小さな証言

増田朋美

小さな証言

小さな証言

梅雨時らしい、雨が降って、少しばかり雷が鳴ったりもしたが、午後はよく晴れて、少しづつ人でも出てきた。公園には、犬の散歩をしていたり、猫を抱っこして、遊ばせたりしているお年寄りたちが多くいる。最近のペットブームは、犬や猫だけではなく、変わったペットを飼う人も多くいるようだ。

「こんにちは、水穂さんいますか?」

と、由紀子は、製鉄所のインターフォンのない玄関をガラッと開けて、そう言った。駅員の仕事がない日は、必ず、製鉄所を訪れるようにしている。製鉄所と言っても、鉄を作る工場ではなく、ただ、勉強したり仕事したりする場所を貸す施設なのだが、由紀子には、一番愛する人がいる場所でもある。

「ああ、由紀子さんか。水穂さんなら、今、たまと遊んでるよ。大丈夫だから入れ。」

応対した杉ちゃんが、由紀子にそういうことを言った。杉ちゃんの長い指に、指貫がついているから、多分、着物を縫っていたのだろう。

「眠っていらっしゃらないんですか?」

由紀子が聞くと、

「ああ、起きてるよ。最近ぱくちゃんが作ってくれる何とかというすいとんがうまいみたいで、それを楽しみに待っているみたいだよ。」

と、杉ちゃんはいった。

「そうなんですか。大丈夫、かな。水穂さん、ぱくさんに待たされて、体力消耗してしまわないでしょうか。どうも私、あの、ウイグルの男性はちょっと苦手で。」

「まあそうか。それは気のせいじゃないか?ぱくちゃんは、悪い奴じゃないし、うまいもんを沢山作ってくれるし、優しい男だよ。元々、ムスリムだったことで、ちょっと苦手だなんていったら、其れこそ偏見でしょ?まあいい、とりあえず、入れ。」

そういう由紀子に、杉ちゃんは急いでそう言って、由紀子に建物内に入るように促した。由紀子はお邪魔しますと言って、段差のない玄関で、靴を脱ぎ、急いで建物の中に入った。

「水穂さん、本当に具合がいいんでしょうか。もしかしたら、何かまた、緊張するような事を強いられて。」

由紀子は、廊下を歩きながら、そういう事を言った。

「大丈夫だよ。お前さんは、心配しすぎるあまり、マイナス思考になっちまう癖があるようだな。其れは、損をするだけだから、やめた方がいいよ。」

杉ちゃんはそう言っているが、由紀子はまだ心配そうだった。

「おーい、由紀子さんが来たぜ。ちょっと起きてやれ。」

杉ちゃんが四畳半のふすまを開けると、返ってきたのは人間の声ではなくて、ワンという犬の鳴き声だった。あれ、こんなところで犬を飼っていたのかと由紀子は思ったが、確かに、水穂さんは真っ黒な、イングリッシュ・グレイハウンドを飼っている。名前は確か、と、由紀子は考えていると、

「ほら、たま静かに。」

という声も聞こえたので、名前はたまだと分かった。何だか猫みたいな名前だけど、たまという名前だった。

「入りますよ。」

と、杉ちゃんが四畳半を開けると、水穂さんは、よろよろとではありながら、布団の上に起きた。起きた時ちょっとせき込んだので、由紀子は、大丈夫かと言いかけたが、その相手としてたまが、ワンという声をあげたので由紀子は、今はたまが彼の保護者見たいだった。

「ああ、由紀子さん。どうもお世話になります。」

水穂さんはそう言って座礼したが、由紀子は座礼されても嬉しくなかった。せめて自分には、軽い気持ちで挨拶してほしいのに、と思うのだが、水穂さんはそれをしなかった。

「水穂さん、無理して起きなくていいわ。寝たままで挨拶してくれてもけっこうよ。」

由紀子は思わずそういうのだが、

「まあ、それは無理だな。水穂さんみたいな人は、丁寧すぎて、だめだと思うよ。」

と、杉ちゃんにいわれて、由紀子は少し憤慨した。其れと同時にたまが、水穂さんの近くに顔を刷り寄せた。水穂さんがたまの体を撫でてやっているのをみて、由紀子はさらに気分が悪くなった。

「どうしたの?怖い顔しちゃって。」

杉ちゃんにいわれて、由紀子は言い訳を作るのに少し考えなければならなかった。とりあえず、

「いえ、こんな大きな犬が、水穂さんのそばにいて、ちょっと負担に、ならないかなと思って。」

と、いってみる。

「大きな犬というか、水穂さんにとっては、かけがえのないペットだからね。たまをかわいがっているようだし、たまも水穂さんの事を癒してくれる存在でもあるからね。」

杉ちゃんにそう言われて、由紀子はたまのせいで、水穂さんが負担をかけられているのではないかと言いかけたが、いえなかった。代わりに、

「いえ、たまは元々、犬の世界のマラソン選手みたいな犬種でしょ。ネットで調べてみたんだけど、飼うには、マラソン選手を育てるつもりでとにかく走らせるって書いてあったわ。そんな犬がいつまでも部屋の中にいて、ずっと座っているのも辛いんじゃないかしらって、そう思っただけよ。」

と、いってしまった。

「まあ確かにそうかもしれないけどさ。たまも後ろの足が悪くて、マラソン選手はもうとうの昔にやめている。それは、しょうがないから、代わりに、こういう風に、水穂さんたちを癒してやっている訳。」

と、杉ちゃんがいうが、水穂さんはたまのせいで無理をしているのではないかと由紀子は思うのだった。

「水穂さんは、たまに本当に癒して貰っているのかしら。」

由紀子は、ちょっと不安そうな声で言った。

「すくなくとも犬を飼うっていうんじゃ、一日に二回は散歩に連れ出さなきゃならないでしょう?それは、どうしているの?」

「利用者さんが連れて行ったり、時々獣医のエラさんが来てくれたりするよ。」

杉ちゃんはそういうが、由紀子はまだ不安そうだった。

「そうだけど、やっぱり犬を飼うということは、負担になる事だし。」

「まあ、そうかもしれないけどね。たまの散歩は、ほんの数分で済むよ。足も悪いし、ボールとってこいの遊びも、ボールについていけないしね。だから、利用者さんたちがしてくれればそれでいいんだ。」

杉ちゃんはデカい声でいった。

「まあ、いいじゃないですか。由紀子さんが不安になるんだったら、たまの散歩に、いってもらえばそれでいいさ。」

由紀子はなんでそんな事をと思ったが、水穂さんが隣でせき込みだしたので、急いで薬飲みましょうかと彼に尋ね、もう横になった方がいいわと言って、無理やり横にならせた。杉ちゃんのほうはというと、たまの赤い首輪にリードをつけている。

「じゃあ、由紀子さん、丁度良いから、たまの散歩に行ってきてくれ。」

由紀子の手に、たまのリードが乗ってしまった。

「水穂さんの世話は、僕がするから。公園を少し歩いてくれるだけでいい。30分も歩く必要はないから。今ここで歩けるやつはお前さんだけだからな。じゃあ頼む。」

由紀子は、水穂さんのそばにいたかったが、杉ちゃんにいわれてしまって、仕方なくたまの散歩に行くことにした。仕方なく、たまのリードを引っ張って玄関先に行き、製鉄所の建物の外に出て、たまと一緒に道路へ出た。確かにたまは左の後ろ足が悪かった。引きずって歩くしかできないのだった。犬の世界のマラソン選手と言われるイングリッシュ・グレイハウンドではあるが、そんな言葉は問題にならないほど、当てはまらない犬といえるかもしれない。

たまの足を引きずって歩く姿を、誰かが笑うかもしれないと由紀子は思った。確かに、子供の声だろうか、誰かが笑っている声が聞こえてくる。その声は、たまを見て笑っているのだろうか?いくら犬でも、あんなふうに笑われたら、プライドというか、そういうことが傷つくと思う。由紀子は立ち止まって、誰が笑っているのか周りを確認した。

辺りは丁度、バラ公園の近くだった。入り口のところで、何人かの中学生がいる。皆学ランを来ているし、背丈も由紀子と変わらないので、中学生だと思う。中には、変声期に到達していないのか、まだ女性の声に近い声で笑っている声も聞こえた。

由紀子が見てみると、笑っているのは、たまに対してではなかった。中学生たちは、輪になっている。その中に一人の男子中学生がいて、彼だけが周りの中学生に囲まれて、嘲笑されているのだと由紀子は見て取れた。

何をしているんだといおうか迷った。被害にあっている少年が水穂さんと同じような顔に見えて、何とかしてやりたいと思った。でも、それにしては、攻撃側の人数があまりにも多すぎる。由紀子一人では、少年たちに暴行されてしまう可能性もある。由紀子はその少年たちの鞄を見てさらにびっくりした。確かその鞄は、名門と言われている私立学校の物である。由紀子が彼らに声をかけようかと思っていると、たまが大きな吠え声をあげて、彼らに向っていこうとする。幾らリードをつけているといっても、流石は大型犬ということもあって、一度引っ張られるとなかなかコントロールが利かなくなってしまうのだ。

由紀子を引っ張りながらたまはその少年たちの集団に突っ込んでいった。まるで足が悪いのも忘れてしまったような雰囲気だった。そして、いじめをしている少年の一人の腕にかみつく。いてえこの犬!と少年たちは反撃しようとしたとき、由紀子は思わず、

「何をしているの!すぐにやめなさい!人をいじめてはいけないのよ!」

と金切り声で叫んでしまった。それを聞いて、バラ公園近くの住宅に住んでいた人たちが、なにがあったんだといって出てきたので、少年たちは逃げろと言って、すばしっこく逃げて行ってしまった。こういう時、たまが犬の世界のマラソン選手でいてくれたら、少年たちを捕まえることもできたのだろうが、それはできなかった。でも、一人の少年にかみついていたままだったので、被害少年と加害少年の一人は残った。バラ公園近くに住んでいた、ちょっと教養がありそうな男性が出てきて、

「一体どうしたんだね。いじめてはいけないといったが、本当にいじめをしていたのかな?」

と加害少年に聞いた。被害少年のほうがすぐに、

「違います、僕がテストで不正行為を働いたので、それを注意してもらっただけです。」

と涙ながらに言った。

「はあ、それは本当なのかな?」

と、男性が聞くと、加害少年もたまにかまれたまま、

「ああ、そういうことです。うちの学校では、各単元が終わるごとに、小テストをするのですが、その時に、彼は机にしまってあった教科書を覗き込むようなしぐさをしましたから。」

と、口裏をあわせた。

「そうなんだね、まあ不正行為というのは、確かにいけない事でもあるけどさ。」

と男性が言うが、いきなりたまが、加害少年の腕を離して、彼を責めるような顔で吠え始めた。加害少年は、逃げてしまおうと思ったが、たまが厳しい顔をしているので、逃げられないと思ったのだろうか、涙を流して泣き出してしまった。

「ごめんなさい、僕は悪気があって塩田君にいじめをしたわけではありません。ただ、そうしないと、学校で、平穏に生活することができなくなるからです。塩田君をいじめないと、僕の方がいじめられて、

学校にいけなくなってしまう。」

「そうなのね。それでは、自分の身を守るために、ほかの子をいじめて良いとでも言いたいの?そんな事は許されないわよ。それは、やってはいけないことじゃないの。」

由紀子は、加害少年の顔を見て、急いでそう言ったのであるが、ここで被害少年が立ち上がるのであった。

「いいんだよ。竹森君が僕と同じようにいじめられたら、やっぱりかわいそうだもの。竹森君が、僕と同じようにいじめられたら、やっぱり辛いものね。」

「二人とも、ちょっと待ちなさい。そもそも、なんで学校でいじめというものがあったのか、ちゃんと話してくれないだろうか。」

と、教養深いおじさんが、そういうことを言った。

「いや、大した意味はありません。別に彼が悪いとかそういうことでもないです、ただ。」

「ただ何なの?ただという理由でいじめをしていいわけではないでしょ。それは、あなたくらいの年ならわかると思うんだけど。」

由紀子は思わずそう言ってしまった。

「もし、理由があるんだったら言ってしまいなさいな!学校なんて、何にも役に立つところじゃないわ。受刑者ではなく善良な人もいるけど、かえって刑務所とおんなじような物よ!」

「すみません。僕は何も知らないんです。ただ、クラス委員をやっていた人が、塩田君は頭が良くて、成績が良くて、家も裕福だから、処分しようって言いだしただけの事です!」

と、竹森君と呼ばれた男子生徒がそういうことを言った。

「そうなのね。まあ確かに君もつらいと思うけどさ、でも、だからと言って人をいじめちゃいけないよ。それは、ちゃんと言えるようにならなきゃ。学校の先生や、ほかの人に相談してさ、いじめが亡くなるように、努力して行かなければダメなんだ。それは、わかるよね?」

教養のありそうなおじさんはそう言ったけれど、

「それはどうかしら。変えることができない事実だってあるわ。それを、決して受け入れられない人だっているわ。」

由紀子は、小さい声で言った。

「できれば、今の学校ではなく、二人とも学校を変わった方が良いと思うの。もういじめた人のいるようなところには行かないほうが、将来のためになると思うわ。それをいう勇気が必要じゃないかしら?」

「おばさん。ありがとう。でも、僕、親があの学校に入ることを心から望んでいるから、学校を変わることはできないよ。」

と、竹森君という男子生徒は、そういうことを言った。

「其れなら、学校に行かないほうがいいわ。親が何もわからないなら、ハンストするつもりで行動に移すのよ。それをした方がよほど、安泰な人生を送れるわ。そんなに荒れ放題で、でも、外からはいい学校の仮面被って、それを保つだけで背いっぱいの学校なんて、碌な所じゃないってあなたたちが態度でしめすのよ!」

由紀子はいつの間にか、二人の生徒たちを擁護している立場になってしまっている。教養のありそうなおじさんは、其れを変な顔で見た。

「ちょっとお姉ちゃん。一体何を言っているのかな。学校の問題は、学校の先生とか、保護者とか、そういうひとが何とかしてくれると思うけど。」

そういうおじさんに、由紀子は急いで、

「いいえ、そういうひとたちほど役に立たない人はいません!だから、生徒さん本人が意思をしめすしかないんです!さっきも言ったけど、學校ほど、こわい洗脳施設はないですから!」

と、言ってしまった。

「よくわからないな。君はなんで、そんな事を主張するのか。学校の事は、学校の先生や生徒で何とかするべきだと思うけど。」

おじさんがなお話をつづけるが、由紀子は、こういうおじさんのような大人こそ、何の役にもたたないことを、話してしまいたかったけど、それをいうことはしないと思った。すると、そこへまたたまが高らかに遠吠えをあげる。由紀子はたまにエールを貰ったような気がして、言ってしまうことにした。

「私の親友は、伝法の坂本の出身だったから、学校で大変な思いをしたそうです。彼は、どうしてもそこにいるしかできなかったから、ほかのひと以上に辛い思いをして、体まで壊して、今床に臥せているんです。そういう風に、学校を変わらなかったせいで、辛い思いを背負って生きていなきゃいけない人になる前に、そういうところから、逃げた方が良いのではないかと思うんですが!」

由紀子は高らかに言ってしまった。それを聞いておじさんは

「はあ、なるほど。伝法の坂本ね。あんな場所に住んでいた人と親友になったなんて、あんたさんも碌な人じゃないね。」

と言って、自分は関わりたくないような顔をして、その場から立ち去って行ってしまった。

「おばさん。」

少年たち二人は、由紀子に向ってそう言っている。二人はいつの間にかいじめの被害者加害者という枠は何処かに行ってしまって、同じ位置に並んでたっているのだった。

「僕たちの事を気にかけてくれてありがとうございました。僕たち、正直に言えば、もう死んでも良いと思っていたんです。僕たちはただ、親の自慢話の種にされるしか生きがいはないし。それでは、もう生きていてもしょうがないかなって、思っていたのです。其れなのに、おばさんが僕たちに行動を起せなんて言ってくれて、ありがとうございました。」

「いいえ気にしないで。当然の事をしただけの事よ。」

と、由紀子は二人ににこやかな顔で言った。

「どうしても、あなたたちにできないことは、何もできないと正直に行ってしまうことが、最善の方法だったということだってあるわ。」

「ところでおばさん。ちょっとお尋ねしたいんですけど。」

と、塩田君という少年が由紀子に聞いた。

「あの、おばさんの親友というひとはどんな人でしょうか。伝法の坂本って、僕たちよく知らないけど、何か、住んではいけないところだったんでしょうか?」

やっぱり優秀な学校に行っている子供だ。こういうことに興味を持ってくれるなんて。でも、それを話してしまうことは、水穂さんを又苦しめることになるのではないかと思った由紀子は、

「ええ。おばさんが話してしまうのは簡単だけど、それはきっと、学校で勉強すれば、わかってくることだと思うわ。学校というのは、本来ならそういうことを沢山おしえてくれるところだから。それは、わかるわよね?」

と、だけ言っておいた。学校というところはそういうところであってほしかった。いじめをするところでもないし、親の自慢話のネタを提供してくれるところでもないし、ましてや、死にたい気もちにさせるところでもない。

「必ず、行動を起すのよ。それでなければ、あなたたちも、あなたたちの家族も、辛い目にあってしまう。それだけはどうしても避けてもらいたい。だから、学校でこんな事があったんだって、必ず親御さんや、先生に話してね。」

「分かりました。」

「ありがとう。」

二人の少年たちは、由紀子の顔を見て、にこやかに笑い返した。そしてお互いの顔を見合った。もしかしたらこの二人、腹心の友と呼ばれるような関係になってくれるのではないかなと、由紀子は思った。

そのころ、製鉄所では、薬のせいで眠っている水穂さんと、由紀子さん遅いなあと、壁の時計を眺めている杉ちゃんが、由紀子の帰りを待っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小さな証言 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る