4.儚きうたかたの崩落

 夜。エデンは部屋のベッドに潜り込み、天井を眺めていた。


 ミレニアのライブは本当に楽しかった。まぶたを閉じなくても、煌びやかだったあの光景を思い出すことができる。本当に良かった――その気持ちに嘘はなく、エデンは寝返りを打つとサイドテーブルに置かれた鉢植えを見つめる。


「ミレニア・オーレンドルフ……伝説の歌姫、かあ」


 ステージ上の華やかな姿とは違い、出会ったミレニアは親しみやすい人柄だった。もしお姉さんがいたら、あんな感じなのかな。ふとした考えに、自然と笑みが浮かんだ。


 目を閉じる。あんな風にミレニアと話すことは二度とないだろう。あの出会いは奇跡的な時間だったのだと、本当に幸運なことだったのだと改めて思った。


 いつかまた、ミレニアのライブを観に行こう。今度は自分だけの力で。楽しい想像に重くまとわりついていたものが遠のいた気がして、エデンは静かに眠りに落ちていく。



 ――刹那、携帯端末が激しく音を立てる。


 はっと目を見開き、枕元で光る端末を手に取る。表示時刻は午前一時少し前。コールを送っているのは――レオンだ。


「はい、エデンです」


 嫌な予感とともに、すぐさま応答する。こんな深夜に連絡があるなんて、よほど深刻な用件のはずだ。ベッドの上で身を起こし、エデンは背筋を伸ばす。


「ああ、エデン。こんな遅い時間にすまないね。緊急の患者が来た。すぐに病棟に来てくれるかい」


 レオンの声は冷たくとがっていた。恩師のただならぬ様子に、エデンはぐっと息を詰める。どんな状況なのかはわからない。それでも、行かないという選択肢はなかった。


「わかりました。すぐに向かいます」

「よろしく、私はすでに入っているから。救急で待っているよ」


 端末にレオンの現在地マーカーが送られてくる。エデンは素早く確認を終えると、身支度を整えるためにベッドから立ち上がった。


 ※


 診察室の前にたどり着いたエデンが耳にしたのは、切羽詰まった怒鳴り声だった。


「――説明してください! 治らないってどういうことなんだよ!」


 あまりの声量に身をすくませる。まさか、逆上した患者が何かしようとしているのか。背筋に冷たいものが流れたが、そうであるなら放っておくことはできない。


「失礼します!」


 覚悟を決め、扉を開く。すると最初に灰色の髪をした男性の背中が見えた。レオンはその向こうでエデンに視線を送ってくる。男性も同時にこちらを振り返った。しかし。


「え、あなたは」


 エデンは男性の姿に言葉を失った。こちらを見つめるグレーの瞳――それは数時間前に出会ったばかりの、ミレニアのマネージャーであるひと。


「あ、アステルさん? どうしてここに」

「君は……そうか。ここのスタッフだったのか」


 アステルは少しだけ目元をゆるめ、深い息を吐き出した。まさかアステルが患者なのか? 疑問が頭に浮かんだ瞬間、レオンは素早くエデンを手招いた。


「入って。奥に患者さんがいるから様子を見ていて欲しい」

「わかりました」


 余計なことは言わず、聞かず。指示通りに部屋の奥へと向かう。そこにはカーテンで仕切られた場所があり、中にはベッドが置かれているようだった。


「失礼します……」


 断りを入れ、静かにカーテンを開ける。ベッドの上には誰かが横になっていた。燃え上るような赤い髪、閉じられたまぶたは青白い。それでも女性の美しさは損なわれず、エデンは次にかける言葉を失った。


「あら、あの時のかわいい子じゃない。こんなところで会うなんて奇遇ね」


 薄目を開いた女性が、立ち尽くすエデンに声をかけてくる。ひどく苦しげな掠れた声だった。エデンは戸惑い唇を噛む。どうして、このひとがこんな場所で横たわっているの?


「ミレニアさん、どうして」

「どうして、ね……? さあて、身体の丈夫さには自信があったんだけどね。過信しすぎたのか、日ごろの不摂生が祟ったのか……ふふ、自分でもおかしくて笑えちゃうわ」


 力なく笑いながら、ミレニアはいやな咳をする。たんが絡んだような、いや、もっと粘度のあるものがのどの奥に張り付いているような――。


「う、ぐ」


 ミレニアは横を向き、口元を押さえる。細くてきれいな指の間から赤黒い液体があふれた。エデンは愕然とし、だがすぐさま駆けより対処を始める。


「ここに吐き出してください。息はできますか? 今、先生を呼んできますからね」

「だ、だいじょうぶ。ちょっとむせただけだから……ごめんなさいね。まわり、汚しちゃった」


 苦しい息の下でも、ミレニアは笑みを浮かべてみせた。ぜいぜいと呼吸を繰り返す姿は、到底『だいじょうぶ』などと言える状態ではない。エデンはミレニアの背中をさすりながら、エデンはカーテンの外に向かって声を張り上げる。


「せんせい! レオン先生!」


 少しの時間が永遠のようにも思えた。実際は一分に満たない時間だったが、レオンが現れたときには、ミレニアはまぶたを下ろして荒い呼吸を繰り返していた。


「せんせい、ミレニアさんが!」

「横を向かせて。そのまま……そう、それでいい。君は少し離れていて」


 レオンは手早くバイアル(注射剤を入れる瓶)を棚から取り出す。そしてあらかじめ用意してあったであろう注射器をふたに刺し、中の薬剤を吸い上げる。


「できればこれは使いたくないんだが、こうなってはどうしようもない」


 嫌な音を立てて、ミレニアの口から血液があふれる。赤黒い色はみるみるうちに色を失い――薄紫色の結晶へと変わっていく。


「先生! これっ……!」

「触れないで。君も侵食される」


 レオンにはこの状況が理解できているのだろう。素早く針をバイアルから抜くと、ミレニアの腕に手を添え、注射器を突き立てる。


「ぐ、あ」

「ミレニア!」


 カーテンを掻き分け、アステルが駆け寄ってくる。それでもレオンの集中は切れない。指先一つ震わせることなく、注射器の薬剤を流し込んでいく。


「これで、ひとまずは」


 白い腕から注射器を抜き、レオンは一歩下がる。音を立てて薄紫の結晶が砕け散り、急速に形を失っていった。そのわずかな間に、ミレニアの呼吸は落ち着き始める。


「ミレニア! おい、しっかりしろよ! まさか」

「いえ、眠っているだけです。ああ、アステルさん、今は彼女に触れないでください。何が起こるかわかりませんから」

「何が起こるかわからないって……なあ、先生。ミレニアは一体、何の病気なんだよ。なんでこんな、こんなきらきらした塊を吐くんだ?」

「ミレニアさんの体に巣くっている病は、アイオーン結晶症というものです」


 聞き慣れない病名に、アステルはもとよりエデンも動きを止めた。レオンは感情の混じらない目で、エデンたちを見つめる。何かひどくおそろしいものを感じて、エデンは強く奥歯を噛み締めた。こんな風な結晶を、わたしは見たことがある。


「アイオーン、結晶症? どんな病気なんだ? なんでこんな風になってる?」

「見ての通り、身体のいたるところが結晶化する病です。進行性であり、何の手も打たなければ余命は半年程度。長くても五年といったところでしょうか」

「待ってくれ、それじゃ本当に不治の病みたいじゃないか! ミレニアはこれからなんだ! 先生、あんただってわかるだろう! こんなところで終われないんだ!」


 詰め寄るアステルにも、レオンは表情を動かさなかった。見ようによっては冷徹にも思えるその態度は、病状の深刻さを思い知らせてくる。エデンは口出しもできず、ただ見守ることしかできない。


「この症例は世界でも数例、本当にごくわずかしかありません。そのため、治療法は確立しておらず、手探りでの治療となります。非常に言いにくいことではあるのですが、現状として完治は望めないと思っていただきたい。むろん、我々も手を尽くしますが」

「……そんなばかな……ミレニア」


 アステルは床に膝をつき、顔を両手で覆った。泣くこともなく肩を震わせる様子は、ミレニアに訪れた不幸を心から嘆いているようだった。声をかけることさえできず、エデンは眠っているはずのミレニアに視線を向けた。


「そう、あたしは死ぬのね。どうあっても」


 ミレニアは両目をはっきりと開いていた。赤茶の目は強く輝き、声にも先ほどまでの掠れはない。いつも通りのミレニア・オーレンドルフの顔で、彼女はレオンに問う。


「どうなの? 先生、あたしはいつまで生きられるの?」

「現在の時点で、長くて八か月程度かと。……症状がかなり進行しています。特に声帯周辺の変異がひどく、もうじき声が出せなくなるでしょう。それまでに患部の除去を行えば、余命はわずかに伸びるかと思いますが。その場合、二度と歌えなくなります」

「いいわ、じゃあ決めた。あたし帰るわ」


 あっさりとミレニアは言い放ち、ベッドの上から起き上がる。エデンとアステルは唖然として、ミレニアの行動を見つめるだけだった。


「本気ですか? 何もしなければ、あなた本当に死にますよ」


 レオンだけが冷静に歌姫の行動をとがめる。歯に衣着せぬ言い方だったが、ミレニアの琴線に触れたらしい。ふふ、と楽しげに笑うと、軽く指先を振ってみせる。


「いいわね、誤魔化さない言い方は好きよ。ただねぇ、先生。あたしは自他ともに認める歌狂い。たとえ生きるためにだって、自分の喉を捨てることは出来ないのよ」

「治療は希望されないのですね。本来なら即、入院していただきたいほどですが」

「結構よ。どうせ死ぬなら、あたしは歌を歌って死ぬわ」


 レオンははあ、と呆れたような声を出した。医師としては到底受け入れられない判断なのかもしれない。それでも止めないのは、ミレニアの意思を尊重したからに他ならなかった。


 実際のところ、ミレニアは死ぬことをどう思っているのだろう。佇む美しい姿に悲壮感は感じられない。けれどそれでも、エデンは赤茶の瞳に光るものを見つけてしまった。


「いいんですね? 本当に」

「くどいわよ、先生。あたしはあたしの判断で、治療を受けないことに決めた。たとえそれで力尽きたとしても、それはあなたのせいじゃないわ」

「そうですか、わかりました。それならこれ以上は何も。ただ、症状が悪化したらいつでも連絡してください。可能な限りの処置は致しますので」


 ありがと、と短く答え、ミレニアは茫然としたままのアステルを立たせる。そしてちらりと部屋の端に立っていたエデンに視線を向けた。


「ねえ、先生。一つお願いしてもいいかしら」

「なんです? 言ってみてください」

「あの子、エデンだったかしら。ちょっと借りて行ってもいい?」


 レオンは困惑したように首を傾げる。エデンはエデンでぽかんと口を半開きにするしかない。借りる? 借りるってなに? ミレニアさんはわたしをどうするつもりなの?


「エデンが良いというなら構いませんよ」

「ちょ、レオン先生!?」


 どこか投げやりなレオンの声に、ミレニアは満面の笑みを浮かべる。まるで大輪の花が咲き誇るような見事な笑顔だった。だが、エデンにはそれが捕食者の笑みに見えてしまう。


「じゃ、よろしくね。エデン?」


 わたし、何も答えてないんですけど! 抗議は空を切り、ミレニアは鼻歌まじりにエデンに腕を絡める。助けを求めてもレオンは首を振るばかりで、アステルは諦めたように肩を落としただけだった。


 状況は不明。先の見通しなどありはしない。それでもエデンは、ミレニアたちとともにDCHを後にすることとなった――。

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