第14話
病弱な恋人を支えるために、少年はお医者さんになりました。広い庭を持つ山の御屋敷。家族だけが使える秘密の言葉。あれは、お母さんのための言葉でした。だから、母の死後、あなたの存在がどれだけ嬉しかったか理解しきれるでしょうか。
でも、私はお母さんと違って、目も見えるし、耳も聞こえてしまうから。もっと広い世界へ行かなくては。お母さんがお父さんに伝えたいこと。伝えるための言葉を私はまだ知らない。悔しくて、たくさん外国語を勉強しました。まだわからない。そんな時には、画を描きました。私の画は、言葉です。でも、暗号なのです。母も亡くなり、私自身も病気になりました。どうしよう。どうしよう。私は、まだ何事も達成していない。
奇跡は、起こりました。私の画を言葉に変換してくれる人が目の前に現れたのです。
直観しました。これは、危険な逢着だ。同時に、絶対に手放してはならないものでもある。母直伝の愛情表現、私はアレンジして口づけをしました。噛みつきでは勘違いされることもあるでしょうが、キスならば間違いありません。戸惑う男の子を目の前にして、私はこれでよかったのだとほくそ笑みました。
父と出会う前、小華の君は判で押したような規則正しい生活を送っていました。最低限の世話をされて、たまに画のモデルをして静かに過ごす。当時、「ここは療育施設なのに、小華の君だけは教育を受けていない」と父は憤っていました。というのも、月岡の方針で「本人が言葉を欲しがるまでは決して与えない」とされていたからです。
その理由は明白です。言葉は薬にも毒にもなります。
実際、父と出会って母の世界は一気に広がりました。それは、たとえば魔法を覚え、自由に使いこなすようなものだったのでしょう。新しい事物を学ぶということは、それまでの世界を壊すということと等しいのです。あなたにも、覚えがあるでしょう。
たとえぱ、食事について。父は、小華の君とは違うものを持ち込んで食べていました。お弁当です。最初、父は小華の君がおっかなびっくり自分の分け与えたおかずを口にする様子を大変愛らしく思っていたそうです。それは、きっと初めて口にする食べ物だったからなのでしょう。そんなことが数週間も続き、父は小華の君の表情が陰っていくことに気付きました。もしかして。次の日から、手許の弁当箱とお盆に乗った小華の君の料理とを比較します。小華の君の食事は、始終、同じなのだ。自分にも、ましてや月岡の職員にも小華の君を苦しめる意図など決してなかった。それでも、きっとこれからもこういうことは起こるだろう。
世界の広さを知り、箱庭が楽園ではなかったことを理解する。自分を探し回って、小華の君が怪我をすることもある。泣いて、叫んで、熱を出して、倒れて、寝込んで。それでも、小華の君は自分の隣にいることを選んだのだ。ならば、血くらいいくらでもくれてやろう。私は、責任を取る。当然だ。だから、父は自分を噛むことを小華の君に許しました。
そう言えば、私たち姉妹は、容姿がそっくりですね。性格はと言えば、姉の私は母似で、妹のあなたは父似です。だから、きっと、小説家とあなたの相性は最悪でしょう。つまり、私にとって救いだった小説家の存在が、あなたにとってはその限りではないということです。
だから、ひとつ、アドバイスをしましょう。
大切なひとを見つけて、先生になることです。
人生の目的ができましたね。そのひとのために、長生きすることです。それでは、さようなら。一足先に、私は探し母に孫の顔を見せに行こうと思います。きっと見えるよね。最期まで馬鹿な姉で申し訳ありません。またいつか会いましょう。
追伸、自画像を描いたキャンバスは学校の備品なので、持ち帰るのならぱ、かわりにいくらか木枠とキャンバス地を寄贈して下さい。それくらい小説家がお金を出してくれるはずです。出してね。
呉碧
下校時間間近、小説家と一緒になって、床に散らばった原稿用紙を拾い集めたのは、良い思い出だ。もちろん、姉の自画像も忘れずに。
次の日、私はさくらを連れて、月岡学園へと向かった。改めて父の描いた母の画を観るためである。
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