5.無慈悲なるもののヴァニタス
駆ける。警報音は耳障りに響き、明滅する照明は焦燥感をあおる。
エデンたちは真っすぐに通路を駆け抜けていく。息が切れ、足がもつれそうになる。日ごろの運動不足を嘆いても遅すぎた。とにかく前へ。一秒でも早くこの道の果てへ。
「――っ!」
アステルが唐突に立ち止まった。何事か問う前に、鋭い警告が飛ぶ。
「伏せろ!」
エデンは前のめりに倒れる。刹那、発砲音が響く。頭の上を何かがかすめていき、アステルがさらに叫んだ。
「お前!」
身を起こすと、アステルが横に飛び退くところだった。コンクリートを打つ音が響き、襲撃者が顔を上げる。緩く波打つ金色の髪、感情の浮かばない青い瞳。仮面をかぶったかのような無表情で、少女は右手に拳銃、左手には鉄パイプを握りしめていた。
「あ、あなた! サードですか!?」
「だったらどうしたと? ――死ね」
サードが右手で拳銃を構え、引き金を引く。撃たれる! 叫ぶ間もなく、地面を転がり素早く身を起こす。着弾音がすぐ脇で聞こえ、エデンは正面に向かって声を張り上げる。
「アステルさん!」
すでにアステルは行動を開始していた。エデンを狙い再び拳銃を構えたサードに、低い位置から蹴りを見舞う。しかしサードは冷静に一歩下がり、カウンターで鉄パイプを振り下ろす。
「この!」
鉄パイプの先が地面をえぐる。地面を蹴って後ろへ跳んだアステルは、懐から銃を引き抜く。サードは鉄パイプを投げ捨て、両手で拳銃を構える。
――発砲。サードの左肩から血しぶきが上がる。だが同時に、アステルは腕を押さえ、銃を取り落とす。エデンは息を呑み、サードはにぃいと不気味な笑顔を浮かべる。
「チェックメイト」
響いた銃声は軽い。エデンは目を見開いたまま、その光景を見つめていた。再び肩に被弾したサードは大きく目を見開き、狂気のにじむ表情で絶叫した。
「じゃまをするなぁああああああっ! イレブンぅうううう!」
「それは無理な相談というものだわ、サード」
再びの銃声。サードの手から拳銃が弾き飛ばされ、獣のごとき咆哮が響く。
混乱しながらも、エデンは背後を振り返る。するとそこにはもう一人の『エデン』――首筋に『Ⅺ』の文字が刻まれたイレブンが立っていた。
「い、イレブン? どうして?」
「深い理由はないわ、ゼロ。強いて言うなら私がサードのことを嫌いだからかしら」
サードは拳銃を諦め、鉄パイプを拾い直す。血走った眼はイレブンしか見ていない。小さく肩をすくめたイレブンは、そっとエデンの肩を押した。
「さ、行きなさい。ここは引き受けるわ」
「この、裏切り者がァああああっ!」
サードが真っすぐに突っ込んでくる。標的はイレブン――。時間がない。エデンは一言だけ声をかける。
「どうか無事で」
「ええ、あなたもね。ゼロ」
エデンは駆け出す。サードをやり過ごし、銃を拾い直したアステルの元に駆け寄る。
「行きましょう! アステルさん」
「あ、ああ」
アステルが何か言いたそうな顔をしたが、見なかったことにした。今はこの場を逃れなければ。アステルをうながし、エデンはさらに先へと駆けて行く。
灰色の通路を抜け、水槽の間を駆ける。改めてみれば、『エデン』たちの眠る水槽はまるでアクアリウムのようで――さらに強い嫌悪感を覚える。一体、マスターという人は何を思って、こんなものを作り上げたのだろう。
疑問に思ったところで、ここから逃げ出さなければ後はない。脱出口は目前に迫っている。エデンとアステルは最後の距離を駆けて行く。だが――。
「止まりなさい」
「……あ、あなたは」
行く手に、奇妙な人物が立ってた。フルフェイスマスクで顔を覆い、黒いロングコートをまとった男。顔が見えないだけでも異様なのに、その手には大口径の拳銃が握られている。
敵だ。とっさに判断し、エデンは横へ跳んで逃れる。だが、想像した攻撃は襲ってこない。見れば、謎の人物は肩をすくめてこちらを眺めているだけだった。
「そう警戒しないでもらいたいね。こちらに害意はない」
「……ずいぶん愉快な格好だな。何者だよ」
アステルが当然の疑問を投げかける。エデンは後ろへ下がりつつ、アステルの横に並ぶ。謎の人物はこちらの示す強い警戒に軽い笑い声を立てた。
「何者か、か。それに応える筋合いはないと思うが? 侵入者君」
「だろうな。だったら何の用だ? 侵入者に対して制裁を加えるならいくらでもできただろうに」
アステルは低い声で問いかける。実際、エデンたちを攻撃しようと思えば、警告などしなくてもできたはずだった。
エデンが注意深く様子をうかがっても、フルフェイスマスクの下でどんな表情を浮かべているかは見通せない。ただ、ひどく嫌なものをその仕草に感じるだけだ。
「そうだね。別にここで待ち構えている必要もなかったよ。だがまあ、君たちに現実を見てもらうというサプライズの意味で、今までずっと見逃させてもらっただけだ」
「サプライズ、だと? まさか……この侵入自体、想定内だとでもいうつもりか」
アステルの問いに、謎の人物は両手を打ち合わせる。拍手、だった。できの良い生徒を褒めるような様子に、エデンの不安はふくれ上がっていく。
「その通りだよ、アステル・ヴェリウス! 君がDCHを嗅ぎまわっていることは、こちらに筒抜けだったわけだ。なかなかの忠犬具合じゃないか。そこまでしてミレニア・オーレンドルフに義理立てするとは、報われぬ愛とは美しいものだね」
「ふざけているのか。ああ、わかったよ。なるほどな。てめえが……ミレニアを殺したんだな!」
叫ぶ。アステルは銃を構えた。けれど、相手は何の反応も示さない。ほんのわずかに、ため息らしきものをついただけだった。
「短慮だな」
銃声が響く。その時すでに、相手の姿は消えていた。否――身を沈め、銃弾をかわす。その瞬間、エデンは見た。大口径の拳銃が、アステルを真っすぐ狙うのを。
「アステルさん!」
「ちくしょう!」
反応速度は相手が上だった。アステルが身をかわすより早く、銃弾が肩を撃ち抜く。ぱっと赤いものが弾け飛び、アステルの腕から力が抜ける。
「まだだ!」
銃が落ちる。アステルは雄叫び上げ、男へと突進する。捨て身の攻撃に、相手は銃を構え直す暇もない。無事な左腕を振り上げ、男の顔をマスクごと殴りつける。
「っ!」
そのままの勢いで、アステルは男を地面に引き倒す。マスクが飛び、男はたまらずうめき声をあげる。追撃を加えようと腕を振り上げたアステルは、何かに驚き動きを止めた。
「お、おまえ」
声が途切れる。男が膝を打ち上げ、アステルを弾き飛ばす。エデンは悲鳴をあげて、アステルに駆け寄った。決着はついたと思っていた。なのに、一体どうして。
「アステルさん! しっかりして!」
助け起こしても、アステルは驚愕の表情のまま固まっていた。信じられない。その表情の意味を裏打ちするように、唇から呆然とした声が零れ落ちた。
「なんで、あんたが。……全部あんたが仕組んだことだったのかよ、先生!」
先生? アステルの絶叫が示す意味を理解できない。けれど、震える視線を辿って――見てしまった。絶対に信じたくなかった、これだけはあり得ないと思っていた最悪の答えに。
「ああ、まったくやってくれたね」
茶色の髪をかき上げ、男が立ち上がる。拳銃を片手に笑う顔は、よく見知ったもので。穏やかな緑色の瞳も、今までと変わりないように見えた。
「思った以上にやられてしまったよ。困った友人を持ったね、エデン」
笑う。そのひとはいつもと何ら変わらない笑顔を浮かべる。どうして? 疑問を持つより先に、頭のどこかで誰かがささやく。
『このひとだけが無関係だなんて、そんな夢みたいなことどうして信じられたの?』
「うそ、です。なんで、あなたなんですか」
困ったように首を傾げるだけで、相手は何の否定もしてくれない。この状況に至ってまで、エデンは目を背けていたのだ。このひとが――このひとだけは、変わらずにいてくれると、信じたかった。
「ずっと、わたしをだまして笑っていたんですか。――レオン先生――っ!」
エデンの叫びに、レオン・カノープスは何も言わずに微笑んだ。裏切られた。あらゆるものが裏返って見えた。親愛も、優しさも、思い出もすべて。壊れてぐちゃぐちゃに崩れ落ちてしまう。
涙があふれ出す。もう、どうしてなどと問いかけなかった。エデンは叫んだ。叫んで叫び続けて、レオンに殴りかかる。
「うそつき! よくも、よくも!」
レオンはそれでも優しく笑っていた。エデンの痛手など、与えようとする痛みなど、些細なことだとでもいうように。それが悔しくて、今までつながっていた絆さえも否定されたようで、エデンは泣き叫びながら腕を打ち付ける。
「あなたが! あなただけは信じてたのに! うそつき! だいきらい!」
「エデン」
レオンはエデンの両腕をそっとつかむと、微笑んだまま顔をのぞき込んでくる。いつもと変わらない笑顔でエデンを見つめて、限りなく優しく残酷な言葉を紡いだ。
「だから君は愚かなんだよ。出来損ないのゼロエデン」
心が割れ、目の前が真っ暗になる。ぐらりと足元が崩れ、エデンはどこまでも落ちていく。何も見えない。何も聞こえない。誰かの叫びが響いても、まぶたが開くことはない。
――ああ、そうか。わたしはずっと、このひとに憧れて夢を見ていただけだった。
こんな自分が、誰かを救えるはずもなかった。
絶望なんて生ぬるい。こんなの、生まれたことが間違いだった。
第三部「黒い夜のジュデッカ」~了~
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