8.夢の最果てに立つ

 『ギャラクシア・ドーム』でのラストステージが迫る中、エデンの元にその知らせが届いたのは午後三時を過ぎたころのことだった。


 急ぎ足でミレニアの入院している病室に向かう。本当は走りたいくらいだったが、病棟の廊下を騒がすわけにはいかない。レオンよろしく最大限の速度で歩きながら、リノリウムの床の上を進んで行く。


 ミレニアの病室は、特殊疾患病棟の中で『特別室』と呼ばれる部屋だった。著名人などが入院した場合に使われる場所で、他の病室とは別の階層に存在している。


 エレベーターは使わず、エデンは階段で三階まで上がる。病室に続く出入り口はガラス張りだが、ID認証しないと入れない構造になっていた。手早くIDカードをリーダーに読み込ませ、急ぎ足で開いたドアをくぐる。


 代り映えのしない白い廊下を歩き、一番奥に存在する病室の扉にたどり着く。ミレニアはこの部屋で休んでいるはずだ。エデンは息を整え、扉を軽くノックする。


「失礼します、エデンです」


 中から応答があった。エデンは深呼吸して扉を開く。

 室内は清潔感のある白で統一されていた。壁や床、枕元に置かれたスツールも白色をしている。窓は閉じられたままだったが、澄んだ青い空を見上げることができた。


「あら、エデン。来てくれたのね」


 部屋の中央に置かれた大きなベッド。その上で上体を起こしたミレニアが、穏やかな微笑みを向けてきた。歌姫のきれいな赤茶色の瞳はそのままだったが、はた目から見てもやつれ果てている。


 わずかな期間での変化は、ミレニアの苦しみの深さを表しているようだった。遅れて襲ってきた衝撃に、エデンは奥歯を強く噛む。今は笑わなきゃ、少なくともまだできることがあるんだから。


「はい。ミレニアさん、お顔を見たくて来ちゃいました。……あの、アステルさんは?」

「アステル? あいつならライブの最終調整に行ってもらっているけど。何か用でもあった?」

「あ、いえ。てっきり一緒にいると思っていただけで」


 曖昧にぼかして、エデンはベッドの傍らに歩み寄った。近づくほどに、ミレニアの衰弱具合はさらにはっきりとわかってしまう。


 それでも無理やりに笑って、エデンは傍のいすに腰かけた。ミレニアはいつもと変わらない笑みを返して、そっと息を吐き出した。


「ライブはついに明日に迫っているわね……はてさて、こんなざまで歌えるものかしら」

「ミレニアさんはライブを諦めてないんですね」

「バカだと思う? こんな風になってまで歌おうとするなんて」

「いいえ、ミレニアさんらしいと……そう思います」


 ミレニアは軽く目を細め、エデンを見つめる。すべてを見透かそうとするようなまなざしに、エデンは居心地悪く身じろぎした。どうしたというのだろう。何かおかしかった?


「ミレニアさん? どうかしたんですか?」

「ああ、うん。なんだかエデンが何か言いたそうな顔をしているなーって思って。あたしに何か用があるんじゃないの? アステルがいるとまずい話?」

「え、あ。うう、敵いませんね。そんなにわかりやすいですか、わたし」


 斬り出す手間が省けたと言えばそうなるが、簡単に隠しごとを見破られたことには変わりない。エデンはおずおずとポケットから例の薬を取り出す。淡く輝く液体に、ミレニアの表情に困惑が浮かんだ。


「なあに、それ。何かの薬?」

「はい。……アイオーン結晶症の進行を抑制する薬です。一時的ではあるそうですが」


 ミレニアは黙ったまま、薬瓶を見つめていた。疑っているのかもしれない。エデン自身、この薬で体調が回復したところを見たわけではなかった。ただ、あのアサギという男の言っていた通り、この薬でミレニアの症状がこれ以上重くなることもないはずだ。


 エデンは無駄なことは何も言わず、ミレニアの返答を待った。断られるだろうか? 不安に思いながらもじっと待ち続けていると、ミレニアはぽつりと言葉を口にした。


「ほんとうに、それを使えばこの苦しいのがなくなるの?」

「はい。そう、聞いてます」

「そう。じゃあ、その薬をもらえるかしら。明日のライブだけはいつものミレニアで立ちたいの」


 あっさりとした返事だった。疑惑も不審さえも感じさせず、ミレニアは差し出した薬瓶を受け取ってくれる。


 あっけないほど簡単に目的を達することができたエデンは、ぽかんと歌姫の顔を眺めてしまった。疑われなかったことは喜ぶべきところだが、こんなに簡単でいいのだろうか。


「ミレニアさん、本当にいいんですか?」

「いいって何が?」

「あの、怪しいって思わないのかな、って」

「思わないわよ」


 予想外にはっきりと言い切られ、エデンは何度も瞬きを繰り返した。ミレニアは真剣な表情で手の中の薬瓶を転がし、あとの言葉を吐き出す。


「思わないわよ。だって、エデンがくれたものだもの。あなたがあたしをだましたりする子じゃないってことは、よーく知っているわ」


 口にされた台詞以上に、ミレニアの視線が語っていた。あなたを信じている。向けられた信頼の深さと強さに、エデンは目頭が熱くなるのを感じた。


「ありがとうございます、ミレニアさん」

「こちらこそありがと、よ。また明日ね、エデン。ギャラクシア・ドーム待ってるわ」


 ミレニアは穏やかに微笑んだ。やさしさと慈しみを感じさせる、温かな笑顔だった。




 ――翌日。

 『ギャラクシア・ドーム』にて。


 ミレニア・オーレンドルフのラストステージには、大勢の観客が押し寄せていた。

 開場前から入り口の前に観客が列を作り、ミレニアコールが周囲に響き渡る。熱狂的なファンは興奮のあまり、周囲の人間を巻き込んで騒ぎ出す始末だった。


 そんな状況の中、定刻通りに入り口が開かれる。一気になだれ込んでいく観客たち。誰もが皆、ミレニア・オーレンドルフの集大成に期待と不安が入り混じったものを感じていた。



 三、二。……いち!


 暗闇を切り裂き、強烈なライトがステージ上に降り注いだ。光の真ん中に、誰かが立っている。真っ赤なフードをかぶった――女性だろうか? 観客は歓声もあげずにステージ上に注目する。多くの人間の呼吸が重なり、さざ波のように空気を揺らしていく。


 緊張の中、ステージ上の人物が一歩前に出る。かつんと靴音が鳴り、そしてゆったりとした声が空間に広がっていく。


「みんな、今日はあたしのラストステージに集まってくれてありがとう」


 フードの人物はミレニアなのか。ざわめきが広がり、ミレニアはくすりと笑う。


「突然のことだけど、ミレニア・オーレンドルフは本日をもって引退します。だからこれは本当に最後の……あたしのステージ。みんな、どうか楽しんで行って!」


 フードの人物が片手を掲げる。ざわめきは歓声へと変わり始めていた。渦巻く熱気と期待を受けながら、ミレニアは開幕の一言を叫んだ。


「さあ始めましょう。ミレニア・オーレンドルフのラストライブを!」


 素早く手が振り下ろされ、周囲は暗転する。同時に会場の空気を揺らすのは、ミレニアのファーストアルバム『楽園追放』の収録曲――『フラジャイル』――。


 ステージが再びライトアップされたとき、フードの人物は消えていた。視線をさまよわせる観客の頭上から、ミレニアが両手を広げ舞い降りてくる。



 冷たい夜に泣きたくなるなら

 月のあかりに 指先を伸ばすの


 だれかに 与えられた言葉で

『あいしてるよ』 だなんてさ

 嘘つきの 言い訳ばかりで

 月だって今すぐ 落ちてくるわ


 夢みた一瞬を強く握りしめ

 だれかが残した弾丸に 胸を貫かせて


 手を伸ばしたって 届かないよ

 無力な理想郷 あなたを知って

 刻み付けた傷が 痛みだして腐り落ちそうなの


 月が滲むほどに 涙をこらえても

 舞い降りる天使 誰もいなくなって

 どうせ忘れ去られる 嘘つきのフラジャイル


 観客たちは熱狂する。


 ミレニアはゆっくりとステージ上に舞い降りる。大がかりな仕掛けに、誰もが度肝を抜かれていた。もちろんエデンもその一人で、観客席からエールを繰り続ける。


 ミレニアさん、どうしてあなたはそんなに幸せそうなんですか?


 曲が移り変わり、それに合わせて観客たちのテンションも変わっていく。それでもミレニアは精力的に歌い続ける。とても楽しげな、本当に幸せそうな表情だった。


 ミレニアの選曲は非常に多彩で、ファーストアルバムだけでなく後に出た楽曲にも焦点を当てていた。コアなファンのいる楽曲が鳴り響くと、それだけで興奮する観客もいて――会場のボルテージは最高に近づいていく。


 そしてライブも終盤に近付き、ミレニアはすべての力を振り絞るように叫んだ。


「これが、わたしの集大成――どうか、最後まで聞いて!」


 なぜ大切なものばかり 失ってしまうのだろう?

 幻でも美しい幼き夢 痛みでも消せぬ想い

 愛すればこそ誰もが……恋しいほどにbreath less


 変わらぬもの 探して

 狂おしく求めるけれど

 無情な時間止める術もなく

 傷ついた足 休める場所もない


 踊り、歌いながらミレニアは笑う。音楽はステージ上を越えて観客と一体となり、歌声はすべての人に寄り添っていく。

 巻き起こる光と歓声の真ん中で、歌姫は美しく舞い想いを叫び続ける。


 涙濡れた目そらしても

 痛み消えることなく

 落ちる雫だけが 地を濡らした


「なぜ――」

 あなたは誰よりも強く、うつくしい。それだけは誰にも否定できない真実で、ゆえにあらゆる人の心をとらえて離さない。

 ミレニアは手を掲げる。さあ――最後に残された時間を駆け抜けよう!


 なぜ大切な想いばかり 誤魔化されてしまうの?


 ミレニアは微笑んだ。華麗にターンを決め、顎を伝う汗が飛び散る。歌姫は笑っていた。とても楽しく、そして満ち足りたように。これを幸せと言わずして何と言おう? 全身で感情を表し、歌い続けることがミレニアの幸せだった。


 硝子砕けカケラ刺さるよ

 傷ついても忘れられない


 ああ、そうか。エデンは今更ながらに気づく。

 ミレニアにとって、歌とは――。


 君こそ私のすべてと知って……苦しいほどにbreath less――


 曲が終わる。ミレニアはゆっくりと足を止め、観客席に向き直る。大勢の人々は、ミレニアだけを見つめていた。他の誰でもないミレニアただひとりを。


 歌に耳を傾けるすべての人々の想いに応えること。それが『ミレニア・オーレンドルフ』を生かす力だった。そのために生まれた歌姫は、あらゆる人々に力を与えるために歌い続けていた。


 何故なら、ミレニア・オーレンドルフは——すべての人のものだったのだから。偶像であり、象徴でもあった歌姫はいま――ステージを降りる。


「ありがとう、みんな」


 広がっていく歓声の中で、ミレニアはすべての人に向かって感謝をしめす。満たされた笑顔のままで、歌い続けたことが本当の意味での幸せなのだと、やっと気づけたように。ミレニアは心からの笑みで歓声に応える。


「ありがとう……あたし、幸せだったわ」


 ミレニアにとって、歌とは誰かを愛する気持ちそのものだった。

 歌姫を愛してくれた人々に愛と感謝を残し、ミレニア・オーレンドルフはステージから去っていく。


 たとえ誰ひとりとして、歌姫の悲しみや苦しみに気づかなかったとしても。

 ミレニアはきっと、いつものように笑ってこう言うのだろう。


「みんな――愛してるわ」

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