5.『A-i-on』(アイオン)

「アイオン、どうしてレオン先生から奪ったんですか」


 震えながら、エデンは問いかける、しかし白い生き物は優しげな口元を奇妙に歪めただけだった。睨みつける視線にも動じることなく、アイオンは笑い続ける。


「どうして笑っているんですか! 答えてください」

『いや、無様だと思ってさ。レオンも、君も』


 無様。そんな風に言われるだけのことを、レオンはしたのかもしれない。けれどエデンはアイオンの言葉をそのまま受け入れることができなかった。


「取り消してください。少なくともあなたに、レオン先生を笑う権利はないです」

『そうかい? 別に構わないけどね? だけど、僕だって被害者なんだよ? レオンのせいでエデンのねえちゃんは死んじゃったんだ。僕が情報と記録を取り込めなかったせいで、おねえちゃんは蘇らない。全部レオンのせいじゃないか。君もそう思わない?』


 無邪気なアイオンには、別のものが見えているのだろうか。『エデン・ステラマリス』に生みだされたアイオン――この子にとって、人の死はあまりにも軽い。


「アイオン。そんな風に言わないでください。レオン先生は必死に『エデン』を蘇らせようとしていました。その気持ちを、あなたはわからないんですか?」

『わからないよ! だって、おねえちゃんはあいつのことなんか大嫌いだったもの! 本当はあいつの情報なんて取り込みたくなかったんだけどね。あいつ意外としぶとくてさ。いつまで経っても死なないから、ちょっと手を貸してあげたんだよ』


 手を貸した。その言葉に潜む悪意に再び寒気がした。アイオンはどこまで無邪気で、悪びれもせず人を殺せるのだ。こんな生き物、放置すればどうなるか――。


 エデンが一歩踏み出そうとした刹那、部屋が激しく揺れた。照明が明滅し、明かりが掻き消える。それでもアイオンがぼんやりと光っているせいで完全な暗闇にはならない。


「照明が落ちた……?」

『あーうん。電気系統がやられたみたいだね。もうすぐこの水槽の循環も止まっちゃうかな』

「何を平然と言っているんですか。それじゃあなた、死んでしまいますよ」


 エデンが水槽を叩いても、アイオンは軽く首を動かしただけだった。循環がなくなれば、この中で生きているアイオンは窒息してしまうだろう。にもかかわらず、この生き物は無関心に口角を持ち上げる。


『だいじょうぶ。もうすぐ僕、ここから出られるから』

「どういうことです」

『上ではたくさん人が死んでいるでしょ? だから僕、その情報を食べているんだ』


 ガツンと頭を殴られて気がした。エデンは恐る恐る白い生き物を見る。この水槽から出られもせず、何かに触れることもできない。それなのに、情報を食う?


「あなた、情報を得るためには体液が必要だって言いましたよね?」

『言ったかな? だけど、それは嘘じゃないよ。僕の意思以外で情報を得るためには、体液が必要だけど……ほら、僕が望めばこんな風に』


 がくんと、膝から力が抜けた。足の感覚が消えている。嫌な予感がしてみれば、足首までが白い結晶と化していた。


「アイ、オン……!」

『君の情報はおいしいね。レオンとは大違いだ』


 初めて、この生き物に怒りを感じた。情報と記録を食らうのは、生きるために必要で仕方なくだと思っていた。しかし、明らかにアイオンは食らうことを楽しんでいる。


『何を怒っているの? 人間だって同じでしょ? 美味しいものが食べたい。お腹が空いていたらもっと食べたいと思うものでしょ。僕がおかしいわけじゃないよね?』

「だとしても……あなたの存在は! わたしたちとは違いすぎる!」


 この水槽を叩き割れればいいのに。エデンは必死に暗がりに指を這わせた。そんなエデンの姿を、アイオンは嘲笑う。無駄な抵抗だと、まるでいたぶるように言葉をつなぐ。


『僕を殺すの? 無理だと思うな! あと少しで君は死ぬ。そんな短時間で、僕を殺せるのかな?』


 無理だとは、エデンも理解していた。床を這っていたって、武器なんて落ちていない。けれどもし、レオンなら――祈るような気持ちで、恩師の結晶を探る。


『なにしてるの? 死体を漁るなんて趣味が悪いね?』

「……うるさい、だまって」


 結晶の侵食は、膝まで進んでいた。腕にまで到達してしまえば、動くことも叶わなくなる。レオンならきっと、何か持っていたはず。信じて、願って――そしてエデンは見つける。


「あ……」

『なに? 何かあったの』


 無言でエデンは『銃』を構える。さすがのアイオンも、エデンの姿に唖然としたようだった。


『ねえ、やめようよ。そんなの撃ち方わかんないでしょ?』

「うるさい、どのみちわたしは死ぬんでしょう? だったら抵抗してもいいじゃない!」


 引き金を引くだけで発砲できるわけではなかった。慎重に、かつ素早く銃を確かめる。スライドを引き、手を離す。撃鉄が持ち上がり、エデンは銃を両手で握りしめる。


『やめようって! そんなことしても意味ないよ!』


「意味があるかどうかは、わたしが決めます! あなたに言われる筋合いはない!」


 エデンは引き金を引く。まず一発。弾は跳ね、ガラスは割れない。二発、三発。だめ、まだ割れない! 五発、六発――。


『あーあ心配して損した。それじゃ、どうにもならないね。残りは何発かな?』


 エデンは銃に詳しくない。けれど、残りがそんなに多くないことだけはわかる。せいぜい、あと一発か。それで割れなければ、あとは。


「う、あああああっ!」


 引き金を引く。一発の弾が飛び、ガラスにひびを入れる。アイオンの顔が引きつる。だが、再び引き金を引いても弾は吐き出されない。


『ほら、もうあきらめて』

「ああああああっ!」


 力を込めて、銃をガラスに打ち下ろす。何度も何度も。体がバラバラになるくらいの強さで打ち付ける。


『や、やめろぉおおっ!』


 アイオンが怯えた叫びを上げる。誰がやめてやるものか! エデンは全身全霊を込め、最後の一撃を振り下ろした。


 終わりはあっけなかった。ガラスが砕け散った瞬間、アイオンの体から力が抜ける。水が流れ出し、エデンに降りかかってきた。虚ろな緑の瞳でエデンを睨みつけた生き物は、そっと呪いの言葉を吐き出す。


「君は、ぼくをころした。だから、きみに……おくりものをあげる」


 そう言って、アイオンは目を見開いたまま動きを止めた。エデンは立ち上がることもできず、冷たい水の中で座り込んでいた。これですべてが終わり。エデンもきっと、もうすぐ。


「……っ! ああ、あああっ!」


 刹那、激しい痛みが全身を襲った。まるで体の中心を引き裂くような激痛に、エデンは身を折り悲鳴をあげる。いたい、いたいイタイ痛いいたい!


 悲鳴は、絶叫に変わった。何かが、何かとしか言いようのないものが、背中を引き裂いていく。エデンは床でのたうち回り――いつしか、意識を手放していた。



 ※


「……エ……ン」


 揺り起こされ、エデンの意識は覚醒する。


 体は完全に冷え切っていて、感覚がない。ふらふらと上体を起こすと、そこにはアサギの姿があった。


「気がついたか」

「アサギ、さん……わたしは」

「どうやら、お前はアイオンを殺したようだな」


 アイオン、その名前にはっと振り返る。途端に背中に焼けるような痛みが走った。それでも割れた水槽の中を確認すると、白い生き物が底に横たわっていた。


「アイオンは……危険な生き物でした。美味しいからといって、人を好んで殺すような」

「別にお前を責めているわけではない。やはり、レオンもあいつにやられたか」

「はい……」


 そのことを思い出すと、鼻の奥がつんとした。顔が歪むのを抑えきれなくて、エデンはそっぽを向いて立ち上がった。……立ち上がる?


「うそ」


 足を見下ろしても、あの結晶はどこにも存在していなかった。それどころか、ひどく身が軽い。思わず体を確認すると、あり得ないものが見えた。


「なに、これ」


 視界の端に、白いものが映り込む。断じて服などではない。明らかに異質な、羽のようなもの。戸惑いながらアサギを見ると、彼はひどく痛々しいものを見るような目を向けてきた。


「アサギさん、わたし、どうなってるんですか」

「表現が難しいな。俺の目には、お前の背中に翼が生えているように見える」

「つ、ばさ?」


 どうしてそんなことになっているの? 混乱すればするほど、異常さだけが際立っていく。アイオンは何と言っていた? おくりもの? まさか、これが贈り物だっていうの?


「アサギ、さん、わたし、どうなってしまったんですか?」

「わからん。アイオンについては、俺にも理解が及ばないことが多い、もし、こいつがお前に何かしたとしても……特に驚きはしないが。こいつは、人間の情など理解しない本物のバケモノだったからな」


 わからない。そう言いながらも、アサギにはエデンの見えていない何かが見えているようだった。ゆっくりと周囲を眺めたアサギは、水槽のそばに歩み寄ると何かを拾い上げる。


「何か見つけたんですか」

「……いや、何でも。だが、お前の状態については少し想像できることもある。それを取り除くことは今はできないが、いずれは可能になる、かもしれない」

「かもしれない? どうしてそんなにあいまいなんです? これを取り去ることはできないんですか」


 正直、こんな翼は気味が悪かった。取り除けるものなら今すぐ取り除いて欲しい。そう訴えても、アサギは眉尻を下げるだけだった。


「今は、無理だ。俺も長くはここにいられない。外の状況は最悪だ。国外の連中が放った兵器とアイオンの影響で、人が生きられる場所ではなくなっている」

「そんな、だったらわたしも……!」

「駄目だ。お前は」


 アサギは何かを言いかけて、やめた。代わりに首を横に振ると、言い聞かせるようにエデンへと語りかける。


「いいか、お前はここから動いてはいけない。俺が必ず元に戻す方法を探してくる。どれくらいかかるかは未知数だが……必ず何とかする、約束する」

「ほんとうですか? すぐに戻ってきてくれます?」

「……できる限り早く戻る。だから、ここで待っていてくれ」


 言い含めるように告げて、アサギは部屋から駆け出していく。一瞬、追いかけようと思ったが、こんな姿では気味悪がられるだけだと思い、立ち止まる。


「早く戻ってきてくださいね」


 声は、届いただろうか。


 ※



 ――それから。


 エデンは白い砂の都市と化した街を歩く。最初こそ生存者を探して歩いていたが、最近はそれもしなくなった。多くが謎の『ヒトガタ』に喰われた後で、助けようとしても助けられないことが大半だった。


 あの『ヒトガタ』は何なのだろう。アサギに聞けばわかったかもしれないが、相も変わらず、彼は帰ってこない。必ず戻ると、約束したあの言葉は嘘だったのだろうか。


「そうだとしても、わたしは」


 ここで待ち続けるほか、なかった。あのとき追いかけなかったことを、何度後悔したことだろう。だが、この場に残ることを選んだのは自分で、今更選択し直すこともできない。


 今日も、白い砂の光景は変わらない。ところどころに生えた結晶は、アイオンの残滓だろうか。エデンは歩き続ける。あてもなく、どこに行くでもなく、永遠に。


「どうか、誰か。わたしを解放してください……!」


 叫ぶ。泣き叫んで、助けを乞う。それでも時間は無情に流れていく。



 結局、願いは叶わなかった。

 そして数十年後、エデンはイオンに出会うのだった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る