Mission-20 約束


 背の低いヒールが通路を叩く硬質な音が、耳障りな程に大きく響いている。竜の唸り声にも似た空調の音や、無人の通路を反射して聞こえてくるはずの格納庫の喧騒けんそうは、今だけは世界からぬぐい去られたかのように鳴りを潜めていた。


 ――無理にでも残って、通信をつなげていればよかったのだろうか?


 包帯の巻かれた右手に滲むような痛みが嚙みつく中、後悔じみた自問がノルンの内で頭を上げ、何かを急かす様にゆらゆらと揺れている。

 本来ならばジャッジメント隊が安全空域に退避するまでは、救出の指揮は自分が担当するはずの取り決めであった。しかし彼が回収された直後、誰かが呼び出した療務室の人間に捕まってしまい、抵抗虚しく通信の一切合切をアウル隊のオペレーターに引き継ぐこととなってしまう。

 もちろん療務室で簡単な処置を行ったら管制室へ戻るつもりだったが、診察の結果、モニターを殴りつけた手の骨には罅が入っており、全治1日ではあるが数時間は絶対安静との命令が出されてしまった。

 おかげで今の今まで療務室に監禁されており、レーヴァンの無事こそ把握していたが直接の連絡を取ることは出来ていない。

 とはいえ、いかな彼女と言えども相方の安否を伝聞だけで済ませる気にはなれなかった。ジャッジメント隊着艦の報告を受け、療務室の住人の追撃を振り切り自由の身となった後、当然のように格納庫へと足を向けたのがつい十数分前の出来事。

 それからおおよそ十分ほどの後、不都合な現実を目の当たりにすることとなる。


 ――いや、そもそも予想できる結末だった。


 泡立つ内心へ言い聞かせるように、感情が眼を背けようとしている光景をかみ砕き結論を固めようとする。彼と通信を行ったかどうかに関わらず、この結果はなのだと。

 

 ――いったい何を舞い上がっていたのだ、馬鹿め


 自身の靴音がかんさわるメトロノームの様に聞こえ出す中、冷笑交じりの自分の声理性が、抑えても泡立とうとする感情を何処か他人事のように見下ろしていた。


 ――彼にみそぎを託した気にでもなっていたのか?


 理性から湧き出した罵倒ばとう同然の詰問きつもんが、心の底に淀む暗い想いを引き裂き、この期に及んで眼を逸らせようと逃げる意識を引きずって、つい数分前に目にした現実を直視させた。


『どうだ、12番はやれねぇが13番になってみる気は無いか?』


 格納庫に足を踏み入れる寸前。ズメイ1と彼が真剣な表情で向かい合っているのが目に入り、反射的に物陰に身を隠した直後に渡って来た言葉。

 昼食の誘いにも似たニルドの気楽な問いかけは、不可視の打撃となって彼女の精神を打ち据えていた。

 その瞬間まで抱いていた解放感に似た感情が、榴弾砲の零距離射撃を受けたかの如く砕け、無数に飛び散った大小の破片が虚を突かれて硬直する精神を抉った。「何故だ?」と感情の絶叫が伽藍洞がらんどうになった精神に木霊こだまし、反響が収まらぬうちに「妥当だ」と結論付けた理性の声が困惑する意識に理解を強制する。そうして後に残ったのは――

 自分はまたも僚機を失うらしいと言う現実だった。

 導き出された現実は大きな動揺を呼び、意図しないうちに彼女の体はその場を後にして、今では目的もなく来た道をただ戻りつつある。理性に黙らされた感情が、唯一勝ち得た戦果だと言えるだろう――要するに、逃げたのだ。

 幼稚にも程がある、と内心で自身への失望じみた殺意が膨らみ、次の瞬間には諦観の針が肥大した負の感情を弾けさせ虚無へと変えていった。

 何のことは無い、至極しごく単純な損得勘定の結果だ。

 ノルンは自身と彼等を取り巻く状況を俯瞰ふかんし、此処まで逃げながら何度も繰り返してきた思考を再び一からやり直していく。得られる結論に変化が無い事を頭のどこかで確信していながらも、そうしている間は不愉快な現実を視ずに済むとでもいう風に。

 ズメイにとって損耗した人員の補充は急務であるし、レーヴァンにとってはそれなりに腕に覚えの有る連中の庇護下ひごかに入ることが出来る。双方にとって悪い話ではない。


 都合が悪いのは、私だけだ。


 レーヴァンが私の下らないジンクスを葬った、とは誰も思うまい。

 レーヴァンだからこそ、ジンクスを破れた。真面な傭兵であれば、そう認識する。あの最悪な状況で「自分ならば同じことが出来る」と根拠なく言える者は、既にしかばねになっているか、これから屍になる連中だ。

 そしてズメイ隊は、そういった根拠のない自信を鼻で嗤える者共だ。私の加入は望まないだろう。

 そもそも、あの隊は既にオペレーターを雇っている。一見頼りなさげではあるが目端は効き、腕は決して悪くない。入れ替える場合は勿論、追加で加入する場合であってもズメイ隊彼等が良い顔をするはずがない。必ず、こう思う。

 レーヴァンは2回目の出撃を乗り越えた。だが、自分たちは?

 私がズメイ隊の現オペレーターに対して能力で劣っているとは思わないが、ではそれらの反対意見を押し切ってまで迎え入れたいかと考えれば、答えは自ずと決まってくる。

 渡り時を正しく理解できるからこそ、彼等は危ない橋を根城に出来る。たとえそれが胡乱なジンクスであったとしても――いや、だからこそ許容するに足らないリスクに違いない。

 レーヴァンも躊躇いはしないだろう。

 傭兵にとって、オペレーターは便利な存在だが必須ではない。【エントランス】で大きな実績を上げた今、彼への依頼が回されないと言うことは無いし、ズメイに入ればなおさらだ。何より、11機もの僚機は何者にも代えがたい。

 一方で、私は所詮替えの利く存在でしかない。友軍機11機分以上の能力が有ればまた違うだろうが、もしそうならばレーヴァンは黒雀を叩き落としていただろう。少なくとも、ボロボロの機体で不時着する羽目にはならなかったはずだ。


 レーヴァンはズメイへと移籍し、グラム隊は解散。これが、現時点で考えられる最も妥当な結末だ。


 とはいえ、何度も繰り返した結論を前にしても、ノルンの中に彼やズメイ隊に対する怒りは沸いてこなかった。ごく一般的な考えを、ごく一般的な筋道で積み上げた結果に癇癪かんしゃくを覚えられる感性を、彼女は持ち合わせてはいない。


 ただ、予想される当然の結末に対し、酷く虚しい想いを抱いているだけだ。


 堂々巡りの後にようやく気付いた事実に自嘲じちょうを覚えたノルンは、知らずと口の端を微かに歪ませた。

 さて、どうしたことだろう。私と彼との間には、戦友と言えなくもない程度の関係しかなかったはずだが、どういう訳か完成しつつあったパズルの中央をゴッソリえぐり取られたような気分になっている。

 喪失感――と表現できる類の感情が、まだ私の中に残っていたことも驚きだが、何よりもその対象が、出会って一月と経たない赤の他人だったと言うのが信じがたい。

 何もかもを失ったあの時から、どうせ失うのならば何も持たずにいればいい。などとうそぶきながら生きてきたはずなのに、どうして私はこうも知らぬ間に何かを握りしめ、最終的には取りこぼすのだろうか。

 ただ、これまでに戦場で砕けていった彼等は、まだ諦めがついた。

 理由はハッキリしている。天龍の魔法をもってしても、死者の蘇生は不可能だからだ。一人の人間が手を出せるほど生死の境界線は甘くなく、それ故に衝撃は大きいが、割り切ることにそれほど大きな苦労は無い。

 思考を巡らせて行く中、ノルンはいつの間にか直ぐ傍に転がっていた事実に気が付き、おもむろに拾い上げる。そうして意識の中へと取り込まれた事実は、ある種の納得を彼女へと抱かせた。

 ああ、そう言えば。私にとってとはと言う意味だったはずだ。なるほど、ならばこのような喪失感らしいものを味わうのも道理だろう。

 否応なく強制的に手放すのと、「こうなるのが妥当」だと自分を言い聞かせて手放すのでは、随分と毛色が違った。

 低い音が靴音のメトロノームに混ざる。一瞬遅れて、その音が喉の奥から漏れた自身への嘲笑だと理解した。


 女々しい、みっともない、未練がましい、意気地ない、不甲斐ない――ろくでもない。


 女の執着心ほど性質の悪いモノは存在しないと理解していたつもりだったが、いざ私自身がその立場になると、ありとあらゆる手段を用いて、その執着を正当化したくなってくる。こんな私を信じた男を、彼自身の言葉を証明して見せた男を、私自身は如何なる理由・理屈をもってしても手放したくないと結論付けたくなってしまっている。なるほど、だとするならばここまで無様を晒すのも道理だ。畜生め。  

 内心に膨らんでいた虚無が重力崩壊を引き起こし、表面上を取り繕っている真っ当な理屈で構築された外殻を粉砕しようと脈動を始めていた。

 そして彼女の理性はこのような自身の感情の動き全てを、この世で最も醜悪な存在だと唾棄する事で、逆説的に一つの答えを手に入れていた。

 

 このような女など、彼にとっては毒にしかならない――故に、ここを潮時として身を引くのは最も冴えたやり方だろう。


「ノルン」


 だからこそ、背後から聞こえてきた馴染みの声に思わず息を詰まらせ足を止める。急き立てる様に頭の中で絶えず鳴り響いていた靴音が消滅し、空調や格納庫の喧騒が再び耳に届き始めた。

 僅かな逡巡の後、不貞を糾弾された淑女が取り繕う様に、ノルンは冷たい理性を顔面へと張り付けて振り返る。格納庫へと続く通路を歩み寄るのは、奇跡的な生還を果たした件のヴァルチャー。出撃した時と何ら変わらない彼の姿があった。


「ああ、貴様か。何の用だ?」


 僅か5分ほど前までは皮肉の一つでも投げつけてやろうとしていたはずなのに、口を飛び出していったのは、拒絶することで醜悪な内面を覆い隠そうとする、浅ましいほどに冷たい問いかけ。

 普段より数倍は固い声音が喉を飛び出していったことにノルンは内心面食らうが、これはこれで好都合だと思いなおし腹を括る。

 益体も無い未練を断ち切るには、丁度いい。

 既に手遅れなきらいもあるが、今のうちに全てを清算してしまう為に、冷たい仮面を張り付けたまま壁に背を預けたのだった。


 ◇


 苦笑いするニルドと分かれ、格納庫から艦内へと続く通路へ足を踏み入れてから数分。薄暗い通路の先に見えた、目当ての人物の華奢な背中へと声をかける。


「ノルン」


 ピクリ、と肩が揺れ足を止めた彼女は緩慢な動作で肩越しに振り返り、歩み寄るレーヴァンを視界に収めると何処かぎこちないため息を吐き出した。

「ああ、貴様か。何の用だ?」通路に背中を預けながら投げかけられた言葉は、不自然なほどに固く冷たい。出撃前とは真逆の、あからさまな拒絶を露にしていた。

 豹変とも言える彼女の態度を真正面に受けたレーヴァンではあったが、彼はその変化を意図的に無視して言葉を続ける。


「何の用も何も、礼の一つも言わせてくれよ。ありがとう、良くジャッジメントを引っ張って来てくれた」


 微笑すら浮かべて見せるレーヴァンにノルンの瞳が揺れる。「務めを果たせ、といったのはお前だ」言葉を選ぶように視線を数瞬彷徨わせた後、絞り出すように口を開いた。


「あの時の私に出来たことは、あれぐらいだった。ミネルヴァに借りを作るのは業腹だったが、何を考えたのか奴にしてはタダ同然と言える。むしろ、ジャッジメントへの報酬の方が高いくらいだ」


「そんなに安かったのか?」意外そうに目を見開くレーヴァンに金額が告げられる。確かに、ミネルヴァにしては随分と良心的、それどころか慈善事業と言ってよいほどだった。悪辣な笑みでもみ手をしている赤金の少女の姿が彼の脳裏を過り、思わず顔が引きつる。


「なあ、ノルン。ひょっとして足元見られて吹っ掛けられていた方がマシだったりしないか?」

「ほう?自覚が有るのなら、大したものだ――まあに行っても、無茶ぶりの一つや二つは覚悟しておくことだな」


 人の悪い笑みをぎこちなく浮かべるノルンに「勘弁してくれ」と思わずボヤキが漏れた。決して敵に回してはいけない類の人物がこの世に存在するように、真面に商売をしていく上では絶対に借りを作ってはいけない人物も、また確実に存在する。特攻同然の無茶ぶりを貰う前に、高い買い物か何かで清算をしておくべきだろうか?

 「無料ただより高いものは無いな」などと使い古された格言を噛締めつつも、彼の意識は刺々しい言い方の中に含まれていたを拾い上げていた。

 それが、【エントランス】に来て最初に在った時の様な――むしろその時よりもあからさまな――態度に戻っていた理由に違いない。

 これも彼女なりの防衛反応の一種なのかもしれないが、事情を察しつつある彼としては、その気は無くとも道化にしているようで申し訳なさの様なものを覚えてしまう。変にこじれる前に、出来るだけ早く誤解を解いてしまうべきだろう。

「向こう?」内心の疑惑を確信に変えるために餌を降ろせば、直ぐにアタリが返って来た。「とぼけるな」ギロリとでも聞こえてきそうなほど、鋭く細められた群青の瞳がこちらを睨みつける。


「貴様、ズメイに移るのだろう?――心配せずとも、手続きはこちらで進めておく。ミネルヴァには話を通すし、部隊章はそのままパーソナルマークとして流用すればいい。今回の報酬とこれまでの残金で、救出費用と次回出撃用の武器弾薬分は何とかなるだろう。まあ次でヘマをしなければ、だが」


 一息に捲し立てる様に吐き捨てた彼女は「話は終わった」とばかりに通路の壁に預けていた背を放す。そして自身の周囲を取り巻くすべての物を振り切るように、言葉を続けようとした。


「ではな、世話になっ――何のつもりだ」


 冷たい声と共に空気がはたかれる乾いた音が響き、背を向けた彼女の肩に延ばされたレーヴァンの手が後ろへと弾かれる。

 幼い時分に近所の悪ガキから最初に学ぶたぐいの簡単な風の魔術だが、圧搾空気で弾かれた彼の掌には、平手打ちでも食らったようなジンジンとした痛みが残っていた。

 過剰出力気味なのはワザとなのか、それとも加減が聞かなかったからなのかは分からないが、何はともあれ彼女を立ち止まらせることには成功したらしい。レンズの奥でこちらを見据える群青を眺めつつ、彼女が自分を本格的に敵視し始める前に認識を正しにかかる。

 正直言って今回の一件はノルンの自業自得と言うおもむきが強いが、全てが手遅れとなってしまう前に、こうして気が付けた事を素直に喜んでおく方が幾らかマシだろう。

 ネタ晴らしをした後に理不尽な折檻せっかんを喰らう可能性は、今のところは棚上げにしておく。流石にそこまで傍若無人な人ではないはずだ、たぶん。

 ノルンが耳にすればその言葉通りになりそうな思考を頭の片隅へと追いやり、知らずと浮かべてしまった苦笑をごまかすように口を開いた。


「それはこちらのセリフだ。三行半みくだりはんを叩き付けられるような事をした覚えは……無い事も無いが、少なくともズメイに移る気は無いぞ?」

「――――は?」


 素っ頓狂な声を上げ、細く引き絞られていた群青が丸くなった。

 以前にも思った事があるが、ノルンは酷く驚くことがあると年相応な側面が一気に現れてくるらしい。ぽかんと口を開ける様から、冷酷無比な魔女と言う面は掻き消えていた。「な、え? い、いや何を言っている?」面白い程狼狽うろたえるノルンに半目を向け、畳みかける様に言葉を続けてやる。


「いや、だからズメイに移る話は断ったし、もちろんグラム隊を解散する気も無い。と言うか君、ズメイ1とのやり取り最後まで聞いていなかったのか?」


 呆れたような鴉の視線に射抜かれたノルンは「んぐ……」と蛙が潰れた様な声を漏らす。想像と寸分たがわぬ着地点に、レーヴァンも流石に苦笑いを抑えきれなくなった。

 タイミングが良いと言うか悪いと言うか、いや今回は悪い方か。


「ったく。変なところで物分かりの良さを発揮しすぎだ。だいいち、そんなキャラじゃないだろ」

「それと之とは関係ないだろ!? と言うか、普通に考えればズメイに移るのが最善じゃないのか!? なぜ断ってるんだ!?」

「じゃあ受けた方が良かったのか?」

「いや、そういう訳では……ないが」


 的確に図星を突かれたらしいノルンは逃げる様にフイと視線を逸らす。つい数秒前まで存在した猛烈な剣幕は、文字通り尻すぼみになっていった。

 先ほどまで抱いていた負の感情がそっくり反転しつつある今、怜悧なオペレーターとしての側面は鳴りを潜め、何処にでもいる小娘同然に成り下がってしまっている。混乱自体からは立ち直りつつあったが、これまで彼に見せていた態度をどの様に収集していくべきかを決めかねていた。

 とはいえ、何時までも醜態を晒し続けられるほどノルンは無邪気ではない。それに、茹った感情に浴びせかける冷や水に苦労はしていなかった。


「その……解らないんだ。オペレーター1人と友軍機11機では、つり合いが取れないだろう? それに――3度目がどうなるかもわからない」


 精神を急速に冷却していく問いに付け足された言葉が、今の彼女にとっての本音だった。

 2度目を乗り越えた先の3度目の出撃。彼女にとっては全くの未知の領域であり、今度こそ本当に予測が出来なくなる。せっかく生き延びた彼が、そのような闇の中に踏み込んでいくことへの躊躇が、ズメイへの移籍が白紙に戻った後でもノルンを素直に安堵できなくさせている、最たる原因だった。

 しかしながら、苦悩するノルンを他所に、対面する鴉は一言一句言い聞かせるようにして魔女の躊躇を踏みにじってみせる。


「知ったことか。僕には関係ない」


「出撃前にも同じことを言ったはずだ」思わず顔を上げたノルンの視界に、挑むように口角を僅かに歪めるレーヴァンの姿が飛び込んで来た。


「何も居ない虚空からいきなり黒雀が飛んできたわけでもなし。リスタ河から撤退する機体を襲撃して戦力を削り取るのは旗色が悪くなってきた方が取る策としては真っ当なものだ。連邦側が選ばないと言う道理は無い。今回は単に運が無かっただけの事だろうさ――重要なのはその後だ。ジンクスの実在は定かじゃないが、君に助けられたのは確かだ」


 自身を射抜く真っ直ぐな瞳から逃げる様に、ノルンは首を横に振った。「私が救ったわけじゃない。私が何をせずとも、貴様は天龍に救われていただろう」ねたような声ではあったが、その顔には不相応な勲章の授与に尻込みする、敗残兵の様な感情が浮かんでいる。


「うん、確かにその通りだ。けれど毎度の様にケミナ殿の厄介になるわけにはいかない。重要なのは、君が君自身の務めを果たしてくれたと言う事だ――信頼と言い換えてもいいだろう」


「信頼だと?」再び狼狽えていた群青の中に、何処か警戒するような光が混ざる。しかしその光の奥には、全く逆の想いが小さな灯となって揺らいでいるように見えた。


「撃墜が不可避となれば、たかだか傭兵1人の為に護衛戦闘機と戦闘捜索救難機を工面してくれる。ウィザードにとって、これほど有難く心強いことは無い――君にならこの先も命を預けることが出来る。少なくとも、僕はそう確信している」


 特に大きな声を出しているわけでもなく、通路の中には雑音が響いていると言うのに、彼の言葉はそれらの障壁を乗り越えてノルンへと過不足なく届き、記憶の底へと落ちつつあった十数時間前の台詞を呼び起こした。


 ――関心があるのは、君が何時ものように判断を下せるかどうか、ただそれだけだ。あいにく僕は、出来ないと思う奴に背中を預ける趣味は無い。疫病神の看板はそろそろ飽きただろ。やって見せろよ、運命の女神ノルン


 ザクリ、と温かく甘い棘が音を立てて精神に突き刺さる。

 他者からの負の感情をやり過ごす手段は無数に心得てはいたが、純粋な好意や敬意を受け止める方法は知らない。それとも彼の言葉だからこそ、此処まで深く突き刺さるのだろうか――真実はどうあれ、彼女にとっては新種の猛毒に等しいことは事実だった。

「それが、ジンクスや11機の僚機よりも重要なのか?」それでも、もうほとんど意地の様な反論が彼女の口をついて出ていく。

 だが、友好的な他者からの好意の受け止め方を忘れた魔女が、手渡された好意を――それも、無自覚ではあるが、自分自身が信じたがっている者からの好意を――跳ね除けられることなど出来はしない。ノルンの口から飛び出ていったのは弱弱しくかすれた喘ぐような問いかけで、もはや全く逆の意味を込めてしまった哀願に近くなっていた。

 もっとも彼女の問いを受けた彼は、その中から最終確認以上の意味を汲み取る必要性を感じていない。彼女と組み続ける最たる理由は、既に伝え終えている。


「何度問われようと、君のジンクスなど正直どうでもいい。味方が11機も居るのは確かに有利だろうが、結局のところ戦うのは他の誰でもない僕自身だ。空の戦いはマクロで見れば確かに集団戦だろうけど、個人自体はどうしようもなくミクロの存在で、その実究極の個人戦に違いない。そして何より――」


 一つ言葉を切ったレーヴァンは、軽く息を吐く様に意図的な諧謔味かいぎゃくみにじませて見せる。


「編隊戦闘は出来ない事も無いが、窮屈で仕方がない。端的に言えば、好みじゃない」


 自然体で紡がれた言葉は何処か冗談じみてはいたが、それ故にその言葉以上の意味を持たなかった。

「お前な――」真正面からその言葉を受けとったノルンが内心に突き刺さった棘を忘れ、思わず呆れるような声を上げそうになった直後、これが彼の中に在る本音の一つであることを直感的に理解する。

 どうやら彼にとって私が抱いている恐れや躊躇は、あの最悪の戦況を潜り抜けた後でさえ、彼自身の快不快よりも優先されるべきものでは無いらしい。であるならば、もう私の手元には彼を拒むべき理由は存在せず、残る判断基準は私自身のの問題になってしまう。――問題と呼ぶには、あまりに出来レースに過ぎる問題だが。

 すっかり別の感情に食い散らかされ、残滓となった虚無の破片を追い出すように溜息をつく。知らないうちに自身の中に生まれていた、決して不快ではない暖かなモノに気づかぬ振りをしつつも、彼女は無意識のうちに微笑を浮かべてしまっていた。


「いや、何でもない――確かに、貴様の飛び方では着いて行く方が難儀するだろうからな。この先永久に単機で居る方が【エントランス】の為かもしれん」

「だからと言って、単機で敵陣に突っ込めなんて依頼は持ってくるなよ。編隊戦闘は好きじゃないが、友軍機が要らないってわけじゃ無いんだから」

「依頼の選り好みにも限度があるからな。まあ、当面はミネルヴァの借りを何とかする事を考えるか」

「今のうちにSu-57あたりでも予約しておくか?」

「明日にも領収書が来るぞ」

「勘弁してくれ」


 大げさに肩を竦めると同時に、レーヴァンを呼び出す艦内放送が二人の頭上に降りかかった。くぐもった声には少々の苛立ちが含まれていたが、当の本人は全く悪びれた様子もなく「そう言えば、戻ったら顔を見せろとラルフに言われていたな」などとボヤいている。

 直後、療務室から今度はノルンの呼び出しがかかる。しかし、彼女もまた「抜け出したのがバレたか」と何処か他人事のように受け止めていた。

 通路の真ん中で顔を見合わせた二人は、どちらからともなく苦笑を零す。最初に在ったギクシャクとした雰囲気は、2つの放送によって止めを刺され完全に霧散してしまっていた。


「ラルフはへそを曲げると厄介だ、とっとと行って済ませてこい」

「そうさせてもらうよ――ところで、一体どうして僕よりも重傷なのかについては、後で聞かせてもらってもいいか?」

「気が向いたらな。終わったらセピアに来い、一杯位おごってやる」


「珍しいこともあるもんだ」再度苦笑を零し、司令室へ向かう為に「またな」と彼女に背を向けた直後だった。

 トン、と軽い衝撃を背中に感じ、思わず足を止める。

 本当にこんなキャラだったか? と若干混乱気味に彼女の意図を探ろうとした時。レーヴァンの背中に額を押し付けたノルンが先に口を開く。先ほどとは打って変わり、甘みを含んだ声だった。


「そう言えば。もし落ちたらなんでも一つ言う事を聞くとか言っていたな?」

「あー、うん。言った、言ったな。確かに言った」

「ろくでもない賭けをするからだ、馬鹿め。これに懲りたら、もう少し言動には気を遣え」

「善処する。で、希望は?」

「簡単なことだ――もう二度と負けるな」


 背中に広がり始めていた熱が離れる。振り返った先には、既にこちらに背を向けて足早に歩き出した華奢な後ろ姿があった。何か返事をするべきだろうかと口を開きかけた時、微かに震えた彼女の声が、喉まで出かかった言葉を押し戻す。


「ああそうだ、一つ忘れていた」


 立ち止まった彼女が背を向けたまま紡いだ微かな音は、かつて聞いたことがない程に柔らかな声だった。


「おかえり」




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