2.『エデン・ステラマリス』

 『エデン・ステラマリス』という少女を語るとき、最初に思い出されるのは桜の記憶だった。



 穏やかな四月の空の下、アサギは長い枝を振り回して歩く。特に深い意味はなかったが、その時はそれが楽しかったのだろう。後ろでは幼馴染の少年が、のんびりと草花を眺めている。


 この日の目的地は、いつも遊んでいる場所よりも遠い公園だった。小さな冒険のように、適当に道を選んで歩いていく。当然ことながら、どんどん目的地から離れていき――気づけば二人は、見知らぬ教会の前にたどり着いていた。


「ここ、どこかな」


 きょろきょろと幼馴染の少年が視線を動かす。言うまでもなく迷ったのだと、アサギには理解できていた。ただそれを認めるのも嫌で、無言のまま教会へと進んで行く。


「待ってよ。どこ行くの」


 幼馴染が慌てて後を追ってくる。アサギは教会の扉に手をかけてみた。開かない。何度か動かそうと頑張ってみたが、無駄だった。


 扉を開けることを諦め、仕方なく壁伝いに歩いていく。ぐるりと教会を回り込むと、大きな桜の木が立っているのが見えた。


「さくら、だね。きれいだなぁ。僕、桜が一番好きだ」

「見ればわかる」


 そうは言ったが、アサギの目から見ても立派な桜の木だった。何気なく近づいていくと、さらにその大きさが目立つ。思わずあんぐりと口をあけてしまえば、くすりと誰かの笑い声が響いた。


「何だよ」

「ぼ、僕じゃない」


 幼馴染を睨む。しかし激しく首を振られてしまう。怪訝に思って周囲を見渡す。――桜の木の陰に誰かがいる!


「誰だよ、おまえ」

「誰ですって? ふふ、可笑しなことを言うのね」


 桜の陰から現れたのは、金髪の少女だった。青い目を細めながら、軽く黒いワンピースの裾をつまんで見せる。どこか浮世離れしたような雰囲気に、アサギは思わず一歩下がった。


「変なやつだな。誰だって言われたら、名前を言うだろ」

「そんなことに意味があるの?」

「意味って」


 どうにも言葉が通じない。嫌なものを感じて、アサギは踵を返そうとした。だが、後ろに立っていた幼馴染にぶつかってしまう。


「僕、レオンだよ。レオン・カノープス」

「おい」


 何を素直に名乗っているのか。肘でつついても、幼馴染――レオンの視線は少女から離れない。何を考えているんだこいつ。疑問は軽い笑い声によってかき消されてしまう。


「いいわね。名乗りには名乗りを。わたしはエデン。エデン・ステラマリスよ」

「エデンかぁ。きれいな名前だね」


 本当に何を考えてるんだ、こいつは? レオンはにこにことエデンを見つめている。意味の解らない状況に頭痛がしてきた。アサギはエデンを睨みつける。こいつ、どうせろくなやつじゃない。


「名前」

「なんだよ」

「名乗ったでしょ。名前」


 名乗ったからお前も名前を言えと? 強制的にそういう流れにされて、アサギは顔をゆがめる。そのまま逃げたかった。だが、レオンが動こうとしない。仕方なくアサギはため息をもらし、半分だけ名前を告げる。


「……アサギだ。名前は言わなくていいだろ」

「オーケイ、良いわよ。じゃあ、あいさつ代わりにこれを見てもらおうかしら」


 すっと、エデンは指先を桜に向ける。何をするつもりなのか。戸惑いながらアサギが桜を見上げた、その時だった。


「わあっ」


 レオンが歓声をあげる。アサギは信じられない思いで、桜を見上げる。

 エデンが指差した桜は色を失い、きらきらとした結晶に変わっていった。幹も枝も花さえも――白い色を帯びた結晶に代わり、太陽の下で美しく輝いている。


「なんだよ、これ」


 きれいだと、レオンが声をあげている。しかしアサギは体の芯が冷たくなるのを感じていた。おかしい。こいつ、桜に何をしたんだ?


「きれいでしょう?」


 青い瞳が暗く輝く。表面上は美しいのに、一枚むけば異様な気配が渦巻いている。レオンが喜んでいるのが理解できない。このエデンという少女は、桜を殺してしまったのに。


「おまえ、おかしいよ」


 アサギの言葉に、エデンは目を見開き――ひどくうれしそうに笑った。



 ※


 エデンとのかかわりは、それで終わりとはならなかった。


 アサギたちの周囲に、エデンはたびたび現れるようになる。学校に通っている様子もないのに、彼女はとても博識で様々なことを知っていた。


「命は、すべて循環するのよ」


 レオンはエデンの話を喜んで聞いていたが、アサギには異様にしか思えなかった。エデンは好んで草花を結晶に変えていたものの、いつしか小さな生き物にまで手を出すようになる。


「おまえ、やめろよ。生き物をなんだと思ってるんだ」

「草花はいいのに、生き物はだめなの? 可笑しなことね」


 結晶化した生き物をオブジェのように並べながら、エデンは笑う。こいつは悪魔か? アサギは寒気を感じながら思う。少なくとも今に限れば、エデンは小さな破壊者でしかなかった。この時はまだ。


 ※


 時を経るごとに、エデンの異常性は際立っていった。


 その頃になるとアサギにも、エデンを取り巻く環境の異質さを理解できるようになっていた。


 エデンは幼い頃から異才であり、それゆえに特別な環境で育てられてきていた。学校にも行かず、家庭教師による教育を受け――いつしか、それさえも必要としないほどの知識を身に着けていた。


「お前、そんなことして楽しいのか」

「楽しいわ。あなたは楽しくないの?」


 様々なものの腹を切り裂き、研究し、また結晶化させる。そも、結晶化とはどういう過程を経て行われていたものだったのか。何にしてもエデンが無邪気に開発した謎の技術は、アサギには理解不能で気味の悪いものでしかなかった。


 ――そして。

 気づけば、アサギたちも十代半ばを過ぎ、それぞれの道を定める時期が迫っていた。


 ※



 ――春。


 アサギとレオンは桜並木を歩く。この近くには、いつだったかエデンと出会った教会がある。アサギとしては忌々しい記憶でしかなかったが、レオンにとっては違ったらしい。


「エデンがいるかもしれない。行ってみようよ」


 どこか浮かれたように言う幼馴染に、アサギは無言で蹴りを入れた。あんな異様な女に会いたいとは、こいつの頭は腐っている。しかしレオンも慣れたもので、蹴りをよけると強く袖を引く。


「勝手に行け。俺はあいつに関わりたくない」

「どうしてそんなことをいうんだい? エデンは君のこと気に入ってるのに」


 だから嫌なんだよ、とはさすがに言えなかった。不満げに睨んでくるレオンは、たぶん――いや確実に、あのエデンに憧れている。


 わざわざその気持ちを逆なでするまでもない。そう思っても面倒だった。レオンも元凶であるエデンも、どうしてこうも自分をまきこもうとするのか。


 理由はわかり切っている。意味合いは違うかもしれないが、二人ともそれぞれにアサギを頼りにしていた。それがわからないほど無神経ではないし、それらの気持ちを無視できるほど冷徹にもなれなかった。


「わかったよ、行けばいいんだろ。あいつの顔を見たら帰る。いいな」

「さすが! じゃあ早く行こう!」


 今にも飛んでいきそうなレオンに苦い笑みを向けて、アサギは教会への道を辿る。桜を見上げると、やわらかな日差しと無数の花びらが降り注いでいた。優しい春の光景は、いつだって心を穏やかにしてくれる。それでもアサギには、気がかりなことがあった。


「エデン!」


 教会の正面階段に、エデンが腰かけていた。真剣な様子で、指先を動かし宙に何かを描いている。レオンが再び声をかければ、不愉快そうな青い目がこちらを向く。


「来たの。用は?」

「エデンに会いに来たんだよ!」


 レオンは何のためらいもなく告げて笑う。いつものやり取りであったが、アサギにはどうにも居心地の悪い時間だった。足元を見つめ、息を吐き出す。アサギのそんな様子に気づきもしないで、レオンは話を続ける。


「エデン、今日は何をしていたんだい? また新しい研究?」

「どうしてあなたに言う必要が?」

「教えてくれてもいいじゃないか。僕たち友だちだろう?」


 顔を上げたアサギは、レオンの能天気さに毒づいた。なにが友だちだ。この女にとって、自分たちなど実験動物と同じようなものだろうに。


「ともだち」


 エデンは急に無表情になって、うつむいた。レオンは困惑したようにこちらを見る。俺を見るな、と呟きつつも、アサギはエデンに近づき顔をのぞきこんだ。


「どうした。友だちなんて聞いて吐き気がしたのか」

「違うわ」


 エデンと視線が合う。その瞳はいつもとは違い、きらきらと輝いていた。普通の人間なら、喜んでいるのだと思うこともできた。しかし、相手はこのエデンだった。


「ともだち、友だちね。そうね、わたしたちは友だちだわ。だから、今日はいいものを見せてあげる。友だちだものね」


 エデンが見せた満面の笑顔は、当然のごとくアサギの胸に暗いものを落とした。帰ろう。レオンをうながそうとしたが、幼馴染は決まりきったようにエデンに近づいてしまう。


「いいものってなんだろうね? 楽しみだなぁ、なあ。アサギ!」


 レオンを放置して帰れたなら、どれほど良かっただろう。絶対にろくなことにならない。そう思うのに、アサギの足はその場から動かなかった。


「わかったよ。行くよ」


 結局、レオンひとりをエデンのいけにえとして置き去りにはできなかった。


 エデンの笑顔が邪悪なものにしか見えず、かといって逃げ出すこともできない。この先で恐ろしいことが待っている気がして、アサギは知らず知らずにのど元に手を当てた。



 ※


 エデンに連れられてきたのは、教会の内部だった。普段は鍵がかかっているそこは、埃っぽく薄暗い。アサギは照明をつけようとしたが、電気が通っていないのかスイッチは反応しなかった。


「暗いだろうけど仕方ないわ。一部の電源が壊れているのよ」


 慣れた様子でエデンは長椅子の間を進んで行く。レオンはおっかなびっくりその後に続く。アサギは二人の後ろ姿を見守りつつ、視線を上げた。


 正面の壁にはめ込まれたステンドグラスから光が差し込んでいる。このあかりだけが、空間を照らす唯一の光源だった。祭壇の上に神の姿はなく、用途不明の水槽がいくつも置かれている。


「妙なものがあるな」


 どうやら、教会はエデンの実験場に作り替えられていたらしい。それだけでも嫌だったが、それ以上に嫌悪感をあおるのは水槽の中身だった。


「エデン、この生き物は何?」


 先に水槽へとたどり着いたレオンが問いかける。アサギの目にも水槽の中身がはっきりと見えてきた。


 水槽の中に浮いていたのは、小さな白い生き物だった。全身を白い羽毛に覆われ、背中には大きな白い翼が生えている。それだけなら鳥だと思えたが、生き物の顔は明らかに草食獣のそれで、世界に存在する普通の生き物には見えなかった。


「なんだ、これは」

「これは『アイオン』。わたしが造った生き物よ」


 エデンの言葉に、アサギは再び水槽の中を見た。生き物はしっかりと目を閉じ、眠っているようだった。けれど同時にアイオンと呼ばれた生き物はやせていて、ひどく弱っているようにも見えた。


「死にかけているのか? ずいぶんやせている」

「ええ。本当はもっと栄養が必要なのだけど……この大きさになると、簡単なものでは維持できなくて。だから今回、あなたたちに来てもらったのよ」


 にこり、とエデンは笑みを作る。その笑顔は本当にきれいで、天使のようだった。だからこそ異様だった。アサギは一歩下がり、レオンの腕を掴んで後ろへ下がる。


「そうか、見せてもらったから俺たちは帰る。じゃあな」

「そう言わないでよ。もう少しなんだから」


 エデンはそばに置かれた端末を操作する。アサギは必死にレオンの腕を引き、出入り口へ向かう。急いで扉へ手をかけたが――なぜ、開かない?


「レオン! 力を貸せ! 扉を破るぞ!」

「え? どうして」

「バカ、早くしろ! 死にたいのか!」


 エデンが笑う。終幕を告げるように、端末を操作する指先がぴたりと止まる。


「もう遅いわ。――食事よ、アイオン」


 変化は特に現れなかった。白い生き物が目を開くわけでもなく、エデンがそれ以上の行動を取ることもない。気にしすぎだったのか? 思わず安心しかけて――自分の安易さを呪うことになった。


 足先から、感覚が消える。疑問に思って足元に目を落とそうとした。途端、体のバランスを失ってアサギは転倒する。訳のわからない状態に、手をついて起き上がろうとした。


「――っ!」

「な、なんで、それ!」


 アサギの手から色が失われていた。色だけではない。感覚すべてが消え去っていた。動かそうとすると、異常な音を立てて結晶が落ちる。その時気づいた。この変化は、手だけではない――!


「エデ、ン……!」

「あはは、素敵ね。アサギ! これであなたもアイオンの一部……! わたしと一緒に、永遠の向こう側へ行きましょう? そこでならわたしたち、理解しあえるわよね?」

「ばかなことを、言うな!」


 レオンがエデンへと駆け寄っていく。逃げればいいのに、ばかなやつ。叫びが響き、ガラスが砕ける音がした。目を動かそうとしても、体中から力が抜けていき――そこでアサギは、自分の意識を手放した。



 ※


 アサギが再び目覚めたときには、すべてが終わっていた。


 エデン・ステラマリスはあの後、自ら命を絶ち――それを見ていたレオンは正気を失った。アイオンは壊れた水槽の中で死んでいたらしい。それらの事実を、父の同僚である医師から教えられた。


「君の父上は、君を助けようとしたのだがね」


 アサギの状態を知った父は、必死に処置を試みたそうだ。懸命な治療が功を奏し、アサギは命を取り留めた。だが――。


「君の両手足を残すことができなかった。父上も悔しがっていた」


 ああ。自分の体の状態を見て、思う。これならまだ死んだほうがましだったな。助かったとしてもこれでは、生かされているだけではないか。


「……父さんは、どこに」

「それは」


 なぜか、医師は言葉を詰まらせた。嫌な予感がした。こういう時の予感はよく当たる。動くこともできない体で、必死に医師へ訴えかける。


「教えてください。父さんは……どうしたんですか」

「君の父上――アサギさんは、亡くなった」

「ど、どうして! なんで父さんが死ぬんですか!」

「落ち着いて聞いてくれ、トウカ君」


 一拍置いて、医師は語り出した。その発言の内容は、到底信じられることではなかった。


 アサギ・タカムラ医師は、トウカの処置後に吐血し倒れた。そばにいたアサギ夫人が救命処置を行おうとしたが、彼女も突然苦しみだして亡くなった。残された子どものレッカも奇妙な病を発症し、治療中――。


「うそだ! なんでみんなが死ぬんだ! あんなに元気だったじゃないか! なんで、どうして!?」

「落ち着くんだ! アサギさんたちの死には不審な点も多い。皆それぞれ、体が結晶化していたんだ……君と同じように」

「どういう、ことだよ」


 家族は、エデンのいた教会には足を踏み入れていない。ならばどうして結晶化した? 何かに感染したとか――何に? この、自分から?


「エ、デン……っ!」


 殺せるものなら、あの女を殺してやりたかった。自分から未来を奪っただけでは足りず、家族さえも奪い去っていった。


「――――っ、あああああぁああああああっ!」


 アサギは絶叫する。あまりにも理不尽な運命と、エデン・ステラマリスを恨みながら。




 ――これが、アサギ・トウカがエデンを憎む理由。

 そして、彼が背負うぬぐい切れぬ罪と絶望の記憶だった。

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