3.愛なき赦しと滅びの雪

 吐き気を催すほどの狂気が、アサギの話の中に存在していた。


 反射的に自分の体を抱きしめたエデンは、湧き上がる嫌悪感に唇を震わせる。怖かった。何が? アサギの話した内容が? 違う。本当はそうじゃない。


「これでも、お前は……俺の憎しみを無視できるというのか? 俺はあらゆるものを奪われた。エデンとアイオンに、だ」


 アサギは自分の両手を握りしめた。その手も、きっと両脚さえも、作り物に代えざるを得なかった。しかも、家族さえもエデンの所業のために奪われた。男のまとう黒い服は、失ったものを悼むための喪服だったのだろうか。


 どう答えていいかさえ、エデンにはわからなかった。ごめんなさい。単にそれだけを告げることも難しいほどに、アサギは多くを失いすぎている。


 エデンは言葉もなく立ち尽くす。あたたかな風も、優しい日差しも慰めにはならない。アサギは横目でエデンを見て、不快そうに顔をゆがめた。


「もちろん、お前自身が罪を犯したわけではないことくらい理解している。だが、それでもお前は『エデン』だ。できるなら、お前たちすべてをこの世から消し去ってやりたい。そうやって憎み続けることでしか、俺は正気を保てなかった」


 エデンは首を横に振る。どうしても、アサギの気持ちの底が見えなかった。言葉とは裏腹に、アサギはエデンを決定的に害していない。いつでも殺そうと思えば殺せただろうに、一度はエデンに力を貸しもした。


 それらの事実をいやがらせとして片づけるには、アサギの行動は矛盾しているように思える。確かに、アサギは『オリジナルエデン』を憎んでいるのだろう。しかし、それがイコールでエデンに結びついているようには捉えられなかった。


 しばしの沈黙のあと、エデンは再び首を横に振る。やはり、わからない。目の前にいるこのひとの気持ちが見えてこない。


「アサギさん。あなたは『エデン』に何を求めていたんですか」

「どういう意味だ」

「あなたの言葉は矛盾しています。わたしが『エデン』自身でないと理解しながら、わたしに対していやがらせと称して過去を理解させようとしている。あなたの望みは一体何なのですか? ただわたしに、『ごめんなさい』と言わせたいんですか? きっと違いますよね?」


 エデンの言葉に、アサギは眉間にしわを寄せた。険しい表情を作りながらも、男は迷っているように見えた。エデンは黙って返答を待つ。アサギからの言葉は返らない。けれど、不穏な静寂は唐突に破られる。


「俺は、ずっと『お前』を殺したかった」


 血反吐を吐くように、アサギは声を絞り出した。苦痛に歪んだ顔は、これまで彼が受けてきた理不尽な痛みを表しているようだった。お前を殺したかった。それは間違いなくアサギの本心のはず。それでもエデンはあえて一歩踏み込んだ。


「だったら、殺してください」

「……なに?」

「殺してください、って言ってるんです。冗談でもなんでもなく……わたしだって、もうこんなの辛いだけなんですよ」


 エデンはアサギの顔を見上げる。言葉にしてしまえば、心は不思議と落ち着きを取り戻した。苦しいのはいやだな。そう思いつつも、最後の一瞬で苦しみが終わるのなら十分納得できるような気がした。


「正気か」

「もちろん正気です。むしろアサギさんはどうして迷っているんですか? わたしを消すことで苦しみが終わるなら、それが最良の結末じゃないんですか」


 エデンがさらに一歩近づくと、アサギはその分だけ遠ざかる。もう一歩踏み込んでも結果は同じ。なぜそんなことに? 疑問とともにエデンはアサギに近づこうとした。


「やめろ、来るな」


 アサギは顔を引きつらせながら後退っていく。大人の男を少女が追い詰める構図なんて、はた目から見なくてもおかしすぎる。それでもエデンはアサギに歩みっていく。


「逃げないでください。あなたはわたしを殺すんでしょう!」

「うるさい……! 俺を、その目で見るな……!」


 現実から目を背けるように、アサギはその場にうずくまった。今ならはっきりとわかる。アサギは恐れていた。誰を? ――エデンをだ。


 エデンは無言で黒い男を見下ろし、大きく息を吐き出した。ひどいことをしている気分になるのは、どうしてなのだろう。このひとには散々な言葉を投げつけられてきたのに、不思議と今の姿に悪感情は浮かばなかった。


「アサギさん、あなたの望みは何ですか」


 改めて問う。肩で息をしながら、アサギは顔を上げた。男の顔は青ざめ、黒い目は血走っている。恐れているものは、エデンの後ろにいる『エデン・ステラマリス』なのだろうか。そうであろうとなかろうと、このひとから本音を引き出せるのは今しかない。


「俺の望みは……もう忘れたい」

「忘れたい?」

「……『エデン』に関わる感情、この胸糞わるいだけの記憶も。お前のことなんて忘れてしまいたいんだよ。こんな風に縛られ続けるのはこりごりなんだ」


 『エデン・ステラマリス』の望みは叶ったのかもしれない。ふと、エデンは考える。こうやってアサギが苦しみ続けることで、『エデン』は彼が生きる限り心の中に残り続ける。


 わたしを忘れないで。覚えていてね。そんな言葉が聞こえた気がして、エデンは自らのオリジナルである少女の妄執がいかに罪深いかを知った。


「アサギさん、あなたは何も悪くないんです」


 どう言いつくろったところで、エデンの言葉は嘘になる。エデンはアサギの知っている『エデン』ではない。彼女が生き返ることがないのなら、いや、たとえ生き返ったとしても、アサギの欲しい言葉は永遠に得られない。


 だから、せめて望むように忘れて欲しかった。今すぐには無理でも、報われることのない絶望で自分を裁かなくていいのだと、それだけを伝えたい。


「アサギさん、あなたは忘れてもいいんです。あんな『エデン』に縛られ続ける必要はないんですよ」

「だが、俺は」

「あなたが苦しめば、『エデン』は喜ぶでしょう。あなたが思い出すたび、『エデン』は幸せになるはずです。そんなの不公平ですよね? あなたが受けた苦しみ、あなたの悲しみを思えば」


 忘れてください、あんな『エデン』のことなんか。しかし、アサギはエデンの語る理想に首を振る。二十年に及ぶ憎悪を消すことなんて、簡単にできることではない。


「考えても見てください。『エデン』が本当に嫌がるのは、あなたの言う通り忘れ去ることのはずです。あなたが忘れることで、『エデン・ステラマリス』はどこにもいなくなる。だって、そうでしょう?」


 エデンはアサギの前に膝をついて視線を合わせる。黒い目は戸惑うように揺れていた。このひとのことを好ましいと思うことはこの先もないかもしれない。それでも、オリジナルエデンの罪は自分が晴らそう。


「――『エデン・ステラマリス』は死んだんです。もう二度とあなたの前には現れない」


 アサギの目の前にいるエデンは、『エデン』の形をしているだけの別人なのだと。そんな当たり前の事実を突き付けて、エデンは笑顔を浮かべる。


 アサギが本当にエデンを殺したいなら、それでもいい。自分ひとりの命で救えるものがあるとしたら、やはり一人分だけのはずだから。


 アサギは長い間、黙ったままでいた。エデンの目を捉えたまま、そのうちにあるものをえぐり出そうとするかのようだった。エデンは目をそらさなかった。


「やはり、お前は嫌いだよ。エデン」


 受け止め続けた視線の先で、アサギはわずかばかりの笑みを浮かべた。エデンが首を傾げると、アサギは軽く眉を寄せ立ち上がる。


「気に入りませんでしたか、わたしの言ったこと」

「大いに気に入らないね。小娘がよく理屈をこねたものだと思ったが……お前の言ったことなど、とうの昔に理解している」


 大人を舐めるなよ。鋭く睨み据えられて、エデンは肩をすくめた。わかっていたなら、恥ずかしい一人語りをさせないで欲しい。


 エデンも負けずに睨みつけると、返礼のように小突かれた。どうでもいいけれど、鋼鉄の義手で叩くのはやりすぎだと思う。ひどい、呟いたエデンに、アサギはふっと息を吐く。


「やはりお前はかわいくもなんともない」

「ケンカ売ってるんですか?」

「いいや。だからこそお前を『エデン・ステラマリス』だとは思えなくなった」


 微妙に納得いかない台詞だが、アサギからの敵意が薄まったのは事実だった。エデンも膝を叩いて立ち上がる。


「わたしのことが嫌いなんじゃないんですか」

「何度も言わせるな、嫌いだ。お前だって俺のことは嫌いだろう」

「それはそうですけど」


 結局、アサギは本当にエデンにいやがらせをしたかっただけなのだろうか?

 まさかそんなわけもないだろうが、アサギの中でエデンに対する評価が多少なりとも変化したのかもしれない。それは決して悪いこととは思えず、エデンはそっとアサギの袖を引いた。


「なんだ」

「ごめんなさいなんて、わたし言いませんからね」

「いまさらか。言いたいなら言えばいいと思うがな」

「言いませんよ、わたしバカですからね!」


 ただ、それだけを告げ、離れる。アサギは面倒くさそうに首を振っただけだった。問題は何も解決していない。それでも歩み寄ることができたなら、きっとすべてがうまくいく――。


「おい、エデン」


 アサギが名を呼ぶ。エデンは顔を上げ――そして、見た。


「え……?」


 白いものが、ほおに当たった。音もなく空から降り注ぐそれは、季節外れの雪のように見えた。手を差し伸べて、白いかけらを掴む。しかしかけらは手の中で溶けることなく、冷たさも感じられなかった。


「ゆき……ですよね? だけど、ちょっと変」

「まさか……これは」


 アサギは空を見上げたまま、絶句していた。その間にも白いかけらは地面に降り積もる。この様子では、数時間も経たずに地面が覆い尽くされてしまう。


「やっぱり変です……これ、本当に雪ですか?」


 エデンがアサギに問いかけたときだった。


『緊急警報発令! 繰り返す、緊急警報発令――!』

「なんです、一体!?」


 エデンの叫びは、直後に鳴り響いた轟音にかき消された。


 振り返ったエデンは見た。はるか先で崩れ落ちるビルディングと、燃え上る炎と煙――。


「戦争が、始まった」


 エデンは立ち尽くしたまま、アサギの声を聞いていた。



 戦争なんて、遠い世界の出来事だと思っていた。

 けれど戦火は、そんな甘えをすぐに焼き尽くしていく。

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