堕胎蝋

澄桜木木

堕胎蝋


「主文、被告人、坂井倫也(さかいともや)に無罪を言い渡す。理由については〜……」

傍聴席からどよめきが上がった、裁判長が判決文を読み終わり、警官に促され被告人の座から顔を伏せたたま降りる。

どう考えても死刑だろだとか、ほんとに頭がおかしかったのかしらとか、無責任な言葉が飛び交った。

(うるせぇ、お前らには分かんねぇよ)

どうせ誰も理解出来ない。あの神社で起きたことを、俺が拾ったあれを、なぜ彼女がああなってしまったのかを。


俺は昔からオカルトだとか噂話だとかそういう曖昧なものが好きだった。それぐらいしか好きなものが無いと言っていいくらいに、はっきり言って……狂っていたと言っていい。

あまり人からは好かれなかったし親との関係も小さい頃から良くなかった。幽霊や妖怪、目に見えない何かがひょっとしたら自分を見守っていて、いざとなったら助けてくれるかもしれない。そんな妄想で自分を保っていた。そんな俺も今や大学に入り、一人暮らしを始めた。オカルト好きは相も変わらずでサークルは当然オカルトサークルに所属した……が。

「うーっす、遅れましたー。」

「……遅かったね、何かあった?」

「いや別に何でもないですよ。単にのんびりしすぎたってだけです。」

この不機嫌そうな顔で図書室に来た俺を出迎えてくれたのが俺のひとつ上の先輩であり二人しかいないサークルの仲間、白石歩実(しらいしあゆみ)さんだ。俺と同じくオカルト狂いで根暗な女性だ。これは余計かもしれないが俺以外の人と話しているのを見たことが無い。

そんな根暗な二人だけのサークルは当然我が校のサークルとしての基準を満たせず同好会扱いだ。しかも活動内容のほとんどが椅子に座ってオタトークを繰り広げるだけというサークル活動と認めろという方が無理な度合いなので、廃止寸前である。ただ、はっきり言って廃止になっても良かった、この人と他愛ない話を続けられるならどうなっても良かった。そのはずだった、あの日まで。


それを拾った時はいつも通り大学に向かう途中だった。くだらない妄想をしながら歩いて向かっていた、いつも通り、本当にいつも通りだった。山の中にある神社へと続く階段、その前を通りがかった時だった。

(おぎゃぁ、おぎゃぁ、おぎゃぁ)

赤ん坊の声が聞こえた。ただ泣いてるだけじゃなくて、寂しくて泣いているような、怒り狂って泣いているような。

俺は何かに手を引かれるように声のする方へ進んで行った。階段の先からじゃなく階段の脇、草むらの中から泣き声は聞こえていた。

(おぎゃぁ!おぎゃぁ!おぎゃあ!)

声が大きくなる、様々な思考が脳みそを埋めつくしていく。

(ほんとに赤ちゃんなら通報するのが先、それよりも気になる、惹かれる、なぜこの場所なのか、なぜ赤ちゃんなのか、他の人には聞こえてないか、このまま進んでいいのか、なにか得体の知れないものに出会うんじゃないか)

声が近くなった、もう俺の足元にそれは居る。

地面が見えないほどに鬱蒼と茂った草をかき分け地べたに手を着く。そこに居たのは赤ん坊でもなく、赤ん坊が入ってそうなダンボールでもなく。

蝋で出来た卵のような楕円形の何かだった。

恐る恐る手に取る、既に頭はろくに思考できていない。ラグビーボールより少し小さいくらいのそれは俺の片手から少しはみ出るくらいの大きさだった。手の中で回して全体を見てみる、俺から見て下側、つまり地面に着いていた面に奇妙な模様が浮かんでいた。泣いている赤ん坊のような、叫んでいる老人のような、人の顔の模様。

「うわぁぁぁああ!!」

驚いて遠くに投げてしまった。そこで初めて俺の頭は正常に動き始めた。いやそこまで来てもなお俺の頭は正常ではなかった。

(何だこれ、なんなんだこれ!これが何なのか知りたい!あの人に見せればきっと喜ぶ!薄気味悪い蝋の塊、人の顔まで浮かび上がってる…………俺が見つけた俺だけの物だ!)

俺は狂っていた、曖昧なもの、不気味なもの、そういう何かに幼い頃から取り憑かれていたに違いない。

普段から大きめのバッグを持っていたので持ち運びは問題なかった。しかし講義を受けている時も昼飯を食っている時も、常にあの蝋で固められた赤子のような何かが頭の中で泣いていた。気がつけば今日出なければならない講義はすべて終わっていた。

(そろそろあの人にこれを見せに行かないと……)

久々に走った、こんなに胸が高鳴ってるのはいつぶりだろう、子供の時も似たような思いをしたことがあった気がしたが今思い出せるのは感覚だけだった。

勢いよく図書室の扉を開け、歩実さんを探す。

「歩実さん!」

奥で静かに本を読んでいたあの人を見つけた。声を大きくしすぎたせいで少し苛立っているようにも見えたがあれはいつも通りの顔だろう。

「あのね坂井君、図書室では静かに会話をするのが……」そう注意する歩実さんを

「そんなことよりこれ見てくださいよ!」と、

さも今見つけて来たかのような興奮具合で遮りながら俺はバッグからあの楕円形の蝋の塊を取り出した。歩実さんに胎児の顔のような模様が見える向きに取り出して手に抱きかかえた。

「凄くないですかこれ!ここにある赤ん坊の顔みたいなのもそうなんですけど何よりこれを見つけた時はもっと凄かったんですよ!茂みの中から赤ん坊の声みたいなのが……」

「ね、ねぇ?」

さっきとは打って変わって今度は俺が遮られる番だった、少しムッとしたが歩実さんもオカルトオタクだ。こんなのを目にしたら触らせてだとかもっとよく見せてだとか言いたくなるだろう。そう思った。だが彼女の口から出た言葉はもっと別のものだった。

「さっきから私に何を見せてるの?」

彼女にはこれが見えていなかった。


それから色んなことを話した。まずはほんとにそこにあるのかどうかから、結論から言うと歩実さんからは見えていないだけで実在はしていたタオルの上に置けばタオルが少し潰れるし壊れないように落とせば音もする。だがどれだけ時間が経っても何をしても歩実さんの目にそれは映らなかった。他の人には見えるのかどうかを確かめたかったがあいにくそんな事が出来るほどのコミュニティ能力を俺達は持ち合わせていなかった。

(何だか世界中から取り残されたような気分だ。)それはそうだ、元から俺の世界には俺と歩実さんしか居ない、他の人間は居ても居なくても変わらない。前にこの話を歩実さんにした事があった、すると「まるで旧約聖書のアダムとイヴみたいな世界観ね。」と笑われた。

ならばさしずめこの蝋の塊は知恵の実か、だがこっちの知恵の実は旧約聖書と違いアダム、つまり俺にしか見えていない。2人しか居ない世界で唯一2人が分かち合えない異物だ、取り残されたように感じるのも当たり前かもしれない。

そんなふうに考えを巡らせながら帰っているとあの階段の前を通りかかった。まだ何かあるんじゃと身構えたが、今回は違った。何かあったのは変わらないが不気味な出来事でも無ければ珍しい光景でもなかった。老人が階段の脇の草むらをかき分けて何かを探していた、決して知らない老人ではない。以前オカルト調査という名目で階段の上の寂れた神社を探索した際に一度見たことがある老人だった。その神社の神主さんである。

「何か探し物ですか?」と尋ねると

「あぁ、少し神社の中から紛失したものがあってね。」と神主さんは返してきた。

真っ先にあの蝋の塊が浮かんだ、冷たい汗が背中を伝う、息が少しだけ荒くなり表情が強ばった。

「い、いったい何が紛失したんですか?」

「神社の中に祀ってあった御神体だよ。」

少しだけ緊張が解けた、あんな薄気味悪いものが御神体な訳が無いという直感がしたからだ。

「どんな御神体だったんですか?」

「いやぁ、それは答えられんよ、企業秘密ってやつよ。」と少し笑みを浮かべてはぐらかされてしまった。

神主さんとの会話をそこそこに切り上げもう一度家路についた。神主さんいわく、御神体を祀ってあった神棚には扉がついており、封をして開かないようにしていたという。だがその封が誰かに破られ扉は開きっぱなしになっていたそうだ。それから詳しく聞いていると、どうやら神主さんは祀られていたものが何か知らないようだった、ただ神棚は普通のものより少し大きくその大きさのものならすぐに見つかるとタカをくくっていたらしい。それがなかなか見つからないから苦心していたというわけだ。アパートの2階に着いて晩飯を食べて風呂に入って布団に潜り込み今日起きたことを整理する。あの蝋の塊は何をしていても私の頭の中で泣いている。聞こえないはずの声が、見えないはずの姿が、伝わるわけない手触りが、その全てが俺の体に入り込んでくるような感覚だった。そんな不快感に浸かりながらもゆっくりと意識は沈んでいった。


うるさいチャイムの音で目が覚めた、朝起きた時特有の頭痛に顔をしかめながら覚めきっていない目でスマホを見る。時刻は午前2時16分、寝る前の最後に時計を見たのがだいたい11時だから約3時間の睡眠をとったことになる。

(誰だよこんな時間に。)なんにせよ壊れかけたチャイムの音で目が覚めるというのは俺の生活における最悪の目覚め方といえる。土から這い上がってきたゾンビのような動きで玄関まで行きチェーンをかけたままドアを開けた。

その瞬間、勢いよく扉が開いた。当然チェーンが引っかかり開ききらない訳だがその光景は自分の軽率さを後悔するのに十分だった。普通は覗き窓で誰が居るのかを確認してから扉を開ける。つまり、今向こう側に誰が居るのかを俺は知らない。

「だ、誰ですか!警察呼びますよ!」精一杯声を振り絞る、このアパートは俺以外には1階に1人ご老人が住んでいるだけ、この騒ぎを聞きつけて誰かが助けてに来てくれるという期待はあまり出来そうにない。そんなふうに自分の置かれた状況に絶望していると。

「あぁ!ごめんなさい!乱暴しようとかそういうやつじゃないんです!……えぇっと、あなたが今日拾ったものについて話がしたくって!」と爽やかな青年を連想させるような声が聞こえてきた。あまりに想定していた声と違いすぎたのでチェーンを外しそうになったが寸前で手を止めた。

(確認するのが先だ、最近は女の声が出るおっさんだってネットにいるんだ、注意しないと。それにあれについて話そうとしてる人間がまともだとは思えない。……あんな異物の話なんて。)

一度眠りそして起きれば、あの蝋の塊に対する感情はひどく変わっていた。拾った時は未知の物体に対する好奇心しかなかったが今は不気味な異物に対する恐怖心しかなかった。

覗き窓から静かに外を見る。そこに居たのは声のイメージ通りの好青年といた風貌の男だった。自分とは真逆の、きらびやかな世界で生きていそうな人間。少しだけ信用した。だが完全には信用できない。

「すみませんがっそこで話せませんか?」声が少し裏返った。

「……人に聞かれたい内容では無いので、申し訳ありませんが中に入れて貰えないでしょうか。」それを聞き、そっとオフになっていたスマホの電源を入れ110番の番号を打ち込みいつでも通報できるようにしてポケットに入れる、それからチェーンを外した。

「すみません!ありがとうございます!」朗らかな人懐っこい笑顔を浮かべて男は入ってきた。

「それで、あの、あ、あれについて話がしたいって……。」やはりこういうタイプと面と向かって話すのは苦手だ。こちらのことをバカにしているなら無視すればいい、しかしこの手の人種は底なしに明るく振る舞う、俺みたいな日陰者に優しく手を差し伸べる。こちらがその手にどれだけ恐怖しているかもしらずに。

「あぁ!そうでしたね!」こちらの葛藤など微塵も感じていないような口調で男は話し始めた。

「あれは、この街のある神社の御神体なんですよ!」その言葉を隅から隅まで疑った

「あ、あんなものが御神体?」思わず言葉が

口をついて出ていった。

「確かに普通の人にはあれが不気味なものに映るかもしれませんが、あれは堕胎蝋と言ってとても神聖なものなんですよ。あれは堕胎された胎児を蝋で固めたものなんですよ!いわゆる呪物ですよ!だから見える人と見えない人にわかれるんです!それから5年に一度……」衝撃で男の言葉が耳に入らなくなった、だが男は聞いてもいないことまで事細かに語り始めた。こっちからすれば情報の過多が過ぎる。既に思考回路はまともに機能していない。男が言いたいことを理解するのにたっぷり4時間かけた。


「要するにあれはこの世のものじゃなくて、なおかつ5年に1度〝儀式〟をして怒りを鎮める必要があるって事?」

「そうです!そういうことですよ!」

4時間も話せば普通に話せるようになっていた。この男の名は冴島秀也(さえじましゅうや)と言うらしく、歳は俺より一つ下、あの神社の神主の息子らしい。だが何より驚くべきは俺と趣味が恐ろしい程に合うという事だった。子供の頃読んだオカルト本もほとんど被っていたり、オカルト番組の内容もお互いかなり覚えていたりと、まさに親友と呼ぶに相応しい具合だった。そんな4時間で出来た親友こと冴島いわく、近いうちに深夜の2時頃に神社で儀式を執り行いあの呪物を納めなければならないとの事だった。正直言って歩実さんというあれが見えないパターンの人間が居なければ半信半疑だったかもしれないが、あんな出来事の後なら信じざるをえない。そうして歩実さんに冴島を紹介し、明後日の午前2時にあの神社、篝辺(かかりべ)神社で儀式を執り行うと決めた。必要なものは冴島が全て準備するらしく、俺と歩実さんはそれを撮影し、サークルの活動として発表する事にした。

(夢みたいだ……)

自分がこんな非現実的な事に関わりを持てるなんて嬉しすぎる。たしかに不気味なことも多かったけれど、それでもこの出来事は一生自慢できるだろう。その日の夜は、講義中何度か寝てしまったこともあってまるで遠足を楽しみにする子供のように寝付けずにいた。そこで思い出した、あの堕胎蝋を歩実さんに見せに行こうと走っていた時の胸の高鳴りの正体を。あれはきっと……


儀式当日になったが大学に歩実さんは来なかった、冴島は元から大学生ではなく高校生だから大学に居ないのは突然だったが。どちらか1人でもいて欲しかった。いやこの熱を共有できるのはこの世で冴島だけかもしれない。あの堕胎蝋を見つけてから俺の世界は1人分だけ広がった、冴島という新たな仲間が出来たからだ。歩実さんは俺の世界を旧約聖書に例えたがここまで来れば旧約聖書と同じ点など一つもなくなった、何せ旧約聖書にはアダムとイヴしか居ないのだから。……そこまで考えてふと、少しばかりの不安に気づく。

(いや、旧約聖書にはあと2人居るじゃないか……アダムとイヴを作った神と、そしてその2人に知恵の実を食べるよう唆した……蛇。アダムとイヴが俺と歩実さんだとするなら冴島は果たしてどちらなのだろう、儀式を通して俺たちに力をくれる神様か、それとも堕胎蝋という知恵の実を食うように誑かす憎き蛇か……)我ながら考えすぎだと笑ってしまった。(さっき自分で思ったじゃないか、俺たちはアダムとイヴなんかじゃないって。)そう考え直そうとした。

しかしどれだけ切り捨てようとしてもこの考えはしつこい汚れのようにこびりついて離れなかった。

そして儀式の時間になった。1時半に階段の前に着くと冴島は既に来ていてスマホをつついていた。歩実さんの姿がない。

「こんばんわ坂井さん!」

「おう、歩実さんがまだ来てないな。」辺りを見回すも人影はひとつも無い。

「歩実なら先に来て上で待ってますよ。」そう穏やかに返す冴島。

「おぉ、そうか……え?」

「え?どうかしました?」

「あ、いや、呼び捨てなんだな。」

「あぁ、ちょっと上で準備しながら話してたんですけどその時に仲良くなって。」いつも通りの笑顔で冴島は答える。微かな違和感。でも拾い上げて広げるほどのものじゃない。そう納得させて階段を上がった。登る途中で唐突に冴島の電話が鳴った。

「うわぁ!」驚いて階段を滑り落ちそうになる。「おっとっと、はい。」俺より少し前を歩いていた冴島は左手で俺の腕を掴んで助けながら右手でスマホを取り出し電話に出た。電話中なのでジェスチャーだけでありがとうと言った。

「おっけーありがと、もう帰っていいよ。登ってきた階段とは逆の方の階段から降りてってね。じゃ。」スマホの電源を切ったのを確認してから冴島に聞いてみる。

「歩実さんを帰すのか?」

冴島は一瞬きょとんとしてからすぐに合点がいったように頷いてこう返した。

「いえいえ違いますよ。さっきのは知り合いです、準備をするのに2人じゃ人手が足りなくって。」

そしてボソリとこう続けた。

「儀式の要を帰すわけないじゃないですか。」


神社に着くと扉が開いており本殿の中へと入れるようになっていた。

「さっ、中で歩実さんが待ってますよ。」

「別に呼び捨てなのそこまで気にしてないから直さなくてもいいよ。」と少しはにかみながら返した。

「いえいえやっぱ先輩には経緯を払わないとなって思ったので!」どこまでも朗らかなやつだ。

本殿へ少しお辞儀をしながら入っていった。

そして、

それから、

俺の目に、

飛び込んできたのは

服をひとつも身につけていない状態で両手両足を縄で磔の如く伸びるよう縛られぐったりと倒れ込んだ歩実さんの姿だった。

「……あ、……え。」開いた口が塞がらない。

「いやぁ大変でしたよここまで準備するの!この儀式をするためには穢された女が1人必要だったんですよ。それでどうせ穢すならって友達呼んで今日1日歩実さんに相手してもらってたんですよ。暴れるからこの形で固定するのにも人手が要りましたし、結局僕含めて4人も相手することになったんですよこの人。」いつもと変わらない調子で笑いながら冴島はそう語った。

怒りも絶望も後悔も、俺の心には無かった。いや初めから俺に心が無かったのかもしれない。俺は一日中4人の男に強姦された無惨なこの憧れの人を見て、どうしようもなく興奮していた。穢されて尚この人は美しいとそう感じていた。そして同時に、この儀式は本当に意味あるものなのだと。冴島は蛇ではなく神なのだと、心底そう思った。

今ならはっきりわかる。狂っていた、あの神社に居た全員が。歩実さんは壊れていた、冴島は邪悪な蛇だった、俺は救いようのない狂人だった。



「そっ、それでこ、これからどうすればいい?」いつものように恐怖心で噛んだわけではない、興奮が抑えきれないのだ。

「結構すんなり進んでくれましたね。ここでごねられたら殺そうと思ってました。」さらりと言い放った。

「俺はひょっとして居ても居なくても変わらないのか?」少しだけ不安になった。

「そんな捨てられそうな子犬みたいな顔しないでくださいよ!人手はまだいるんですから大丈夫ですって。」そう言ってにこやかに笑った。こんな時でも俺たちは何も変わらない。

「輪姦してる時はビデオ回さなくてよかったんですけど、ここからはビデオ回す係が必要なんですよ。」そう言って高画質で撮れるタイプのハンディカメラをこっちに投げてきた。

「世界が変わる瞬間ですから。ビデオが必要なんです。儀式にいるものはここに揃ってますし、こっちは僕がやりますよ。」そう言って冴島は堕胎蝋ともう1つよく変わらない器具を手に取って縛り付けられた歩実さんに近寄っていった。よく見ると歩実さんは口を何かで塞がれたりはされていなかった、声を出されては困るのではないのか。そんなことを考えていると冴島がまた語り始めた。

「これは苦悩の梨って言って、女性器を拡張する拷問器具として中世ヨーロッパで使われていたものなんですよ。膨らんでる梨のような部分を入れてネジを回せばどんどん梨が大きくなるって仕組みですね。外側に棘がついてるものもあるんですよ、別に拷問するためにこれ使う訳じゃないんで今回は棘なしですけど。」そう言ってさっき手に持っていた器具を歩実さんの性器に入れ冴島はネジを回し始めた。


「あ゛ぁ゙ぁ゙ぁ゙あ゛!痛い痛い痛い痛い痛い!!い゙ぁ゙あ゙ぁ゙ぎぁ゙ぁ゙ぁ゙!!」


歩実さんの叫び声が本殿の中で反響する。無理やり性器を広げられる痛みなど考えたくもない。だがこんな状況でもやはり俺はどうしようもない男だった。そして、数分が経過した。冴島の様子を見るに拡張自体は終わったらしい、歩実さんは先程から人の言葉を喋れていない。

「……井さん!坂井さん!」しばらくぼーっとしていようだ。冴島が呼ぶ声が聞こえた。

「あっ、ごめん。」

「もーしっかりしてくださいよー、儀式はこれからなんですよ?」冴島はとてつもなく楽しそうな顔で儀式の続きを説明した。

「この胎児は堕胎されたって言いましたよね。」

「あー確かに言ってたな。」

「怒りを鎮めるとも。」

「言ってたけど、だから何が言いたいんだ?」

「分かりませんか?この子が怒ってる理由が。」

そこまで言われてハッとした。この赤子は怒り狂っているのだ、自らを宿した母親に、自らを堕ろすようにした誰かに。

「この子は母親に復讐心を抱いてるって訳か。」

「その通りです。母親に対してだけじゃありませんけど。そしてその怒りを今からこの生贄にぶつけます。」方法は?と聞いてくれと言わんばかりに冴島は目を輝かせていた。

「……方法は?」

「この堕胎蝋をさっき拡張した生贄の性器に入れ、子宮へとこの子を戻します。」

まだ堕胎蝋の狂気は続く。



儀式が始まった。要は出産と逆の流れを辿るということだった。もはや文字に起こすことが不可能な言語で生贄は泣き叫ぶ。まるで産まれたての赤子のように、その声は最初に堕胎蝋を拾った時に聞こえた声に少しだけ似ていた。そして堕胎蝋が完全に見えなくなった、だが冴島は。

「まだだ、まだこの子が泣き止んでない、もっともっと奥にこの子が目指してるものがある。」とブツブツ言いながら堕胎蝋を押し込んでいる。生贄の口からは血や吐瀉物が勢いの弱い噴水のように吹き上がっていた、既に息は出来ていないだろう。すると唐突に冴島が声を上げた。

「泣き止んだ!やっと辿り着いたん……」

しかし冴島が言い終わる前に生贄が叫び始めた。

「おぎゃぁ!おぎゃぁ!おぎゃぁ!おぎゃぁ!」

その声は生贄の声ではなく、階段の脇にある茂みから聞こえてきた赤ん坊の声そのものだった。生贄の身体が跳ねる。両手両足を縛っていなければ本殿を飛び出し走り回りそうな勢いで暴れ始めた「坂井さん!ちゃんとビデオ回ってます!?」まるでジェットコースターに乗っている最中かのような楽しげな声で冴島が聞いてきた。

「あぁ!バッチリだ!ちゃんと撮れてる!」負けじと大声で返す、ここまで声を張ったのはいつぶりか。

するとプツッと、まるでテレビの電源が切れるかのように唐突に生贄の声と動きが止まった。

「来ますよ、来ますよ。」冴島が呟く。

膨らんでいた生贄の腹がモゾモゾと蠢き始めた。そしてその蠢きはだんだん下腹部へと移動し、とうとうソレは腹から這い出てきた。母体と繋がる為のへその緒、空気に晒されることが致命傷になりそうな赤い肌、開ききっていない目、ひとつも無い体毛。そう産まれたのだ、蝋の中にいた胎児が今この瞬間に、もう一度生まれたのだった。

いつもはうるさい冴島が静かに歩み寄りへその緒を取り除き、自由になった胎児を抱きかかえ、ゆったりとした動きでゆりかごのように揺さぶりながらこう聞いた。

「お腹すいてるでしょ?何か食べたいものある?」まるでそう聞けばこう返すだろうと知っていたような口ぶりだった。

胎児はゆっくりと目を見開き手指を動かした。

目線は俺と重なるように人差し指は俺の頭を指すように動かしこう言った。



「あれ」




そして俺はハンディカメラを投げ捨て、あの本殿から叫びながら逃げ出した。途中階段から転げ落ちた。体のあちこちをぶつけたが構う暇は無かった。急いで家に帰り鍵を閉めチェーンをかけ布団に潜り込んだ。眠れない、眠れるはずがない、布団から顔を出すことすら恐ろしい、震えが止まらない。今になってようやく自分が何をしていたのかを明確に理解した。しかし何もかもが遅かった、手遅れなんてレベルじゃなかった。

それから何日経ったか分からないがとにかくチャイムが鳴った。出れない出られない出たくない。次にドアを叩く音が聞こえた、何度も何度も。

そして扉の向こうの誰かはこう言った。

「警察です!白石歩実さんについての話をお伺いしたいのですが!」

決して長くない廊下を走り、縋り付くように鍵を開け、助けてくれと懇願しながらチェーンを外した。扉の向こうにいたのは大柄な男の2人組だった。警察手帳を出そうとする手前の男を遮りこう叫んだ。

「たすけてくれ!頼む!」

あの赤子の形をした絶望に比べれば、人間に対する感情は恐怖ではない。それに、まだ……


まだ儀式は終わっていないのだろうから。


そして俺は法のもとに裁かれることになった、あの日神社から飛び出す俺を住民が見ていた、それに神社の本殿には歩実さんの無惨な死体以外何も残っていなかったらしい。結果として誰がどう見ても裁かれるべき犯人は俺しかいなかった。今日はそんな俺の裁判の結果が分かる日だった。裁判長が書類を手に取り読み上げる。



堕胎蝋[完]

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堕胎蝋 澄桜木木 @042666

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