第17話

 父は目を泳がせ、過去を振り返る。頷き、笑った。

「少なくとも、碧の死だけを哀しむ余裕はなかったかな。うん。確かに、碧が紫織に言葉を教えなかったのは、私たち二人への贈り物だったんだよ。今、理解できた。納得はできないけどね」

 父はハンカチを取り出し、手渡す。

「馬鹿姉貴」

「違いない」

 しばし、春の空気に浸る。さくらは、何か花を摘んでいる。レコードの軽快な調べに交じる父の笑い声。顔をしかめる。

「いや、タロウさんの子守唄には随分、助けられたものだなと思って。私も当時は気が動転していたのだよ。娘の小さな口に手をつっこんでみたり、モールス信号の訓練用CDを聞かせたり。今思えば外国語を複数同時習得なんてのもやりすぎだった」

 タロウは祖父の名前だ。

「モールス信号のCDは最悪だった」

 ぼそりと呟く。意味が全く解らないものだから、攻撃魔法の呪文のようであった。

「うん、レコードの音楽に音を乗せるのは楽しかったよ」

「そういうケアの仕方があるんだ。失語症患者対象の。普通には喋れないのに、リズムに乗れば単語を発することができる」

 失語症。ある意味、そうかもしれない。母でさえ、簡単な英語を話していたのだから。それに、祖父のコンサートを聴くために、姉と二人、世界中を旅していたこともある。

「私は小華に言葉を教えた。確かに、本人の学びたいという意志はあった。それでも、これでよかったのかと思い悩む日はあった。でも、タロウさんと会って迷いは晴れたよ。ありがとうと言われたんだ。うちの娘は、歌うように話す子だったと初めて知ったと。たとえ、一方通行であったとしても、想いを伝えられるということは何と尊いのかと感激したと」

 それから、何故、娘が愛するものを噛むのか、自説を紹介してくれた。曰く、父はチェリストなので、弦をつま弾く親指が固い。母は、病の後遺症で、肌がデコボコである。つまり、大好きな人の肌には特徴があるものだと理解しているのだろうと。だから、噛んで印をつけるのだろうと。父は顔を真っ赤にして、その話を聞いていたのに違いない。

 少年であった父は、タロウさんに尋ねる。娘さんにご自分のチェロを聴かせたいと思ったことはありませんか。タロウさんは破顔する。それなら、いつも聴いているよ。小華の母親は、私のチェロを聴くとよく眠れるんだ。その胸元に顔を埋めると小華もよく眠れる。あの子は、母親の心音や息遣いを通して私の音を確かに聴いているのだよと。

 この子は、眠ることができるから、大丈夫。小華の両親の共通認識。

 小児科の奥まった病室で、一人、生き地獄を味わった祖母。祖父と出会い、チェロの子守唄で安静を得る。深い睡眠によって、病状は回復していく。二人は結婚して、娘を産む。天使のような赤ちゃん。

 お子さんにはきっと障害がありますよと医師から説明される。

 それは、治療できますか。

 ええ。困惑する医師。

 なら、良かった。私は、治療できない苦しみを身を持って知っていますから。それにしても、この子はなんと美しいのだろう。すやすやと寝息を立てている。確かに身体は小さいし、色も薄いけれど、でも、肌がこんなに滑らかなのよ。本当に私が産んだなんて信じられない。神様、ありがとう。私たち夫婦に美しく健康な子供をくれて。

 決して短くはない入院期間を経る。家では、とにかく、規則正しい生活を心がける。生活リズムを整えることを第一に。穏やかな日々。奇跡みたいな数年間の後、祖母の壊れかけの内蔵がついに悲鳴を上げる。

 ある日、祖母は宣言する。

「うん、決めた。小華は画のモデルにしよう。プロのモデルだよ。お金をもらうの」

 それは、いいね。

「小華は、レコードがあれば、他の人とでも一緒に眠れるはずだから。だから、タロウさんは、私が死んだら、子供時代の私みたいな子を助けに行ってちょうだい」

 目だけが、強い光を放っている。約束をした。だから、実は請われて病院や施設に行くのがメインで、その費用を捻出するためのチャリティコンサートのほうがおまけなのだ。

 父は、四木家の来歴を聞き知って、得心したと言う。それは、一見して感じる小華の君の穏やかさと、内包する激しさと。

「ねえ、紫織。通り一辺倒ではない少女たちは、確かに何かを与えてくれる少年を求めた。でもね、それは、男の子から見たら、何かを共有したいという想いだったのだよ」

 父と視線が噛み合い、息を呑む。涙が一筋流れる。

「お前に必要なのは、想いを共有する相手だよ。それが、あの娘だ。お前は、母が亡くなり、言葉を奪われ、姉が亡くなり、また言葉を奪われ、そして日常を失った。だから、これからは、あの娘と一緒に育っていきなさい。あの時に、お前が伝えたかった言葉、あの娘なら確かに受け取ってくれるはずだ。そして、自分の母が亡くなった時に、髪の毛をくれたお姉さん。あの娘にとっても、きっと紫織は必要だ」

 私は頷く。涙を拭う。父が微笑む。

「それでは、あの娘を呉家に迎えよう。お前の妹だよ」

 父は中庭に面するドアを開ける。さくらに声をかけようとして、こちらを向く。

「ところで、あの娘は日本語が話せるのか」

 さくら。金髪碧眼の女の子。私は、自分の髪の毛と引き換えに、新しい家族を得た。





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啓蟄 神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ) @kamiwosakamariho

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