五~九

   五 下山おもや 

「ねえ、覚えていますか? あなたがもっとうんと小さかった頃、二人で間東のお屋敷で遊んだこと」

「……」

「そうですね、忘れて当然ですね。もうずいぶん昔のことですもの。でも、ボクは覚えてる。だってあなたってば、あんまりかわいかったのだもの」

「……」

「おねえちゃんおねえちゃんって、舌っ足らずにボクの後ろをついて回っていたあなた。忘れようにも、忘れられない思い出です」

「……」

「それにしても、あんなに小さかったあなたなのに、びっくりね」

「……」

「本当に、こんなに大きくなって」

「……」

「こうしていると、本当にそっくり」

「……」

「お母様に」

「…………」

 校舎裏。壁の影から、二人の話を盗み聞く――いや、話しているのは那雲崎先輩だけで、相道さんはずっと押し黙ったままだった。無表情に、でも、些か不機嫌そうな相道さんは、登校かばんを抱きしめてあらぬ方向に視線を向けている。そんな相道さんの様子を気にした風もなく、那雲崎先輩はなおも一人で話を続ける。

 盗み聞きだなんて本当は、よくないことなのかもしれない。二人で話したいと促した先輩は元より、それに応じた相道さんにとっても、聞かれたくないことがあったはずなのだ。だからこそ教室を離れたのだから。その秘密は、約束の場にいた私に対しても働いていることは間違いない。二人の間には、私にも聞かれたくない話があった。その望みをこんな卑怯な形で破ってしまうなんて、どう考えてもこれは、彼女たちの信用を裏切る行為だ。本当なら、やっちゃいけないことなのは明白だった。

 一度は帰ろうとしたのだ。先輩の話がどれくらい掛かるかは判らないけども、かばんを持っていったということは相道さんはそのまま迎えの色月さんと帰るつもりだろうし、ちなみにしてもいつもどってくるかはっきりしなかった。待っていても、意味はないと思った。それに、一人でただ待っていると、考えなくていいことまで考えてしまいそうだったから。教室を出て、そのまま下駄箱へ向かおうとして、なんとなく、本当になんの気もなく遠回りをして、生徒指導室の前を通ってみた。歪んで締まりきらない生徒指導室の扉から、中に誰かがいるのが見えた。ちなみが正座させられていた。

「あのな多々波たたなみ、私は何もお前が憎くて言ってるんじゃないんだよ。旧国軍区にはな、良くない噂が多いんだ。お前だって知ってるだろう、勝手に入っちゃいけないことくらい。それも学校をさぼって! 何もなかったからよかったものの、何かがあった後じゃ遅いんだぞ。そうだ。それにお前は、もうあそこには近づかないと約束したはずだよな。反省文にちゃんと書いてあったからな、覚えてるぞ先生は。なあ多々波、お前いま幾つだ。一ニか、一三か。いずれにせよ、もうなんにも知らない子供じゃないんだ。何が善くて、何が悪いか。お前にだって判るだろう。判ってくれよ」

 私の位置からは見えない誰かが、こんこんとちなみに説教をしていた。間違いなく、小林先生だろう。使い込まれた竹刀の先端が指揮棒のように、ちなみの頭上で舞っているのが見える。ちなみはたぶん限界をとうに超えたのであろう足の痺れに苦悶しながらも、頭上の凶器を上目遣いに追っていた。右へ、左へ。上へ、下へ。くるんくるんと回る竹刀の白い先端がその時、一際大きく彼方へぶれた。ちなみの視線も、そちらへ向かう。その先に見える、誰もいないはずの廊下まで視界に入る。けれどそこには、私がいた。目があった。ちなみは特に驚いた様子もなく、その目で私に問いかけてきた。

 すすぐは?

「余所見っ!」

 竹刀が床を叩くと同時、ちなみの身体が針のようにぴんっと緊張した。落ち着きかけていた小林先生の口調が、また荒々しいものへと変じている。竹刀の動きも激しい。けれどちなみの目には、その先端を追う余裕などなくなっていた。私は生徒指導室を後にした。生徒指導室を離れて、それで――相道さんを、探し始めた。

 相道さんは、孤立していた。この狭い双見のこと、小学校でも中学校でも、突き合わせる顔に変わりなんてない。大半の子たちは見知った顔馴染みと仲良くするし、よっぽどのことがなければ一度出来上がったグループから抜け出ることはしない。取り込むことも、またしない。相道さんは異物だった。進級し、新しいクラスに分けられた私たちは、形式的に自己紹介を行った。当たり前のように、誰もが誰もを知っていた――相道さんを除いて。

「相道すすぐです。よろしくお願いします」

 車椅子に座ったまま無機質に自分の番をこなした女の子。この女の子のことを知っている人は、教室内には一人もいなかった。彼女は初めから、仲間ではなかった。それでも最初のうちは物珍しさも手伝ってか、彼女の周りにも好奇心を抱いた人たちが群らがっていた。けれどそれも、わずかな間のこと。彼女はすぐに飽きられたし、なにより彼女自身が、そうした付き合いを拒む態度を取り続けていた。ただ異物であるということ以上に、彼女は浮いていた。ちなみだけが飽きることなく、相道さんに付きまとい続けていた。

 ちなみが相道さんのことを気にかけているのは、すぐに判った。きっとちなみの正義感が、放っておけなかったのだと思う。どんなに鬱陶しがられても、どんなに冷たくされても、ちなみは相道さんを一人にしなかった。ちなみは私の友達だった。友達で、訳あって同じ部屋を共有する、同居人でもあった。彼女に危険が及ぶことでないなら、できうる範囲で彼女の意に沿うことをしてあげたい――そう思う気持ちも、私の中には確かに存在していて。だから私は、探すことにしたのだ。那雲崎先輩に連れて行かれた相道さんを、一人にしないようにと思ったのだ。……いやそれも、本当はそれすらも、言い訳なのかも知れない。

 相道さん――間東、すすぐ……さん。

 内と外から私を包む、陽だまりの匂い。

 生きてていいを教えてくれた、私の神様。

 だけど、それも、いまは。

 私は、知りたかったのだと思う。陽光の笑顔が鉄の仮面へ、心のままに弾み跳ねる声が無駄を許さぬ電信へ、陽だまりの匂いが無機の無臭へ――どうして相道さんが、相道さんになってしまったのか。その変化の理由を、私は知りたかった。

 あるいは――。

「いい加減にしてもらえますか」

 鋭い声。一人で話し続けていた那雲崎先輩が、大きく振り上げた腕をそのままに、固まる。

「大事な用があると言われたから付いてきたんです、昔話をするためじゃない。用がないなら私、帰らせてもらいます」

「あ、ま、待って」

 相道さんの動きは素早かった。慣れた手付きで車椅子を操作すると、たちまち車輪は回りだし、彼女を乗せて車椅子が駆け出した。結構な勢いだった。慌てた先輩が小走りに追いかけ、車椅子の背部に備えられた取手をつかむ。衝撃を受けて、相道さんの身体が前傾する。

「離してください」

「もうちょっと、もうちょっとだけですから、ね?」

「なにがもうちょっとなのか判りません」

「もうちょっとで来るはずですから!」

「意味が判りません。離してください、帰ります――」

 先輩を引き剥がそうとする相道さん。その手が、止まった。相道さんが、固まった。固まって彼女は、一点を凝視していた。そこには、人がいた。長い後ろ髪をひとつに結った男子が、そこにいた。

「……ウロ?」

 相道さんのつぶやきが、私の下にまで届いた。そこにいたのは、ウロさんだった。下山のロゴが刺繍された作業衣。その作業衣を身にまとうウロさんがそこで、那雲崎先輩を睨んでいた。睨んで、何も言わずに、歩きだした。乱暴な足取りで、相道さんに――那雲崎先輩に近寄った。

「あ、あの、相道ウロ……?」

 先輩は、見るからに狼狽えていた。両手を突き出して、ウロさんを静止するような格好を取った。

「待ってください、ボクの話を――」

 ウロさんは止まらなかった。止まらず、無言で、相道さんの隣を通り過ぎ、那雲崎先輩の前に立ち、そして――その瞬間、空から何かが、降ってきた。

「……え?」

 すべてが、一瞬の出来事だった。相道さんの身体が、左右に分かれていた。彼女が抱えるかばんも、車椅子も、全部、全部が、真っ二つになっていた。なに――と、思う間もなかった。相道さんは、確かにその時、両断されていた。その断面が、断面から覗く彼女の内側が、普段は隠された人間の内部で働く諸々のものたちが可視化できてしまうほどに、彼女はいま、紛れもなく、切断されていた。

「…………わた、し」

 切断された相道さんが、自分自身の身体を抱きしめた。ふたつに分かれた身体が離れてしまわないように、押さえつけるかのように。そして、彼女の身体はその行動通り、分かれて倒れてしまうことはなかった。そもそも、傷など、どこにも見当たらなかった。相道さんは、斬られてなどいなかった。彼女は無事だった。

 幻覚? そんな、まさか。だって私は現に、彼女の身体が二つにされた瞬間を見たのだ。相道さん自身も、私と同じものを感じたから自分を抱きしめている。なら、これは、どういうこと?

「……身につけた技、それに至るまでの凝」

 彼女の前に、何かが座っていた。

「体捌きで判る。貴様が貴様自身に課した修練の日々、それは称賛するに能うものである。だが――」

 傍らの杖を、まるで“刀”でも振るうかのように携えて。

「子天狗よ、貴様には覚悟が足りん」

 刀のような杖で地面を突き、それは立ち上がった。

「力なき覚悟なれば、まだしも良い。だが、覚悟なき力に光輝はない」

 腕も足も、身体も、そのどれもがひょろりと細長いそれ。異様な、人間離れした姿。怪人。怪人という言葉が、浮かんだ。それは明らかに、普通の人とは違っていた。細長い怪人。けれどそれが本当に目を引くのはその細長さではなく、細長さの上に乗っかった、その天辺。

「貴様はいま、己以上を失った」

 頭に当たる部分に、包帯が巻かれていた。何重にも何重にも、目を除く肌のすべてを覆い隠すように、長くきつく厳重に包帯が巻かれていた。唯一露出した瞳が、目の前にあるものを見下ろしていた。

「ハザマ!」

 那雲崎先輩が、包帯の怪人をつかんだ。怪人は先輩に視線を向けた後、先輩の後ろへと一歩引いた。怪人という壁を失った先輩が、再び相道さんの前へと躍り出る。

「脅すつもりはなかったのです、本当に。でも、ボクは……」

 言葉は続かなかった。背中を丸めた先輩は、困ったように眉根を寄せて、しばらく胸の前で両手の指をもじもじと絡めていた。けれど何かに気づいたように口を開けると、今度は大げさな身振りをつけながら、背筋を伸ばした。

「今度は楽しく、お茶でもしましょうね!」

 言って、先輩は、相道さんではなくウロさんを見た。ウロさんは、先輩を見てはいなかった。それをどの様に取ったのか、先輩は一度大きく頷いてから、背中を向けてその場を離れていった。包帯の怪人は、知らぬ間にその姿を消していた。後には相道さんと、ウロさんだけが残されていた。

 ウロさんは、左の手首を押さえていた。強く、手の先を白く変色させる程に強い力を込めている彼を見て、私は気づく。相道さんの前に立っていたはずのウロさんが、いつの間にか相道さんから少し離れた場所へと移動していたことに。それがどんな理由に寄るものか、私には判らない。ただ、自身の手首を見つめて凍りつくウロさんが尋常でないことだけは、判った。血の循環を失った手首はいよいよ持って色を失い、そのままぽろりと取れてしまいそうな程であったのに、それでもウロさんは握る力に一切の加減を加えようとはしなかった。

 それが、私には、怖かった。

「ウロ」

 相道さんが、ウロさんの側にいた。ウロさんが、相道さんを見た。相道さんは、かばんを振り上げていた。無表情の、いつもの鉄仮面のまま。

(いや)

 身を、乗り出していた。でも、そんなことに、何の意味もなかった。かばんは振り下ろされた。ウロさんの、顔に向かって。

「赦さない」

 ウロさんが、ひざをついた。

(いやだ)

「赦さないから」

 かばんがまた、振り下ろされた。

(やめて)

「絶対に赦さないから」

 ウロさんの頭が、衝撃で揺れた。

(どうして)

「何があっても」

 赤いものが、宙空を舞った。

(どうしてこんなこと)

「私は」

 殴打の音に、終わりはなかった。

(自慢のお兄ちゃんじゃなかったの)

「あなたを」

 崩壊に、終わりはなかった。

(思い出させてあげるのではなかったの)

「あなたを――」


 ――神様。


 私は、知りたかった。陽光の笑顔が鉄の仮面へ、心のままに弾み跳ねる声が無駄を許さぬ電信へ、陽だまりの匂いが無機の無臭へ――どうして相道さんが相道さんになってしまったのか。その変化の理由を、私は知りたかった。

 あるいは――あるいは私は、信じたかっただけなのかもしれない。本当は何も、変わってなんかいないのだと。五年前のあの時から、変わったものなんて何ひとつないのだと。相道さんとすすぐに違いなんてないのだと、そう、違わないことを、確かめたかっただけなのかもしれない。

 交わした約束は、いまもまだ続いたままなのだと。

 生きてていいを、信じていいのだと――。


「すすぐちゃん!」

 壊れた空間に、壊れていない何かが入り込んできた。何かは相道さんへと駆け寄ると、かばんを振り上げた彼女を抱きしめた。

「しづき、さ――」

 抱きしめられた相道さんの手から、かばんが離れた。土埃が、車椅子の車輪を汚す。力を失った彼女は抱かれるままに、現れた何かにもたれかかった。もたれて、そして、目を閉じた。目を閉じて、そのまま、微動だにしなくなった。何かは、動きを止めた相道さんを抱きしめ続けていた。何か――相道さんのもう一人のお兄さんである色月さんは、相道さんを抱きしめて、何事かささやいていた。私には聞こえなかった。聞きたいとも思わなかった。

 私はその場から離れた。


「おもや!」

 下駄箱で、ちなみに声をかけられた。足を震わせたちなみは開口一番、相道さんのことを尋ねてきた。私はただ、「なにもなかったよ」とだけ、答えた。


   六 平太

 北東ヤ国でも辺境にある過疎地の農村で、わしは生まれた。わしは長男だった。一家の承継を期待されて産み落とされたわしはしかし、生まれながらの不具者であった。膝が鉄の棒のように固まったまま曲がらず、まともに直立することもできなかったのである。父や母、特に母は、わしをなんとか健常にもどそうと苦心したそうだが、結果は芳しくなかった。膝の異常は、却って悪化した。そのうちに、母はわしを見ようともしなくなった。

 それでもわしは、長男だった。家は貧しく家族の誰もが飢えていたというのに、すでに働き手として田畑に出ていた弟や妹よりも、長男であるわしに用意される食事の量は多かった。弟や妹たちは文句を許されぬ環境において、態度と視線でわしを責めた。飯などいらぬと抵抗したこともあった。だが、顔を合わせぬ母は耳をも閉じ、淡々と用意した飯をわしの前へと出し続けた。弟や妹たちに譲ろうとしたらわしではなく、弟や妹たちが叱られた。長い間放置し、異臭を放ちだした飯を、わしは食った。腹を壊し、腹を壊したことで起こる諸々の、その対処にすら家族の世話を必要とした。弟や妹たちは、言われるがままに働いていた。

 その年の夏は、例年にない寒波が訪れていた。我が家の田畑も寒波の影響を直に受け、元々貧しかった所にさらなる打撃を受けた。もはや家族全員の飯を自前で賄うことは、不可能だった。影響は村落全体が受けていたために、隣人の助けも期待はできなかった。人を減らす他、なかった。

 決断は、ぎりぎりまで定まらなかったそうだ。父は初めから、わしを捨てようと考えていた。しかし母は、一番下の妹こそ要らぬ者だと主張していた。父と母の意見は、最後まで融和することはなかった。最終的には家長の決定という独断で、わしの処分が決まった。いずれにせよその決定に、わしの意思など微塵も関与してはいなかった。母は泣いていた。泣いていたが、わしの顔を見ようとはしなかった。ただの一言も、わしへの言葉はなかった。

 わしは、他所の町へ売られることとなった。その場での屠殺、あるいは山か何かに置き去りにされるよりはまだ良かったのかも知れない。それが新薬開発のための、被検体としての扱いであったとしても。わしの生命は、家族が一日を生き長らえるのと同等の値段で売られた。この時、わしは密かに喜んでいた。ああ、これでわしも、最後の最後には家族の役に立つことができたのだなぁ、と。故にわしを運ぶ荷馬車が襲撃された際に真っ先に思ったのは、契約破棄により父のてのひらに投げられたあの数枚の貨幣が奪われやしないか、ということだった。あの貨幣が奪われるということは即ち、わしにはあの貨幣分の価値すら無いということを意味していたから。

 御者の首を刈ったその匕首が、わしの喉元へと突きつけられた。荷馬車を襲った男たちが怒鳴るように会話をする中で、わしは泣いた。死ぬことは怖くなかった。ただ、惨めであった。惨めで、情けなくて、腹が立った。不甲斐ない自分に腹が立ってしょうがなかった。生まれてこの方、ただ迷惑をかけることしかしてこなかった自分が、ただのひとつの恩返しすら貫徹できないであろうことに悔しさがこみ上げて、こみ上げて、わしは泣いた。生まれて初めて泣いた。声を上げて泣いた。

「うるせえ」

 顔面を殴られても、わしは泣き止まなかった。暴力では止められなかった。死んでもよかった。むしろ、死にたかった。死んで侘びたかった。もしできるならば、生まれる前の自分を殺したかった。もう一度殴られた。先程よりも強い力だった。頭がくらりとして、視界がぼやけた。ぼやけた視界の中でもわしは、まだ泣いていた。わしを殴った男が罵声を浴びせ、匕首を振り上げたのが見えた。これで終わりだ。ようやく。そう思うと、少しだけ気が楽になった。だが、終わりは、来なかった。

「なんだ、てめ――」

 わしの目の前で、男が吹き飛んだ。ぼやけた視界に、何かが揺蕩っていた。男たちが、その何かに飛びかかる。しかし叩き伏せられたのは、何かの方ではなかった。視界は相変わらず不明瞭で、何もかもが溶け合わさったかのように不自然であったが、けれどわしは、然とこの目でそれを見た。一斉に襲いかかった男たちを、一人、一人、目にも留まらぬ早業で打ち倒した、何かの姿を。すべてが一撃であった。わしにとって“死”そのものであった男たちが、一撃のもとに下されていた。それは、力であった。これまでわしが想像すらしたこともない力であり、奇跡であった。

 神の技であった。

「お前、名は」

 何かが――その人が、わしの手を取った。

「……どうすればいいんじゃ」

 握る手に、力を込めた。

「どうすれば、そんなに強くなれるんじゃ」

 わしはまだ、泣き止んではいなかった。

「どうすれば、人を守れるんじゃ」

 むしろ涙は、いよいよ眼球をしぼませるほどに流れ出た。

「どうすれば、どうすれば、わしは――」

 枯れた喉は吐き出す言葉を支えさせたが、そんなことを気にする余裕などなかった。

「あんたみたいになれるんじゃ――――」

 わしは、その人の手を握りしめ続けた。その人は、わしの手を離さずにいてくれた。


 その日わしは、弟子入りをした。双見の武術家、相道太大たいだいの下に、弟子入りをした。


   七 黒澤太平太

 稽古場の中心で、わしは拝む。いまはなき師に向かって。わしを鍛え育ててくれた、場であり気であり相道そのものである、太大師匠その人に向かって。先天の不具で生涯土を踏みしめることはないと思い込んでいたこの足。いまこの足で直立できていることも、ただの平太であったわしが黒澤太平太たいへいたとしてこの双見の守護に尽力してこれたのも、あなたのお陰です。

 何十年経とうと、例え死したその後であろうとこの恩は、返すに返しきれない程に大きく無辺なものでありました。せめてもとあなたの愛した双見のために闘い続けてこられたわしは、おそらく幸せ者だったのでありましょう。あなたから教わり、あなたから学んだ相道の技がわしを生かし、導き、不遜であるとは知りつつも、その末に双見の力になれたものとも自負しております。あなたと出会い、あなたに拾って頂けたことには、感謝の一意しかございません。

 ――ですが。

 双見はいま、転換期を迎えようとしております。いえ、双見だけでなく、この八百人やおとの国――ヤ国全体もおそらくはまた、同様に。先の大戦において敗北し、四辺に分断された後それぞれ別の国家として植民支配を受けてきた我が国の、その戒めが解かれ始めているからこその混乱が、双見へも波及しようとしているのです。大陸から渡ってきた東の移民。彼らとの共生という、目下の問題も含めて。

 戦後双見は、ア国進駐軍の厳しい施政下にあって、比較的に豊かで平和な時を過ごしてこれました。それは八重畑代議士の神謀も然ることながら、わしの存在という影響も少なくはなかったものと思います。うぬぼれかもしれません。ですが、愚かなわし一人の呆けたうぬぼれであったならば、どれ程救われたことか。わしの起こした黒澤組は双見という町を越え、北東ヤ国全体にその存在感を示しました。当時頻発していた在留異人との諍いも、時に起こった進駐軍との衝突にも、我々は一歩も引き下がりはしなかった。時に敗北を喫しようとも、最後には必ず勝利をつかんだ。こうして闘い、勝ち続ける我々を前に、ある風潮が形作られていきました。“双見とは即ち、黒澤組である”という風潮が。双見の裡にも外にも通じるその声は、しかしそこで留まらず、原点への言及へと集約されてゆきました。つまり、双見とは即ち黒澤組であり、黒澤組とは、即ち――。

 わしにとって相道とは、即ち師よ、あなたのことです。あなたは偉大であった。強く、厳しく、己が相応に熟達されていた。それに比して、わしはどうか。そう遠くない未来、次世代へと襷を繋がなければならぬ身にある、老いた首魁のこのわしは。わしが築いたこの責を、如何にすればつつがなく受け渡せるものか。黒澤組組長というこの負債を双見から、如何にすれば取り除けるものか。

 師よ。わしは双見を守るつもりで、そこに内在していたはずの力を奪ってしまったのやもしれません。自らの足で直立する、己が力を。そして――それが故の犠牲を、わしはあの時、認めてしまった。『』なる災禍の、その前で。

 腹を空かせてわしを睨む、幼き弟や妹たち。彼らに、次の世代の子供らにあのような目をさせないために、己で生きてきた以上を知らぬこのわしが、いったい何をしてやれるものか。わしには未だ、答えが出せずにいるのです。

 師よ――。

 風を、感じた。耳を澄ませども判らぬ程の微かな風に、祈りの言葉が遮断される。それは、ずっと遠くより飛来したものだろう。だが、気づいた時にはそれはもう、我が耳元にまで迫り来ていた。頚と肩に、力を込める。予期したものの、それをわずかに上回る衝撃が、身体の芯へと響いた。が、揺らぐ程ではない。蹴り込まれた風の足をつかむ――べく伸ばした我が手が、空を切った。風はその流れのまま空中で身を捩り、器用に我が手を逃れる。風の地面に触れる音が、稽古場全体へと軽やかに注がれた。

「中々良い奇襲じゃ……ウロよ。それでこそ相道の名を冠する者」

 風――風の申し子たるウロが、後部で結った髪を“天狗”のように揺らす。

「じゃが、主が相対するは黒澤組の太平太」

 全身を柔軟させながら、されど瞬間を逃さぬよう気を張り詰める。

「この程度の微風で倒れるほど、柔な根の張り方はしておらぬ」

 まるで、彼奴を真似るように。

「わしを倒したくば、正面からぶつかれい!」

 風となったウロが飛び出した。早い。掌底を突き出す。滑るように身を屈めた風が、膝の裏を打つ。痺れが走る。が、然程のことでない。蹴られた足を軸に腰を回し、蹴りを合わせる。その蹴りに、風が乗る。狙いは逆関節か。

「……おぉ!」

 気にせず足を振り切る。勢いに負けた風が、剥がれ落ちた。ウロのまだ少年そのものの身体が、ごろごろと畳の上を転がる。それを追いかけ、掌底――が、空振り。畳がひしぐ。ウロはすでに、飛んでいた。振り下ろしたわしの腕をつかみ、両の足で我が頚を挟みながら、極めると共に投げようとしていた。足の指の先で、地面を噛む。極められかけた関節を、強引に曲げて脱する。脱し、流れる風に手を伸ばす。しかし風はなおも止まず、むしろ裡へと向かって吹き荒れ、前傾するわしの懐へと潜り込み、その身に置いて最も広く、最も大きな部位を――その背を無防備なわしの腹へと押し当て、そしてそのまま、固く漲らせた後背に、己が待ちうる気のすべてを集中させ――。……だがその先には、なにもなかった。

 ひじを折りたたんだ不格好な状態から、ウロの首元へ手刀を下ろす。ウロの身体が、地面に伏した。

きいとなら……」

 身体を起こしながら、ウロがつぶやいた。力が入らないらしく、立ち上がるどころか上半身を起こすことにすら苦心している。それでもなんとか片膝を付くまでに意地を見せたウロに、わしは手を差し出した。

「黒澤太平太」

 差し出された手をつかむことはせぬまま、ウロがわしを見上げた。

「あんたはかつて、在留異人や移民、時には進駐軍とも戦ってきたと聞いた」

 事実であった。

「戦いの中で、他者を殺めたこともあると」

 それもまた、事実。

「後悔したことは……ないか」

「ない」

 そして、これもまた。

「もしもう一度同じ状況に置かれようとも、わしは必ず同じことを繰り返す」

 わしは確信を持って応えた。何故ならわしはそれしか知らず、他には何も求めなかったから。わしは双見を守りたかった。そしてわしに取って守るとは、戦うことだった。そのこと自体に、後悔などあろうはずもなかった。だが――。

「ウロよ、お主は強い。その歳でお主程に完成している者など、ヤ国全体を見渡そうとそうはおらぬだろう。今後も鍛え続けてゆけば、更に強くなることは必定じゃ」

 もっと別の方法を知っていたならば、その時わしは、どうしたものか。

「ウロよ、何を急く。お主はまだまだ子供なのだ。身に余る煩わしさなど大人にくれて、好きに遊ぶが当然の時分なのじゃぞ」

 何か他のより善きものを、次世代の子らに残せてやれたのか。

「ウロよ」

「……組手、助かった。また頼む」

 訪れた時と同じ様に、風のようにウロは去っていった。再び一人となったわしは、頓挫した思考の羅列に、再び惑う。相道。相道の技。双見の未来。黒澤組。子供たち。戦うことしか知らぬわしに、残されたるはなんであろうか。師よ、太大よ、賢きあなたはどう思われる。

 どう思う。なぁ、戒厳かいげんよ――。


   八 相道すすぐ

 肉片が跳ぶ。大小無数の肉片が。千切れた悲鳴、吹き出す鮮血と共に、暗闇を乱れ跳ぶ。

 逃げなければ。

 逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ。

 車輪を回す。必死になって車輪を回す。けれども車輪の回りは異様に鈍く、肉を刻み叩き潰す音から離れるどころか、次第次第とその大きさを肥大化してゆく。それでも私は、車輪を回す。為す術など、他にはないから。私は逃げる。追いつかれれば終わりであると、心の底から知っていたから。

 背後からぶちりと、背筋を凍らす音が聞こえた。私の前に、重たい何かが飛んできた。ごろりごろろと転がるそれは、私の前を回り続けて、やがて止まって私に向いた。

 首だけの犬が、私を見ていた。

 バランスを崩した。車椅子から転げた。地面に擦れて、皮膚が裂けた。血が流れた。流れた血が、犬を呑んだ。

 下半身に、衝撃を受けた。追う者が、私の足に鋭い刃を、鈍い鈍器を挿し込んでいた。刻んで、叩いて、潰された。潰れた両足は、左か右か、どちらがどちらであったかも判らなくなった。痛みはなかった。喪失感はあった。叫ぼうとした。叫べなかった。声がでなかった。追う者は、なおも私を叩き続けた。意思も、心も、顔もなく、ただ機械的に私の破壊を繰り返していた。そしてそれは――私であった。

 私が私を叩いていた。けれど叩かれている私は、私ではなかった。叩かれている私は、少年だった。少年は、犬だった。犬は、生首だった。血溜まりに転がる犬の生首は――ウロだった。

 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。私は私に抵抗する。けれど私は私を無視して、機械的に無表情に、ただただウロを嬲りゆく。歯が折れ、鼻が削げ、目が潰れて眼球だったものがそのままくぼみへ落ちても、私はウロを嬲り続けた。悦びはなかった。痛みもなかった。喪失感はあった。その喪失感が、私を捉えた。私は逃げたかった。けれど逃げてはいけないと、誰かがささやいた。逃げてはいけないと、私がささやいた。私は逃げてはならなかった。だってそれが、罰であるから。


 苦しめ。


「すすぐちゃん!」


 気がつけばそこに、色月さんがいた。色月さんに、抱きしめられていた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ……」

 色月さんは、震えていた。

「きみはちゃんと、ここにいるから――」

 色月さんは、泣いていた。泣けない私のその代わりに、私の涙を流してくれていた。『泣いているのは、ぼくじゃない』。ふっと、心の安らいだのが判った。この人のお陰だった。この人がいるから未だに私は、相道すすぐを保てていた。笑うことも、怒ることも、泣くことも禁じられた私がいま尚こうして当たり前のような顔で生きていられるのは、この人がいてくれたから。この人がいたから。

 色月さん。色月さん。私の涙。

 甘えるように、抱きしめ返した。彼の頬に、私の髪がこすれた。彼の身体が震えた。小さく呻いたのが聞こえた。身体を離して、彼を見る。暗がりの中でも、彼の頬が青く腫れているのが見えた。暴力の痕だと、すぐに判った。

「苦しんでいるのは、母さんだから」

 色月さんは当然のように、私の心を読む。

「でも……」

「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。怒ることなんて、ひとつもないのだから」

「色月さん……」

「だから、だいじょうぶ。安心して、いいんだから、ね――」

「……色月さん?」

 色月さんが、私にもたれかかってきた。避けるわけにもいかず、起こした上半身だけで彼を支える。軽い、羽のような身体。彼を呼んだ。返事はなかった。色月さんは、眠っていた。どこか苦しそうな寝息を立てて、眠っていた。私は自分がしてもらったように、彼の身体を抱きしめた。なんだかそのまま、二度と離れずくっついてしまうような、そんな気がした。そんなはず、あるわけないのに。

 外はもう、夜半に入っているようだった。

 ウロのことが、気になった。

 腕の中の涙を抱きしめ、考えないようにした。


   九 八重畑丑義

「そうですか、彼が双見に」

 受話器から通して得た情報を、反復する。

「なればもう、振られた賽を取り除くこともないでしょう。彼も、あの影の子も。求めるところが同じであるなら」

 それが彼らの、人の、持ちて生まれし業なのだから。求めたるを求める、人が習性の故の。例外はない。情念を失した私のような者であろうと、彼であろうと、その業から外れることはない。しかし彼は、気づいているのだろうか。

「そのための私であり、あなただ。私の仕事はもはや、唯一つを残すのみとなってしまいましたが」

 自らの声が平素に比べ、上気していることに。

「あなたが世辞など、珍しいこともあるものだ。凶事の前触れでなければよいのですがね」

 僅かな変化だ。おそらく気づいてはおるまい。いわんや、彼であれば尚更に。

「ええ、ええ……無論です。可視の可視なるを見通すことしか出来ぬ尋常の身、先の事など判りはしない。なればこそ、手抜かりなきよう努み励める。そしてそれは、あなたも同じ。故にこそ、私はあなたを信用している」

 それが吉と出るか、凶と出るか。『息重そくえ』ならざる我が身に判ろうはずもない。私にできることは、行うを行うことのみ。そして私はもはや、決したのだ。

「では後のこと、宜しく願います。期待しておりますよ、同士」

 受話器を下ろす。目の前では、輪郭のおぼろげな兄が私を睨んでいた。触れ得ざる幻像。いつしか私の前に現れだした、無量の亡霊が一。私は兄を無視して、寝室へと向かった。政の師、知障であった一番上の兄、気の触れた妻、亡霊たちが、触れるでもなく、祟るでもなく、それぞれ各所に佇んでいる。

 霊素の映ずる幻――いや、過去からの投影か。那雲崎くんは以前、霊素を万物の記録装置と評していた。なれば目の前のこの亡霊は、私という観測者を通じて投影された過去の再現――繰り返しであるのやもしれない。『廻り、なぞり、重なり弾け、また廻る』。この町で口伝される伝承の、その一節。なるほど、霊素の本質とは、つまりはそういうことなのだろう。軽度の『霊触症れいしょくしょう』を患う私であるからこそ直面した、これも症状のひとつであるのかも知れない。いずれにせよ、私にとっては不必要なものたちだ。祓うまでもなく、我が歩の前に亡霊共は退いた。抵抗はなかった。鬱陶しいと思うこともなかった。

 弟子の弟子を称していた男の影が、揺れて消えた。その奥に控えていたのは、娘のやすなであった。特別な情動はない。霧が如き他のそれ同様、突き抜けようとする。が、その歩が止まる。霧のやすなが、庭に向かって指を差していた。どことなく意思を、現実に対する認識を有するような雰囲気を漂わせて。珍しい現象であった。無視はできなかった。差異とは物事に変化が訪れる際に仄見える黙示であると、経験的に知っていたから。霧のやすなが示す先を、私は見た。


 少年がいた。


「……そうですか、君が」

 どうやらしるしは、己が役割を全うしたらしい。であるならばいまこの瞬間が、私の最後となるか。去来するものが、ないではなかった。しかしそれに浸るような感慨も同様に見られなかった。歓喜も、憂いも。少なくとも自覚する限りにおいて、私は平生であった。故に私は、見て取った。少年の、握りしめたその拳が、微かに震えていたのを。

「相道ウロくん」

 少年の肩が、目に見えて強張った。気にしていないという態度を示しつつ、縁側に腰を下ろす。

「盆栽、というものを知っていますか」

 少年に反応はない。

「盆栽とは植物の育つを用い、箱庭の裡に小さな世界を形成する娯楽です。これは我が師よりの受け売りですが、盆栽において何より重要な行程は剪定にあるそうです」

 結局私は、師の意に沿いませんでしたが。加え、話を続ける。

「剪定とは即ち切り捨てること。不要の排除です。世界とは整えることによって初めて世界たりえる。切るべきは切らねばならない。それが如何に惜しくみえようと、残酷に感じられようと、枝の為に幹を腐らせたるは愚者の感傷に過ぎぬのです。判りますね?」

 思えば師は、切り捨てることの下手な者であった。

「世界とは存外脆いものなのです。ですが同時に、その根は深き底まで潜り込むもの。箱庭の裡で育つ植物は、その箱庭を超えては生きられない。箱庭の崩壊とはそこに宿る者の死をも意味する。つまり存在の在り方とは、世界の在り方によって規定されるものなのです」

 師だけではなく、殆ど多くの者がそうであると、私には感じられた。

「盆栽に限った話ではありません。人も同じ。人が世界――社会を作るのではなく、社会が人を作るのです。社会が人を規定するのです。自らの考えで行動しているつもりの人間であろうと、思考の土台が社会に由来したものである以上、例え反抗心からの行動であってもそれは、社会の要請に従っていると同義なのです。自由意志というものの正体など、概ねそのような錯覚に過ぎません。人は社会という構造に支配されて初めて、人として機能しだすのです。そこに完全なる自由はありません。――ですがそれは、福音であるともいえます」

 故に、切り捨てることのできる者が、切り捨てなければならなかった。

「社会とは歴史であり、文化であり、言語であり、血統であり、種として分化されるに至った進化の系譜そのものであるといえるものです。そしてその系譜に従って形成される民族、国家、地域、村落、家族という単位もまた、社会。意味も価値も、それらの社会から与えられるもの――あるいは社会に由来する個人が、社会を背景に見出すもの。社会における役割も、また同様。生きること、死ぬこと、循環すること。不要と断じて切ることも、不要と断じられ切られることも、自覚の有無を問わずそれは、社会要請への帰伏に過ぎない。つまり――」

 社会を――世界を、存続させるためには。

「あなたの責は、あなたにない」

 少年の身体が、微かに震えた。

「相道ウロくん、よく考えて御覧なさい。あなたにとっての社会とは、あなたの社会の幹とはなんですか。そしていま、あなたの社会を腐らせかねぬ不要な枝とは、いったいなんでしょうか」

 彼の息遣いが、変わった。

「その躊躇いは、本当にあなたのものですか」

「あんたは――」

 少年の目が、今宵初めて私を捉えた。

「“死にたがり”か……?」

「然り」


 早逝した父の跡を継いだ長男は、軽度の知的障害を患っていた。彼の治世で家の維持が不可能であることは、誰の目から見ても明白だった。家の中では長男を引きずり下ろし、聡明で知見の深い次兄を担ぎ上げようとする勢力が台頭していた。次兄は歳の離れた私に、父も母も、他のどの兄も期待を寄せなかった末弟の私に学問を施してくれた人であった。が、次兄は野心が強く、心奥には常に嫉妬心を抱える人でもあった。父が存命であった頃から長兄に取って代わることを望み、そのためであれば家を崩落させることも厭わない様子を見せていた。それは、家という社会にとって害をもたらす行為といえた。故に私は次兄を、“社会的に“陥れた。事を起こしてより一週間後、次兄は首をくくった。次兄を担ぎ上げようとしていた勢力は霧散した。秩序は保たれ、構築したシステムによって家は、知障の兄を掲げたままでも問題なく機能するようになった。私がそこにいる必要もなくなった。

 崩れかけた豪農家の再生。その噂を聞きつけた若い政治家が、私の下へ訪れてきた。私は彼を師として中央へ出で、政治を学んだ。師の娘を妻として娶り、政治の世界を生きる場とした。しかし師はその政治理念において、次第に暴走的な側面を見せ始めた。師は、好戦論者であった。世界大戦、海を遠く隔てた列強のア国。敗北は必定であった。果たしてヤ国は国の中枢たる中央へと『霊爆れいばく』を落とされ、国を四辺に引き裂かれる無残な敗北を喫した。想定の通りであった。係る敗戦の後、師や妻の出生地であるこの双見を拠点と据えた私は師を戦犯者として、ア国進駐軍に引き渡した。覚えを目出度くされた私はそれにより、進駐軍との間の取引を有利に組むことができた。師は処刑された。師を切り捨てることで、私は社会を維持した。

 次兄、それに師。他にも無数の者たちを、私は切り捨ててきた。そしてこれが、その終局。最後に切り捨てるのは、己自身。順番だ。私の番が来ただけだ。これはつまり、ただそれだけのことに過ぎなかった。私はやはり、と思った。想像していた通り、歓喜も憂いも、そこにはなかった。切り捨てるという行いに、社会の存続に、感慨を覚えることは結局なかった――。



 まずは、一人目。






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