第15話

 月岡学園は、療育施設だ。

 生徒の多くは、心身のどこかに問題を抱えている。それだから、一般の学校で学ぶことは難しい。ここへ来た少女たちは、口を揃えて言う。ここは、天国だと。

 先日も、一人の少女がやってきた。

 少女は、物理学をこよなく愛する。しかし、それを親から取り上げられた。

「少女だから」

 決して完治しない病気。死に至るまでの道程は変えられない。少女は、決めた。どうせ長くない命ならば、その時まで大切な仲間と研究しようと。親は、聞く耳を持たない。

 少女と仲間は、世間に訴える。

「少女だからという理由だけで生きる希望を奪うのならば、それはただの教育的虐待に他ならない。少女が充実した余生を送るためには、かの両親は不要である」

 少女たちが研究のアドバイスを貰っていた大学が火種となって、多くの研究者が賛同の声をあげた。世論が揺れる。世界的権威の学者の発言。親権の強制停止。

 そうして、少女は月岡学園へやってきた。

 感染症のため、一人隔絶した部屋からデジタル機器を使い、友と繋がる。時間が惜しい。少女は語る。

「私はいずれ亡くなります。でも、かけがえのない友人と過ごしたこの日々は決して色あせません。研究は残ります。私は知っています。私が研究から離脱するように、数年後には多くのメンバーもそうすることを。それでもいいではありませんか。研究とはそもそもそういうものです。人生の一部が凝縮されたものなのです。そうして、一歩でも前へ進めればと願ってやみません。研究は名前も知らない後輩たちが受け継いでくれるでしょう。私たちが顔も知らない先輩たちから受け継いだように」


 血管の破れる音がする。

 そらくるぞ。生温かい鮮血。

 くらくらする。

 自分の血で溺れないように気をつけて。全身でどうにか息をする。

 着替え。そうだ、着替えをしなくては。しばらくして、防護服を身につけた職員がやってくる。背中をさする。

「大丈夫」とは、決して口にしない。まあ、全然大丈夫ではないからね。着替えると、横になる。

「レコードかけようか」

 頷く。

 世界的に有名な音楽家の作った子守唄。それは、全身の炎症で苦しみ眠ることもできない女の子のために作られたものなのだと、呉先生が教えてくれた。

 私は眠る。夢を見た。

 まだ幼い私は、風邪っぴきで、布団の中にいた。親から寝ていなさいと言われたのに、数学の本を隠し持っている。当時、私は父と観た物理学者の映画に憧れて、自身もそうなるのだと理系の勉強に邁進し始めたところだった。

 母は言う。

 風邪なんて少し寝ていれば治るのだから、その間くらい数学の勉強は休みなさい。

 私は怒る。

 ただ寝ている時間は無駄だと。そうでなくたって、義務教育のせいで、大切な時間が奪われているというのに。

「ばかな子」と言い残し、母は去っていった。

 ばかはどちらか。むくれていると、今度は父がやってきた。

 父は諭すように言う。

 お前がお母さんに対して怒るのは、お門違いだと。立派な物理学者を目指すのならば、まずは生活態度を改めて、勉強するための体力をつけなさい。

 約束をして。

 朝、お父さんといっしょに走ること。好き嫌いをせずに食べること。夜は早く眠ること。そうすれば、お前はお前の人生最大限物理と向き合えるだろうと。

 お前が約束を守るのなら、中学は遠くにある理数教育に熱心な学校へ行っていいと。

 唐突に思い出す。母の作ったミニトマトのはちみつ漬け、キャロットケーキ。

 私は愛されていた。なのに私は親が親であることを奪ってしまった。母は今度の風邪も私がちゃんと寝ていれば治るのだと、そう信じているのではないか。だから、物理の本を取り上げたのではないか。

 でもね、違うんだよ。私の風邪は、もう治らない。だって、同じ病気になった人が効くだていう薬が、私には効かない。駄目なんだよ。駄目なんだ。私は涙を流していた。目が覚めて、夢の内容を語る。せつな先生は、こう言った。

「今、なずなちゃんが物理をできているのは、ご両親のおかげなんだね。なずなちゃんは、二人から健康貯金をもらったんだよ」

「そうだ、そうだね」

 私は涙を拭う。もし、あの時、父との約束を守らなければ、私はもっと早くに死んでいただろう。物理どころではない。

「ああ、でも、嫌だなあ。私のせいで、今、二人は世界中から叩かれている。本当はただの親子げんかなのに」

「じゃあ、世界中にメッセージを伝えよう」

 それから、せつな先生にどうしたらよいか相談した。





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