サベージ・コロシアム
未結式
第1話 サベージ・コロシアム
かつて完全平和を謳った時代があった。
単純な善意が蔓延し、潔癖なまでに悪意が排除された時代。今考えれば洗脳に近い性善説が人々に刷り込まれていた。
他者のために生きることが美徳であり、隣人を家族の如く愛していた狂った時代。それは徹底した管理社会の上に成り立っていた、そんな時代は十年前のパンデミックにより終わりを告げた、唐突に。
巨大な歓声が街を包み込む。
その中心は巨大な石造りの建造物――コロッセオ。
今の国家ができる前、即ちパンデミック前に存在していた国の歴史的建造物であり、今では、ある娯楽がここを中心に行われている。
コロッセオの闘技場に立つ無数の人間たち、その手には武器や槍、銃が握られていた。
響く重低音、ある競技が開始する鐘の音。それを皮切りに闘技場は怒号と歓声で満たされる。
バトルロイヤル――コロッセオで行われている人々の娯楽をそう呼ぶ。人々の剥き出しの殺意と飛沫となる血を見て、人々は熱狂する。人々の悪性がもたらす娯楽。
前時代とは真逆の悪性に満ちたこの世界、しかしどちらにせよ正常な世界とは言い難い。
私の仕事はバトルロイヤルの後に、積み重なる夥しい数の死体の処理である。
パンデミック後、貧富の差が激しくなり、雇用主と社員という関係は主と奴隷と同義になった。
この差別的支配体系は中世とかいう時代に逆戻り、主の娯楽のために、奴隷たちに殺し合いをさせていることが、物語っている。
もっとも一番の目的は――私たちの仕事の方だ。
夥しい数の死体はコロッセオの地下施設に入れられ、無遠慮に積み上げられる。
「始めるかー」
一人の男が死体の山から死体を一体、背負って運ぶ。
そのうちの一つ、武骨な鉄の扉のある部屋に入っていった。そして中から不快な機械音。恐怖を煽るドリルの音。
さてこちらはこちらの仕事をしようか。
先ほど、一人と一体が入っていった扉とは別の扉に入った。その扉はある事情で他の扉とは少し離れた位置にある。
扉の向こうは下りの螺旋階段、中心には深淵に続く大きな穴の底への唯一の道。薄暗い階段を一段一段しっかり確かめながら降りていく。
穴の底には、上にある扉とは一風変わったスライド式のドア、異様に扉の多いコロッセオの中でもこの型のドアはここにしかない。
ドアをスライドして中に足を踏み入れた。
真っ白な部屋だった、コロッセオの地下空間は基本、石造りの床や壁なのだがここだけは違う。潔癖な白の壁に囲まれ、多数の実験機械の置かれたかなり広いスペースを有する部屋である。
そこにはすでに白衣を着た助手たちがいた、自分もすぐに作業に取り掛かろう。
今日も届いている。大量の血液と体に種々の臓器、肉片。
「先生、今日のワクチン、ノルマ半分達成です」
これらの物から“ワクチン”を作る、それが私の“死体処理”の仕事である。
ワクチンに必要なものは、死の恐怖を感じた者の身体の一部、極限状態にあるときの人間が脳から発生させる分泌物質が重要になる。
そのために市民もとい奴隷を戦わせて、死体をワクチンの素材にする、一世紀前に生まれたシステムは、世界を救ったものの多くの犠牲を生んだ。
「あー疲れたー」
助手の一人が伸びをする、初めのころは人の内臓を見ただけで吐いていたのに随分と慣れたものだ。それを喜ぶべきかどうかは微妙だが。
「じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ」
助手たちは足早にこの部屋に出て行った。
研究室に一人残る。
普通の人間ならこんな場所なとっととおさらばしたいと思うが、ここでくつろげてしまうあたり私は普通の精神状態を持った人間ではないのだろう。
……というかこの世界にどれだけまともな人間がいるのだろうか?
そもそもまともな人間とはいったい何だろうか?
強者が生き残るために弱者が犠牲になるのが容認された世界。上層の人間が平気で人を殺しても、まるでそれが常識のように認められる世界。
何が正しいのかよくわからないな。もし下層の人たちを庇おうものなら異端扱いされる。
まともじゃない、それを痛感した。つい先日のことである。
「却下」
私は茫然自失として立ちつくす。
「何故ですか、この方法を使えば人が死ぬことはないんですよ」
私の考えた理論は人の代用に猿使うといったものだ。これならワクチンを作る量が減るが、もう人が犠牲になることはないのである。
しかし、目の前にいる厚生労働大臣は首を縦に振ろうとしない。
「今更システムを変えるのには金がかかる、それに」
次の瞬間、信じられないことを口にした。
「お前、猿の殺し合い見て楽しいか」
意味が解らない、眼の前にいるこの男は何を言っている?
「猿同士の殺し合いなんて盛り上がるわけないだろうが」
完全に論点がずれている。
重要な部分はそこではない。
結局再三説明しても目の前の男は首を縦に振らなかった。
厚生労働大臣の主張を要約すると「身体的なケアのほかに精神的なケアも必要な今の時代に、人々の娯楽を奪うことは許されない」だそうだ。
部屋を出て行く際に「お前頭おかしいんじゃないか」とまで言われたのがいまだにリフレインしている。
ふざけるな、頭がおかしいのはどっちだ。
私の方が正しい、私はあんな奴とは違う。自分に言い聞かせるこの言葉が今日は妙に大きく聞こえる。
正しいのは自分だけ、世界の歪みを正せるのは私だけだ。
かねてから立てていた計画を実行しよう、これから起こること想像すると楽しくて仕方がない。
厚生労働大臣は対応に追われていた。
鳴りやまぬ電話、全ては自らの不正に関すること。
つい先日の研究者との会話と奴の理論がどこからか流出したのである。
結果、下層の人間たちが抗議デモを行い、内紛に発展させる動きさえもある。
犯人はあの研究者で間違いないだろう。優秀だが頭がおかしいとは思っていたがまさか上司の手を噛む愚か者だとは思わなかった。
奴を捕まえたところで丸く収まる事態ではないが、奴を捕まえてその命を持って償わせなければ、私の怒りは収まらん。
電話対応を再開しようとしたとき、部屋のドアが開き、思わず息を飲む。
あの研究者だった。丈の長いコートを着ている、頭の中が驚愕で塗りつぶされそうになったが、すぐにそれは怒りに変わる。
「よく私の前に顔を出せたな!」
渾身の叱責を浴びせたが、奴はものともしない。むしろ笑みを浮かべ、私の神経を逆撫でする。
「私だって貴方の顔を最後に見るなんて嫌ですよ」
ここでふと疑問に思う。
この部屋の扉の前には見張りがいたはずだ。
「貴様、どうやってこの部屋に入ってきた」
普通ならこの部屋に入る前に捕まっているはずだ。
奴は私の疑問に答えず、代わりに
「どうですか、今のこの状況」
質問が返ってきた。
「私は楽しいですよ、これで世界ようやくあるべき姿へと戻るのです」
その質問に私が言及する間もなく奴は奇妙な独白を始める。
語り始める奴の目は嬉々としていて、こちらの声は聞こえなくなっているようだ、まるで舞台役者と観客である。
「そして世界行く末をこの目で見ることができないのが残念でなりません」
奴の独演が終わった、興奮冷め止まぬ顔のままこちらを向く。
薬でもきめているのか妙なテンションだ。
「そして、最後にあなたに合わなくてはいけないのは、本当に気が滅入ります」
そう言うと奴の口角はより一層つり上がった。
奴がコートの前を開ける――体には円柱状の、発煙筒に似た物体が大量にまかれていた。
ダイナマイトだった、ここから導き出される答えは一つ。
「自爆する気か⁉」
「ええ、あなただけはこの手で殺したかったこの世界の負の連鎖を容認したあなた、私を含めてね」
「ま――」
最後の制止は爆炎に飲み込まれた。
ここから抑圧された者たちの反撃。混沌が始まる。
昔、ある国があった。
その国では、奴隷の血肉で薬を作っていた、つまり強者は弱者の命を娯楽や富の材料にしていたのである。
しかしその国はもうない、残ったのは巨大な建造物――コロッセオだけとなった。
何でも大きな内戦があったらしい、どうしてそんなことになったのか分からないが、ある研究者は言った。
「狂った常識を破壊した末路だよ」
サベージ・コロシアム 未結式 @shikimiyu
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