一章

一~四

   一

 繰り返し。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し。汎ゆるものは、ただの繰り返しの産物に過ぎない。感情も、生命も、繁栄も――そして、滅びも。すべて、すべてが、無機で無価値な数値と言語に結ばれた幾千幾万と幾々繰り返される現象の転変に過ぎない。そして繰り返しは、尚また幾々繰り返されゆく。もしそれが幸福の国、楽園の実現であるならば、まだしも救いはあったろう。だが、現実はどうだ。この有り様はどうだ。私は現実を感じた。この身に在りて、現実を現実として然と感じ取った。在らざる者であるはずの私が、有り得べからざる結果を受けたのだ。結果。“我々”が生み出した、過程に等しき継続を包する結果。もしこれが、こんなものが我々の生じた理由であるというのならば、我々は、私は、一体何のためにここに在るというのか。感情は、生命は、繁栄は――そして、滅びは、一体、何のために。こんなことならば、私など、初めから――。

 だが、私は既に任された。任され、そして、それを果たすと決めたのだ。故に私は結を留する。自らによって解せぬ問を眼前に控え、故に私は問いかける。未だあどけなさをその面に残す、目の前の少年に向かって。いま正に我が身を屠らんと強張る、殺人者に向けて。

 そうだ、ひとよ、うろびとよ。我が半身の片割れよ。

 汝が蘊は、いまはいづこか――――。


   ニ 那雲崎しるし

 本当にいた、本当に。お祖父様の言っていた通りに。

「ねえハザマ、本当にいたよ、ハザマ」

 杖を握る彼の袖を引っ張っても、ハザマは彼らに視線を向けたまま無言でいる。顔に巻いた包帯の端切れを、打ち付ける風にそよがせたままで。ボクもハザマに倣って、彼らに視線を向け直す。本当にいた、男の子。男の子が、二人。こんな夜中の、山の中に。ボクがいる場所からでは見えないけれど、彼らの位置からは双見ふたみの西が一望できるはずだ。その景色が広々として心地よいものであることを、ボクは知っている。けれど彼らはいま、麓の双見を見てはいなかった。彼らが見ているのは地面――と、半分に割れた月の浮かぶ、紺色に染まった空。背中を向けた二人の男の子は、一人は地を、一人が空を見つめていた。

「ウロくん」

 空を見つめる男の子が、声を発した。

「いづち、何か言っていた?」

 男の子――相道色月あいどう しづき。事前に聞いていたから知っているけれども、もし聞いていなければ女の子と思ったかも知れないくらいに柔らかく、それ以上に繊細さを感じさせる声音で言葉を発する、相道色月。彼の問いかけにウロくん――相道ウロは、しかし答えはしなかった。

「どうして付いてきた」

 刺々しい、批難を顕とした口調。

「……苦しんでしまうと、思ったから」

「お前がか」

 相道色月の首に巻かれた赤く使い古されたマフラーが、強い風にはためく。その手に握られた青い、暗闇にぼうっと浮かぶその青いマフラーも、同じように。

「苦しんでいるのはぼくじゃないよ、ウロくん」

「……黙れ」

 ウロが立ち上がる。立ち上がって、色月と対峙する。色月のマフラーがはためいたように、後頭部で縛られたウロの髪も風に煽られていた。揺れて、揺れて、それだけがあって、彼らの間に、それ以上の言葉はなかった。先に顔を逸したのは、ウロだった。ウロは色月から離れ、そのまま山を降りるつもりでいるらしかった。

 それは、とても、まずい。

 悠長に眺めている場合ではなかった。目的を果たすために、お父様のために、その為にボクは、ここへ来たのだから。でもボクは、一人だけと聞いたのだ。ここにいるのは一人だけだって。話を持ちかけるのは、一人。彼以外の者がいるのに話をしていいものか、聞かれてもいいものなのか。ハザマを見上げる。ハザマは何も言わない。そうしている間にも、ウロはボクたちとは別の方向から山を降りようとする。

「待って」

 色月が声を上げた。ウロが振り向かないまま、その場に止まる。

「彼女とはこれでお別れだから……だから、最後まで見送らせてほしいんだ」

 そう言いながら色月は、膝を曲げて地面に座った。そこはついさっきまで、ウロが座っていたのと同じ場所だった。月光を浴びる相道ウロとはちょうど、先程までとは真逆の位置関係になっている。

「お願い、ウロくん」

 相道色月が、手に握った青いマフラーを地面に置いた。そっと――まるでそれが、触れればすぐにでも壊れてしまうガラス細工であるかのように。吐き出された悪態が、ボクの耳にまで届いた。ウロが振り返り、色月へと近づいていく。乱暴な足取り。不満を隠そうともしない様子ながら、それでもウロは色月の側に立った。色月がウロを見上げ、手を伸ばす。その手をウロは睨みつけ、しかし、自身の手を伸ばす。二人の手が、触れた。


 瞬間、二人の間で、何かが光った――ように、見えた。


 相道ウロの身体が、大きく傾いた。腰を落としていた相道色月も同様に、バランスを失った。

 なに? そう思う間もなく、一際大きく吹いた風が、ボクの身体を揺らした。小さな悲鳴を上げてよろめいたボクを、ハザマが抱きとめる。体重の殆どを、ハザマへと預ける。その中で、ボクは、ひらひらと夜の闇を踊る何かを視界の端に捉えた。それは、ボクの方へと向かってきた。反射的に手を伸ばす。けれどそれはボクに捕まることを嫌がるように身をくねらせて、そのまま町の方へと飛んでいってしまった。ひらひらとうねるその青い軌跡を、ボクは目で追い続けた。

「しるし」

 ハザマがボクを呼んだ。なに、と返そうとして、気づく。二人が、相道ウロと相道色月の二人が、こちらを見ていることに。

 気づかれてしまった。心臓が、早鐘を打つ。

「おまえは――」

「ボクは那雲崎なぐもざきしるし! 大老八重畑丑義やえばたけ うしよしの後継にして、八百人やおとの国が誇る偉大なる政治の申し子那雲崎道民みちひとが一人娘!」

 何かを言いかけたウロの言葉を遮り、声高に自身を名乗る。相手のペースに任せてはいけない。イニシアティブは常にボクがつかむんだ。そうするんだ。だってボクは那雲崎しるし。那雲崎道民の娘なのだから。

「相道ウロ。用があるのは、あなたにです」

 ゆっくりと、威厳たっぷりに歩を進める。ぎこちなくならないように気をつける。一歩、一歩、歩を進める。歩を進める度、ハザマが影のように付き従ってくれているのが、判る。それだけで充分、張った背筋に力が漲る。

「相道ウロ」

 二人の男の子の前に、自分自身をピンと伸ばして、演出する。

「用があるのは、あなたにです。用件はたったひとつ。大老八重畑丑義の後継にして、八百人の国が誇る偉大なる政治の申し子那雲崎道民が一人娘であるこの那雲崎しるしが――」

 口上の途中で、言葉を失してしまった。驚いてしまって。だって――。

「え、あの、え、えっと……?」

 泣いていたから。ぽろぽろぽろと色月の瞳から、止めどもない涙が溢れ出していたから。ハザマを見る。ハザマ、どうしよう。こんなの、お祖父様から聞いてないよ。どうしよう、ボク――。

「泣いているのは、ぼくではありません」

 透き通る水のような声。その声を聞いて、ボクは視線を目の前にもどす。目の前の男の子が、緩やかに首を振っていた。赤いマフラーの軌跡が、視界に残る。

「これはあなたの涙。これまでのあなたが、それに、これからのあなたが“流すことのできなかった”涙」

「え、えと……?」

「これまでの涙を取り戻すことはできません。それはもう、ぼくたちにはどうにもできない、いつかの遠くへ去っていってしまった感情だから。でもこれからのものは……まだ、間に合うはずです。だから那雲崎さん、どうかお願いです。まだ、引き返せます。いまならまだ。だから――」

「色月」

 相道色月が、振り返った。彼の涙が、ボクの方からは見えなくなる。

「お前は、帰れ」

「ウロくん――」

「帰れ」

「……うん」

 お祖父様から、相道ウロと相道色月のことは聞いていた。相道みつるの息子と、みつるに引き取られた少年。私と同じくらいの歳の少年たち。でも、彼らがお互いをどう思っているのかまで、お祖父様は教えてくれなかった。

「でも――」

 相道色月に対する相道ウロの言葉は、声は、とても冷たく、突き放した印象しか感じられなかった。けれど――。

「ウロくん」

 色月の方は。

「ぼくはもう、君から逃げないよ」

 相道色月が、ボクを見た。既に止まった涙の、けれどその痕がくっきりとその頬に残っている。どきりとする。けれど彼は何も言わず、ボクからも、相道ウロからも離れ、離れて、山を降りていった。

 幾らか、落ち着きを取り戻す。ようやくこれで、お祖父様が想定していた通りの構図となった。つまりボクと、相道ウロと、ハザマの三人だけがいるという図。ハザマを見上げる。巻かれた包帯の隙間から覗くハザマの目が、目の前の相道ウロを見据えていた。気持ちはいよいよ、平常を取り戻す。

「……話を、続けます」

「待て」

 相道ウロが、わずかに身を前傾させながら、ボクの言葉を遮った。後ろで縛った髪が、ちらと覗く。

「お前は、“死にたがり”か……?」

「死にたがり?」

 唐突に投げかけられた質問に一瞬、頭の中が空白になる。死にたがり――死? ボクが? 物騒な言葉に戸惑いながら、けれどボクは気づく。相道ウロの視線がボクにではなく、ボクの後方へと向けられていることに。

「……ハザマ?」

 ハザマに変化は見られなかった。何も言わず、ボクの背に立っている。いつものように。お祖父様から渡された杖を握りながら。握りながら、いつものように険しい視線で、相道ウロを正面に見据えている。

「いまいち仰っている言葉の意味が判りませんけれど、ボクは死にたがってなんかいません。ボクは那雲崎しるしですから。先も述べた通り、ボクの用件はたったのひとつ、ひとつだけです」

 二人の間で交わされている視線の意味が、ボクには読み取れなかった。なのでボクは、とにかく話を進めることに決めた。そもそもそのためにここへ来たのだから。そうだ、余計な邪魔が入ってしまったけれど、ボクがここへ来た目的は明確であったはずだ。

「相道ウロ」

 だからボクは、今度こそ宣言する。

「大老八重畑丑義の後継にして、八百人の国が誇る偉大なる政治の申し子那雲崎道民が一人娘である、この那雲崎しるしが命じます」

 お父様のために。ボクのために。

「あなたには――」

 ボクがボクとなるために。

「あなたには――」

 だから言うのです、那雲崎しるし。

「あなたには――」

 言ってしまうのです、那雲崎しるし。

「あなたには――」

 言っちゃうんだ、那雲崎しるし。

「あなたには――――」

 言っちゃえ、しるし――――。


 人を、殺してもらいます。


   三 下山おもや

「わだち!」

 深夜の双見を、私は走る。息を切らせて駆け回る。わだちが脱走してしまったから。こんなこと、もうずっと、ずっとなかったのに。それこそ五年前の――あの、月山での出来事以来かもしれない。彼女と、彼女のお兄さんと出会った、あの――。だけど、あの時とは状況が違う。私だってもう、子供じゃない。あの時みたいに逃げられるようなことなんて、私の我儘なんて、いまはもう押し付けてはいない……はず。でも、それならどうしてだろう。……いや、そういえば二年か三年ちょっと前くらいにも、こんな騒動が起こったような気がする。あの時は脱走する前に捕まえたけれども、でも、確か、そうだった。どちらにせよ、わだちは理由を教えてはくれなかったけれども。あの時ちゃんと、聞き出しておけばよかった。

 深夜の双見は暗くて、静かだった。正体の知れない恐怖心が、ただでさえ上がっている息を更に乱す。わだち。まさか山向うの東側にまで行っちゃったなんてことはないと思うけれど、でも、こちら側にも旧国軍区みたいに、近寄っちゃいけない場所はある。もしあの子があの『屋無やなし』の人たちの住処に潜り込んでしまったとしたら……そんな事態は、あまり想像したくはなかった。

「わだちー!」

 ちなみの方はどうだろうか。わだちのこと、見つけてくれただろうか。もし見つけて、先に家に帰っていてくれたのならありがたい。でももしこの夜闇の双見を彼女が“いつも通り”駆け回っているとしたら――。あるいはわだちのこと以上に、心配かもしれない。だってちなみは、無茶をする。彼女の無茶で、彼女や彼女の周囲に騒ぎを起こしたことは一度や二度では済まない。私も、何度も巻き込まれた。やっぱり早く、私がわだちを見つけなければならない。それに――。

 犬の、鳴き声が聞こえた。張った太ももに鞭を打って、声の方へと走る。走って、走って、曲がり角の、その先。八百人犬に特有なくるりと巻かれた尻尾が、左右にふりふりと振られているのが目に入った。

「わだち――」

 果たしてそこには、わだちがいた。緊張が一気に解ける。同時に軽度な憤りと共に沸き上がった文句が、殆ど喉元にまで迫り上がった。けれどもその文句は、声にはならずに呑み込まれた。

 わだちの側に、誰かがいた。

『泥棒』、『誘拐』、『移民』、『无』――『神隠し』。

 警戒心を掻き立てる単語で、頭の中が一杯になる。ぴんと身体が一本の杭となったように、その場へ固定される。呼吸が、更に浅くなる。わだちが私を見た。ふはっと口を開けた、笑顔だった。

「……下山しもやまの?」

 聞き覚えのある声だった。その声で、視界が一気に広がった。わだちの側にいる人は、壁にもたれて座り込んでいた。どうやら舐められ放題されるがままであった様子のよだれの跡が存分に残った顔は、私にも確かに見覚えのあるものだった。

「……ウロさん、ですか?」

 相道ウロさん。間違いない。目の前で座り込んでいるこの人は、私のよく知る“彼女”のお兄さんだった。ウロさんの方へ向き直ったわだちがまだ舐め足りないのか、登るように手を乗せて自分の鼻をウロさんの頬やおでこや口元に押し付けている。

「あの、だいじょうぶ、ですか……?」

 なおも鼻を押し付けるわだちを彼から引き剥がしながら、私は尋ねる。こんな夜中の、こんな人気のない路地で座り込んでいることが普通だとは思えなかったし、なによりも月の光りに照らされた彼の顔色が、ずいぶんとつらそうなものに見えたから。顔色だけじゃない。よく見れば唇も、指先も、全身に血の気が見られず、真っ白で。その姿はまるで、まるで――。

「あの、私、人を呼んで――」

「すすぐには、言うな」

 私の想像を否定するかのようなはっきりとした口調で、ウロさんは言った。そして壁を支えにしながらも自らの力で立ち上がり、私を、私の抱えるわだちを見たと思ったら、次の瞬間――。

「……え?」

 彼の姿は、消えていた。

「ウロ、さん……?」

 もう一度、彼を呼ぶ。双見の夜闇から返ってきたのは、不気味な風の音だけだった。風の流れを追うように、わだちが鼻を振る。黒くつややかな鼻先を、ひくひくと不思議そうに動かしている。私は指先で、ひくひくと動くわだちのその鼻先をぺしりと叩いた。

「心配、かけさせないでよね……」

 鼻先を叩かれたわだちが、はしゅんとかわいしいくしゃみをした。日常を感じた。


   四 下山おもや

「だからさ、あたしたちで解決すんだよ――神隠しってやつを!」

 机の上に飛び乗ったちなみが手製の懐中時計“もどき”を天高く掲げ、意味のよく判らないポーズを決める。翻りそうになるスカートも気にせずに。教室に残っていたクラスメイトたちは「またか」といった具合に慣れっこの態度を取っていたけれど、それでも私は恥ずかしかった。だって私たちは基本的に、三人でひとつのグループと見られていたから。それは確かに間違っていない。いないけれども、単純に同一視されてしまうのは恥ずかしい。けれど三人のうちのもう一人は――相道あいどうさんは私と違い我関せずと言った様子で、無表情に窓の外を眺めていた。ため息が漏れた。

 ちなみ――多々波たたなみちなみは、私の友達。訳有って同じ部屋を共有する、同居人でもある。彼女にも良い面はたくさんあった。彼女は身体が小さい。たぶん学年で、一番背の低い女子なのではないかと思う。制服を着ていなければ小学生と間違えられてもおかしくない、そんな背格好のちなみ。けれど彼女は、その見た目からは信じられないくらいに強かった。腕っぷしではなく、心が。ちなみは上級生の教室でいじめが行われていると聞いて、自分の二倍程に大きそうな男子複数人を相手に天誅を仕掛けにいったことがある。いじめられている相手なんて話をしたことは愚か、その影を見たことすらなかったのに。だけど彼女はそんなこととは無関係に、弱いものイジメを許さなかった。強い者の横暴を嫌って、彼女は戦った。何度負けても、立ち向かうことをやめなかった。悪を暴き、倒すこと。その一事に、彼女は強い信念を抱いていた。ちなみのこうしたエピソードは、枚挙に暇がない。彼女は強い人だった。強くて、自分を持っていた。正義感に溢れて、好奇心も旺盛で、いつも行動力に満ちていた。彼女は私には――下山おもやにはないものをたくさん持っていた。そしてそれが、私の悩みの種でもあった。

 ちなみは噂を追いかける。真偽の定かではない、それもどこか危険で陰謀めいた臭いのする噂を。『人体埋込式超小型霊爆れいばくの真実』『北方共産圏から送り込まれた敏腕スパイ』『ヤ国の影に蠢く臓器売買グループ』『旧国軍が残した人体実験の産物』『霊素れいそを介した人為的記憶改竄術』――ちなみが追いかけてきた噂の数々。これだってほんの一部だ。数え上げれば本当にキリがない。けれど……真相を解明できたことは、一度もない。しょうがないと思う。だって私たちはただの中学一年生に過ぎなくて、そもそもこれらも出処の怪しい、真偽不明の噂に過ぎないのだから。上級生がいじめを行っているという話は、まったくのデマだった。そんな事実は、どこにもなかった。いじめっ子もいじめられっ子も、存在なんかしていなかった。

「そんなはずない。いじめは実際にあったんだ。あいつらが証拠を隠滅したんだ。そうに決まってる――あたしの勘が、そう言ってる!」

 ちなみはめげなかった。めげずに巨悪と闘い続けた。存在しない、不透明で虚構上の悪者と。だからちなみは先生たちからの覚えもすこぶる悪く、教室内でも一種の腫れ物のような……ちょっとした珍獣みたいな扱いを受けていた。けれどそれは逆にいえば、いまはまだ珍獣扱い程度で済んでいるということで。彼女がこうして破滅的な行為を繰り返している限り、いずれはもっと大変な事態に巻き込まれるのではないか、取り返しのつかないことになってしまうのではないか――彼女が私の手の届く距離からいなくなる度、私はそんな不安に駆られる。

 私が支えてあげなきゃいけない。いつか私が、私の自暴自棄を止めてもらった時のように。“彼女”のように。私はちなみを、守ってあげなきゃいけない。

 そんな中での、これ〈神隠し〉である。

「ねえちなみ、ついこの前もそうやってあなた、大勢の人に迷惑をかけたばかりじゃない。先生にもたくさん怒られて、反省文だって書かされて。今朝だって体調不良だなんてうそついて遅刻して、いったい何処に行ってたの? ううん、それもいいとしても……ちなみが動きたがりってことは知ってるよ。でも、いまはまだ大人しくしてようよ」

「なに言ってんだよ、事件はいま起こってるんだ。いま動かなきゃ、いまはもう取り戻せないんだぞ」

「でも、そうやっていつも失敗してる」

「今度はうまくやるとも!」

「そういうことじゃなくて……だからね、私が言いたいのは――」

「それに――」

 机の上に登ったちなみの顔が、ぐいっと私に近づいた。

「人がいなくなってるのは、事実だろ」

 ……だから、止めようとしてるんじゃない。私は顔を背ける。

 知っていた。神隠しの噂。この噂が、ちなみがこれまで追いかけてきた荒唐無稽な噂の数々とは根本的に異なるものであることを、私は知っていた。本当に人がいなくなっている事実を、私は知っていた。私だけじゃない。公にされていないだけで、みんな薄々勘付いている。私たちの仲間が、友人が、家族が、時々、何の前触れもなく、忽然と姿を消してしまっていることに。この双見で、何かが起こっていることに。……東の移民が、悪さをしているんじゃないかってことに。だから、みんな、夜を恐れているってことに。

 なにより私は、聞いてしまったのだ。黒澤様がお祖父ちゃんに相談していた、その話を。不要な混乱が起こらないように取った、黒澤様の判断を。

「……なおさらだよ」

 そう、だから、なおさらなのだ。

「それならなおさら関わるべきじゃないよ。だって、危ないもん。ちなみも私も中学生で、まだまだ子供なんだよ? そういうことは大人に――黒澤組の人たちに任せた方が、絶対にいいよ」

「だけど大人たちはいま、祭りの準備でてんやわんやだ」

 机の上で器用に姿勢を変えたちなみが、窓の外をびっと指差す。

「外からはいかつい野郎共がじゃんじゃん山ほど入ってきて、黒澤組はそっちの対処でいっぱいいっぱい。不確かで曖昧な噂なんかに本腰を入れられる状態じゃない。だけど実際、神隠しは起こってるんだ。悪事は行われてる。だったらさ、誰かが――双見を愛する誰かが立つべきじゃないか? 例えば――」

 窓の外を差していた彼女の人差し指が折り曲げられ、代わりに伸びた親指が力強く、彼女の首から掛けられたもどきの懐中時計へと押し当てられる。

「あたしたち、とかさ!」

「……なんでそこで、私たちになるの」

「大人はみんな言うじゃないか、人任せにしちゃいけませんって。あたしたちが気づいた、あたしたちが当事者の事件。だったらあたしたちで解決しなきゃ……だろ! それに――」

 もどきの懐中時計へ押し当てられたちなみの指が、そのまま懐中時計の縁をなぞり始める。

「兄貴が――その黒澤組の若頭様が言ってくれたんだぜ、『己自身に殉ぜよ』って。兄貴が、友已ともいの兄貴があたしに期待してくれてるんだ。これに応えなきゃ女がすたるってもんじゃないか!」

佐々川ささがわ様はちなみを頼ったりなんかしないと思うけど……」

 かろうじてそう反論する私の言葉を、ちなみはもう聞いてはいなかった。おそらくちなみの頭の中ではいま、ヒーローになって称賛を受ける自分たちの姿が描かれている。褒め称えられ、佐々川様から認められている場面でも思い浮かべているに違いない。これもまた、ちなみの悪い癖のひとつだった。彼女はいつも、うまくいくことしか考えない。あんなにも失敗し続けてきたのに、次も失敗するとは考えないのだ。だから、いつでもめげずに行動してしまう。

「今度は絶対うまくいく! あたしの勘が、そう言ってる!」

 こうなるともう、私には手の施しようがなかった。私は相道さんに助けを求める。相道さんは先程までと寸分も違わぬ格好と無表情のまま、窓の外を眺めていた。

「な、いいよな!」

 相道さんは動かない。

「よし、決まり! それじゃ明日の朝、盗人橋ぬすびとばしで待ち合わせ――」

「私、賛成したつもりなんてないけれど」

 動かないまま、相道さんが言う。

「なんだよう、あたしの勘が信じられないっていうのかよう?」

「信じられないも何も――」

 相道さんの視線が動く。窓の外から、ゆっくりと、ちなみに向かって。

「あなたの言動に、どれだけの信用があると思って?」

 冷たい目。およそ友人に向けるものとは思えないような。私が向けられた訳でもないのに、心臓が凍りつきそうになる。けれどちなみはそんな相道さんの冷たい視線に気づく様子もなく、ぴんと立てた人差し指を左右に大げさに振り出した。

「ま、百歩譲ってそう言いたくなる気持ちもわからんじゃーない。でも、今回はいままでとはちぃっと違うのさ。あたしはな、手に入れたんだよ。神隠しの真実を決定づける、これ以上ないってくらいに超絶で究極の手がかりを――」

「そういうことじゃない」

 抑揚のない声。

「私はもう、反省文なんて二度と書きたくないの」

 けれど、拒絶だけは確かにこめられた、声。

「やるなら勝手にやって、止めないから。その代わり、私を騒ぎに巻き込まないで」

 相道さんの声。

「迷惑なの」

 きつい言葉だった。

 怒っているとか、憎んでいるとか、そういった判りやすい感情が、相道さんの声にはない。淡々と、事実をただ事実として告げるような無機質な感覚。人間味のない彼女の態度からは、親しさや友愛といったものを欠片も感じ取ることができなかった。だから余計、きつい印象を受けた。

 ちなみはけれど別段気分を害した様子もなく、ただ神妙な顔つきで何事かうなりながら、相道さんのことを見つめていた。じぃっと、何か、相道さんの無表情の裏を探るような執拗さで。相道さんが視線を逸す。直後、うなり続けたちなみが口を開く。

「でもさ、あたしの勘が言ってるんだよ。ホントのところは、あんただって――」

「多々波ちなみぃ!!」

 爆音が、教室中に響き渡った。びりびりと空気が振動する。反射的に音のした方向へと振り向くとそこには、開かれた扉の前で竹刀を持つ人影が立っていた。

「げ、おば先!」

 ちなみが悲鳴を上げる。おば先こと生徒指導の小林先生が、鬼の形相でちなみを睨んでいた。

「お前というやつは、お前というやつはどうしてそうなんだ!」

「ご、誤解だ! 誤解です! なんのことかわっかんないけど!」

「問答無用じゃあ!」

 小林先生がちなみへと襲いかかる――と思った時にはもう、ちなみは走り出していた。

「逃げるなこらぁ!」

 情けない悲鳴を、野太い怒声が慌ただしく追いかける。それは教室を飛び出し、廊下へと出て、いつか聞こえなくなるその時まで長く長く響き渡っていた。あっという間の出来事だった。ちなみと小林先生が嵐のように去り、級友たちも残らず下校した教室には、畢竟私と相道さんだけが残されてしまった。

「……相変わらず、騒がしいよね」

 返事はなかった。相道さんはもう定位置で、窓の外を眺める格好にもどっている。なんとなく、彼女の隣に座り直す。何もしゃべらない彼女の隣、私も無言で外を眺める。校庭には、下山とも関係深い職人さんたちが出入りしていた。きっとお祭りの準備だろう。うちの学校も、祭りの際にはそれに相応しい装飾を施す予定なのだという。

双見合背祭ごうはいさい』。

 戦前に中止されて以来実に五◯余年ぶりの再祭になるのだと、そう説明を受けた。教えてくれたのは、校長先生よりも長くここで働いていると噂されている用務員のお爺さんだ。お爺さんは熱っぽく、祭りについて語っていた。双見は祭りでひとつになっていたのだと、祭りが双見をひとつにするのだと、何度も何度も繰り返していた。いつもは眠たげにしている目を見開いて、我を忘れたように熱弁していた。伝えようとしていた。

 でも私には、よく判らなかった。それが良いものであるのか、本当に必要なものであるのかも。校庭の職人さんたちを眺める。その中に、見知らぬ人が紛れている。一人や二人ではない。数えることを諦めたくなるくらい、大勢。黒澤組はこの祭り実現のため、外から人手を雇い入れると決めた。外。双見の外――あるいは、西双見の外。東に住む、“移民”。言葉も文化も違う、別の国から来た人たち。

 神隠し。

 双見は祭りでひとつになる。お爺さんはそう言った。でも、本当にひとつになる必要があるのか、私には判らなかった。

 変わること。いまの双見が、いまの生活が別のなにかになってしまうこと。親しんだものが失われてしまうこと。私にはそのことの方が怖いと、どうしてもそう思えてしまう。

「あの、相道さん」

 それは、人と人との関係においても。

「ちなみのこと、嫌わないであげてね? ちなみは確かにあんなだけど、でも、悪気があるわけじゃないから。それに、ちなみはたぶん、相道さんのことも気にして――」

「別に」

 相道さんの、声。

「嫌ってなんか、いないから」

「そ、そっか。えへ、それなら、よかった、えへへ……」

 冷たい、声。乾いた、笑い。それもやがては薄れて止まる。

 聞きたいことは、たくさんあった。知りたいことも、たくさんあった。これまでの彼女に何があったのか、疑問はつきなかった。だけどそれは、聞いてしまっても良いことなのか。私には判断できなかった。聞いて、それが、何かを決定的に変えてしまうような問いであったなら。そんなことになってしまうくらいなら。

「……遅い、ね」

 だから私は、無難な言葉でつぶやくように時間を埋める。

「そうね」

「うん……あの、ちなみのことだけじゃなくて、お迎えも」

「そうね」

「……あの、今日は、どっちのお兄さん?」

色月しづきさん」

「色月さん、そっか……色月さん」

「そう、色月さん」

「そっか。……そっか」

 会話が途切れる。何度か口を開きつつ、けれど「あのね、昨夜のことなんだけど……」とは、続けられなかった。あの人があの後、無事に帰ることができたのか。気にならないわけがなかった。でも、相道さんはこうして、平然とした顔で学校に来ている。なら、きっと、何事もなかったのだろう。何かあったなら、何かあったと、そう言ってくれるはずだろう。だからきっと、何事もなかったのだ。わだちが気まぐれに脱走してしまった昨夜の出来事は、ただそれだけの小さな事件に過ぎなかったのだ。そう信じることに決め、私は口をつぐんだ。

 二人で、無言で、窓の外を見続けた。

 扉の開く滑りの悪い音が聞こえた。

「ちなみ、遅かったじゃない――」

 当たり前のようにちなみの名前を呼んで、私は振り返った。けれどそこに、ちなみの姿はなかった。そこにいたのは背丈が控えめなちなみとは似ても似つかない、細長い印象を与える長身の女性だった。

「御機嫌よう、下山さん」

那雲崎なぐもざき先輩?」

「はいそうです、那雲崎しるしです。ちなみさんではありません」

 そう言って、背筋を伸ばした那雲崎先輩が私の側へとやってくる。

「お祖父様は息災ですか?」

「え、あ、はい。一応……」

「それは良かった」

 言うなり、先輩が空いた椅子に腰を下ろした。先輩が腰を下ろしたのは、ちなみの席。……嫌な予感を覚える。

「あの、どうしたんですか、今日は」

「かわいい後輩の顔を見にきた……というのでは、理由にならないかしら」

「そんなことは、ないですけど……」

 そんなことは、ないけれど。けれど、その席はよくない。いや、席がというより、先輩がここにいることがあまりよくない。もしかしたら先輩は、ちなみが先に下校したと思っているのかもしれない。もしそう考えているなら、それは早とちりだ。

「あの、私たち、この後用事があって……」

「あら、そうなの?」

 ごめんなさい、うそですけれど。

「そうですか、それは残念です。あなたたちとのお話、朝から楽しみにしていたものだから」

「そ、そうですか」

 先輩の、あからさまに残念そうな表情。罪悪感を駆り立てられる。

「それに、ちょっと困ります。ボクも用があって来たものだから」

「用、ですか……?」

「ええ、大事な用事。絶対に欠かすことのできない、大事な、大事な」

 先輩は大事な、大事なと、大仰に繰り返す。常日頃から先輩の言動には、大げさというか演技的と言うか、やりすぎという空気がつきまとっていた。特に今日の先輩の態度からは、その傾向が一段と強まっているように感じられる。いよいよもって、不自然なくらいに。

「それなら後で、私の方から伺いに行きますけれど……」

「いえ、これはいまじゃないと意味がないの。それに、下山さんにではないから」

 言って、先輩が立ち上がる。ちなみの席から、先輩の腰が離れる。特段状況が変わった訳でもないのに、少しだけほっとする。

「相道さん」

「……」

 相道さんは、応えなかった。

「……相道さん?」

「……」

「相道さーん?」

「……」

「あーいどーうさーん?」

「…………なんですか」

「よかった、ちゃんと聞こえているみたいですね」

「……」

 無表情なのに、相道さんが何か言いたげにしているのを私は感じる。

「相道さん、ボクはあなたに用があるのです」

「……」

「大事な話なので、ここでは話せません。場所を変えたいと思いますので、準備がまだでしたらいまのうちに支度してもらえますか」

「……」

「相道さん。これは、那雲崎しるしからのお願いです。付き合ってもらえますね?」

「いいや! そんなやつの言うことなんかに耳を貸す必要はないぜ!」

 教室の入口から、高い声が響いた。否も応もなく、毎日耳にしているその声。聞き間違えるはずもなかった。

「ちなみ!」

 今度こそそこには、ちなみがいた。汗だくで、いまにも倒れてしまそうなくらいに激しい呼吸に喘ぐちなみが。けれどちなみはそんな見るからに限界ギリギリといった状態でありながら、それでも精一杯身体を大きく見せて、那雲崎先輩を見上げ睨んだ。

「“偽物さん”」

 那雲崎先輩の顔に、陰が差した。

「何のつもりか知らねーけど、二人はあたしの友達だ。近寄るんじゃねえ」

 ちなみは引かない。自分に正義があると信じた時、ちなみはいつだって引かない。相手がどんなに大きな相手であったとしても。一方の先輩は、自分の胸元程度の背丈しかないちなみに気圧されるように、後方へと身を傾けかけていた。

「ちなみさん、あなたは誤解しています。ボクはただ――」

八重畑やえばたけの一族と話すことなんざ何もねーって、そう言ってんだ」

 取り付く島もないとはこのことだった。剥き出しの憎悪を、ちなみは隠そうともしない。手加減なんて一切するつもりがないことを、私は感じた。感じるまでもなく二人が鉢合わせればこうなることを、私は知っていた。

「……どうして?」

 か細い声で、先輩がつぶやく。

「どうしてちなみさんは、ボクを目の敵にするのですか? ボクは、あなたとだって仲良くしたいのに――」

「あんたらが!」

 先輩の長身が震えた。たぶん、先輩だけでなく、私の身体も。ちなみが叫んだ。叫び、けれどそれきり、ちなみは二の句を繋がなかった。首からかけたもどきの懐中時計を握りしめて、先輩を睨んでいた。睨まれた先輩は、睨まれた格好のまま、何も言えず、動くこともできないでいた。私も、たぶん相道さんも、教室の中の空気ごと、固まってしまっていた。

 固まった時を動かしたのは、外から訪れた者だった。

「多々波ちなみぃぃぃ!!」

 ちなみの身体が、針のように細くなった。鬼の怒声。その正体は確かめるまでもなく、明らかだ。

「……だぁぁ、ちくそぉぉぉぉ!!」

 一も二もなく、ちなみは逃げ出した。汗だくの獄卒は、竹刀で壁や床を滅多矢鱈に叩きながら、逃げる罪人の後を追った。程なくして、教室には再び、静寂が訪れた。

「大丈夫です」

 静まり返った教室内で、那雲崎先輩がつぶやく。

「ボクは、那雲崎ですから」

 私も相道さんも、誰も、何も聞いていなかった。何も聞かれていない那雲崎先輩は、何かを一人で納得したかのように、ちなみの威圧で傾いた背筋をもう一度ぴんと伸ばし、相道さんへと振り返った。

「横やりが入ってしまったけれど相道さん、先程述べた通りです。付いてきてもらえますね」

「下山さんの言った通りです。用事がありますので、すみませんが」

 相道さんの返答は、そっけなかった。「下山さん」と、相道さんが私を呼ぶ。迎えは未だ来ないけれども、先に外へ出てしまうつもりなのだろう。うなづいた私は、予め用意しておいた彼女の荷物を持つ。

「そうはいきません」

 先輩が、相道さんの手をつかんだ。

「これは本当に大事な話なのです。大事な、大事な話」

「やめてください」

「あなたは聞かなければいけません。これは、あなたにとっても大事な話なのだから」

「やめて」

「だから、従いなさい、相道さん。いえ――」

「いい加減に――」


間東まとうすすぐさん」


 抵抗が、止まった。相道さんが、身体をよじった。彼女〈すすぐ〉の乗る車椅子が負荷を受け、軋んだ音を教室内に響かせた。


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