4.『レオン・カノープス』
エデンは走っていた。
コンクリートの階段を駆け下り、さらに下へ。アサギから預かったIDカードを握りしめ、飛ぶように階下へと進んで行く。
――戦争が始まった。
その言葉通り、都市への攻撃は繰り返し行われた。都市中央部は言うに及ばず、次第に郊外の方へと攻撃の手が伸びようとしていた。
アサギはDCHへ向かうと言って走り去ろうとした。しかし、最後にエデンを振り返ると、このIDカードを投げてよこしたのだ。
「今ならまだ間に合う。レオンに会いに行け」
そして今、エデンは医科学研究所の地下施設へ向かって走り続けていた。立ち塞がるゲートも、アサギのIDなら容易に突破できる。そのことに心の中で感謝しながら、エデンは駆けていく。
今更レオンに会って、どうするというのか。ずっと頭の中でその言葉がまわり続けている。どうするって? そんなのわかりっこない。ただ、もう一度あのひとに会って、言葉を交わしたいだけなのかもしれなかった。
階段はあとわずかで終わる。残りの段数を一飛びで下りて、エデンは肩で息をした。正面にはひときわ大きく、物々しいゲートがある。足を引きずるようにして歩みながら、カードリーダーにIDをかざす。
「開いた」
ゆっくりと進む、エデンは再び、あの忌々しい実験場に戻ってきた。
灰色で満たされた広い空間は、以前とは違い、青い光で満たされていた。それが水槽から放たれる光であると、歩き始めたエデンは気づく。
「どうして」
横目で水槽を見れば、中にいたはずの『エデン』たちの姿がなくなっていた。どれもこれも空で、十数体はいたはずの少女たちはどこかに消え去っている。
どういうことなのだろう? 周囲を見渡したところで、動いているほかの『エデン』の姿も確認できない。本当に何が起こっているのか――疑問に足を止めた瞬間、頭上の配管が激しく揺れた。もしや、ここも攻撃されている?
「いそがなきゃ」
疑問を投げ捨て、エデンは再び走り出す。水槽の間を抜け、以前アステルとともに辿った通路を駆け抜ける。周囲は異様なほど静かで、生きている者の気配さえしない。
そして、エデンはたどり着く。
『アイオン』が設置されていた部屋の前に立ち、エデンはIDを認証させる。
『コードを入力してください』
機械音が響き、コンソールが立ち上がる。エデンは素早く『21370407』を入力する。
『認証しました。ゲートを開放します』
ゲートが開かれる。きっと、この先にレオンがいる。エデンは軽くせき込んでから、その先の空間へと足を踏み入れた。
「レオン先生!」
呼びかけが室内に反響した。寒い。エデンは両腕を抱きしめる。部屋は異様な冷気に包まれていた。下手をすると冷凍庫くらいに寒いのではないか? こんな場所にレオンがいるとは思えなかった。
「レオン、せんせい!」
冷気に包まれる空間を歩きながら、エデンは何度も呼びかけ続けた。しかし、何の返答もなく、中央の巨大水槽の中も白く凍り付いていて――やはり、おかしい。
「先生! レオン先生! 返事をしてください」
耳を澄ます。すると、かすかに物音がした。視線を動かし音源を辿る。そこは水槽の陰――白衣の裾が、わずかに見えている。
「レオン先生! ――っ!?」
果たして、レオンは水槽のそばに横たわっていた。
駆け寄って顔をのぞき込むと、かすかにまぶたが震える。良かった、生きてる。安堵したのもつかの間、さらに強い冷気が襲い掛かってきた。
「とにかく、ここから出ないと」
レオンの体を移動させようと、抱き起そうとした。細身とはいえ、男性のレオンの体は重い。腕を引っ張ろうとしたが、その時。
「え」
ぱきり、ガラスが砕けるような高い音がした。恐る恐るレオンの手を見ると、寒さで白くなっている。――いや、違う!
「レオン先生!?」
レオンの手は白く結晶化していた。手だけではない。見えないだけで腕全体も結晶化しているのだろう。エデンは言葉もなく震えた。どうして、どういうことなんですか。
エデンが震えながらレオンのほおに触れる。冷たい、寒さのせいだけではない。レオンから命の温度が失われていこうとしていた。
「――ぇ、デン」
「レオン先生っ!」
かすれた声がレオンの唇からもれた。エデンが顔を寄せると、無事な方の手が肩を押し返す。何度か瞬きレオンの顔を見つめると、静かにまぶたが開く。
「私に、触れてはいけない。君まで侵食される」
「レオン先生……! どうしてなんですか、どうしてあなたがこんな風に」
エデンの問いには答えず、緑の目はゆっくりと水槽を見つめる。白く凍り付いたそこに、生き物の姿は見えない。アイオンは、この中にいるのか。
「どうやら、私は失敗してしまったらしい」
「失敗? どういうことです」
「私はただ、『エデン』を生き返らせたかっただけなんだ。アイオンを使って、何度も実験を繰り返し……結果、思い知ったよ。『エデン』はアイオンの中に情報と記録を残さなかった。だから、たとえアイオンの力をもってしても、彼女は蘇らないって」
エデンの言葉に答えているようでも、レオンの意識はどこか遠いところにあるようだった。必死に肩をゆすっても、レオンの目は虚ろでエデンを映さない。
「だから、様々な方法を試すことにした。『エデン』が残した遺伝子情報をもとに、複製体をいくつも造り上げ……だけど、どれも彼女ではなかった。当然だ。複製に記憶は継承されない。そこで研究は暗礁に乗り上げた」
ぱきぱきと、結晶の侵食がすすむ音がする。そこでやっと、レオンは虚ろな目をエデンに向けた。
「私は、君を利用するつもりだった」
「そうなんですね」
「ああ、そうだ。ゼロエデン……オリジナルの劣化した複製体である君が、どういう成長を見せるかにも興味があった。けれど、まさか君に『僕』の正体を暴かれるとは思わなかったなぁ。幻滅しただろう? レオンがこんなに狂った人間だったなんてさ」
嫌なせきを繰り返し、レオンはむなしそうに笑った。幻滅した。そう言われればそうなるかもしれない。ひどい言葉を投げつけられ、裏切られもした。
それでも、レオンを完全に憎み切れなかったのはどうしてなのだろう。彼の魅せていた優しさがすべて噓だとは思えなかったから? いいや違う。ただ、エデンは――。
「そうですね。幻滅しました。大好きなレオン先生が、こんな人だとは思いませんでした」
吐き出すように言って、エデンは静かに笑った。その言葉をどうとらえたのか、レオンは困ったような笑い方をする。ひどく情けない、だが、よく知るレオン・カノープスの顔で。
「それ、できれば二十年前に欲しかったなぁ」
「無理です。だめです。不可能です。諦めてください」
「そんな畳みかけるように言わなくても。『僕』にだってまだ、かろうじてまともな心が生きているんだから」
ここだけ『僕』だった。少しだけ寂しそうな顔をして、レオンはそっとエデンに手を伸ばす。
「ねえ、エデン」
レオンは確かにエデンを見ていた。『エデン・ステラマリス』の亡霊ではなく、エデン自身を。だからエデンは悲しくなる。ああ、このひとはこんな風になっても、自分の気持ちに嘘がつけないのだと。ただただ優しい、レオンのままでいる。
「これまで生きてきて、君はたのしかったかい」
優しい声音を紡いで、レオンはまぶたを閉ざす。エデンはそっとレオンの手を握った。冷たい、命の消えかけた手だった。それが悲しくて、エデンは必死に笑う。
「楽しいこともありました。つらいことや、苦しいことも……そちらの方が印象が強くて、そればかりだった気もします。だけど、今は」
「いまは?」
「今は、できる限り生きようと思います。助けられなかった人を、ずっと忘れずにいるために」
そうか、と、短くレオンは答えた。結晶化はすさまじいスピードで進み、レオンのほおまで到達しようとしていた。もうすぐ、命が消える。その予感に抗うために、エデンは声をあげる。
「先生は? 生きてきてどうでしたか?」
「きみと、おんなじだよ。いいことよりも、わるいことのほうが多かった気がするけども……それでも、僕は自分の望みのためにいきたよ。この人生に、くいはない」
崩壊の音がする。レオンはそっと、エデンの手から自分の手を外した。その手さえも、白いものに変わっていき、レオンはまぶたを閉じたまま笑う。
「あの世というものがあるなら、僕は地獄へおちるだろうね……。多くの人をぎせいにし、みずからの欲のために君たちをくるしめた。ゆるしてなんていえないよ。きみも、ゆるさなくていい。せめて、憎んで。すきだなんていわなくていいから。きみにはその権利がある」
「いやです。もうレオン先生の言うことなんて聞きません。良い子のエデンは卒業したんです。だから何度だって言います」
エデンはそっとレオンの耳元に口を近づけた。そして、囁くように語りかける。
「わたしは、あなたのことが大好きです」
「……そっかぁ」
レオンのほおを一筋の雫が伝う。哀しかったのか、嬉しかったのか。どちらもかもしれない。レオンはただ、閉じたまぶたの下で微笑んだ。
「それがきけただけで、ぼくは」
最後にやさしい声を残し、レオンの命は終わった。
砕け散った白い結晶を見つめ、エデンは一粒だけ涙をこぼす。どうして、こんなに苦しくて悲しいことを押し付けたの。『エデン』、そして――。
「これで満足なんですか、あなたは」
エデンの声に、白く凍りついていた水槽が溶け始める。冷気はそのままに、澄んだ水をたたえたそこに、大きな白い生き物が姿を現す。
『満足だなんて。悪趣味なレオンとは違うよ』
「――っ、アイオン」
現れたアイオンは、砕けた結晶を見下し嗤う。
悪意を隠そうともしない生き物に、エデンは奥歯を強くかみしめた。
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