弐
目の前に並べられた牛タン、カルビ、ハラミ、豚トロ、厚切り肉、セセリと、向かいに座る恋人を交互に見つめて私は苛立ちと困惑を抑えられずにいた。
「それはゆりちゃんが悪いよ。」
先程言われた言葉を反芻してみる。
今日の昼、私はアルバイト先で高校生バイトのミスの責任を負ってクレーム客に30分以上怒鳴られ続けるという酷く精神が摩耗する体験をした。なんでも、炒飯にビニール片が混入していたらしい。
「え、私が悪いの?何で。」
3分ほど考えてやっと出た言葉を口にすると呆れたように恋人は言う。
「そもそも高校生に調理を任せるのもどうかと思うし、クレーム出た時点で店長に引き継げば良かったんじゃない?」
違う。何も分かってない癖に。
「店長はいない事の方が多いから店の責任者はシフトの最年長者になるから…店長にも連絡したけどすぐ来れるわけじゃないし。」
「それは気の毒だけどさ。そもそもそういうブラックなバイトなんて辞めたらどう?いつも文句ばっかり言ってるけどそんなんなら他のとこ探せばいいじゃん。」
違う。そんなこと言って欲しいわけじゃない。
確かに言ってる事は正しいのかもしれないが私はただ労って肯定して慰めてほしかっただけだった。うんざりし切った恋人の顔にひどく苛々してしまった私は、味気ない薄いハイボールを一気飲みして、5000円札を机に叩きつけた。
「もういいわ、今日帰るや」
そのまま振り返らずに店を出た。後ろから何か聞こえたが無視した。杉並と武蔵野の間にあるこの街の繁華街を、泣きながら駅に突っ走った。
駅前のコンビニで、いつもは飲まないストロング酎ハイを買ってベンチで煽るように飲んだ。
恋人の橋下は、九州の片田舎の予備校で出会った1つ上の男性で、大学進学のために一緒に上京して結局四年近く付き合っている。顔はタイプではないがとにかく優しくて好きになったので私から告白した。大学は違うが良い関係を築いてきたつもりだった。二人で何度も旅行に行ったり遊びにも出かけたし両家族交えての旅行なんかも数回行った。
しかしここ一年、顔を合わせれば今みたいに喧嘩ばかりで、靴を揃えないとか服が変だとかちょっとした事が目について苛立つようになってきてしまった。それは向こうも同じなようで、昔のように私を全肯定してくれていた彼の面影はどこにもない。
缶酎ハイを飲みながら、このまま家に帰るのも気が晴れないので何となくSNSに投稿してみる。
『今から飲める人!』
どうせ返事なんて来ないだろうとスマートフォンを鞄にしまう。途端、着信音に驚いた。大学同期の森本からだった。
「サシになっちゃうけど今から飲めるよ。家来ない?」
森本とは特別親しいわけでもないが親しくないわけでもない。時々話すだけの男の家でサシ飲みは浮気じゃないか、と一瞬よぎったが飲むだけなら浮気じゃないと無理矢理結論し、空き缶をゴミ箱に突っ込んでタクシーに乗り込んだ。
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家に着いてから数時間の記憶が飛んでいた。気がついたら私は大泣きして森本に泣きついていた。
「ゆりは何も悪くないよ。頑張ってるよ。」
ああ、そうか。私、事の顛末を全て話したのだろうか。森本は私を抱きしめてひたすら慰めの言葉を発していた。
「私、頑張っても彼氏も親も店長も友達も誰も分かってくれない。」
腕の中でうわ言みたいに泣き喚いた。言う必要無いのに今まで抑えていた言葉が次から次から出てくる。
認めてほしい。肯定されたい。否定されたくない。慰めてほしい。肯定して肯定して肯定して肯定して。私を否定しないで。
「俺は分かってるから。泣いてもいいから。何でも話して」
そう言われて、泣き腫らした目で森本を見つめて、ありがとうと呟いた。こんなに私を全肯定してくれる人は久しぶりだった。
どちらからともなくそのままキスをした。橋下に悪いと思ったのに抗えなかった。私を分かってくれないアイツが悪いんだとさえ思ってしまった。
森本は壊れ物を扱うみたいに大切そうに私に触れた。雨音がずっと響いていた。
全て終わった後、2人でコンビニに行って水を買って疲れ果てて眠った。
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聞き慣れない鳥の鳴き声で目が覚めた。時計に目をやる。午前9時過ぎくらいだから5.6時間は眠っていた事になる。
「何これ、何の鳥?」
昨日の酒が抜け切ってない。二日酔いでガンガン痛む頭で、私の隣で眠そうにスマートフォンをいじる森本に尋ねた。
「何かこの辺で外来種のインコが繁殖してるらしくてその鳴き声。緑のやつ。」
返事が思いつかなくてへぇ、とだけ返した。心なしか昨日より言葉尻が冷たいような気がした。殺風景な部屋を見渡す。空き缶が数本転がっていた。
「どうしてあんな事したの?私のこと好きなの?」
何か話していないと罪悪感で押しつぶされそうで尋ねてみた。
「可愛いとは思うけど好きではない。何でしたかは分かんないけどその時は何となくそうしたかった。そもそも人を好きになるって何なのかよく分かんない。」
緑のインコとやらの鳴き声に混ざって町内放送が聞こえる。この町ではオレオレ詐欺が多発しているらしい。
「でも、ゆりが辛い時は何でも話聞くよ。俺は何も否定しないしまたいつでも家に来て良いから」
何だそれ。好きでもない人と何となくそんな事するなんて最低だと思ったが私も同罪な事に気が付いて何も言えなかった。町内放送とインコの鳴き声だけが響き渡っていた。
私は申し訳程度に部屋を片付けて帰路についた。帰り際、玄関先で森本はポン、と私の頭を撫でてくれた。 昨日まで降っていた雨は嘘みたいに上がっていた。
高架下を歩きながら二日酔いで回らない頭でぼんやり考えた。
この事はなかった事にしよう。甘えたらいけない。誰にも話さないで墓場まで持っていく。森本とはこれまで通り時々大学で話すだけの友人だし、私は卒業したらそのまま橋下と結婚する。私を1人にするのが心配とか言って東京までついてきた過保護な両親もそれで安心してくれる。みんなそれで幸せになる。自宅に帰ったらちゃんと橋下に昨日の喧嘩のことを謝ろう。
駅ビルで入ったトイレの鏡を見て首元にキスマークを付けられていることに気がついた。
いつの間に。彼氏がいる女にこんな事するなんて信じられない。いや、私も信じられない、取り返しのつかない悪い事をしてしまった。
何となく、江戸時代に罪人には刺青が入れられたという話を思い出した。
終煙 江田霞 @kasumi_tt
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