いたみ

井桁沙凪

いたみ


 いたみに出会った時の話がしたい。ちょうど一年前に、俺といたみは一緒になった。世に蔓延るカップルならば一周年記念だなんだと祝って然るべき日なのだろうが、いたみは壁掛けカレンダーの○に今のところなんの反応も示していない。忘れているか、そもそもはなから憶えていないんだろう。


 いたみは美人だ。されど、もう昨今の世の中には色んなバリエーションの美人がいるから、一口に美人だと言われても想像しづらいと思う。なんてったって、俺の友人の彼女の化粧前化粧後、加工前加工後の写真を見せてもらったことからも分かるように、かわいいは作れる時代だ。

 しかし、いくら作ろうとしても、元のステータスが低ければ到達できる限界値もおのずと知れたものになってくる。だから世の女たちは大枚をはたいて自分が満足できるステータスを獲得するために顔面をいじくりまわす──こういう率直な言い方もいたみと過ごしてから取ってしまった杵柄きねづかの一つだな──いたみの美人とは、つまり、持たざる者たちに妬まれ、憎まれ、やがてはさげすまれ、見当違いな言葉で罵られる類の、元の素養がいいだけの、そして手入れがまるでされていない、たとえるなら傷んだ高嶺の花って感じの、俺にドストライクの美人だ。

 髪の毛はボサボサだし(いたみは美容院が嫌いで、女のくせになんと自分で散髪している)

 つんと筋の通った鼻はいつも先っちょがテカり気味だし、唇はかっさかさだし(リップクリームが嫌い。まあ、顔になにかをつける行為が嫌いなんだな。だから20になっても化粧なんてしたことがないらしい)

 がりがりの声でぼそぼそ喋るし(腹話術師みたいに口を動かさない喋り方は唇が切れるからだ)

 体毛が元々薄いからって、シェーバーになんて手を触れたことがないだろうさ(いくら遺伝的に毛が薄い体質だからって腋毛は生えるんだ)

 こんな具合で、とことん、酷いのだ。

 しかし、眼。これがすごい。ほら、眼球なんて手入れのしようがないだろ? 眼がいい人を選べ、いい眼を持っている人は、ほんとうに綺麗な人だから……この場合、ふりがなは「まなこ」のほうがいいだろうな。うちのじいちゃんが俺に口を酸っぱくして言ってたことだ。……ああ、まだ死んでないけどね。

 目は口程に物を言う、否、眼は美貌ほどに物を言うってとこか。いたみはどっちも持ってる。そうそう、云い忘れてた。いたみの態度についてだ。べつに無口ですなおってわけじゃない──確かに口数は少ないし、異を唱えることも少ないけれど、それだって、まるきりってわけじゃない。

 一度、いたみに言ってみたことがある。

 その日は人生でもまれに遭うかどうかしらってくらいの大雨で、バカないたみが開け放しにしていた窓を閉めたら途端に雨音が小さくなって、少しの間、あの微かな雨音の続くのが元々の世界の静寂だったような気がしたんだな。

 まだ正午を少し過ぎたくらいなのにまるで夜みたいに真暗な部屋の中を、窓から差し込んでくる淡い青色の光が少しずつ満たしていってさ……ずーっと海の深くに沈んでいく船の中にいるような感じだったよ。

 いたみは貴族が持ち込んできたビスクドールみたいだったな。微動だにしないし、眼がほんとうに、人間のものとは思えないくらい綺麗なんだ。

 ときにさ、こういう衝動が湧くことってないかい。いや、答えは分かってる。俺の周りにいる奴らはみんな「ない」っていうんだ。あるいは精神異常者とか、サイコパスとか、狂人とか、もう手垢てあかでくすみにくすんじまった言葉でくくる。そうだった、いつかいたみが言ってたけど「茶化すのは、だいたい、こわいからだよ」って、俺も同意するな。ようは、自分はそうじゃないって思いたいんだよ。それに……ああ、これもいつかいたみが言ってたんだけど「性善説とか、性悪説とか、知らないけれど、人間の本性が醜くないわけないよ」ってな。

 やっぱ、みんな武装してるんだと思うな。ゆとり世代だのさとり世代だのって、結局は俺たちが社会的な動物であるってことでさ、規範から外れる=死みたいな空気の中で育てられたら、そりゃあ必死に隠さざるをえんよ。つまり、みんないたみに会ったら死んじまうな。少なくとも俺を茶化してきた奴らはもれなく。いたみはそういう武装をいともたやすく剥がしちまうんだ。鼻唄交じりに、なんでもないように、芯だけになるまでキャベツの葉を剝ぐみたいにさ……といっても、いたみが料理してるところになんてお目にかかれたことないんだけど。あくまでイメージの話さ。

 淡い青色の光に満たされながら、いたみがすぅっと笑った。俺はぐっと、必死に衝動を押し留めようとした。

 いつか汚れるくらいなら俺がいっそって気持ちになるんだ。なんていうのかなあ。いたみが自分の美しさに気づいてくれないのが悔しくなる。それならお前なんかもう死ねよって気持ちになるんだ。でも、ずっと生きててほしいんだよ。俺なんかが死んだあとも、けろっとね。いや、死ぬまで悲しんでてほしい。とにかくそういう、手前勝手な自分に振り回されるんだよ。人間から常識とか倫理とか取っ払った後の気持ちって〝俺を愛せよ〟って、ただのこんだけだと思うな。

 俺はきっと、いたみに恋をしている。恋ってわがままなやつだろ。相手が応えてくれそうであればくれそうなほど、応えろって気持ちに引っ張られて、相手が傷つくようなこともしてしまう。距離感がバグるんだよな。いたみは噓をつかないし、人にも嘘をつかせない。しかも、噓偽りのない気持ちを普通に受け止めてくれるんだ。どころか噓を取っ払った気持ちが後ろ暗ければ暗いほど、嬉々としてさ。

 でも、いたみはいたみの気持ちは受け止めてないんだと思う。自分に対してさえ自分の理解を求めてないんだと思う。それで他人に恋なんてできるわけがないよな。魔性の女って、いたみみたいな奴のことを言うんだろうと思うよ。

「いたみ、可愛くてよかったな」

 俺はやっとのことで口にした。いたみはまだ黙っていたよ。

「いたみが男で、年喰った爺さんだったりしたら、冷たくて固い駅のホームで物乞う浮浪者になってたよ」

「女で、若いというのも、なかなかつらいものだよ。あなたみたいな人に飼われて、生きながらえなくちゃいけなくなる」

 こんな具合で、とことん、酷い。そうだろ? 

 でも俺は、飼ってないとか、死にたきゃ死ねとか、そんな酷いことは言わないよ。だって本心は、飼ってやろうと思ってるし、死んでほしくないと思ってるからね。つまり、こういうことだ。武装を剝がす。逆上を恐れずに。まったく、相手が俺でよかったよ。

 ちなみに「生きながらえなくちゃいけなくなる」って台詞についてだけど、そういう女は希死念慮に憑りつかれてるんだって精神病院への通院や半永久的に距離を置くことを信憑性の怪しい診断テストからでも軽薄な友人からでも勧められまくるんだけどさ、俺としては、別にいたみはいたずらに死にたがっているわけじゃないと思うんだ。

 どっちかっていうと、死なねばならぬ、っていうか……うーん、死ぬよりほかになし、っていうか……そうだな、どうもそんな感じがするんだな。はたから見てても生きるのに向いてないって分かるし。俺が分かってることなら当人なんてとうの昔に知ってるだろうさ。

 初めていたみと顔を合わせた時なんかがまさにそうだった。大学の奴らと合コン開いて、このたびは美大系だぜ、ギャラリーな服着てくるぜ、ベレー帽何人被ってくるかななんてげひた偏見話をして、いざ相まみえたのは、やっぱ、俗世に染まる人間とは私たち一味も二味も違うわよって感じの女たちだった。血統書付きの猫の群れに紛れ込んだ野良猫みたいな女──まあ、いたみだな──なんか、けろっと言ってのけてたよ。

「人恋しいってわけじゃないの。ただ、人恋しい人たちがどんな表情や動きをするのか、じかに見てみたくて」

 うわあ、って感じだったね。本当に、ただ、うわあ、ってだけ。俺たち男三人衆はすごすごとベレー帽たちと話したよ。

 合コンがお開きになって、といっても帰りじゃない、二次会会場のカラオケに着くまでの道中のことだったな。すっかり疫病神的なポジションに収まっていたいたみにちょいと話しかけてみて苦笑いを連発してる友人を横目で見ながら俺はくつくつ笑ってて、ぶっちゃけ、その時はまだ全然いたみに惹かれてなかった。

 すごいつまんないなあって思いながら歩いてたな。夜の道を、たまに過ぎていく車があって、世を呪うような眼をした男とすれ違って、胃は重たくて、お月さんは遠くに浮かんでて。ああ、これからどうすんだろ、べつになんもないけどな、って、おセンチな気分に浸ってた。周りが騒がしければ騒がしいほど、なにも響かない自分の内側に意識が向いてく。そういう時って、きっと誰しも経験したことがあると思うんだ。

 俺はでも、周りに合わせるのが当然って思ってたし、それが社会的な動物のなんだかんだ、常識なんだろうと思ってた。だからこそ、美大生だろうがアーティストだろうが、なんだかんだ言ったって結局はたかだか老いさらばえていく国の一社会人予備軍でしかないいたみが平気でつまんなそうな顔をしてることに、こいつは本当に世間知らずで、バカなヤツらって人を見下してるようなバカ女なんだろうなって、いっそほんの少し苛立ってたんだ。

 ふっと、血の匂いが香った。次いで、くつくつ、って、俺の笑い声にも似た音が暗いアスファルトから這い寄ってきた。

「うわ、あれ猫じゃね?」

 前を歩いていた友人が振り返って、道路の真ん中あたりを指差した。

 確かに、猫だった。野良猫が地べたに伏せていた。猫はほかの動物の中でも特にプライドが高いってどこかで聞いた。やんややんやと人間どもに指差されてさぞ屈辱だったことだろう。眼だけがヒビだらけのガラス玉みたいにぎらぎら光ってたもんな。見てるだけで傷つけられそうな、置き去りにされた凶器みたいな眼だった。

 美大生の一人が猫をモチーフに絵を描くとかなんとかかんとかで、いわゆる熱心な愛猫家ってやつだった。わあきゃあ狂人みたいに喚いてて大変だったよ。危うく人身事故を目撃しちゃうところだった。

 問題の猫だけど、まあ一目で助からないってことだけが分かったね。素人目にもさ。閲覧注意ってモザイクかけなきゃいけないような具合の怪我だったんだ。ぜえぜえ言いながら息してて、時々、くつくつ、ってしゃれこうべが鳴るような音を立てて痙攣するんだ。気の毒だったよ。いたみはなにをしてたかな。まだ、華奢な死神みたいに突っ立ってたかな。

「まだ助かるかもしれない、急いで!」

 愛猫家の一声に激されて、友人の一人はスマホで近隣の動物病院を調べたりしてた。それもあくまでポーズって感じだったけどな。あとの友人は猫を抱えようとするフリなんかしたりさ。愛猫家の美大生だって、愛でるべき対象の猫をどうしたら傷つけずに抱くことができるかって、そんな芸当どう見たってもう叶いっこないのにいつまでーももたもたしてた。

 俺? 俺は、相変わらずおセンチな気分を引き摺ったままでさ、若干気持ち悪くなってたんだ。血の匂いとか、俺の笑い声みたいなくつくつっていうひきつけの音とか、車が俺たちのすぐ側を通り過ぎて、死に体の猫に排気ガスを浴びせて、恋愛だのセックスだのと元気いっぱいの人間たちはこれから世界でも終わるのかってな具合で騒々しい。

 俺はみんなが分からなかったよ。すごく孤独な心持ちだった。誰も本当のことを言わないんだ。「俺はどこぞの野良猫が路上で野垂れ死のうがどうだっていいと思ってるよ」「どうせ助からない」「服が血で汚れるのはイヤ」「それよりさっさとカラオケ行こうぜ」「いやでもそれも面倒くせえな」「もう帰ろうよ」

 こんなことなら俺の人生、これからどうしようとなんもない。俺は本気でそう思ったよ。初めて心の底から生きることに絶望した。そんな時だったんだな。いたみがそっと、夜の空気の塊みたいに動いたのは。

 みんな、いたみがいたことにたったいま気づいたみたいだった。いたみは俺以外の誰からの注視も受けないまま、血濡れの猫の傍らにそっとしゃがんだ。それで、猫の眉間を指先で撫でてやった。猫はちょっとだけ、人間の手に縋りつくように目を細めたように見えたな。だけど次の瞬間には誰の目にも明らかなほど、カッ、と瞳孔をかっ開いたな。

「キャアッ!」

 愛猫家の美大生の悲鳴が、猫の最後の呼吸の音をかき消した。

 俺は──俺だけじゃない、周りにいた人間の誰もが息を呑んでいた。いたみの手にはでっかいカッターナイフの柄が握られていて、その切っ先は深々と猫の胸に突き刺さっていた。

「なに、してるの……?」

 やっとのことでその場にいる全員の気持ちを代弁した愛猫家に、いたみは反応したのかしなかったのか、結局よく表情が見えなかったな。ほら、暗かったからさ。

 汚らしい猫の死骸を平気で抱えて、ふらふらっと歩道側に避けていくいたみを、みんなは物も言わずに追っていった。俺はその間もずっと呆然としていたよ。

 愛猫家の発狂する声が猥雑以上でも以下でもない騒音にしかなれなかった。あんなに必死こいて非難してたのにな。「まだ助かったかもしれない」とか「たとえ助からないとしても生きようとしていた」とか、そんなようなことをさ。

 俺はいたみの両腕に収まっている猫の死骸を見つめた。その小さな胸に突き立てられたカッターナイフの柄を。それが猫の命を奪ったのだと思うと、不安なような、憤るような気持ちが湧いてきた。それを振るったいたみの気持ちを考えようとすると、猫はこれでよかったんだろうと思いたくなった。

 あんまりに声がやかましかったからなのかな。そのとき、いたみが初めて眼を見せた。それまではずっと目っていう感じだったんだよ。まさしく猫をかぶってたんだ。ずいぶん上手いこと、社会的な動物に擬態してたようだったな。

 思い出すたび、俺はいまでも震えるよ。あのゾッとするほど哀しい眼! 地べたに伏せていた野良猫とまったく同じ眼をしていたよ。ぎらぎら。ぎらぎら。人を傷つけるために光っているような眼だ。置き去りにされた凶器のような眼だ。

 いたみはいたみに宿った凶器を振るうとき、世界のぜんぶを壊すつもりでいるんだろうと思う。だってあまりに思い切りがよすぎるから。

 そのときも、いたみは俺たちが何時間かかけて築いた関係性を小馬鹿にするように、纏わりつく蜘蛛の糸を払うみたいにさ、社会的な繋がりを断ってしまった。

「どうでもいい」

 これはいたみの言葉だ。妙にしっとりした声だった。

「わたしの服は血にまみれ、あなたの服は綺麗なまま。それだけ」

 あの愛猫家の歪んだ顔! プライドをなじられた人間はあんな風に醜く顔を歪めるもんだって、俺はあの時思い知ったよ。猫みたいに表情を変えずというわけにはいかないんだ。人間ってのは、轢かれて死にかけになっている猫よりも醜く生きるしかない生きもんなんだよ。

 をどうするのかって、暴れている愛猫家を押さえていないほうの友人が訊いた。

「この子はわたしが死なせたから最後までやる」

 いたみはそう突き放した。だけど俺は、暗に制止してくる友人たちを振り切って、いたみと一緒に行くことにした。

 俺の気持ちをなんと表現したらいいだろう。あのときも分からなかったんだな。だから一言も洩らさなかった。月並みな言葉で言うと〝感動〟みたいなものか。いや、やっぱり忘れてほしい。そもそも言葉を持たない感情だったんだな。きっと。〝懐かしい〟っていう感情を受け持つ言葉がどっかの国にはないみたいにさ。現代に生きている人間が有耶無耶にしつづけてきた気持ちを、いたみは無自覚にも揺さぶり起こしたんだ。

 いったいどれくらい歩いただろう。月明かりがわずかに届くだけの、ほとんど真暗な林の中に、俺たちはいた。

「そこを掘る」

 いたみが呟いて、爪が土まみれになることもいとわずに穴を掘り始めた。俺もおずおずと協力した。俺といたみが初めて成し遂げた共同作業は〝穴を掘る〟ことだった。なんだか少し笑えるな。俺はともかく、いたみの存在すること自体が奇跡みたいな恋愛史にはお似合いなんじゃないか。

 俺は唇を嚙みながら、いたみが暗い穴の底に猫の死骸を横たえる情景を眺めた。淡い月光に濡れ輝くカッターナイフを手持ちに放って、小さな両掌で脇にどけていた土をかぶせる。

「手、合わせといたほうがいいかな」

 いたみが不意に呟いた。俺はたじろいで、いたみの背後に立ったまま何を言うこともしなかった。すると、いたみは少しの間盛り上がった土を見つめて、音もなく手を合わせた。

 そして、言った。もう死んでしまった猫に。自分が死なせてしまった猫に。哀しいほど静かな声で。

「もう、生まれてくるんじゃないよ」

 そのときだろうな。俺は、いたみに恋をした。

 俺がずっと探していたのはこの人だと思った。どんな媚びた言葉より、甘ったれな身ぶりより、そのおそろしい祈りと小さな背中は蠱惑的に映った。

 俺たちが一生懸命元気を振るって有耶無耶にしようとしているものを、いたみは真っ向から見据えながら生きていた。俺が本当のことを打ち明けない奴らに憤っている間、いたみはずっと世界の本当を振るいながらひとりきりでいた。

 生まれないほうがいいと思いながら生きていた。なんていじらしい、けなげで無茶な生き方だろう。守ってあげたかった。俺ができることならなんだってしたい。

 せめて、少しくらい、生まれてよかったと思わせることができるなら。

 そんな想いの勢いにのせて、俺はいたみに告白をした。だけど所詮は恋なんだ。恋は謙虚を許さない。とにかく相手に求めてしまうってのは、さっきも言ったことだろう? 俺は一年間も一緒にいて、まだいたみに「生きながらえなくちゃいけなくなる」なんて言わせてるんだよ。


 俺は、いたみと一緒のベッドに寝たあとは必ずと言っていいほど夢をみるんだ。いたみに殺される夢を。

 つらい、苦しい。悲しい、寂しい。そんな俺の人生に、いたみがぎらぎらとした光の凶器を振るってくれる。そうして、動かなくなった俺の骸に手を合わせて、しっとりした声でああ言うんだ。

「もう、生まれてくるんじゃないよ」

 俺はそのとき、初めて人生を愛することができる。だけど、俺は明日もそのまた明日も、いたみと一緒に目を覚ましてる。

 一度、いたみに打ち明けてみようとしたことがあるんだ。俺もいたみと同じように「生まれたい」と思ったことなんてないんだということを知ってもらいたくてさ。だけど、代わりに口をついて出たのは、どうしてかな、いたみの名前のことだった。よりにもよってって感じだったな。話題を逸らすときに振る話題って、案外また別の核心をついてしまうものだよ。

 シーツを握って、しわを寄せながら、いたみは自分の名前を口にした。いたみ。やっぱりさ、変な名前だろう? ふり仮名から取って「いたみ」と表記されるわけじゃない。(板実、板美? それも変だけどな)いたみははなから「いたみ」なんだ。

「親の顔が見てみたいな」

「わたしも、見てみたい」

「見ればいいじゃない」

「ううん。親、いないの。わたし」

 それが本当なら、まるでこの子は野良猫みたいだ。そう思った。生まれて、はぐれて、ひとりきりで生きることを余儀なくされた野良猫みたいだ。

 くすくす、って、いたみがわらった。俺はハッとして、またなんにも言えなくなった。いたみの眼って、ほんとうに人間のものとは思えないくらい綺麗なんだよ。

「いたみ。わたしは、いたみなの」

 いつか誰かが置き去りにした、世界を壊す凶器みたいな子ども。いたみ。ほんとう、なんて、むごいくらいに似合ってる。


 俺はメッセージカードを書きながら、彼女の帰りを待ち続けている。

 机の上にはスズランの花束が横たえてある。淡い青色の薄紙で包まれた華奢な花束だ。いたみがこの世界で好きだと感じられる数少ないものの一つ。俺はこの部屋でひとり頬杖をつき、真剣に惨めな奴なんだろう。それでもいい。いたみの顔をほころばせることができるなら。それでいい。

 ああ、いたみ。俺には君に贈りたいものがある。だから、君が今日という日の意味を少しでも憶えてくれていることを願ってるよ。ほんとうに、俺にはそればかりのことしかできない。



  いたみへ

              

              

                    7/9


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いたみ 井桁沙凪 @syari_mojima0905

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