第16話

 月岡学園の玄関ホール。床は正方形で、吹き抜けになっている。

 あんまり生徒に人気があるものだから、絵葉書を作った逸話を持つ画。

 呉紫織は、久方ぶりにその画と対面した。

 ああ、同じチューリップだ。

 寝転がって、春の花とたわむれる少女。今にも笑い声が聞こえてきそうな錯覚がする。

 ずっと不釣り合いだと思っていた小さな唇の紅。あれは、口紅ではなく父の血の色だったのだ。そもそも母は化粧をしない。姉の切りそろえられた毛先と、ふわりと巻かれた私の毛先と。母はリボンやレースの触感を楽しんだものだった。

 だから、母は知らない。自分の日本人離れした容姿のことも。ただ姉妹が父と似ていると言って、喜んだ。そうか。さくらは私たちの母と似ていたのだ。さくらがあまりにも幼いので、そのことが意識に上がらなかったのだ。当のさくらは、やはり、絵画には興味がなく、さっさと中庭へ遊びに行ってしまった。呆けていると、隣に白衣姿の紳士が立っている。父である。画の正面に置かれたベンチに座したまま、あごを上げる。

「どうしたの」

 父は息を吐く。

「今朝、息を引き取った子がいて、その子から遺影を描いてくれと頼まれていた。その子は、きっとこの画を観たのだろう。どうしたものかと思ってね」

「はあ」

 私は再び正面を向く。

「可愛く描いてあげなきゃ」

「それは解っているよ。写真の苦手な子だったから、失敗した証明写真みたいなのを、私だと思われても困ると言っていたね。やはり、勉強しに行くところかな。とても物理の好きな子だったから」

「うん、いいと思う」

 私は微笑む。

「ところで、紫織こそ何の用だい」

「うん、久々にお母さんの画を観たくなったのと、ほら、これ」

 傍らに置いてあったキャンバスを父に手渡す。

「自画像か」

 矯めつ眇めつ眺める。父は頷く。

「やはり、画では碧には敵わないな」

「お姉ちゃんも、これを超える画は描けないって。だから、自画像」

 父は、鼻で笑う。

「当然だろう」

 ああ、姉が居る。記憶に無いけれど、きっとあの自信満々な姉ならば、こう振る舞うだろう。胸がちくりと痛む。軽く息を吐く。

「何せ小華の君に見初められた男だもんね」

 父は片側の唇を引き上げ肩をすくめる。惨憺たる気持ちだ。あまりにも姉と似すぎている。もはや胃が痛むのか、心臓が痛むのか判然としない。小説家の気持ちが理解できてしまう。目を閉じる。ふと音楽が漏れ聞こえてくる。ちょうど廊下に面する部屋のドアが開け放たれたのだろう。

「おじいちゃんの子守唄」

 穏やかなリズムに合わせて何度も頷く。「大丈夫だよ」するりと春風が私の身体をまわり吹き抜けていく。季節は春。さくら。

「ねえ、お父さん」

「何だい」

 私は立ち上がり、父の白衣の袖に触れる。

「こっち」

 レコードの音に導かれるように、廊下を進む。中庭に面した窓の前。父の目を見てから、庭を見遣る。父は窓を開ける。

「こはる」

「残念。名前は、さくらだよ。ねえ、やっぱり、お父さんもそう思うよね。あの子は、お母さんに似てる。私ね、あの子に頼まれて、自分の髪の毛をあの子のお母さんにあげたの」

 父が一瞬こちらを見る。

「病気でね、髪の毛なかったから。で、最期くらい綺麗な格好させてあげたいって思ったんだよ。きっと。自分は、これから先、ひとりぼっちになっちゃったのに」

 涙が口の中に入ってくる。それでも、構わずに話す。

「あのね、お姉ちゃん、自画像と一緒に私あての手紙も残してたの。そこにね、紫織は人を育てなさいって書いてあった。そうすれば、私は哀しくなくなるんだって。私は性格、お父さん似だからって。ねえ、お父さん。お父さんは、私に言葉を教えてどうだった。私、知りたいの」



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