祖父の戦争体験記
ヨシダケイ
日ソ開戦より終戦までの思い出
今日は終戦の日。
もう日本では戦争を知る人たちも少なくなっている今日この頃。
逆にいえば、
それだけ平和が続いていると考えると、
とても良い事だと思います。
ただ一方で日本全体で、
戦争の記憶が薄れているように感じているのは
私だけではないはずです。
76年も経てば当然といえば当然ですが、
そのことに対し若干の心配があります。
(まぁ私も戦後生まれなので「何言ってんだ?」とツッコまれそうですが)
「先人が経験してきたことを残し学び伝えていく」
それこそが後世の人間の使命だと
私は考えています。
私が歴史モノを書くのも
そういった信念があるからです。
なので今日は、
20年前に亡くなった祖父の戦争体験記を
綴らせていただきたいと思います。
2000字ほどの短い文なので、
どうかお付き合い願えれば幸いです。
ちなみに大のお爺ちゃん子だった私は幼い頃から
祖父の昔話を聞くのが大好きでした。
祖父が生まれたのは大正7年。
11人兄弟で貧しかった少年時代。
生イカにあたって三歳で亡くなってしまった妹。
高等小学校時代。
超絶理不尽な徴兵生活。
軍隊とは比べ物にならないほどちゃんとした憲兵学校。
憲兵になれたことにより一気に生活が豊かになったこと。
ソ連とのスパイ合戦。
阿片窟に乗り込んだ話。
ソ連軍との戦闘。
地獄のシベリア捕虜生活。
などなど。
祖父が語ってくれた話は、
テレビで語られるおためごかし的な
「平和」「戦争」などではなく、
壮絶な時代を清濁併せ呑み生きてきた
一関東軍兵士の目線からのものでした。
それらの生々しい話は、
私に様々な考えを遺してくれたと思っています。
詳しい祖父の話は、また別の機会に語るとして、
今回は、地方紙に掲載された祖父の「体験記」を紹介したいと思います。
若干読みにくいところはあると思いますが勘弁を。
まずは祖父の軍歴から。
昭和十三年(1938年) 21歳
現役兵として満州第三国境守備隊に入隊。
昭和十四年(1939年) 22歳
陸軍憲兵学校に入校
昭和十五年(1940年) 23歳
陸軍憲兵兵長
昭和十六年(1941年) 24歳
憲兵伍長。山下兵団の野戦憲兵として南方戦線に参加。
昭和十七年(1942年)二月
シンガポール入城。
昭和十七年(1942年)十二月
原隊復帰の命により満州の関東軍憲兵隊に戻る。
昭和十八年(1943年) 26歳
憲兵軍曹。
昭和二十年(1945年) 28歳
憲兵曹長。
北満の国境警備、情報戦に服務中、日ソ開戦にいたる。
※より、祖父の体験記になります。
また私が解説を入れる時は【☆文章】のようにしてます。
※
昭和二十年八月八日、ソ連軍が満ソ国境より一方的に我が関東軍に対し総攻撃を開始した。
当時私は、北満(現中国黒竜江省)のノン江憲兵分隊に勤務して居たが、ノン江は水戸歩兵第二連隊が北満警備の為駐屯して居た地でもあった。
同郷の若い現役兵ばかりの関東軍最強の連隊ともいわれた第二連隊と一緒の勤務も何かの縁かと思っている。
【☆祖父は茨城出身です】
だが、南方戦線風雲急を告げる昭和十九年二月。
宇都宮第十四師団と共に水戸歩兵第二連隊も南方に転戦し、ペリリュー島の守備にあたり、六月より十一月まで激闘を開始。
我が茨城健児が米軍と戦闘を重ね、玉砕したのは有名である。
当時、終戦までの間、関東軍をはじめ各地の将校、下士官の教育に、彼ら水戸の部隊の戦闘の状況がとりあげられ、私もその教育を受けた一人であった。
偶然にも水戸の部隊が南方に転出前、私はノン江憲兵分隊の特高主任であった。
同郷の関係上、部下の下士官、兵も、外出時は自由自在に遊び飲もうと、一切の取り締まりをしないよう部下に命じていたが、今になってみるとあれが我が水戸の部隊の最後の休養であったのではないかと思っている。
【☆祖父が語るには日本軍の軍規は非常に厳しかったとのこと】
八月、開戦前。
ソ連は情報の収集が目的で武装諜者(スパイ)を潜入させることが非常に多くなり、私は憲兵隊の特高主任という立場で黒竜江岸(現中国の最北端) に長期勤務した関係上、これの逮捕に全力投入する命を受けた。
八月五日、ノン江を出発。
黒竜江岸の黒河、愛ゴン、山神府の各憲兵隊の若い下士官兵の教育を六日、七日の二日間実施して、八日、ノン江憲兵隊に帰る予定だった。
ところが八日未明。
ソ連軍が黒竜江岸より我が関東軍に対し総攻撃を開始してきたのである。
しかし情報収集の役割をもつ国境の憲兵隊がソ連の攻撃を何も知らなかったことは、軍の情報部(特務機関)等が乱れていた為であろうと私は考えている。
私は黒河よりすぐに十五キロの道を自動車で山神府憲兵隊に戻った。
山神府は弘前第八師団で編成された第三十七師団が昭和十五年より北辺の守りとして警備にあたった軍都であり、私も南方戦線転出前勤務した部隊でもあったため状況は知っていた。
だがそこは主力が昭和十九年南方戦線に転出しており、残ったのは昭和二十年七月下旬に現地の満州より召集された兵(老兵)ばかりであった。
ソ連参戦と同時に、関東軍司令部より
「軍、民とも建物、資材を全部焼却し退却せよ」
の命令が届いた。
【☆戦争の撤退戦では資材などを焼くのは基本みたいです。敵の手に渡るとそれだけ敵の追撃が早くなり、味方が殺さる可能性が爆上がりするからです】
我が憲兵隊が補助憲兵を使い、ガソリンを兵舎、官舎、民間住宅にまいて放火し、町は一晩中、火の海と化した。
【☆ガソリンがボワッと火柱をあげ一気に燃え上がった、と語ってました】
その中を婦女子、老男、病院の患者、最後に召集兵の歩兵部隊がソ連軍の尖兵と戦闘しながら撤退するのである。
しかしこの歩兵部隊はすでに述べたように、三十七、八才の満州在住者よりの召集兵ばかりで、小銃、機関銃の撃ち方も満足にできない兵隊さんたちであった。
そこでしかたなく戦闘部隊ではなかったものの、我ら憲兵が見てはいられないので小銃、機関銃を兵隊さんたちから取り、二百~三百米位まで攻撃してきたソ連軍と戦闘した。
【☆非戦闘員を守るため、先に逃がしながらの撤退戦、機関銃でソ連兵を撃退しながらの戦いだった、と語ってました】
そして一週間。
やっとの思いで私が原隊のノン江憲兵隊に到着したのは十四日の夜であった。
すぐにそれまでの状況を分隊長に報告。
「一週間の戦闘中二名の憲兵を戦死させたことを申し訳なかった残念です」と声をつまらせた。
【☆兵隊たちは死んでいくときは皆「お母さん」「お母ちゃん」と言いながら死んでいった、と語ってました】
翌十五日。
重大放送によりはじめて敗戦を知ったのである。
【☆当然、これは玉音放送になります】
ソ連軍が重火機部隊を先頭にノン江に進入したのは八月二十二日。
愛ゴンの第五国境守備隊が頑強に抵抗すること数日、やっとのことでこの守備隊も武装解除をうけたのである。
憲兵隊にもソ連軍が進入。
通信網を遮断され、私は抑留の身となったのであった。
それまで憲兵隊の留置所にはソ連の諜者(スパイ)等を数十名おいていたが、今度は逆に我ら日本憲兵、笹城戸分隊長以下三十八名がソ連軍のゲペーウに留置される身となったのだ。
何とも皮肉なことである。
終戦の八月十五日夜。
病院長、特務機関長、特警部隊長、満州警察署長、終戦時編成された独立混成第三十七旅団の参謀等が自決した。
その情報をきいていったんは私も自決を覚悟したが、憲兵隊長が自決しない為、その機を失ってしまい、望郷の念に強くかられるようになった。
【☆この話は笑いながらよく聞かせてくれました。根っからの日本軍人だった祖父は、敗戦と同時に、「隊長の自決を見届けたら死ぬぞ」と準備をしていたそうですが、いつまでたっても隊長が死なない。んで三日経ったら日本に帰りたくなってきた。五日経ったら「何としてでも生きて日本に帰ってやる」と気持ちが変わっていったとか。もしその時に死んでたら私はいないんですよね。なので、自決しなかった笹城戸分隊長は、ある意味私の命の恩人なのです】
当時の関東軍総司令官山田乙三大将よりの命令は
「関東軍は天皇陛下の命により武器兵器をすててソ連軍の指示に従うべし」であった。
我ら憲兵は、ソ連軍の指示により独立混成第三十七旅団の兵と共に四個大隊を編成し、入ソ抑留の身となり抑留生活をおくること五年となったのだ。
【☆このシベリア抑留生活も様々なエピソードを聞かせてくれました。その話はまた別の機会にでも。また祖父の口癖は「共産ソ連のやり方は大嫌いだが、ロシア人は良い人がいっぱいいた」でした】
その後、交通事故により両足を骨折、労働不能となり「働かざる者食うべからず」のソ連の原則により戦争犯罪の身を逃れ、ナホトカより舞鶴に上陸したのが昭和二十五年十二月二日であった。
そして舞鶴、東京、熱海の国立病院での療養生活を経て我が故郷下結城村(現八千代町)に帰れたのは翌二十六年の八月一日であった。
【☆この舞鶴に降り立った時、夢ではないか、起きたらシベリアではないか、と何度も頬をつねったとか。本当に安堵したそうです】
※
以上が、体験記になります。
祖父は戦中は勇猛果敢な日本軍人であった一方で、私にとってはどこにでもいる優しい平凡な祖父でした。
ただ「戦争」は非日常でもあり、ここでは語れないような話を聞かせてくれたこともありました。
また祖父は、
「関東軍憲兵は満州で、司法・立法・行政と絶大な権力を持っていた。三権は分立しなければならない。あれはダメだった」とも語ってくれました。
今回は一憲兵曹長の目線というものを知って欲しく筆を取らせていただいたわけです。
終戦の日。
戦争と平和について考える一助となってくれれば幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
令和3年(2021年)8月15日
ヨシダケイ
祖父の戦争体験記 ヨシダケイ @yoshidakei
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