Memory:4「都市は静かに記憶をうたう」
目を開く。
ひとつの記憶を語り終え、エデンは窓の外を見た。いつしか夜が明けようとしている。光が崩れた都市の隙間からあふれ、一瞬だけ残された暗闇が濃くなった気がした。
「これが、わたしが覚えている最初の別れのはなしです。レッカ君、あの子はわたしに痛みを教えてくれた」
できる限りゆっくりと言葉を紡いだ。思い出すたびに、この記憶はガラスのかけらのように鋭く胸を刺す。それでもエデンにとっては大切な、出会いと別れの記憶だった。
「面白くはなかったかもしれません。たのしくも、なかったですよね……」
ちらりとイオンに視線を向けると、緑の目がつまらなそうに細められる。ふん、と鼻を鳴らし、包帯だらけの手で片目を覆う。
「それで?」
「は、はい?」
「それで、君は一体その後どうしたんだ。絶叫してそのまま逃げだしたわけじゃあないよな」
イオンはテーブルに肘をつき、指先でガラスの向日葵をつつく。夜明けの薄明かりの中でも、かつての夏と同じように花は輝きを放つ。
「あ、当たり前じゃないですか。もちろん続きの話はあります。だけど、イオンさん。その前にひとつ聞いていいですか?」
「なんだよ」
再び鼻を鳴らし、イオンは横目でエデンを見た。睨みつけるような目つきで見られると、赤黒いただれと相まって非常におそろしい。思わずエデンはうっと言葉を詰まらせた。
「なんなんだよ。さっさと言えば」
「い、言いますってば……あの、その、イオンさんは、何というか……レオン先生と、どういった関係なんですか?」
エデンの過去について知りたい。イオンはそう言ったが、そもそものきっかけはレオンの名前だった。
こちらは話をしたのだからそれくらいは聞いていいはずだ。視線に負けずに見返すと、イオンは深いため息をついた。ひどく疲れたように首を横に振る。
「知らない」
「はい? え?」
「知らないというか、よくわからないという方が正しいか。……実は、僕の記憶には大きな欠落がある。だから、レオンというやつのことを知っているかどうかはわからない」
ガラスの向日葵に指先を触れさせながら、イオンは嘆息する。緑の瞳には諦めきったような色が浮かんでいた。
「だが、わからないなりにわかったこともあった。レオン・カノープス。そいつはきっと、僕がここに来た原因の一つだ」
「だけど、知らないんですよね? レオン先生の記憶がないのに、どうしてそう言い切れるんです?」
「不可解なのは重々承知している。けれど僕の頭の中には、レオンの情報だけが存在しているんだ。出会った記憶はない。会話したこともない。それなのにどうして、僕はあいつのことがよくわかるんだろうな」
イオンは顔を上げ、窓の外に目を向ける。エデンの部屋からは、都市の象徴であったドームが見渡せた。白い結晶に包まれ崩れた半球は、夜明けの光に薄っすらと輝く。
真摯なまなざしが一瞬、いなくなってしまったひとと重なる。エデンはそっと胸に手を当て、過ぎ去った痛みの記憶をたどっていく。
「イオンさんとレオン先生、ちょっと似てる気がします」
ただれに包まれた横顔をそっと眺め、エデンは思い浮かんだことを口にした。年齢も雰囲気も口調も似ていない。だがそれでもイオンの緑の瞳は、ずっとやさしかったあのまなざしを思い起こさせた。
しかしイオンは軽く舌打ちしただけで、良いとも悪いとも言わない。首を傾げるエデンに、緑の目は厳しい光をたたえる。
「僕が、あいつに似てるって?」
不服を表すにしても、イオンの声音は荒々しかった。気に入らないだけではない。声に含まれている感情は嫌悪のように思える。
「いやですか? 似ているって言われるの」
「さあな、わからない。だが、楽しい気分じゃないな。記憶なんてなくても、不愉快になるっていうのがすごく……もやもやする。気持ち悪い」
イオンは唇を歪め、苦い笑みを作った。心底気分が悪そうだった。ぼろぼろの服の胸元を握りしめる手は、理由の知れぬ不快感をこらえるように震えている。
「レオンの話はもういい。僕にわかることは何もない。ただそれだけだ」
「はい……」
エデンは力なく肩を落とす。慰めるように背中の翼がほおを撫でた。自分の一部だというのに、この翼はいつまで経っても体に馴染んでいかない。少しだけ不快に感じて、エデンは静かに翼を払いのける。
「あの、じゃあ、昔のお話も終わりですか」
おずおずとエデンは声をかける。イオンは相変わらず顔をゆがめていたが、質問の意味を掴めなかったように首を傾げた。
「どうして。もう話したくないってことか?」
「いえあの、だって、わたしの話すことにはいつも、レオン先生が出てくるので」
「ああ、そういうことか」
イオンは唐突にエデンを真正面から見つめた。ガラスの向日葵から手を離すと、そのまま包帯に覆われた指先を向けてくる。どういうつもりなのかわからず、エデンは困惑のままに指先を眺めた。
「どうしたんです? わたしの顔がなにか?」
「ちがう。僕が聞きたいのは、君の昔の話であってレオンのことじゃない。話す内容にたとえレオンが出てきたって、そこまで気にしないさ。物語に嫌なやつが出てきたからって、その話の全部を嫌いになるわけじゃない。それだけの話だよ」
イオンにとって、エデンの過去は創作物と同じなのだろうか。納得いかないものを感じたが、エデンはそれ以上の思考を止めた。こんなことで言い争っていても仕方ない。
「それじゃ、またお話ししますか? といっても夜明けですし、一度休んでからでも」
「いや」
返答は早かった。指先を引っ込め、イオンは腰かけていたいすから立ち上がった。そしてそのまま、部屋の扉に向かって歩き出す。
「イオンさん? どこに行くんですか」
「時間が惜しい。休みたいなら勝手に休め。僕は外を歩いてくる。戻ってくるかどうかはわからないが」
「ま、まってください!」
慌ててイオンを引き留める。袖を引っ張られ、イオンは嫌そうに顔をゆがめた。それでもエデンは必死に言葉を絞り出す。
「待ってください。外の地理もわからずに出歩くのは危険です! あの白い『ヒトガタ』だって出てくるかもしれないですし……そもそも、大半の場所は結晶化していて、足場も崩れやすくて危ないんですよ」
「だったら道案内してくれ。行きたい場所があるんだ」
「行きたい場所? どこです?」
エデンは袖をつかんでいた手を解く。イオンはひどく面倒くさそうに鼻を鳴らし、包帯だらけの手を差し出す。意図が掴めずエデンが首を傾げると、イオンは軽く舌打ちした。
「ドームシティ・ホスピタルだ」
「DCHに? どうして」
「理由の説明が必要か? ぼくが行きたいだけじゃなだめなのか」
「だめじゃないですけど」
ドームシティ・ホスピタル。エデンによってなじみ深い場所で、様々な因縁のある地でもある。できれば近づきたくはないのだけど――ためらうエデンに、イオンは背を向ける。
「行きたくないならいい。どうせ歩いていればそのうちつくだろ」
「そんな無謀です! わ、わかりましたよ、わたしも行きますから」
足音もなく去っていこうとするイオンの背を追って、エデンは自らのすみかから走り出す。ちらりと一度振り返る。すると、室内に置かれた品々が光に照らし出されていた。
「おい、行くなら早くしろ。そこまで気長には待たないぞ」
「は、はい! 今行きますから!」
名残惜しく感じながらも、エデンは部屋を後にする。
――そういえば、こんな話もあるんです。
わたしが出会った中で一番きれいで、最高に素敵なひとの話。
散っていく間際の花が美しいのは、命を燃やしているからだと教えてくれた。
そんな、少しだけ哀しくてうつくしい、散り際のカトレアのはなし――。
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