在留異人や、外敵や異人とのつながりを噂されたヤ国人、つまりは同胞にもその疑いの目は向けられていた。故に彼らは、血を同じくするヤ国の者からも恐れられ、時に憎まれた。毛唐の走狗、そのように揶揄する者もいた。それでもア国進駐軍という強力な後ろ盾を有する特邏が瓦解することはなく、組織は結成より三◯年以上もの間、大きな変革などもないままに課された役割をこなし続けてきた。ア国と北の共産連邦、このニ国の冷戦が終結に向かうその時代まで。
ア国と北の共産連邦、世界の覇権を争うこの両国共がその時すでに、膨れ上がる軍事費に国体そのものが押し潰されかけていた。我慢比べも、もはや限界に達していたのである。両国首脳によるホットラインでの秘密会談を契機として、両国の軍事偏重政策は縮小傾向へ向かう。そしてア国のその縮小計画の中には北東ヤ国の植民地支配政策――その支配権の放棄も含まれていた。ヤ国は自らの頭上で交わされた手の届かない上位者の意思によって、棚ぼた的に主権を取り戻したのである。経緯はともかく自国を自国として取り戻せたその事実に、多くの国民は沸き立つ。だがそれは、大国ア国による国際的な庇護を喪うことも意味していた。
急務なのは、国力の増強。進駐軍施政下において各地より選出され、その撤退後も暫定的に当時の国会を運営していた議員たちの、それが総意であった。問題は山積みと言えた。中でも分断の裡における分断、地方間の移動及び交流禁止というかつての制約からなる国内の断絶具合は深刻だった。地方の者は地方の者のみで固まる。特に戦後以降に生まれた若い世代にはその傾向が顕著であり、彼らにとって国とは自身の土地であり町であり、その領域を越えた外側にいる者は同じヤ国人であろうと“余所者”であるという意識が、少なからず存在した。
国力とはつまるところ人であり、金である。計画的な発展には、一つ所にまとまった人と金とがどうしても欠かせない。断絶されたこの北東ヤ国では、そのどちらもが不足していた。亡命などによる人口の大幅な減少も、問題の重篤さに拍車をかけていたといえる。故に議員たちはヤ国復興のその第一歩として、断絶された各地の交流を促すことを考える。だが、そこで障害が生じた。
ア国と共産連邦が頭打ちの様相を見せる中で、一人悠々と拡大を続けてきた国、それが大陸の人民共和国であった。二大巨頭の共倒れを尻目に国力を増強させた大陸国家は、北東ヤ国への文化侵略にもその力をより多く注ぎだしていた。すでに多くの工作員がなだれ込み、地方によっては大陸国家に帰属することの安定を望む声が優勢となっている場所すら存在した。そして、その流れがまだ途上であることは明白。せっかく取り戻した主権。その主権の喪失も、非現実的な妄想話などではもはやない。現実的な脅威として、すぐそこにまで迫っているのが実情であった。
各地の融和を望みながらも誰が味方で誰が敵なのか判別が不可能な状況――この状況を打破すべく政府によって白羽の矢を立てられたのが、ア国進駐軍という基盤を失いその所在が曖昧となっていた特別警邏隊――特邏であった。
「いま私たちが待っている彼も、その特邏の一人なのです」
特別警邏隊はイメージ快復のため北東ヤ国警察省と改名されたが、改められたその名で呼ぶ者など殆どいはしなかった。特邏は特邏。基盤となる組織が変わろうと、その在り方――つまり与えられた役割と行いにはなんらの変化もなかったのだから。むろん、標的とする、その対象においても。
「じゃ、じゃあ……」
ゆったりと語るトキワ先生の言葉の間に、おれは声を差し挟む。
「そ、そいつ……その人って、悪いひと、なのか……れすか?」
「一概にそうとも言えませんよ」
「な、ならいいひと?」
「どう……でしょうね。それもまた、一概には言えないことなのです。何が正しく、何を不義と定めるか。それは私たちが考える以上にむつかしい問いなのですよ。……む?」
トキワ先生が一方を見つめた。おれたちがいることの許された区画のその外から、人影が現れる。
「噂をすれば、ですね」
トキワ先生が立ち上がった。おれも一緒に立ち上がる。躊躇うことなくおれたちの区画に入り込んできた人影は、何気のない様子で片手を上げ、人を食ったような笑みを浮かべた。
「よう、トキワ。三年ぶりか」
「ええ、お久しぶりですね――
「やっぱり暑っ苦しいな。息もしづれぇ」
「辛抱していただけますか。陽の下を大手を振って歩けぬ我ら『
「理解はしてるさ。面倒だとは思うがな」
愚痴をつぶやく相道純の頭に被せた麻袋をおれは、簡単に外れることがないようきつく縛った。同様に、両手も拘束する。これで相道純はすぐ目の前のものも見ることはできないし、とつぜん暴れだすこともできない。準備が整ったのを確認したおれとトキワ先生は、暗闇の中にいるであろう相道純の身体をつかみ、基地の奥で待つまっさんの下へと案内する。
旧国軍区画。西双見の外れにあるおれたち屋無が間借りしているこの場所には、戦時中に建てられた基地があった。トキワ先生が言うには、こうした基地はヤ国のそこら中にいまも現存しているのだそうだ。その内部構造がどれも同じであるかまでは判らないが、少なくともおれたちが住んでいるこの場所は複雑で、一度入れば抜け出すことすらむつかしい立体上の迷路になっている。その全貌を把握している者は、ほとんどいない。正体をなくした屋無が迷ってもどれなくなったことも、おれが知っているだけでも何度かあった。おれも、自分が覚えられる範囲外の場所へはいかない。それですら時々、自分の居場所に確信を持てず不安になることがある。おそらくここのすべてを理解しているのはトキワさんと……おれたち屋無を束ねるまっさんくらいなのではないだろうか。自分でまともに動くことのないまっさんとは異なり、相道純を案内するトキワさんの足取りはなめらかだった。
「なあ、トキワよ」
麻袋を被せられたまま、しかし淀むことなく歩を進める相道純がその布越しに声を発した。両脇を支える形のおれとトキワ先生が、一斉に相道純を見る。
「さっきはなんの話をしてたんだい。ちらっと聞こえたぜ、特邏がどうとか」
「相変わらず良い耳をお持ちだ。いえ、耳だけではないかな」
相道純が、小馬鹿にするように小さく笑った。
「出来が違うからな。……で?」
「なに、簡単な講義ですよ。歴史のね」
「講義?」
「ええ、彼――イタマくんにね、教えてほしいと」
「イタマ?」
麻袋越しに、相道純の頭がこちらへと向いた。
「知らん名だな。新顔か?」
「いえ、もう二年以上は。あなたが双見を離れた、そのすぐ後くらいにでしたね。さ、イタマくん」
「い、イタマら……れす」
緊張して、拘束する手に力が入る。外の人と言葉を交わすのは、いまもまだ、少し怖い。
「ごつい手だな」
握る手に、更に力がこもった。
「生まれつきだそうです。筋肉が肥大化してしまう体質だそうで、気づけば人より大きくなっていたと。ここへ逃れてきたのも、それが原因でね」
「へぇ」
麻袋の中の頭が、もぞもぞもと蠢いていた。まるで、おれのことを観察しているかのように。この麻袋は思っているよりも分厚く、光もほとんど通さない。だから、見えていないはずだ。見えていないはず。当然、そのはずだ。……だというのに、見られている気がする。遠慮のない視線が、自分を批難しているように感じる。ここへ来るまでのことを、嫌でも思い出してしまう。
「生まれながらかい、そりゃ苦労したな。しかしその身体、鍛えりゃそれなりのモンになりそうだ」
相道純の声は、軽かった。
「お前、うちに来る気はないか?」
「相道くん、イタマくんはうちの子ですよ。勝手な勧誘は困ります」
比べ、トキワさんの声は、やや真剣味を帯びていた。
「決めるのはこいつさ。で、どうだ?」
麻袋越しに、相道純がおれを見る。いや、おれからは相道純の表情が見えない。相道純の方が一方的に、おれを検分しているのだ。状況があべこべだった。混乱して、逃げ出したくなったけれど、おれを見るトキワ先生の視線に気づいて、ぐっとこらえる。なによりも、トキワ先生から特邏について学んだ瞬間に、答えは決まっていた。
「ぼ、暴力は嫌いら……れす。痛いのも、痛くさせるのも、いやら……れす」
「そいつは残念だ」
問いかけてきた時と同じ軽さで、相道純はあっさりと諦めの言葉を口にした。この件はこれで、もう終わりのようだった。トキワ先生が話題を変える。
「相道くん、せっかく現役のきみがいるのです。きみからもイタマくんに、何か教えてやってはくれませんか」
「何かって……何についてだい?」
「歴史について、特邏としてあなたが学んだことであればなんでも構いませんよ」
「そう言われてもな」
「そうですね、なら――」
トキワ先生が、ちらりとおれを見た。
「異人と移民の違い――などではどうです」
「違いなんざねぇさ」
相道純の解答は早かった。
「畜生は、畜生だ」
言って、相道純はくつくつと一人、笑い出した。その抑えた笑い声に、やはりおれは、怖いと思った。この人が怖い。人を畜生と言って、笑ってしまえるその精神が。特邏という職務をこなし続けられるその心胆が。そして――おそらくは、何人もの人を容易く殺めてきたこの手が。
「そうですか」と、トキワ先生が小さく答える。後は、無言だった。通路の途中で、呻き声をあげながら禁断症状に苦しむ屋無がいた。おれは彼を踏んでしまわないよう慎重に足を上げて、またいだ。その時も、無言だった。そのまままっさんの待つ部屋へと到着するまで、おれたちは無言で歩き通した。
「よう純、いい加減『
「……はっ、凝りずに家なき子の王様気取ってるみたいじゃないか、まっさんよ。まだくたばっちゃいないようで安心したぜ」
「ぬかせ、この不良特邏が。てめぇよりは長生きするつもりだよ」
この複雑な迷路状基地の最奥部、他の屋無も寄り付かないようなその場所に、まっさんはいた。頭を覆っていた分厚い麻袋から解放された相道純が、寝そべるまっさんに近づく。まっさんは立ち上がらない。立ち上がるための足を持たないから。腿の先を喪ったその足として機能しない足で、それでもまっさんは姿勢を正して相道純を迎えた。
「ま、旧交を温めるのはこんなもんでいいだろう。まずはてめぇのここ二年について訊かせてもらいたいところだが……おい」
「はい」
まっさんの呼びかけに返事をしたトキワ先生が、今度はおれに合図を送った。
「イタマくん、私たちは」
意図を察し、トキワ先生の後を追って部屋の外へ出る。これで部屋の中にはまっさんと相道純、二人だけが残されることになる。重い扉を閉めた部屋の中は完全防音で、中の会話は万が一にも外へは漏れ出さない。事実、番として扉の前に陣取ったおれの耳にも、二人の話し声はまるで届いてこなかった。
「気にすることはありませんよ」
向かいで番をしていたトキワ先生が話しかけてきた。
「な、なんのこと、れすか」
「相道くんの言ったこと。きみは人です、畜生などではない」
断定的で――。
「気にすることなど、ないのです」
真剣な口調だった。おれはうなづく。先生は納得したかのように、うなずき返してきてくれた。
おれは、異人でも移民でもない。どんなに俺が阿呆でも、さすがにそこまで忘れてしまったりはしない。ただおれは、家畜だった。生家で、親だったらしい人からも、兄弟だったらしい人からも、使用人だったらしい人からも、家畜と呼ばれていた。あの場所で確かにおれは、畜生だった。先生が言っているのは、きっとそのことだろう。いつだったかそのことを、先生にだけは話した覚えがあったから。
実のところ俺自身はもう、当時のことをそれほど気にしてはいなかった。おれのことを畜生や怪物と蔑み憎んでつぶてを投げる者を恐れる気持ちはあるものの、言葉それ自体に動揺するようなことはもうなかったのである。だからこの先生の言葉も、ある意味では的外れなものと言えるのかも知れなかった。けれど、それでもおれは、言わずにはいられなかった。
「せ、せんせは、すごい……れすね」
「すごい?」
「ら、らって、なんれも知ってて、なんれも、わかる」
「そんなことは」
「れ、れも、おれは、せんせがうらやましい」
「うらやましい?」
「ほ、ほら、お、おれはこんなれ、せんせとちがってあたまも、よ、よくないから。も、もっとあたまがよければ、お、おれも、も、も、もっと――」
「イタマくん、そう自分を卑下するものではありません」
まともに。そう言いかけたおれの言葉を、先生が遮る。
「発端はどうあれ、ここへ流れ着いたのはクスリに溺れてしまった者ばかりです。まっさんがそう促したのも事実ではありますが、結局のところそれを選んだのは彼ら自身の弱さだ。彼らは自分自身に負けてしまった。それが悪いことだとは言いません。しかしそうした彼らに比べ、自ら学ぼうという意欲を持つあなたのなんと崇高なことか。思い遣りに欠ける私などは、そのように思ってしまいます」
思い遣りに欠ける。卑下するなと示唆した先生が、自らをそう卑下する。
「それにイタマくん、あなたはけして人より劣っている訳ではない。ただ発話の仕方、思考の回路が他の人と少しばかり異なっているだけ。それはただの違いであり、優劣などではないのですよ」
けれどそのことを指摘する気など、起きはしなかった。そもそもそんな風に口が回るとも思えなかったし、なにより先生の様子が、常よりもずいぶんと有無を言わさぬものであったから。だからおれは。
「う、うん……ありがとう、トキワせんせ」
本心を含めた感謝の言葉を、述べる。そんなおれの感謝に対し、先生は更に言葉を続けてきた。
「はい。ですからあまり、外の者と不用意に接触してはいけません」
「え?」
「昨日のことですよ」
昨日のことと言われ、すぐにぴんと来た。
「ち、小さなせんせえは、わるいこじゃ――」
「ええ、わかります。きみが認めた子ですからね。私とて、きみのその子を信用していない訳ではありません。ですが――」
一昨日の夜、脱走した親友の犬を探すために月夜の双見を駆け回っていたあの子。
「私たちは日陰者。双見は確かに他所と比べ安定した場所ですが、といってその防備が万全というという訳ではない。我々のような者はいつ、どこで、どのような恨みを買うか判らないのです。それはきみとて経験的に、十二分に承知していることでしょう。ですから――」
あの子に協力して双見を駆けている最中に見つけた、空に踊るあの青い軌跡。
「判りますね?」
まっさんから教えてもらった、それの持つ意味。
「お」
それをおれは、こっそりと持ち出して。それで。
「おれは――」
それで。
「よう、おまっとさん」
封鎖されていた扉が、重い音を立てて内から開いた。中からは相道純の、あの人を食ったような笑みが現れる。
「悪いな、待たせちまって。まあ勝手に帰っていいんならそうするが、そうもいかねぇんだろう? な、まっさんよ」
「当たり前だ純。俺はてめぇが使えるから協力してやってるだけで、信用してる訳じゃねぇんだ」
「そいつはお互い様だ。ま、それでも世話になったもんはなった。礼は言っておくさ」
「何を気色の悪い……が、礼に応えてひとつ教えておいてやる」
「なんだよ、恩着せがましく」
「お前の待ち人、どうやらいまは双見の東にいるようだぜ」
「……は?」
不機嫌そうな声が、つぶやかれた。
「間違えたんだろうよ、西と東を。外の奴らにゃよくあることさ。それよりも、さっさと迎えに行ってやらねぇと面倒を起こしちまうかもしれねぇぞ。ま、もう手遅れかもしれねぇけどな」
「……あの野郎」
相道純は笑っていた。しかしその笑みは、先程までのものに比べてずいぶん歪んでいるように見える。「おい」。相道純がおれを見て、麻袋を指した。おれはそれを持ち、慌てて彼へと駆け寄る。そんな純を見てまっさんは楽しげに笑い、更に話を続けた。
「それとな純、こいつはサービスだ。特別にもうひとつだけ忠告しておいてやる」
「なんだよまっさん、急げっつったのはあんただろ。お別れが名残惜しいってか?」
まっさんは楽しげだった。相道純の軽口にも付き合わず、端的にその事実を告げた。
「てめぇ、嗅ぎ回られてるぜ」
麻袋を被せた相道純にむしろついていくような早足で外へと向かったおれはその最中、トキワ先生に言われたことでむしろ意識を強めたあの子のことを考えていた。おれの容姿に怯えることなく、化け物と謗ることもなく、手を差し伸べて助けてくれた、トキワ先生とはまた違う小さな小さなおれの先生。先生はいま、どうしているのかな。今日も双見を駆け回っているのかな。おれが見つけた“あれ”、役立ててもらえてたらうれしいな――。そんなことを考えておれは、隣の物騒な気配に呑まれないよう努め歩いた。
三 下山おもや
「じゃじゃーん!」
「わ、わ、バカー! 降りて、降りて!」
足元にわだちが寄ってきて、すねの辺りに前身をなすりつけてきた。きっとねぎらってくれているのだろう。わだちにはそういうところがある。頭を撫でる。うれしそうに目を輝かせていた。いい子だいい子だ、お前はいい子だね。それに比べてこいつは。
「あんだよおもや、息切らせて。今日はまだ始まったばかりなんだぜ?」
誰のせいだと。
「それで、何を見せるつもりだったの?」
「よくぞ聞いてくれた!」
満面の笑みを浮かべちなみは、冷めた顔の相道さんに振り返る。
「じゃじゃーん!!」
そして仕切り直しの素っ頓狂な掛け声と共に彼女は、手の中に握りしめたそれを目一杯の高さにまで掲げた。彼女の手から垂れたそれは風に乗って、くるくると宙空を踊っている。
「それが、昨日言っていた?」
「おう! 超絶で究極で絶対な――」
「それはいいから」
「――手がかりだ!」
ちなみはあくまで得意げだ。けれど――。
「私には、ただのマフラーにしか見えないけれど」
私の感想も、相道さんと同じだった。ただのマフラー。手編みの、青い。丁寧に編まれているのは見て取れたけれど、それ以外、特に気にする点があるようには思えなかった。しかしちなみは余裕の態度を崩さず、格好つけてでもいるかのように一本だけ突き上げた人差し指を左右に振った。
「こいつはね、件の被害者が常日頃から身につけていた一品なのだよすすぐくん」
「被害者?」
「一番最後に起こった神隠しの、その被害者」
その言葉には、さすがに私も驚いた。同時に、はたと気づく。ちなみはこのマフラーを、いつ、どこで手に入れたのだろう。私はできるだけ、彼女を一人にさせないようにしている。ここ数日で彼女が一人、自由に動けた時間とは。思い当たる節は、二つあった。そのうちのひとつは、一昨日の夜。わだちが脱走した日のこと。けれどあの後家に戻ってきたちなみの手に、こんなマフラーが握られている様子はなかった。なら、思い当たるのは、もうひとつの――。
「ちなみまさかあなた、昨日遅刻したのって――」
「……まあ出処はね、おいといてですね!!」
目が泳いでいた。突っ込まれたくない。いいじゃんそんなこと。判りやすいくらいに、態度でそう言っている。私は、何も言わなかった。ただ、ため息を付いた。小林先生のお説教も、きっとその辺りが理由だったのだろう。同情する。小林先生に。
「と・に・か・く!! これで二人も判っただろ! こいつを手にしたあたしたちはもう、神隠し事件の殆どを解決してしまったも同然なのであるぞ!」
「……え?」
思わず声がこぼれる。
「……なんで?」
続けて相道さんが問いかける。私と相道さんの考えることが、再び一致する。いや、本当に、なんで。なんでそれで、解決したことに。疑問符を浮かべる私たち二人に向かって、ちなみは大げさに「ショックを受けましたー」とでもいいたげなポーズを取った。あまりにも演技臭いその行動に、ちょっとばかり苛立ちを覚える。
「何を言っているんだいきみたち、我々にはこころづよーい味方がいるじゃないか!」
そういってちなみは、私の側で大人しくしていたわだちを指差した。指を差されたわだちは舌をだして笑っている。彼女の基本とする表情だ。つまり、何を言われているのかさっぱりわかっていない顔。そんな平常運転なわだちに構わずちなみは、手の中のマフラーをずいっと勢いよく突き出した。握られてよれてしまった部分が、ふわっと元の形へと膨らんでいく。
「さあ嗅ぐのだわだち! 匂いを辿ってこの難事件の真相まであたしたちを導くのだー!」
ええ……。まさか、本気で? わだちは特別な訓練を受けさせたわけでもない、ごく一般的な飼い犬に過ぎないんだけど……。さすがに無理があると思う――そう言いかけようとした私を他所に、しかしわだちは思いの外真剣にマフラーの匂いを嗅ぎ始め、それから鼻先を空中に、次いで地面すれすれにまで近づけて、忙しくその黒い鼻を動かし始めた。そして彼女は本当に、何かを辿るように歩き出し始めてしまった。
「お、お、お! これはもしかして、もしかするともしかしてなのか! 正直期待してなかったけど!」
「……」
相道さんが絶句している。相道さんはいつもと変わらない無表情だけれど、たぶん私も、同じ顔をしている。
「いいぞわだち、さあ行くぞー! うははははー!」
言って、ちなみがわだちの後を追いかけだした。その速度は、意外と早い。放っておくわけにもいかず私は、相道さんの車椅子を押しながら二人の後を追った。
「少し、びっくりね」
「え?」
「わだち。私、無理だと思ったから」
「あ、うん」
「でも、考えてみれば嗅覚は鋭かったものね」
「うん……そう、だね」
「そうね、そう……嗅覚が鋭いと言えば――」
あくまでも彼女の基準ではあるけれど、相道さんは意外に饒舌だった。顔はいつもの無表情のままだったものの普段の彼女からは信じられないくらいに、彼女の口からは言葉が溢れてきた。少なくとも彼女から話しかけてくるなんて、それもこんな雑談のためにだなんて、本当に珍しいことだ。彼女自身が気づいているのかはわからない。でもそれは、けして悪いことではないように思えた。
けれど、それなのに、私は。
「あの、相道さん」
相道さんは振り向かない。
「その」
なだらかに形の良い後頭部を見つめる。私が呼びかけて以降、彼女からの返事はない。たぶん、私の言葉を待っている。でも、その言葉が、私の口からは中々出てこなかった。口にすることに勇気と、切っ掛けが必要だった。強い風が吹いた。川の音が一気に広がって、直後の一瞬、完全に静止した。私は、口を開いた。
「……どうして、参加する気になったの」
今朝方、連絡をよこしてきたのは、相道さんからだった。
「
相道さんの言葉は。
「多々波さんは、放っておいたら本当に一人で行ってしまう」
淀みなかった。
「側で見ていた方が、安心でしょう?」
用意していたセリフをそのまま、諳んじているかのように。
「……うん、うん。そうだね。私もそう思う」
けれど私は、それを受け入れた。受け入れて、納得したふりをした。
「そう。なら、早く追いかけましょう。たぶん多々波さん、気づいてないから。私たちを置いていっていること」
言われて私は、いつの間にか歩を止めてしまっていたことに気がついた。わだちもちなみも、気づけばずいぶん遠くまで離れてしまっている。慌てて歩を進める。
聞けなかった。本当に聞きたいのは、一度は断ったこの調査に相道さんが参加したこと、意見を翻したことについて――では、なかった。昨日の放課後、校舎裏で起こった出来事。
約束。名前の。
……やめよう。
あれはきっと、悪い夢だったんだ。だってどんなに日記を読み返しても、昨日のことなんて、校舎裏での出来事だなんて、そんな事実はどこにも書いていないのだから。だから、もう、相道さんから何も話さないのであれば、私も気にしないことに決めた。いや、夢であるなら、相道さんが話すなんてこと自体起こるはずもない。忘れていいことなんだ、忘れて。そうすれば、放っておけばいずれは夢の嫌な感触も、時間と共に消え失せていくはずから――。
『もしかしたら昨日の出来事が、あなたをここへ来させた要因になっているのではないの?』脳裏に浮かんだその言葉を、吐き出す前に嚥下して。
だから私は、彼女を押す。彼女が乗る、車椅子を押す。車椅子を押して、先を行くちなみとわだちのその背を追う。
四 アイ
「ねえあなた。あなたはお酒、苦手だったわよね」
店の奥から持ち出した『
「でも、今日は付き合ってね。一杯だけでいいからね」
『合輪転』とは双見の中心に位置する北と月の双子山、その接合点から流れ落ちる『背合わせの滝』――その背合わせの滝から麓へ届けられた水とその清水によって育てた米とを用いて醸造した、双見の地酒だ。その口当たりは重く、熱く、時勢に揺さぶられることなく自らを堅持してきた双見の風土を体現したかのような味と匂い、そして頑固さとをこの澄んだ透明の裡に湛えている。双見の人間は、好んでこれを本当によく呑む。
「私ね、また、お母さんになりそこねちゃった」
柑橘の果実。ヤ国の裡には元々ない、海を越えて伝来した外来のフルーツ。父の国から訪れたもの。私はそれを、かき混ぜる。『合輪転』へとかき混ぜる。双見の中へと、ヤ国の中へとかき混ぜる。
「やっぱり私、普通のやり方ではダメみたい」
混ざらない、混ざらない。どんなに回しても、どんなに揺さぶっても、溶け込んだと思ったその次の瞬間にはもう、それぞれはそれぞれへと分離している。それこそが元ある形、元ある姿とでもいうように。
ああ。
「でもね」
分離したそれを、彼と私の前のグラスに注ぐ。
「あなたは反対するかもしれないけれど」
分離したそれを、手の裡で撹拌する。
「私、諦めないから」
分離したそれに、私は口をつける。
「あなたの私を、諦めないから」
分離したそれを、一口に飲み干す。
「ねえ、あなた」
混じり合わないものを、私の中で無理矢理に溶け合わせる。
「ねえ、ダーリン――」
彼は、グラスに口をつけてはくれなかった。ただ、小さな小さな写真立ての中から、うすぼけた微笑を向けてくれているだけで。もうずっと、ずぅっと、変わらない表情のそのままで――。
「……あら?」
声が、聞こえた気がした。遠い声。一人のものじゃない。複数、それも、穏やかではない雰囲気。立ち上がり、締め切っていたカーテンを開く。果たしてそこには、一人走る男性がいた。長い間走り続けていたのだろう。その顔には疲弊の色が明らかで、着衣も無造作に乱れている。いや、走っているだけでああはならないかもしれない。よく見れば衣服そのものに、傷や破れが確かめられる。
「あら……でも、あの子」
一人走る男の子の違和感に気づいたのも束の間、彼のものではない複数の怒号の集合体、その主の群れが視界の隅へと入り込んできた。“東”から現れた斧や鍬や棍棒を構えるその暴徒の集団は、明らかに前方をひた走る男の子を標的にしている。走りながらも、大陸の言葉で口汚く罵っている。相当にお怒りのご様子だ。
でも、それはご法度。
見れば、お客として何度かうちに足を運んでくれた子もいる。前を走る男の子はともかく、彼らは知っているはずだろう。東と西の境界に位置するこの、『あんどろぎゅのす』の理を。東西両陣営の指導者が交わした協定によって、如何なる理由であろうと『あんどろぎゅのす』周辺での争いごとは厳禁と定められていることを。
男の子が、綺麗に転んだ。見事に、惚れ惚れするような勢いで。けれど彼を追いかける東の一団はその芸術的な転び方に感動する余裕もないようで、すぐさま彼に駆け寄り手に手に持った凶器で襲いかかろうとしている。転んだ彼はどこか痛めたのか、地面を這いずったまま中々起き上がれずにいた。絶体絶命だ。もう数瞬の後には、その身は身にまとう衣服以上にぼろぼろにされてしまうことだろう。それは、明白な未来だった。だというのに――。
彼は、笑っていた。
引きつった笑いではない。心からの、いまが楽しくて楽しくて仕方がないとでも言いたげな笑み。少なくとも、私の目からはそう見えた。まるで自分が酷い目に遭うなど、微塵も考えてはいないような。あるいは、何も知らない無垢な子供のような。
とはいえ、彼が何を思いそんな笑みを浮かべているのかは関係ない。私は『あんどろぎゅのす』の主。この状況を看過することは出来ない。黒澤組との間に設けた専用のラインに連絡を取ろうと、私は身を捩りかける。が、その動きは、途上で止まった。
私は、それを見た。
「あら、あらあらあら」
空を割り、天を駆ける“天狗”が一匹。特徴的に結わえた後ろ髪をなびかせ、人の大地に降り立った。“天狗”はそのまま倒れた男の子を守るように構え、ニ◯人はいるであろう東の暴徒と対峙する。不敵な笑みを湛えて。
相道の純くん。帰ってきたのね。ということは、そうか、あの倒れている彼が。
それにしても、と、私は思う。きっとしぃちゃんが喜ぶわね。それに、あの人も。あの人はたぶん、むすっとした顔でそれを認めないだろうけれど。
何れにせよ、私のやるべきは変わらない。私は彼に連絡を取ろうとして、その前に一度、店の内側に視線を向けた。私に向けられた、もはや色あせてしまったその微笑み。愛しいその人の眼差しに私は、零れだしてしまいそうなものを飲み込みながら、微笑み返した。
見ていて頂戴ね、ダーリン。
グラスの中身に、変化はなかった。
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