5.過ぎ去る時は駆け足で(前編)
「さ、入って入って! あ、散らかってるけどそこは気にしないでね!」
ミレニアたちに連れてこられたのは、ドームシティ中央部――セントラル。眩しいほどにライトアップされた中央区画は、限られた人間しか住めないことで有名な場所だった。
その一角にある高層マンションの最上階。角部屋の一室が、ミレニア・オーレンドルフの自宅だった。
「アステル、電気つけてよ! あと、荷物はそのへんに……ああ、もう! そのポーチは一緒に置かないでっていつも言ってるでしょ! それで」
「はいはい、わかってるよ。ほらあの子、ぽかんとしてる。あとはおれがやっとくから、話でもしてろよ」
玄関から先に進むこともなく、エデンは無言で立ち尽くしていた。
あのあと、慌ただしくDCHを後にしたため、持ってこられた荷物は着替えとミレニアにもらった鉢植えだけだった。その上、まさかこんな高層マンションに連れてこられるなんて――困惑のあまり、きょろきょろと視線をさまよわせることしかできない。
「え、えっと、わたしどうしたら」
「気にしないでいいから入ってー! 今お茶でも淹れるわ、アステルが!」
ミレニアはエデンを手招きながら、手早く上着を脱いで放る。このまま立ち止まっていても仕方ない。エデンは室内へと足を踏み入れ、視界いっぱいに広がった光景に目を見開く。
部屋の窓は大きく、夜空がすぐ近くに見えた。周囲のライトが眩い星のようにきらめき、まるで地上の生まれた銀河のよう。言葉も出ないくらいに輝かしい世界がここにはあった。空に近いこの場所は、ミレニアの華やかさに相応しいように思える。
「ほら、こっちよこっち。座んなさいな」
呆けて立ち尽くしていると、再びミレニアに声をかけられる。見るからに上等そうな革張りのソファに身を投げ出して、都市の歌姫は怠惰に笑う。おずおずと毛足の長いじゅうたんを踏みしめ、エデンはそっと入り口側のソファに腰を下ろす。
「ほら、茶だ」
途端、目の前にカップが置かれる。ふわりと優しい紅茶の香りが漂い、エデンは小さく息を吐く。自分でもそうとわかるほど緊張していた。アステルに頭を下げると、荷物を置いてカップを手に取る。
「いいにおい」
「気に入ってくれたらいいんだが。この女は味も香りもどうでもいいって言って、ろくに感想も言いやしねぇ」
毒づくアステルに、ミレニアは楽しげな声をあげる。どうして自分はここに連れてこられたんだろう? はっきり言うと居場所がなくて、無言で紅茶を飲むしかない。
しばらくの間、ミレニアとアステルは今後について話し合っていた。そこに病院で感じたような悲壮感はなく、エデンは少し違和感を覚えてしまう。
「――とりあえず、『ギャラクシア・ドーム』でのライブまで二週間あるから。それまでに最新曲を仕上げて最後に発表する。これをあたしの、ミレニア・オーレンドルフとしての集大成にするわ」
「ミレニア……わかった。今は何も言わない。だが、何かあれば声をかけろよ、絶対に」
「わかってるわ、相棒。じゃあ、また明日ね」
アステルは一つ頷き、手を振って玄関へと向かう。ミレニアはその後ろ姿を無言で見つめていた。どこか痛みをこらえるような赤茶の瞳に、エデンはそっと声をかける。
「ミレニアさん、その、大丈夫ですか」
「ん? ああ、そうね。ちょっと……疲れたわね、さすがに」
長く息を吐き出して、ミレニアはソファの上で横になる。笑みは相変わらずきれいだったが、目の下には隠し切れない疲れがにじんでいた。
「化粧落とさないと……今日はいいかな。全部起きたらするから。エデン、あなたも好きに休んでいいわよ。ベッドは奥にあるし、部屋のものは自由に使って」
声が小さくなり、ミレニアはまぶたを下ろす。寝息が聞こえ始め、エデンは音をたてないようにカップをテーブルに置いた。
「おやすみなさい、ミレニアさん」
突然連れてこられて、途方に暮れていないわけではない。しかし、ミレニアというひとの苦難を想えば、エデンの混乱など小さなことなのかもしれなかった。
「さて、と」
携帯端末にレオンからの連絡はない。エデンはひとつため息をつくと、奥の部屋からタオルケットを運んできてミレニアにかける。そして自分も向かいのソファに横になって、重いまぶたを閉ざした。
――翌朝。
「おはよう! 起きてエデン!」
はつらつとした声が耳元で響く。エデンは身を震わせ、のろのろと目を開く。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。混乱しつつも身を起こすと、生気に満ちあふれた赤茶の瞳がにこりと笑う。
「遅いお目覚めね、お姫様。お食事の用意ができていますので、まず顔を洗ってきてはいかがでしょうか?」
目の前に立っているのは、間違いなくミレニア・オーレンドルフだった。昨夜の弱り切っていた姿はすでになく、肌の血色も良くとても元気そうに見える。
エデンは戸惑う。あれは夢だったのかな? しかしそうであったなら、ミレニアの声で目覚めることなどあるはずがない。
「え、え? あ、あの……ミレニアさん?」
「なあに?」
「いえその……おはようございます。顔、洗ってきます」
洗面所は廊下に出てすぐ右手にあった。清潔感のある白い洗面台は広々としていて、水道の蛇口も良くあるごついものではなく、細くておしゃれな感じだ。棚には様々な化粧品やらが置かれている。
ミレニアの生活の一端が垣間見える風景を前に、エデンは短く息を吐き出す。鏡も大きく、きれいに磨き込まれていた。その真ん中に映る自分の顔色の悪さに、エデンは苦笑いする。金色の髪は寝ぐせでぐちゃぐちゃで、これではレオンに強く言うこともできない。
手早く水を出し、顔を洗う。冷たい水のおかげで、あいまいだった意識が鮮明になっていく。何度も顔を洗い、ふと顔を上げる。
鏡の中のエデンはひどく疲れた顔をしていた。笑顔笑顔。無理やり口角を持ち上げる。せめて今だけは笑っていよう。何が起こっても、笑える強さが欲しかった。
――身支度を整えたエデンがリビングに戻ると、香ばしいにおいが出迎えてくれた。
「さ、座って。本日のメニューはベーコンエッグとさっぱり海藻サラダ。焼きたてクロワッサンにオニオンスープを添えて、さあどうぞ召し上がれ」
ミレニアはカウンターキッチンの奥で手を振っている。まさか、ミレニアが料理を作ったのだろうか。信じられない気分でテーブルに目を向ければ、そこには簡素ながらもちゃんとした料理が並んでいた。
「わ、これ、ミレニアさんが作ったんですか?」
「そうよー、歌姫ミレニアの料理が食べられるなんて、エデン、あなた本当にラッキーだわ」
確かに。その言葉には納得してしまう。ミレニア・オーレンドルフの手料理を振舞われる人間なんて、本当に限られているはずだ。幸運に戸惑いながらも、エデンはテーブルの前に腰を下ろす。
「どうぞ食べちゃって。あたしはエデンが寝てる間に頂いたから気にしないで」
「は、はい。じゃあ遠慮なくいただきます」
迷いつつも、エデンはまず海藻サラダに手を伸ばす。少しだけフォークで口に運ぶと、爽やかな酸味と海藻のシャキシャキとした触感が口の中に広がる。
「ん、おいしい」
後味もさっぱりとしていて、いくらでも食べられそうだ。半分くらいを平らげると、次はオニオンスープを口に含む。スープは玉ねぎの甘みとコンソメ風味が非常にマッチしていて、飲みやすい美味しさだった。
「どう、お口に合うかしら」
「はい、とっても! こんなにお料理が上手だなんて尊敬しちゃいます」
「ありがと。そういってくれると嬉しいわ」
カウンターの向こうでミレニアはにこりと笑う。エデンはベーコンエッグを口に運びながら、ふと思いついて声をかける。
「そういえばミレニアさん、わたしはどうしたらいいんでしょう」
「どうしたらって、なにが?」
「いえその、ここに連れてこられた理由がどうしてもわからなくて。ええと、わたし、何かした方がいいのでしょうか」
クロワッサンをほお張りながら、エデンは首を傾げた。エデンも一応はDCHのスタッフであるし、本当にわずかであるが医療の心得もある。そういったものを期待して連れてこられたのか――暗にそう問いかけると、ミレニアは唐突に噴き出した。
「ど、どうしたんですか?」
「う、ううん。ごめんね。実は、特に何にも考えてなかったのよ。理由はあえて言うなら、そうね。かわいかったから?」
「え、えぇ」
そんな理由で連れてこられたの? すごい理由がなくて安堵しつつも、大した意味がないと分かって落胆する。ぐるぐると目を回すエデンに、ミレニアは花が咲くような笑みを向けてくる。
「深い理由はなかったけれど、これからのプランは考えてあるのよ! エデンにはいまから二週間、あたしの付き人として行動してもらいまーす」
「え、ちょ、そんなぁ。わたしの意見はどこに」
「いいじゃないー。先生からはちゃんと許可ももらってるし! それに伝説の歌姫のラストステージを見守れるなんて、なかなかできることじゃないでしょ?」
ラストステージ。その単語に含まれた意味に気づき、エデンは自然に目を伏せた。
昨夜の光景は夢などではない。ミレニアがレッカと同じ病なのだとしたら、最終的にこの美しいひとはどうなってしまうのだろう? あらゆるものが砕け散る光景を、またただ見ているしかできないのか。
「ね、だめかしら? 本当に嫌だったら断ってもいいのよ」
視線を向ければ、まだミレニアは変わらずそこにいる。何もできなかった、何もしなかったレッカとの別れを繰り返してもいいのか? それはいやだ。それだけは、いやだった。
「わかりました。お役には立てないでしょうけど、付き人、やらせてもらいます」
エデンの返答に、ミレニアは満面の笑みを浮かべて見せた。
少なくとも、ミレニアはこうして生きている。――まだ、なにも終わってない。
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