街路樹大脱出
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それは、東京の神宮外苑から始まった。秋も深まり、そろそろ木枯らし1号の発表がありそうな寒い朝だった。見事な黄葉で有名な銀杏並木は、少しだけ色付き始めていた。すうっと青空に伸びた梢が綺麗に並んでいる。
その時、梢の一つが揺れた。地震ではない。揺れたのは1本だけだ。続いてその銀杏の周辺の地面がゆっくりと盛り上がった。周囲の歩道や道路のアスファルトもひび割れた。木の幹が大きく傾いた。すると、割れた舗装道路から太い根が現れた。見渡せば、周囲の銀杏の木も揺れ始めていた。
まだ人通りの少ない銀杏並木は低く地響きを立てていた。至る所で歩道や道路がめくれ上がり、根が宙に躍り出ていた。やがて根はすっかり地上に出て、木々の揺れは止まった。梢は再びすくっと天空を指し、まっすぐに伸びている。束の間の静寂の後、一番北側の銀杏の木が動き始めた。左右に張り出した根を交互に動かして歩き始めたのだ。梢は大きく左右にゆっさゆっさと振られている。その巨大さを抜きにすれば、ユーモラスでさえある。残りの銀杏は、順々に続いて歩き始めた。やがて、行儀の良い一列縦隊の行進となった。粛々と、重々しい足取りで進む。「展覧会の絵」の「牛車」が聞こえてきそうな光景だ。
木々が立ち上がった後は、まるで爆撃を受けたか、或いは巨大なモグラが暴れまわったかのように地面がめくれ上がったり陥没して、とても車が通行できる状態ではなかった。
やっと人々が騒ぎ始めた。テレビの報道陣が駆けつけ、上空にはヘリコプターが舞った。銀杏達の行進はゆっくりと続いていた。国道の真ん中を新宿方面に向かって行進している。当然、進路上の道路は通行止めになった。歩道も危険なので、通行禁止だ。沿道の住宅には避難勧告が出された。万が一木が倒れたら、家など潰れてしまう。幸い木々は安定した調子でゆっくりと進んでいた。人が歩くよりも遅いくらいの速度だ。銀杏達は新宿から首都高に上がって西へと向かった。
外苑の銀杏並木に
政府と都は市民に冷静な行動を呼びかけていた。何故このような前代未聞の事態が起きているかは誰にも分からなかった。ただ、幸い今の所、行進する木々が市民に危害を加える様子は無い。もちろん、物的被害は甚大だ。木々が立ち上がった後は、目も当てられない程に路面が破壊され、また、行進が行き去った後の道路も至る所が陥没していた。道路に近い家屋は窓ガラスが割れたり、柱が傾いたりした。ビルが傾く被害も出た。
街路樹の行進は、ある者にはひょうきんに、ある者には荘厳に見えた。ただただ整然と並んで進んでゆく。
テレビのワイドショーでは学者や宗教家が好き勝手な事を言っていた。これだけ奇抜な出来事になると、何を言ってもそれほど批判も受けないし、詮索もされない。誰にも真相は分からないからだ。
「ゴジラが現れる前兆だ」
「アルマゲドンが近い」
「イニシャラー」
「地球温暖化が原因だ」
「木が進化した」
これらを真面目に信じる人はいなかったが、次のような見解には一理あると共感する人が少なくなかった。
「過酷な都市環境に耐えられなくなって逃げ出したのでは?」
一夜が開け、人々は落ち着きを取り戻した。多くの人は起きていることが信じられずに夢ではないかと思っていたが、翌朝のニュースを見て、それはやはり現実だと気付かされた。外苑の銀杏並木の行進は八王子市に掛かっていた。人々は多摩川や、国道20号線から遠巻きに高速道路上の木々の行進を見ていた。
当局はなすすべも無かった。いや、下手に何かをして行進が止まったら、道路上に膨大な量の木々が放置されることになる。そうであればこのまま歩かせたほうが良いと言う判断もあった。しかし、神奈川県や山梨県の担当者は、このまま行進が県内に入ってくることを警戒し、東京都に対してなんとかするように要請し続けていた。
相変わらずテレビでは「専門家」達がいいかげんな事を言い続けていたが、少し全体として共有されてきた見解があった。
「街路樹の行進は、山に向かっているのではないか」
もちろん根拠は無い。しかし、都心の環境を嫌って脱出したのであれば、山に帰ろうとしているのは理解できる。
そんな話しがネットで広がり、人々の共感を生んだ。テレビはマラソン中継のように行進の動向を追いかけ、人々は木々達を応援した。
「頑張れ、山まであと少しだぞ!」
ただ、山に植林を持つ林業家は戦々恐々としていた。折角の植林が荒らされてしまう。最悪、枯れてしまうかもしれない。一方、植林を丁度伐採した林業家は喜んだ。これらの木が伐採跡の禿山に定着してくれれば大助かりだ。植林や育樹の手間が省ける。
そんな時、事件が起きた。いや、木々が行進しているだけでも十分に「事件」なのだが、そこにさらに事件が加わった。銀杏並木の行進のしんがりを歩いていた木から煙が立ち上った。夕暮れ時の空に煙がたなびいて行く。そしてほどなく火の手が上がった。その銀杏はゆっくりと炎に包まれていった。悪いことに、火は前を行く木に燃え移った。次々と燃え移ってゆく。銀杏並木の行進は、さながら巨大な
「パキーン、パキパキ」
それは銀杏の悲鳴のように聞こえた。すっかり暗くなった高速道路に立ち並ぶ炎の列を人々は心配そうに見つめた。消防は周囲への延焼を防ぐために放水を始めたが、うまく消防車両を入れられず消火活動は難航した。夜間であるため、消防ヘリも飛ばせない。
翌朝、高速道路上に銀杏並木の雄姿は無かった。山に辿り着いたのだろうか? いや、山の僅か数キロメートル手前で力尽きていた。燃え残りの幹や枝が、まだ煙を上げてくすぶっている。もう、ピクリとも動かなかった。火が自然発火に拠るものか、或いは誰かが放火したものかは今は分からない。ただ、人々は山を目前にして散って行った銀杏並木を心から悼み、悲しんだ。
それでも、後続の木々達は高速道路上を進んでいた。銀杏並木の後ろから来ていたケヤキ並木は、もう山の入り口に達していた。高尾山近くの山稜だ。近隣の住人も、JR中央線に乗っている人達も、皆、声を上げて応援した。
「頑張れ、もう少しだ!」
ケヤキの街路樹はとうとう山に到達した。順に高速道路を離れ、山並みに入っていく。先頭の木は、少し開けた所を見つけると、動かなくなった。その場所に根を張るのだろう。木々は、根を張れそうな所を見つけると、順に落ち着いて行った。後続の木々は山の奥へ奥へと進んでいく。この山並みは、遠く秩父山塊まで続いている。そのどこかで居場所を見つけるのだろう。
それから一週間ほどが過ぎ、街路樹の行進は見られなくなった。都心の街路樹はほとんどが山に帰っていた。後には見渡す限り荒れた道路が残った。この復旧には何年も掛かるだろう。人々は、少しずつ道路の復旧を開始した。もちろん、もう街路樹は植えない。多くの造園業者が廃業に追い込まれた。自治体が発注する街路樹の整備の仕事が激減したのだ。
人知れず、今回の事件は「東京の街路樹大脱出」と呼ばれるようになった。街路樹大脱出は、事件としては確かに終息した。しかし、この街路樹の大行進が、全国の植物を刺激したのだろうか。全国各地で、時折「植物が動いた」という報告が聞かれる様になった。札幌のポプラ並木ではカップルが、ポプラの木がゆらっと動いたと警備員に通報した。警備員が駆けつけてみると、もうその木は動くのを
また、日光の杉並木でも、ドライブをしていた家族連れが木々が揺れるのを見た。最初は地震だと思ったが、全ての木が揺れている訳ではない。車を路肩に停める頃には、揺れはもう収まっていた。
街路樹だけでなく、公園の木や、或いは小さな鉢植えの木も動いたという報告が相次いだ。ゴルフ場では、グリーンの芝の一部が夜の間に移動したという報告があった。これらの事象は全て一過性のもので、木々の行進のような大規模な事態には至っていなかった。学者達は、これらが植物による何らかの意思表示だと主張した。街路樹大脱出以来、植物達が少し活動的になっているか、或いは人々が植物に敏感になっている事は確かだった。いや、その両方かもしれない。
街路樹大脱出の一件以来、なんらかの形で植物との「感応」を体験する人が現れ始めた。中には意思疎通ができるという人も出てきた。植物とのコミュニケーションは古くから研究されている事だが、ここに来て新たな進展が期待された。
東京都心では、あちこちで行われている道路修復工事の喧騒の中で、人々は改めて考えていた。あの街路樹の行進はなんだったんだろう。学者達は、未だに答えを見出せずにいた。ただ、今のところ有力な説は、光や音、排気ガスなどのストレスに拠るというものだった。また、それに強
そんな事から、動物と同様に、植物にも「植物保護法」を制定してはどうかという動きが出てきた。そうなれば、植物に対する虐待は禁止される。これには、華道の家元や生花店が反対した。切花を扱う事が虐待になっては商売ができなくなる。また、造園業者や盆栽業者も反対した。庭木や盆栽を刈り込むことが虐待と思われたら堪らない。その他にも、芝生を扱う業者も気を揉んでいた。というのは、サッカー場や野球場、とりわけゴルフ場では芝が敷かれている訳だが、芝は短く刈り込まれ、農薬を多用して維持される。ゴルフのグリーンの芝などはミリ単位まで刈り込まれる。そして、選手やプレーヤーに踏みつけられる。これが虐待と見做されては困る。
散々議論された挙句、植物保護法は見送られた。業者や、人々の生活への影響が大き過ぎるからだ。それでも、この議論は無駄にはならなかった。例えば庭木や盆栽は、これまでよりも自然な枝振りを残す剪定がなされるようになった。逆に余りに人工的な形状は嫌われるようになった。公園の木々に対する過度な強剪定も控えるようになった。また、夜間の照明はできるだけ暗くするようにした。クリスマスが近いが、イルミネーションを生木に巻きつけるのは避けるようになっていた。公園沿いの大通りでは、騒音や排気ガスの影響を減らすため、最高速度が低く再設定された道路もあった。これはドライバーには不評だったが、沿道の住民や通学する児童には好評だった。
植物保護の風潮は東京だけでなく、全国的な動きとして広がって行った。というのも、「街路樹大脱出」の様な事態が、いつどこで起きてもおかしくないからだ。大阪や福岡、札幌などの大都市圏の人々は心配していた。科学的な根拠は無かったが、人々は植物に優しい生活や街づくりに気を配るようになった。
◇ ◇ ◇
クリスマスも近いある日、ワシントンD.C.の郊外に店を構えるモミの木の販売店では、店員達がテレビのニュースを見ながら雑談をしていた。ニュースでは、東京の街路樹の行進がやっと収まったと告げていた。
「これって、排気ガスや人だらけの東京が嫌になって、街路樹が逃げ出したに決まってるさ。街路樹のエクソダス(大脱出)さ」
「ああ、俺もそう思うね。日本人は自然を大切にしないからな。イルカだっていじめるし。街路樹だって、ゴミゴミした東京は嫌だろう」
この店舗の裏には、広大なモミの木の植林が広がっていた。何百本、いや何千本もあるだろう。いわばモミの木の畑だ。ただ、背丈はどれも2、3メートルだ。
「こんにちは」
そんな時、家族連れが店に入ってきた。店員はその家族を「畑」に案内すると説明した。
「どれも上物です。枝振りもいいでしょう。ゆっくり選んでください」
連れていた男の子が「畑」の中に分け入っていく。しばらくすると大きな声が聞こえた。
「おかあさーん、これがいい。どっしりしていて」
両親が近づくと、3メートルほどのモミの木があった。確かに全体の形もいい。絵本に出てきそうな形だ。母親が言った。
「ちょっと大きいわねえ。天井につっかえちゃうんじゃない」
聞いていた父親が言う。
「いや、階段の吹き抜けの所になら置けるよ、これにしよう」
後から追いかけてきた店員はチェーンソーで根元から手際よく木の切断を始めた。その音は、まるでモミの木が悲鳴を上げているようだった。
そんな時、男の子はふと、隣のモミの木が動くのを見た。
「あれっ? 動いた」
両親は、木を載せた台車を押す店員と一緒に停めてあるピックアップトラックに向かって歩いて行く。後を付いて行きながら、男の子はもう一度後ろを振り返った。今度はもっと沢山のモミの木が揺れていた。
「あっ、いっぱい揺れてる!」
両親は車に乗りながら子供に言った。
「さー、いいクリスマスツリーを買ったぞ。帰ったら早速飾り付けだ」
ピックアップトラックは「ぶおん」という音を残して、緩やかな坂道を街の方へ下って行った。
翌日の朝、店員はいつもの様に店にやって来ると、異変に気付いた。モミの木が何十本も、いや、何百本かもしれない、盗まれているのだ。
「あ、やられた」
モミの木が盗まれる事は時々ある。しかし、今回は規模が大きい。
「ちくしょう。防犯カメラを確認しよう」
店員がカメラの映像を確認しようとしていると、もう一人の店員が出勤してきた。事態に気付いた彼はちょっと違和感を感じていた。
「おい、木が皆ひっこ抜かれているぞ。普通、盗むやつはチェーンソーで切って持って行くけどな」
カメラの映像を見ていた店員は驚いた様子で顔を上げると、木々の様子を
「ちょっと見てみろ、これは・・・・・・」
その映像には、薄暗闇の中で自ら根を引き上げて歩き始めるモミの木が映っていた。人は誰もいない。モミはの木は一本、また一本と自分で立ち上がり、やがて列を成して歩いて行く。どこかで見た光景だ。
「こ、これは東京と同じだ。どこへ向かっているんだ」
二人の店員は店の屋上に上って、辺りを見回した。すると、アパラチア山地の方角へ一列になって進んで行くモミの木の行列が見えた。もう何キロもの長さになっている。
この「現象」は全米で起きていた。クリスマスを前にして、クリスマスツリーが逃げ出したと大騒ぎになった。もちろん、ほとんどの報道は、これを日本で起きた街路樹大脱出になぞらえて説明していた。「専門家」達は、日本と同じくらいいいかげんな論説をしていた。
「これは日本の影響だ、だから日本が悪い」
「あー、神よ」
「まだ小さいのに伐採されるから、嫌がって逃げたんだ」
「クリスマスはキリストを祝福してあげているのになんで?」
この年の米国では、クリスマスツリーを飾らずにクリスマスを迎える家庭が多く見られた。そんな家はプレゼントの置き場に苦労していた。市民の落胆に鑑みて、恒例のホワイトハウスのクリスマスツリー設置も見送られた。また、ニューヨークのロックフェラーセンターのクリスマスツリーもキャンセルされた。
◇ ◇ ◇
東京都心では相変わらず道路修復工事が続き、年の瀬を迎えていた。街のイルミネーションは直接樹木に巻きつけるのは避けて、電柱や建物の外壁などの構造物に飾られた。そんなイルミネーションを家の窓越しに見ながら
「綺麗ね。大事件があったけど、今年もそろそろ終りね」
大事件とはもちろん、街路樹大脱出の事である。そんな時、テレビは米国の「モミの木大脱出」を報道していた。
「アメリカも大変ね。でも、あの人達にとってはモミの木も神様が作ったんだから、神様やキリストのために切って飾るんならいいんじゃないかしら。神様に返すだけだものね」
まだ幼い娘には母親の言う事は難しくて良く分からなかった。
そんな時、窓の横に置いてあった鉢植えの木が「ぷるっ」と動いた。それは、母親の言葉に反対して、「それでもやっぱり、モミの木は可哀想だ」と言おうとしているようにも見えた。それを見ていた娘はニコッとすると、鉢植えに向かってないしょ話しをするように答えた。
「うん、そうだよね」
娘が木に話しかけているのを見た母親はテレビから目を離し、木の方に向き直って語りかけた。
「鉢植えさん、あなたは逃げ出しちゃダメよ。ちゃんとお手入れしてあげるから」
すると、鉢植えの木はもう一度「ぷるっ」と動いた。それを見た母親が驚いていると、娘は言った。
「うん、どこにも行かないって。おかあさん、よかったね」
外では一日中続いていた道路復旧工事は今日の作業を終え、街は再び静けさを取り戻していた。
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