第6話 『結婚記念日』
ラーゼンは嬉々としてナイムの街を歩く。
今日は太陽も雲に隠れ、先月の暑さが嘘のように寒い。
けれど、これから最高の昼食にありつけるのだと思うと、彼の足取りは軽かった。
……そう、彼の足取りだけは。
「もう! どうして馬車を用意しなかったのよ。寒くて堪らないわ」
ラーゼンの隣で、彼の腕に手を添えて歩く、二十代半ばくらいの女性が文句を口にする。
黒の地味なポンチョコートを身にまとった、ウェーブの掛かった背中まで伸びた亜麻色の髪が印象的な女性だ。
「そう言うなよ、ファニー。こうやって二人で街を歩くのは久しぶりだろう? 今日は着心地の良い楽な格好で、のんびりデートと行こうじゃあないか」
「はいはい。まぁ、馬車での移動ばかりじゃあ足も弱るし、たまにはこういうのもいい……ってことにしておいてあげるわよ」
「そりゃあ、どうも」
ラーゼンは愛しい妻に、茶目っ気たっぷりの笑みを向ける。
「その代わり、今日のお料理は期待させてもらうからね」
「ああ、それはおそらく大丈夫だ。きっと、今まで味わったことのない絶品料理が出てくるはずさ」
ラーゼンは笑顔で言うが、ファニーは少し怒った顔をする。
「おそらくって……。ねぇ、本当に大丈夫なの? 貴方の言う『パニヨン』という名前のお店。侍女達に評判を聞いてみようとしたけれど、誰も知らないって言っていたわよ」
「そりゃそうだろう。普段は週末しか営業していない店らしいからな。だが、味は間違いなかった。この『食い道楽のラーゼン』が衝撃を受けるほどの味だったんだぞ」
「はいはい。可愛い妻を置いて食べ歩いている、食いしん坊の舌を信用しますよぉ」
ファニーの棘のある言葉に、ラーゼンは困ったように笑う。
「それにしても、随分歩くわね。本通りの店ではないの?」
「ああ。本通りからは少し離れているんだ。だが、ここまで来ればもう少しだ」
ラーゼンがそう言うと、ファニーは彼の腕に添えていた手に力を込めて、夫の体を自分の方に引き寄せる。
「ねぇ、今回が最後かもしれないのよ。こうして出歩いて結婚記念日を祝えるのは……」
「そうだな……」
妻の不安げな表情に、ラーゼンも遠くを見て嘆息する。だが、彼はすぐにファニーの頭を、ポンポンと優しく叩く。
「だからこそ、最後の自由な結婚記念日は、最高の店で過ごしたいんだ。俺とお前の水入らずでな」
「ええ、そうね。期待しているわ、あなた」
ファニーは甘えるように、夫の腕に顔を近づける。
ラーゼンは愛おしそうに、妻の頭を撫でた。
「おっ、見えてきた。あの店だ」
「随分と小さな店ね」
ラーゼンの指差す先の店に、ファニーは忌憚のない感想を述べる。
「まぁ、文句は食べてからにしてくれよ。きっと驚くぞ」
ラーゼンは妻にそう言いながらも、自分も目を輝かせて、目的の店に急ぐのだった。
◇
「いらっしゃいませ、ラーゼン様。お待ちしておりました」
店に入ると、コックコート姿のバルネアと給仕らしき中年の女性一人が出迎えて来れた。
「ああっ、今日はよろしく頼む」
ラーゼンはにこやかに言うが、不意に袖を妻に引っ張られた。
「どうした、ファニー?」
「随分と若い料理人ね。まさか、貴方のことだからないと思うけれど、それを理由にこの店を選んだなんて言うことはないわよね?」
ファニーは満面の笑みを浮かべて尋ねてくるが、その迫力たるや、ラーゼンが思わずたじろぐほどだった。
「ふふっ。仲がおよろしいですね。さぁ、外套をお預かり致します」
中年の女性がそう言って、ラーゼン達から預かった外套とポンチョを、ハンガー掛けに掛けてくれる。
その慣れた行動に、この女性が形式だけの給仕ではなく、かなりの経験を積んだ人物だと、ラーゼンは推測する。
「それでは、料理を準備いたしますので」
バルネアは一礼をし、厨房に戻って行った。
「お席にご案内致します」
「ああ、頼む」
ラーゼンは給仕の女性にそう言い、彼女の後をついていく。
お世辞にも広くはない店内だが、以前来た時にあった椅子やテーブルは、自分たちの分を除いて片付けられているので、十分ゆとりのある空間ができていた。
ラーゼン達が案内されるままに席に座ると、『食前酒をお持ち致します』と言って、給仕も厨房に向かっていってしまった。
すると、また妻の鋭い視線がラーゼンに向けられる。
「ねぇ、さっきの質問にまだ答えていないわよね? 食前酒さえ自由に選べない店に誘うなんて、貴方らしくないから、私もいろいろと邪推してしまいそうなんだけれど?」
ファニーは笑顔で尋ねてくる。怒りを押し殺した笑顔で。
「何もやましいことはしていないぞ、俺は。食前酒を選べないのは、普段はこの店が酒類を提供していない大衆食堂だからだし、彼女は俺よりも年上らしい」
「はぁ? あの料理人が貴方より年上? 私よりも年下に見えるのに?」
ファニーは信じられないといった様子だ。
「それに、大衆食堂ってなによ。高級な店の料理だけが最高だなんて思わないけれど、せっかくの記念日なのよ? それなのに……」
「そんな残念そうな顔をしないでくれ。まずは、料理を食べてみてからにしてほしい。それが気に入らないようだったら、後日に必ず埋め合わせをするから」
「……分かったわよ」
ラーゼンの説得に、不承不承ファニーは納得してくれた。
しかし、段々ラーゼンも不安になってくる。
だが、先月食べたあの料理は間違いなく絶品だった。バルネアを信じるしかない。
だが、給仕の女性が運んできた食前酒のワインを口にし、ラーゼンの不安は増していくことになる。
決して不味いワインではない。様々な葡萄の旨味を感じる事ができるブレンドワインだ。
だが、風味が弱い気がする。
そう感じたのはファニーも同じようで、ワインを口にして微妙な顔をしている。
(もしや、バルネアは酒の良し悪しには疎いのか?)
ラーゼンは表面上は平静を保ちながらも、いつ妻の不満が爆発しないかと、内心ヒヤヒヤしていた。
そんな中、バルネアが皿を持って厨房からやってきた。
だが、そこでラーゼンは驚く。
「今日は冷えましたので、まずはこちらをお召し上がり下さい」
「えっ? いきなりスープ?」
ファニーの口から、驚きとも呆れともとれる声が漏れる。
普通、コース料理は、アミューズと呼ばれる一口で食べられる小前菜か、前菜から始まるのが常だ。それなのに、いきなりスープからというのはなんとも乱暴だ。
ファニーが給仕されたスープ皿を剣呑な目で見ている。
(まずい。あれは、怒りが爆発する寸前の顔だ)
ラーゼンはなんとか妻の機嫌を取ろうと、なにか話題を振ろうと考えた。だが、そこで、彼の前にもスープ皿が給仕される。
そして、そこから立ち上る芳しい香りに、ラーゼンは驚き、目を見開く。
それから妻の方を確認すると、彼女もスープの香りに陶酔していた。
「さぁ、どうぞ」
バルネアはにっこり微笑み、ラーゼンとファニーに食べるように促してくる。
料理の名前を口にしないということは、何のスープか当ててみろということなのだろうか?
そんな事を思いながら、ラーゼンはファニーに笑みを向けて頷きあうと、静かにスプーンでスープを掬い、それを口に運んだ。
「……美味しい!」
ラーゼンがなにか言う前に、ファニーが感嘆の声を上げた。そして、自らのはしたない行いを恥じ、顔を真っ赤にして咳払いをし、再びスープを味わう。
妻の不作法を、しかしラーゼンは咎めたりなどはしない。何故なら、彼女が先にそう口にしなければ、自分が、「美味い!」と叫んでいたからだ。
魚のスープのようだが、どちらかと言うと魚嫌いのファニーにさえ絶賛させるこの味は、見事としか言いようがない。
複雑な味だ。これは、一種類の魚から出る旨味ではないはず。いくつもの野趣あふれる異なる旨味が、互いの味を損なうことなく、見事に調和している。
これは、きっと限界の味だとラーゼンは思った。
これ以上魚の旨味が強ければ、くどさが出てしまうだろう。だが、これより旨味が弱ければ、この奇跡のような美味は味わえない。
魚の旨味が口いっぱいに広がる。この味付けも最高だ。
そして、スープが口から胃まで到達するまでの、この熱さもご馳走だ。冷え切った体にこれほど幸せを与えてくれる物はない。
ラーゼンもファニーも、夢中でスープを口に運ぶ。
そのうち体が熱くなってきて、ワインを飲む。
(はっ、ははははっ。なるほど、だからこのワインなのか)
ラーゼンは、先程まで物足りないと思っていたワインが、この上なくスープの口直しに適していることにようやく気がついた。
食前酒として楽しむ目的よりも、料理と一緒に味わうことで真価を発揮するワインなのだ、これは。
なまじ旨味に溢れたスープの合間に、香り高いワインを口にすれば、料理の口直しにはなるが、それ自体の旨味が強すぎて、料理の味を損なってしまうのだ。
それに引き換え、このワインは口直しとして飲むには最適な軽さで、火照った体を冷ますために多く飲んでもしつこさがない。だから、気兼ねなしに飲める。
「シェフ。その、このスープの材料は何なのかしら? いえ、魚のスープだということは分かるのだけれど、今まで食べたことのある魚のスープとはまるで別物だから、なんの魚か気になるの」
「ああ。複雑な旨味が重なった素晴らしい味だ。いったいどんな高級魚を使えば、こんな味になるんだ?」
ファニーとラーゼンの問いかけに、バルネアは微笑んで、口を開く。
「このスープは、このナイムの街で取れる魚のうち、商店には並ばない雑多な小魚で作られたスープです。ただ、船乗りの知り合いの方にご無理を言って、今朝水揚げされたばかりの魚の中から、私が選びぬいた小魚を使っています」
バルネアの言葉に、ラーゼン達は一瞬言葉を失う。
「こっ、これが、小魚から作られているだと? 本当か?」
「信じられないわ。この美味しいスープが、店には並ばない魚で作られているなんて」
少しの沈黙の後、二人は口々に信じられないと口にする。
その驚きと賞賛の言葉を聞き、バルネアは満面の笑みを浮かべた。
「はい。本当です。ただ、奇抜さを狙ってこのようなスープをお出しさせて頂いたわけではありません。この街で長年暮らしてきて、私が一番美味しいと思ったスープをお出ししたいと思った時に、この材料に行き着いただけですので」
「そっ、そうか……」
ラーゼンはそう言って感心するしかなかった。
「それと、今日は貸し切りですので、どうか周りの目はお気になさらず、料理をお楽しみ頂けましたら幸いです。それでは、次の料理をお持ち致します」
すっかり空になったラーゼンとファニーのスープ皿を手に持ち、バルネアと給仕の女性は、厨房に戻って行く。
そして、客席に残ったラーゼン達は、互いを見て、楽しそうに笑った。
「ねぇ、貴方。素晴らしいスープだったわね。次は、何が出てくるのかしら!」
「そうだなぁ、前菜が出てくるのかな? だが、あのスープの後だということを考えると……」
「ああっ、楽しみだわ」
ファニーはそう言って、ワインを口に運ぶ。
「うん。最初は香りの弱い安ワインと思っていたけれど、これはこれでいいわね」
「おお、お前もそう思ったか。きっと、料理を一番美味しく味あわせるための配慮なんだろう」
「なるほどねぇ。ふふっ。ああ、良かったわ。貴方があの若い料理人にたらしこまれたんじゃあなくて」
「当たり前だ。俺はこう見えても、お前一筋だ」
「ふふっ、いいわ。美味しい料理に免じて、そういうことにしておいてあげる」
ラーゼン達夫婦の会話は止まらない。
そこには、もう気取って澄ました様子はなく、二人は自室にいる時のような気軽さで、会話を交わす。
そう、会話を交わす。笑顔で、幸せそうに。
最高の結婚記念日になったと、二人は思った。
それほど、このパニヨンという店での一時は、夢のような楽しい時間だったのだ。
そして、この店での最後の一品を食べ終えてからもそれは続き、ラーゼンとファニーはほろ酔いの中、幸せな気分で家路に就くことができた。
帰りの話題は、全て今日食べた昼食の内容だったのは言うまでもない。
ときには、心躍る昼食を(ときにはシリーズ③) トド @todochan
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