3.『ミレニア・オーレンドルフ』
ミレニアに手を引かれ、エデンは楽屋だという一室で手当てを受けていた。
「あら、これ、きっと腫れるわよ。湿布しかないけど、ないよりはましね。それからテーピングをして、と」
ミレニアはなれた様子でテーピングを施していく。緋色に塗られた長い爪には、きらきらとネイルアートが輝いている。こういった手当には向かないであろう指先だったが、ミレニアの爪がエデンの肌に触れることはなかった。
「さて、と。こんなものでいいかしらね。雑な応急手当だから、あとでお医者さんに診てもらいなさいね」
「は、はい。ありがとうございます……」
ぱんと手を叩いて、ミレニアは立ち上がる。そして大きな鏡の前に置かれたいすを引き寄せる。ただそれだけのことなのに、腰を下ろす動作さえひどく美しく感じる。
エデンはぼうっと、ミレニアの動きを眺めていた。多くの鏡と照明が配置された部屋はとても明るい。しかしそれだけでは説明できない輝きを、ミレニアはまとっている。
「ん? なあに? かわいい顔をぽかんとさせて」
ミレニアは唇の端を持ち上げる。文句のつけようもない、完璧な笑顔だった。きれいなひと――エデンは状況も忘れて見惚れてしまう。
「それで? あなた、どこから来たの? スタッフの身内というわけでもなさそうだし。もしかしてとは思うけど、迷子?」
ミレニアの指先が、傍らのテーブルに置かれた小さなケースを引き寄せる。大輪のユリのような花が刻まれた、真っ黒なケース――そのふたが開かれると、中にはタバコが詰まっていた。
迷子、ではない。エデンはここに来た本来の目的を思い出す。あの黒い男はどこに行ったのだろう。この場所に入っていったということは、ミレニアの関係者なのか。
「ええと、迷子ではなくて……実は、知っている人を見かけて、追いかけてきたらここに入ってしまったんです」
「そうなの。知り合いって、あたしのとこのスタッフかしら。なんて名前?」
「いえ、その、名前は知らないんです。ただ真っ黒な服を着ている男のひとで……」
「さすがにそれだけじゃわからないわよ。本当に知り合いなの?」
美しい眉がわずかにひそめられる。エデン自身、さすがに怪しい言い方だと思う。落ち着かない気分になってうつむいていると、不意に鼻先を甘い香りがかすめる。
「そんなに不安そうな顔しないの。かわいい顔が台無しよ」
顔を上げたエデンの視界に、紫がかった大きな花が映り込む。シナモンと花の甘いにおいが混じったような、特徴的な香りが漂ってくる。
「ミレニアさん? この花は」
「これはね、カトレア。花はランに似ているけど、とってもいい香りがするのよね。あたしが一番好きな花。あなたにあげるわ」
驚いて瞬きしている間に、ミレニアは小さな鉢植えをエデンに押し付ける。思わず手元を見つめたエデンは、カトレアの花の凛とした佇まいにほおが緩むのを感じた。
「ミレニアさんにぴったりな花ですね。でも、もらえないです」
「そんなこと言わないでもらってよ。この花が大好きで、あたし、いっぱい育てているの。その子はとびきりの美人さん。大事にしてよね」
楽屋にまで持ってきているあたり、本当に好きなのだろう。先ほどまでのきれいな笑い方とは違ったにこやかな笑みに、エデンも自然な笑顔を浮かべられた。
「わかりました。うれしいです……大切にしますね」
「よしよし、笑ったわね。いい子いい子。それにしても、あなたの言う黒い服の男って誰かしら? そんな喪服みたいな格好しているやつ、ここにはいないと思うんだけど」
エデンは首を傾げる。だとしたら、あの男は一体何の用があってこの場所をうろついていたのだろう?
二人は考え込んで沈黙する。だがミレニアは何かに気づいたように、視線を横にずらした。つられてエデンもそちらを見れば、楽屋の扉が勢いよく開かれる。
「ミレニア! ここにいたのか! 毎度のこといつも突然、姿を消しやがって! 探すおれの身にもなってみろ――って」
「あらアステル。レディの部屋にノックもなしなんて、無粋にも程があるわよ?」
開かれた扉の向こうに、一人の人物が立っていた。着崩したスーツに、首から下げた銀色のリングペンダントが印象的な男性は、エデンの姿に目をむいた。
「誰だ、この子。どこから連れてきたんだ」
「迷子よ、迷子。あたしが保護したの」
「はあ? 迷子だと? そんなでかい迷子がいてたまるか! どうせお前のことだから、適当なことを言ってさらってきたんだろ! おい、君。家はどこだ? ここへは誰かと一緒に来たのか? 名前は何ていうんだ?」
矢継ぎ早に質問されて、エデンはくるくると目を回す。ミレニアはうんざりしたようにシガレットケースをいじっている。その間にも男性――アステルという名前だろうか――は、端末でどこかに連絡を取り始めた。
「ごめんねぇ、うるさい男で。こいつはアステル。あたしのマネージャーであり下僕でもある」
「誰が下僕だ。いい加減なことを言うな、歌狂いが。それはともかく、君はエデンというのか? お連れさんが探しているようだぞ」
お連れさんの単語に、エデンは声をあげた。今度は本気で忘れ去っていた。もしかしなくとも、エデンを探すのは一人しかいない。
「お連れさん……やっぱりそれって、レオン先生ですか?」
「そうそう、その人。レオン・カノープスさんだっけ? 随分焦っていたのか、機材に足を引っかけて下敷きになったらしい」
「えぇ……」
――しばし時間は流れ、再び扉が開かれる。
「え、エデン……! どこにいたんだよぉ……しんぱいしたんだよ……」
まるでどこかで戦って戻ってきたみたいに、レオンはボロボロだった。白いスーツは埃まみれで、頭にはごみが絡まっている。正直に言うと他人のふりをしたかったが、さすがにミレニアたちの手前、そんなこともできない。
「……すみませんでした、レオン先生……まさか、そんなざまになっているとは」
「ざまって何。あまりにも心配しすぎて、機材に潰されかけた気持ちが君にわかるかい――っておわ! ミレニア様がぁ! 一体ここは……じゃなくて、こんな格好であわわわ」
レオンはミレニアを前にして慌てふためき始める。鏡に映し出された自分の姿に泡を吹かんばかりの様子で、必死に頭からごみを外しにかかる。
「ずいぶん変、ううん、個性的なお連れさんね」
「いえあのー、これでもDCHのお医者さんでして……普段はもっとましなんですよ」
乾いた笑いが口からもれるのを止められない。エデンは無駄と思いつつも、恩師のフォローを行おうとした。したのだが、レオン自ら奇行でそれを台無しにする。
「あ、しまった。私は何をしようとしたのだろう。記憶が飛んだ。忘れてしまった。帰ろう」
「あんた何しに来たんだ。その子を探してたんじゃないのかよ」
しまいには傍観していたアステルにまでツッコミを入れられる始末だ。どうも今日のレオンはいつもと比べても数倍おかしい。カトレアの鉢を抱えなおしたエデンは、椅子から立ち上がって頭を下げる。
「お騒がせしました。あまり長居すると先生が恥ずかし――ええと、お邪魔になってしまうので、これで失礼します。色々ありがとうございました。ミレニアさん、それにアステルさんも」
「気にしなくていいわよ。その子、大切にしてあげてね。アステル、玄関まで送ってあげて」
無言でアステルは頷く。そしてエデンと慌てふためくレオンは、ミレニアに別れを告げ会場入り口へと送り出されたのだが――。
「ああ! しまった! ミレニア様にサインをもらっておけばよかった! 一生の不覚!」
「レオン先生……いい加減してくださいってば」
人通りのある会場前でいい年の大人が地団太を踏まないで欲しい。エデンが冷たい視線を送っていると、そばに立っていたアステルが肩をすくめた。
「そんなに言うなら、おれの方からミレニアに言っておく。あとで郵送するように手配するから、良ければ送り先を教えてくれ」
「え、本当ですか! いやあ、本当に感動だな……ミレニア様によろしくお伝えください。あ、これ、私の名刺です」
さっと名刺を差し出す様子はまともに見えるのに。レオンとアステルのやり取りを見やり、エデンはため息をつく。
どたばたして心の端に追いやられていたが、落ち込んでいた気持ちは消えていない。次第に押し寄せてくる重みにうつむいた時、そっと肩に手がかかった。
「エデン、疲れたかい?」
「あ、いえ。アステルさんは……もういないですか。先生、ミレニアさんのサイン貰えそうで良かったですね」
何とか元気を絞り出して、答える。サインがもらえるなら、レオンは相当なテンションで返事をするだろう。エデンの想像とは裏腹に、レオンは静かに微笑んだだけだった。
「エデン、少しは楽しめたかい?」
「え、はい。ちょっと驚くことはありましたけど、来てよかったと思います」
「そう。なら良かった。じゃあ、帰ろうか」
シンプルにそれだけを返して、レオンは夜の歓楽街を歩き出す。相変わらず周囲から浮いた姿だったが、それでも恩師がずっと気を配ってくれていたことに気づく。
「レオン先生」
「うん?」
「また観に来たいです。ミレニアさんのライブ」
肩越しにレオンは笑顔を浮かべる。エデンは早足に隣に並び、二人は煌びやかな夜の空間から帰路についた。
――そして。時はわずかに流れ、深夜一時。
エデンは、伝説の歌姫と予想外の場所で再会することになる。
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