7.『未来』なんて知らない
ぼうっと、ひとり。
病院の廊下に立ち尽くしている。
真っ白いDCHの床に、ぽつりぽつりと赤いものが落ちていた。それがミレニアの流した血であると、エデンは知っている。
ぼんやりと、ひとり。
過ぎ去ろうとしている命のことを思った。
あのあと、ミレニアは血を吐き倒れた。エデンにできたのは、震えながらレオンにコールすることだけだった。どうしてこうなったの? 疑問だけが頭の中をぐるぐると回り、真っ白い壁に背中を預けた姿は幽霊みたいに見えるだろう。
どうして?
「……どうして」
どうして、ミレニアだったのだろう。あんなに強くてうつくしいひとが何をしたというのか。もし神さまがいるとしたら、こんな運命ひどすぎる。
膝を抱えて、ひとり。
何もできない自分の無力を嘆いた。
顔を上げることもできない。悔しくてつらくて――だけど、同時にとても怒りを感じてもいる。また何もできなかった自分、苦しんでいたであろうミレニアに、ただ笑うことしかできなかった自分自身の愚かしさに。
「どうして、こんな風にかなしいことが世界にはあふれているの?」
問いかけても、誰も答えてはくれなかった。レオンたちはミレニアの処置に追われている。アステルはミレニアのそばについていて、今ここにいるのはエデンだけだった。
いつまでこうしているのか、いつになればこうしなくて済むのか、わからない。エデンは小さく鼻をすすり上げる。なんだか最近泣いてばかりだな、ふとそう思った。
「わたしだけがこうしているわけには、いきませんよね」
顔を上げる。しかし、できたのはそれだけだ。エデンの視界に黒い姿が映り込む。黒髪黒瞳、喪服のような黒い服を着た義手の男――。
「あ、あなた、は」
エデンの声に、男はゆっくりとこちらに視線を向けた。冷たいまなざしが一度だけエデンの表情をとらえ、すぐに興味を失ったように逸らされる。
どうして、この男がここにいるのだろう。もしかして、レッカの時のようにミレニアを回収しようというのか? 以前感じた怒りが胸に宿り、エデンは大きく声をあげた。
「あなた……! また、何かしようっていうのですか!」
「さわぐな」
低くつぶやかれ、エデンは反射的に言葉を飲み込んだ。男の視線は、エデンのすぐ脇に据えられている。つまりは、ミレニアたちのいる処置室に。
「面倒なことになった」
「な、なんですか」
「あの女、もうすぐ死ぬぞ」
ガツンと頭を殴られたような衝撃に襲われた。誰も明確に口にしなかったことを、この男ははっきりと言い放った。言葉を失うエデンに、男はこともなげに続ける。
「何を驚いている。誰の目にも明白だろう」
「そんなこと……ありません。ミレニアさんの病気は難しいものですが、必ず打ち勝ってくれるって信じてます」
「アイオーン結晶症はそんな生易しいものではない」
つまらなげに病の名を口にして、男は長い息を吐き出した。世界でも数例しかない珍しい病のことを知っている。どうして? このひとはもしかして、ミレニアさんの病気に関係があるの? 確かなことなど何もない。それでも、エデンの中の疑惑は大きくなっていく。
「あ、あなたは、ミレニアさんに何かしたんですか……?」
「なにか、とは?」
「あなた、ミレニアさんのライブ会場にいたじゃないですか! 関係がないのなら、あそこで一体何をしていたんですか!」
エデンの詰問にも、男の表情は動かなかった。胸ポケットから煙草のケースを取り出そうとして、思い出したように途中で手を止める。
「お前が疑っているようなことは何も。ただ、撒かれた病原体を回収していただけだ」
「撒かれた……病原体? 回収って、どういう」
「言葉通りの意味だが? ライブ会場にアイオーンの病原体を撒いたやつがいるだけだ。オリジナルに記録を吸収させるためらしいが……まあ、無茶なことをする。結果的にミレニア・オーレンドルフが感染し、記録情報が無駄に増大している。偶像的存在の影響力を考えれば、ある程度想定できたことだろうに……手に負えない。面倒なことになった」
男は面倒そうに首を振る。エデンは困惑とともに立ち上がった。アイオーンの病原体? オリジナルに記録を吸収? 一体このひとは何を言っているの?
言っている内容自体、意味のわからないことばかりだ。だが一つ言えることがあるとすれば、この男はミレニアの身に降りかかった不幸の理由を知っているということだ。
「何を言ってるんですか……まさか、誰かが意図的にミレニアさんを病気にしたとでも」
「ミレニア自体を狙ったわけではないだろう。だが、記録と情報を収集するアイオーンの性質を考えれば、あの女が選ばれたことは必然かもしれんがな。結果だけを言えば、ミレニアは運が悪かった」
運が悪かった。その言葉でエデンの怒りはすっと冷めた。この男は、ミレニアの苦しみを理解しようとなんて思わないのだろう。人のために死にたいと言って笑ったあのひとが、本当に死んでいいなんて思っていないということも、わからないのか。
「あなたは、嫌なひとです」
あらゆる嫌悪を込めて、男に言葉を向けた。自分でもこれほど強い感情が湧くとは思っていなかった。この男は嫌い。本当に、だいきらい。
「ミレニアさんが死ぬのだとしたら、あなたと、病原体を撒いた人のせいです。人を実験動物としか思わない、そんなひと……わたしは、絶対にゆるさない」
「愚かなゼロエデンにしては良い言葉だ」
「わたしはゼロエデンなんかじゃありません……!」
本当ならもっと、アイオーン結晶症について聞くべきだとわかっていた。しかし、この男から何か情報を得ても、エデン自身それを信じることができないのも事実だった。
今わかっているのは、ミレニアを病気にした犯人が確かにいる。それだけ。なぜ、どうしてこんなひどいことをする必要があるのだろう――?
それに、他にも気になることもあった。エデンは視線を弱めることなく、男に問いかける。
「あなたたちが病原体を撒いたのなら、治す方法だって知っているんじゃないですか?」
「どうしてそう思う」
「だって……あなたは、レッカ君に触れることが、できたじゃないですか」
あの暑かった日のことを思い出す。レッカの命が終わる瞬間、一番そばにいたのはこの男だった。いまだにレッカの兄だとは信じられなかったが、男の手が結晶化しなかったことだけは真実として存在している。
言外の意味は男に伝わったのだろう。嘲笑めいたものを顔に浮かべると、壁に背中を預けてエデンを見下ろした。
「なるほど、お前はレッカがアイオーン結晶症だと思っているわけだ」
「違うんですか」
「いいや。だが、そう思うならなおさら、治す方法がないこともわかるだろう」
レッカは、死んだ。砕け散ったあと、物のように袋に詰められて連れ去られてしまった。もし治す方法があったなら、レッカがあの結末を迎えることはなかった。
男の笑みは、そう語っている。だが、エデンは納得しなかった。何か、絶対に方法があるはずだ――穴が空くほど男の顔を睨みつける。
しばしの静寂。お互いに言葉もなく、睨みあっていた。遠くから空調の音が響いてくる。ただそれだけが鼓膜を揺らす空間に、短いため息が広がった。
「――降参だ。そう睨むな。治す方法とまではいかないが、症状を抑える薬はある。これを使え」
男の顔にはありありと面倒だという感情が浮かんでいる。無造作に上着のポケットに手を入れると、ゆっくりと小さなビンを持ち上げた。
「その……薬は……?」
「アイオーン抑制剤。体内に存在するアイオーンの活動を阻害する薬剤だ。一時的だが、結晶化に至るまでのスピードを遅くし、それに伴う症状を緩和してくれる」
「もしかして、レオン先生が以前ミレニアさんに使った薬と同じものですか?」
「……。これは俺が独自に研究開発したものだ。他に同じものはない」
レオンの名前を耳にした瞬間、男は顔をゆがめた。苦いものを噛み締めるような、嫌悪と憎悪に満ちた表情だった。過剰すぎる反応に、エデンはじっと男の目を見つめる。
「レオン先生のことが嫌いなんですか?」
「どういう意味かわかりかねる。ただ、お前と俺の認識に差異があることだけは確かなようだな。……無駄話が過ぎた。ほら、持っていけ。あと、カノープスにこの話はするな」
男は軽い動作で薬瓶を投げてよこす。唐突な行動にエデンは慌てて手を伸ばし、ぎりぎりでキャッチする。不親切な渡し方に視線を強くすれば、男はどこ吹く風で手を振った。
「あなたのことは信じられません。この薬も、本当に薬なのかどうか」
「信じろとは言わんさ。だが、わざわざ俺がミレニア・オーレンドルフを害する理由を思いつくのか? 放っておけばアイオーンによって結晶化するのに?」
男の言葉を否定することはいくらでもできた。そもそも、善意で薬をくれたとは到底思えない。不審感むき出しでビンに目を落とす。少しだけ青みがかった、不思議な液体が中で揺れていた。
「あなたがわたしに親切にする理由だってないじゃないですか」
「親切? ふ、は。馬鹿なことを考えるんだな? ……これはいやがらせだよ」
「いやがらせ?」
エデンが顔を上げた瞬間、男と真正面から視線があった。真っ黒で何も映していないような、深い夜が凝る瞳。思わず言葉を失ったエデンに、男はそっと告げる。
「ああ、いやがらせだよ。その薬を使えば、ミレニアは救われるだろう。だが本当に一時のことだ。……この世界に完全なる救いなど存在しない。お前の望みは、砂漠に落とした砂の一粒を探し出そうとするのと同じくらい無謀で無意味なことだと――その薬を使うことで思い知ればいいと思っている」
「その言葉だけは信用できますね。貴重な薬、ありがとうございます」
男は頷くこともなく、静かに歩き出す。エデンも引き留めることはしなかった。どうやっても仲良はできないひとだが、誠実な悪意は感じられる。彼はエデンのことが嫌いなのだろう。けれど、それでよかった。エデンだって、男のことが大嫌いだから。
遠ざかっていく背中を見つめていたエデンは、ふと思い出して声をあげる。そうだ、嫌われるついでにひとつ聞いておこう。
「あ、最後にひとつ聞いていいですか」
「なんだ? ろくなことじゃなさそうだが」
心底嫌そうに男は振り返る。返答するあたり律義な性格なのかもしれない。それで好感度が上がらないのも不思議だったが、エデンは構わず言葉を続けた。
「あなたの名前は? どうせだから教えてください」
「何がどうせなんだ。本当に面倒な……ああ、わかったよ」
ポケットに両手を突っ込み、男は唇を不機嫌そうに歪めた。その表情だけでエデンは少しだけ気分が晴れるのを感じる。にやりと笑って見せると、男は深いため息をついた。
「……アサギ、だ。知っての通り、レッカの兄だった」
「アサギ、さんですか。またお会いすることってありそうですか?」
「知らん」
アサギと名乗った男は、背を向けると再び歩き出す。どうせ出会うときはろくでもない場面なのだろうから、会わないに越したことはない気がしたが。
エデンはあえて未来の約束を口にする。それはやられてばっかりだった少女の、少しばかりの反撃だった。
「知るか。未来のことなんて知ったことじゃない。会ったとしても、不愉快になるだけだ」
「はい、わたしも未来なんて知らないです。だからどうか、二度と出会わないことを祈ります」
アサギは床を踏み鳴らして去っていく。残されたエデンは、手の中の薬を見つめた。これをどうするべきか。レオンに告げることも考えたが、アサギの反応を考えるとあまり良い結果にならない気がした。
とにかく今は――ミレニアの状態が安定するのを待つしかない。処置中では近づくに近づけないし、ミレニアの意向を無視して投薬することはどうしてもしたくなかった。
「……よし」
まだ、できることがあるなら泣いている場合じゃない。濡れたままだった顔を拭うと、閉ざされたままの扉に額を押し付ける。
「だいじょうぶ、きっとうまくいく」
今だけは奇跡を信じよう。たとえそれが幻だったとしても、願うことは無意味ではない。
エデンは待つ。待ち続ける。自分が必要となる時まで、ずっと――。
――そして。
ミレニア・オーレンドルフのラストステージまで、あと一日。
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