5.君の夏が終わる

 まぶたが重い。痺れるような眠気が、頭の芯にこびりついている。


「……ェ……デン」


 呼びかけられている。誰、わたしを呼んでいるのは。のろのろと目を開く。視界がひどくかすんでいる。頭がずきずきと痛む。どうしてこんなに、苦しいの――?


「エデン!」


 肩を揺さぶられ、一気に目の前が開ける。空調の音が鈍く響き、焦りを含んだ緑の目が顔をのぞき込んできた。


「エデン、しっかりするんだ。私がわかるかい」

「レオン、せんせ」


 声が震える。目頭から熱いものがあふれて、エデンのほおを流れ落ちた。意識がはっきりしてくるにつれ、自分のしでかした致命的な失敗を思い出してしまう。


「レオン先生、どうしよう。レッカ君が、レッカ君が」

「状況はわかっている。いま、皆でレッカ君を探しているところだ」


 レオンの声音は落ち着いていた。患者が消えてしまったのに、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。エデンは必死に身を起こし、白衣の袖を強く握りしめる。


「わ、わたしも探します。わたしのせいです。レッカ君がこんなことをしたのは、わたしの」

「エデン、落ち着くんだ」

「落ち着いてなんかいられません!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。レオンの腕を振り払い、エデンは扉へと駆け出す。止まっていることなんてできない。自分のせいで、レッカにもしものことがあったら。


「待つんだエデン! ああ、どうしてみんなこう……! 緊急連絡――」


 レオンが追ってくる気配がしたが、エデンは構わず走りだす。床を強く踏みしめ、真っすぐに廊下を進んで行く。レッカがどこへ行ったかなんて、想像もつかなかった。


「レッカ君……! どこ!」


 呼びかけながら、病棟の中を探す。いない、いない。どこにもいない。出会う人は皆、レッカらしき人物は見かけていないという。病棟内にはいないのだろうか? 息を切らしながら、エデンは中庭に面した廊下で足を止める。


「どこに行ったの、レッカ君」


 レッカはエデンのIDカードを持って行った。機密性の高いエリアには入れないとはいえ、カードがあれば一般エリアは自由に行き来できる。そのせいで捜索範囲が広がってしまったが――果たして、レッカは逃げることだけが目的だったのだろうか。


「考えなきゃ、レッカ君がどうしたいのか」


 レッカの望みは何だった? 夏を見たい、と彼は言っていた。夏、それは何だろう。季節のこと? だとしたら、見たい、とは何を示している? 夏、その季節だけ見られるもの。一体、何だろう?


 考えろ、考えなきゃ。大切なことを忘れている気がする。思い出せ。最初にレオンは何と言っていた?


『ふたつ、どんな場合においても、生花などの植物を病室に持ち込んではならない』


 不意に思い出す。注意事項の中で、一番意味の通らない言葉。なぜ、植物なのだろう? 有機物を持ち込んではならないという意味だろうと、深く考えなかった。しかし、よく考えてみればエデンたち人間も有機物だ。どうして植物限定なのだろう。


「夏、植物……夏の植物? 緑、草。木……花? とか? 植物に何か意味があるとしたら、夏に見られる植物、って」


 ふと、頭の中に一つの光景が浮かび上がる。窓の外に見えた、力強く咲く黄色い花。あれはそう、向日葵だった。


「もしかしたら」


 エデンは思い浮かんだ答えに従い、再び走り出す。どうせほかにあてはない。廊下の非常口から中庭に出る。途端、じりじりと照り付ける太陽が、肌を強く刺した。


 まとわりつくような熱気と、地面から立ち上る陽炎。一歩外に出ただけで、別世界のように季節が周囲を彩った。深い緑の木々と生き生きとした草花からは、青いにおいが漂ってくる。


 エデンは足早に中庭を進む。やわらかい下草を踏みしめる音が、静かな夏の景色に広がって消えていく。汗が一筋、エデンのあごを伝って落ちる。暑い。夏ってこんなに暑かったんだ。


「向日葵、ひまわり……確か、あのあたりに」


 病棟そばの一角に、向日葵がたくさん植えられた場所がある。南向きで一番日当たりのいいそこに、ぽつんと誰かが佇んでいた。


「……あ」


 エデンは足を止める。佇んでいた人物は、一番小さな向日葵の花に手を伸ばす。それだけの動作だった。にもかかわらず、花は根元から折れ――ぱりん、と地面の上で砕け散る。


「来たんだ、エデンちゃん」


 ゆっくりと、黒髪の少年が振り返る。レッカはかすかに眉尻を下げて笑っていた。


「無駄なことをしに、なんて。もう言わないけどさ。どうして来たの、そんなにぼくが哀れだった?」

「違います。ただわたしは、レッカ君ともっとお話をしたいと思っただけです。本当にただ、それだけなんです。何もできなくても、わたしはあなたのそばにいられますから」

「そう。そっか。そうだね。そうできれば、良かったけどね」


 軽く笑って、レッカは落ちた向日葵を拾い上げる。砕け散った花は、きらきらと輝くガラスのかけらに変わっていた。


 元々は生きた花だったとは思えないほど、ガラスは繊細で美しい。命の失せた冷たい塊と化した花は、時を止めたような輝きを放っている。


「きれいでしょ。ぼくが触れた生き物――特に植物は、こんな風になってしまうんだ」

「どういうこと、なんです」

「わからない。気づいたらこうなってた。ぼくを助けようとした父さんや母さん、兄さんも……この花と同じようになってしまった」


 残酷な事実をさらりと告げて、レッカはもう一輪の向日葵に手を伸ばす。当然のように花は砕け、細い指先を滑り落ちていく。


「やっぱり、こうなるんだなぁ。やっぱり、ぼくはもう、誰に触れることもできない」

「レッカ君……」


 それ以上、何も言えなくなる。すべてを諦めてしまえたような横顔に、どんな言葉をかければよかったというのか。見つめ返すことしかできないエデンに、レッカは小さく笑った。


「ねえ、エデンちゃん。お願いがあるんだけど」

「なんでしょう。わたしにできることなら」

「ぼくに」


 レッカの笑みが崩れる。唇を震わせ、大きなため息をつく。


「ぼくに、触れてくれる? ぼくのそばにいてくれるんでしょう?」

「それ、は」


 手を差し出そうとして、指先は宙で止まる。レッカに触れればどうなるか、彼自らが語っていたじゃないか。エデンの指先が震える。わずかな間、一緒にいただけの相手と心中できるっていうの?


「レッカ君、わたしは」

「冗談だよ」


 レッカの目から涙があふれる。ぐずり上げる様子は、本当に幼い子どものようだった。それでもなお笑おうとして、失敗する。エデンは差し出した自分の手を握りしめた。


「冗談なんだ、触らないで。ぼくに、さわらないでよ。誰かがぼくのせいで苦しんで、死ぬのなんて見たくない。もう、二度と見たくない……! いやだ、いやなんだ!」


 レッカは両腕で自分の体を抱きしめる。地面へと膝をついた瞬間、下草が結晶と化す。レッカを中心に広がっていく輝きは、まるでガラスのじゅうたんのようだった。


「ずっと、ぼくは……自分が死んでしまえばよかったって、思っていたよ」


 きらきらと光を弾いて、涙が零れ落ちる。泣いている相手が目の前にいる。それなのに抱きしめることさえできない。いや、できないわけじゃない。わたしが、レッカ君のために死ぬことができないだけだ。


「ぼくの人生は不幸だ。大切な人を死なせて、何も残せず生きることもできない。ぼくだって、生きられるなら生きていたいよ。死にたくなんて、ないんだ。ねえ、エデンちゃん。ぼくは、どうすればよかったの」

「わたしには、答えられません……わたしには、むりです……」


 どうすれば、レッカを救えたのだろう? レオンなら何と言うだろう。やはり、『哀れみは時に人を殺す毒になりえる』と、そう言うのだろうか。


「そうだね、答えられるはずもない。ぼくを助けてくれるものは、何もないんだから」


 レッカは腕を解き、両腕を地面に投げ出す。もう二度と、レッカは顔を上げない気がした。広がっていく結晶は、レッカの体をも侵食しようとしている。


「レッカ君、もういいよ! もういいから、戻ろう……!」

「ぼくはもう戻らない。戻れない。やっと、諦めがついた」


 エデンの胸にある悲しみなんて、レッカのものに比べればごみ同然だ。エデンは両手を握りしめ、一歩、足を踏み出そうと――。


「やめておけ。お前が死に急ぐにはまだ早い。愚かなゼロエデン」


 冷たい声音が響き、腕を引き戻された。暑い空気の中に煙草のにおいが流れる。振り返ると、そこには一人の人物が立っていた。喪服のような黒いスーツを纏った、黒髪黒目の男性。見覚えのない顔にエデンは戸惑う。誰、しらないひと。


「だれ、ですか」

「俺の名前か。そんなものお前には意味がないだろう。本当に愚かだな、ゼロエデン」

「なんですか、ゼロエデンって……わたしの名前はエデンです」

「知っている。だが、お前はゼロだ」

「……っ、おかしなことを」


 黒髪の男はエデンから視線を外す。興味がないと言いたげな様子に、激しい苛立ちを感じる。だれなの、このひとは。エデンの疑問は置き去りに、男は真っすぐレッカへ近づく。


「レッカ」


 男が呼びかける。二人は知り合いなの? だが、レッカは顔を上げない。


「レッカ、聞こえているか」


 結晶のじゅうたんにもためらわず、男は足を進めていく。ぱりぱりとガラスが砕ける音がする。エデンは混乱のままに、声を張り上げた。


「やめてください! 死ぬ気ですか!」

「だまれ」


 一喝。低く轟く声に、エデンは血の気が引くのを感じた。


 わずかな間に、男はレッカの前へとたどり着く。男の靴には結晶のかけらがまとわりついている。しかし、それにも構わず膝をつく。


「レッカ」


 手袋に覆われた手が、レッカのほおを打つ。

 痛みに瞬きを繰り返し、レッカはやっと、顔を上げた。


「にい、さん? どうして」

「レッカ、迎えに来た」


 エデンに向けたのとは比較にならないほど、男の声は優しげだった。


 レッカは何度か頷くと、そっと微笑みを浮かべる。満ち足りたような、本当に幸せそうな笑顔で笑う。レッカのあまりに温かな表情に、エデンは喉元を押さえる。


「どうして、兄さんは死んだんじゃなかったの?」

「死んだ? ふふ、本当にそう思うなら、ここにいる俺は誰なんだ? お前の目は節穴なのか、レッカ?」

「その言い方……本当に兄さんなんだね」


 レッカの目から、再び涙があふれた。先ほどとは違う感情を含んだ雫が、ガラスの地面に落ちていく。


「レッカ、迎えに来た。だから、苦しまなくていいんだ」

「苦しまなくていい? ほんとうに? ぼく、もうがんばらなくてもいいの」

「ああ、おまえは十分すぎるほどに苦しんだ。――ずっと、会いに来てやれなくてごめんな。本当はもっと早く、こうするべきだったのに」


 男は静かに左手をレッカの頭に置いた。とても、優しい仕草だった。レッカの肩が拒むように震える。それでも男は深い慈しみを含んだ手つきで、少年の頭を撫でる。


「大きくなったな、レッカ。本当は二度と会えないと思っていたから、今はとても嬉しい。都合のいいことを言っているのはわかっている。だが……こんな薄情な俺だが、おまえは許してくれるか。レッカ」

「あ、たりまえ、じゃないか。兄さんが生きててくれただけで、ぼくはうれしいんだ。最後だけど、ほんとに『さいご』だけど、会えてうれしかった。本当に、ほんとうに」


 レッカは激しくせき込んだ。唇を伝うのは、赤い色をした液体だった。しかしそれも色を失い、地面に落ちる頃には透明なかけらに変わっていく。


「にいさん、お願いがあるんだけど」

「なんだ?」


 穏やかな声に微笑みを浮かべ、レッカは小さく息を吸い込む。最後の一息へと命を込めるように、レッカは静かに言葉を吐き出した。


「世界がおわっても、ぼくのこと、わすれないでね」


 エデンには意味のつかめない言葉を残し、レッカはまぶたを下ろす。細い体がかたむき、ガラスの地面へと倒れる。刹那、レッカは砕け散る。文字通り、ガラスが割れたように粉々になって――。


「当然だろう。忘れないさ、たとえ二度と出会えなかったとしても」


 レッカは笑っていた。清々しい笑顔とともに、砕けて消えた。


 少年の名残の前で、男はじっとうつむいていた。だが、それもわずかな時間のことだった。顔を上げると、毅然とした声を背後に投げかけた。


「実験体を回収しろ。撤収する」


 背後から複数の足音が響く。エデンが振り返ると、全身を白い防護服で覆った者たちが近づいてくる。何も語らない彼らは、黙々と作業を開始した。つまり、周囲に散らばったレッカのかけらを、物のように袋に詰めて。


「や、やめて! やめてください! それは、レッカ君です! ひとを、物みたいに扱わないで!」

「さわぐな、黙れ」


 男が近づいてくる。エデンが睨みつけても、冷めた黒の目は揺らぎもしない。ひとでなし。罵ったエデンに、男は左手を振り上げた。


「無力で愚かなゼロエデン。お前には誰も救えやしない」


 鈍い音が耳元で鳴った。ほおに痛みを感じた途端、体が横に飛ぶ。叩かれた。気づいた時、エデンは地面に転がっていた。


「痛いか」

「う、あ、ああ」

「痛いだろう。お前は、こんな痛みがあることさえ知らなかったんだろ?」


 倒れ伏したエデンを見下して、男はその場から去ろうとした。エデンの心は痛みと屈辱でぐちゃぐちゃだった。いたい、痛い、いたいいたい痛いいたい、くやしい!


「ばかに、するなぁっ!」


 獣のように地面を蹴って、エデンは男につかみかかった。無我夢中で右腕に爪を立て、怒りとともに噛みつく。相手にも痛みを与えたい。その一心だった。それなのに男は、身動き一つしなかった。先ほどと同じように見下して、腕を振り払う。


「邪魔だ」


 たったそれだけの動きで、エデンは弾き飛ばされる。悔しい。悔しすぎて死んでしまいそうだった。奥歯を噛み締めて身を起こせば、視線の先には無傷の右腕があった。


「え……?」


 無傷。そう、傷ひとつない、鋼鉄の義手があった。脱げてしまった手袋を拾い上げ、男はつまらなげに鼻を鳴らす。


「愚かだな」


 男はそれきり、エデンを振り返らなかった。レッカのかけらはすべて回収され、防護服姿の人々は無駄のない動きで去っていく。男もすべてを見届け、来た時と同じように唐突に姿を消した。


 エデンはずっと座り込んでいた。わたしは何もできなかった。――何も、しなかった。


「う、ぁ」


 のろのろと立ち上がる。少し前まで存在していた向日葵は、無残になぎ倒されていた。ふらつきながら、レッカのいた場所に近づく。もう誰もいない。どこにもいない。


「どうして」


 膝をつき、うつむく。無力だった。無意味だった。何もかもを諦めてしまったのが誰だったのか、今更ながらに思い知る。わたしには、誰も救えない。


「どうして、どうしてなの。いやだ、いやだいやだ、いやだ」


 地面に手を叩きつける。血のように赤い光が周囲に広がり、小さなガラスが輝きを放つ。エデンはかけらの一つに手を伸ばした。レッカの名残、結晶の花。太陽を目指して砕けた、小さなガラスの向日葵――。


「うあ、あああああぁっ!」


 エデンは絶叫した。レッカを助けたかった。本当は、助けたかった!


 だが、二度とレッカの声を聴くことはない。あの賑やかな笑顔は失われてしまった。



 ごめんなさい。

 わたしは本当に痛みすらも知らずにいたんです。



 涙もなく叫び続けても、求める答えは返らない。


 痛みを知らなかった少女が紡いだ物語は、こうして終幕を迎える。


 誰も救えず、救われもしなかったエデンにとって、これは苦い痛みの季節のはなし。



 ――わたしはこの時、誰かを救える人になりたいと、初めて思ったんです――。


 第一部「箱庭の向日葵は夕方に咲く」~了~


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