手にしていたもの
みたか
手にしていたもの
母の背中で、私はうわんうわんと泣いていた。
母は私を揺らしながら、来た道を戻っていった。
私は小さな村で育った。山と田んぼがあるだけで他には何もなかったが、それが私の全てだった。家を囲む山々は私の遊び場だったし、田畑は季節の移り変わりを教えてくれた。不自由など感じたことはなく、ただただ自由だった。なんでもできそうな気がしていた。全てのものが私の手のひらにあると思っていた。
母は幼い私を連れてよく散歩に出かけた。田と田の間を縫うように続いている細い道を、二人で歩いた。私は白い花を摘んで、手を茎の汁で汚した。ツンと鼻につく匂いはなかなか消えない。爪の中まで黄緑色になった私の手を、母は笑いながら拭った。
この瞬間、私の心はあたたかいものに満たされていた。手を伸ばせば欲しいものが手に入るということ。大好きな人が私を気遣ってくれること。そのどちらにも特別な想いを抱いていた。
ずうっと歩いて行くと、小さな床屋がある。私は中学に上がるまで、そこで髪を切ってもらっていた。くるくると回る赤・白・青のサインポール。「おしまい」のないそれをじっと見つめるのが好きだった。いつまででも見つめていられるような気がした。
そんな、終わりがないと思っていたものが止まったとき、長い夢からふっと覚めたかのような寂しさを感じる。定休日の日、床屋に行くとサインポールは止められていた。くるりと回って見てみたら、永遠に続いていると思っていたぐるぐるにはちゃんと終わりがあった。ぷつりと途切れた赤・白・青は、私の心を少し大人にした。
床屋のそばには小さな用水路があった。どこから流れてきて、どこへ行くのかも分からない。身を乗り出してぴちゃぴちゃと手を濡らすと、ひんやりと冷たい感覚が私の火照った体を冷ましてくれた。
そのときだった。視界の端で黒いものが見えて、はっと顔を上げると一匹の猫がいた。
「きゃあっ」
叫び声を上げながら、私は母の足にしがみついた。
「ねこ! ねこ!」
「ほんと、かわいいねぇ」
「やだ、こわい、おんぶして、はやく」
足をどしどしと叩いて泣きながら訴えた。そんな私に根負けして、母は私を渋々おぶった。
「猫のどこが怖いのかなぁ」
母の言葉を聞きながら、まだ私の下でにゃあにゃあと鳴いている猫を見下ろした。
ここなら安心だ。母の背中にいると、そう思えた。
「ちいちゃんいっぱい泣いたし、もう帰ろっかぁ」
「うん」
母は歩き始めたが、それでも猫はついて来た。
「ねこ、ついてくる、こわい、なんでぇ」
私はまた泣き始めた。うわん、うわあん、という甲高い声が、山に響いてこだました。
あの黒猫は飼い猫だったのだろう。赤い首輪をしていたし、人にも慣れていた。もしかしたら遊んでほしかったのかもしれない。
母以外の生き物が怖かった。兄弟はいない。父はときどき私を叩いた。母以外の人間は、言葉が通じない生き物だと思っていた。
人間ですら何を考えているのか分からないのに、動物の考えなど分かるはずがなかった。何を求めて近寄ってくるのか、私を見つめる目が何を言いたいのか、それが全く分からない。あっちに行ってと言っても近づいてくる。その得体の知れない感じが怖かったのだと思う。
その恐怖から逃げるようにしがみついた母の背中は、ほかほかとあたたかかった。頬をくっつけると、体温が伝わってきて安心した。ふっくらと脂肪がついた背中は柔らかくて気持ち良く、お乳と石鹸が混ざったような匂いがした。
揺れる視界の中で、ゆっくりと景色が変わっていった。古びた物置き小屋、庭に植えられた木、黒く汚れた塀。さっき歩いたばかりの道なのに、おぶられながら見ると違う場所のように思えた。視線が少し高くなるだけで、世界が広がったような感じがした。
けれど、花は摘めなくなった。道に落ちている石も木の枝も拾えなくなった。
安全な場所にいるということは、ほんの少し不自由になることなのだと知った。
手にしていたもの みたか @hitomi_no_tsuki
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