第一部「箱庭の向日葵は夕方に咲く」

1.ガラスの向日葵

 さて、どこから話しましょうか。

 今からわたしが話すのは、ずっと昔に存在した一つの出会いと別れのこと。

 世界大戦によって、何もかもが壊れてしまう少し前のはなし。


 ※


「……ェ……デン」


 廊下の窓際に向日葵が咲いている。じりじりと照り付ける日差しに向かって、大きく花を伸ばす。生き生きとした黄色い花びらを眺めていると、つい口元が緩む。


「……うん、元気そう。いいですね」

「エーデーンー? 私の話を聞いていたかーい」


 恨めしそうな声とともに、肩をポンポンと叩かれる。きょとんと視線をあげた途端、唇の端を引きつらせたぼさぼさ髪の姿が目に映りこむ。


「あ、え、っと。聞いてました!」

「それは結構。嘘がはっきりしていてよろしい」

「う。うう、すみません……。きいてませんでした……ごめんなさいレオン先生」


 秒の速さで噓がばれて、エデンはがっくりとうなだれる。相変わらず容赦のない恩師であった。などと思いつつ、ちらりと相手の様子をうかがう。


「まったく、君ときたら……今日から病院勤務が始まるというのに、いつもながらにぼんやりしているね」

「いえその、じつは……緊張で眠れませんでして。あはは」


 これに関しては事実。目をごしごしとこすって、エデンは乾いた笑い声を立てた。


 対する相手――エデンの恩師であるレオン・カノープス医師は、ぼさぼさした茶色い髪をがしがしとかき回す。すでに鳥の巣状態であった髪が、さらに絡まり毛糸の塊状態になっていく。


「しかたないね。もう一度説明しよう……何笑っているんだい」

「いえあの、なんて言ったらいいか……髪、とかさないんですか?」

「めんどーだからいいの! 無駄なこと言ってないで足と頭、動かす!」


 言うが早いか、白衣をひるがえしレオンは歩き出してしまう。結構な大股で歩いていくので、必然的にエデンは小走り状態になる。


「ま、まってくださいー」


 リノリウムの床を、レオンは滑るように歩いていく。病院の廊下を走るわけにもいかないから、限界ぎりぎりの速度で歩いているのか? どのみち、走っているのとほぼ変わらない気がするが。


 大きな窓が開放的に感じられる病棟内を、二人は素早く横切っていく。ここはドームシティ・ホスピタル――最先端医療を提供し、病院内の設備は最新鋭のもの。医療スタッフの技術水準も最高レベル――そんな通称DCHは、広大な敷地に無数の病棟を持つことから、別名『医療都市』とも呼ばれている。


「エデン、君が今日から勤務するのは少々特殊な病状を持ったクランケ(患者)が療養する病棟だ。最初だから担当してもらうのは一人だけど、これから言う注意事項は必ず守ってくれ」


 白で統一された病院内は、消毒されたあとの独特なにおいがした。開放感があると言っても、外界からは完全に切り離されている。空調は適度に効いていて快適だが、潔癖なほどの白さの中に季節感はない。


 中庭に面したガラス張りの回廊を進みながら、レオンは医師らしくてきぱきと注意事項を述べる。


「ひとつ、患者には直接触れてはならない。ふたつ、どんな場合においても、生花などの植物を病室に持ち込んではならない。みっつ、これが一番重要」

「は、はい」

「患者を、絶対に病室から外に出してはならない。以上の三つだけは絶対に守ってくれよ。それだけを守ってもらえれば、あとは君のやり方で接してくれて構わない」

「わたしのやり方……あの、本当にお話しするだけでいいんでしょうか」


 エデンの困惑を感じ取ったのか。レオンは足を止め、くるりと振り返る。


「エデン、君の役割はあくまでも私のサポート。それ以上は求めないし、してはならない」

「余計なことをするな、ってことでしょうか」

「そう。きつい言い方になるけど、私たちは命を預かっているんだ。下手な介入は即、患者の命にかかわる。そこまではオーケイ?」


 はい、短く返答してもどこか腑に落ちないものが残る。

 これから接することになる患者が、どんな人物なのかはわからない。けれど、たとえば――季節の花を枕元に飾ることもできないなんて、少し寂しい。


「納得できないかい?」

「そういうわけじゃ、ないですけど」

「まあ、気持ちはわかる。わかるが、わかった上で言うよ。エデン――哀れみは時に、人を殺す毒になりえるんだ」


 軽く踵を鳴らし、レオンは再び歩み出す。今度の足取りは心なしかゆっくりだった。重くなった心と体を引きずるように、エデンはあとに続く。


 回廊の奥にはガラス製の大きなゲートが存在している。レオンはすたすたと歩み寄ると、脇のカードリーダーに自分のIDカードをかざす。


「さ、ここだよ。次からは自分のカードで開けるといい」

「ここが、その」

「特殊疾患病棟、だよ。さあおいで、君の担当クランケを紹介しよう」


 ぼさぼさ髪の下で、薄い緑の瞳が穏やかに笑う。軽くエデンを手招きし、レオンは開かれたゲートの奥へと進む。


「あ、速いですよ。レオン先生……!」

 できる限りの速足で、エデンはレオンを追いかける。ゲートとの向こう側は別世界――とはならず、他の場所と変わらぬ病棟のエントランスが広がっていた。


 物々しいものを想像してしまっていたせいで、少し拍子抜けしてしまう。周囲には色とりどりの花々が活けられた花瓶が置かれ、少なくとも思っていたほどの重々しさはない。


 意外に思って手近な花瓶に近づいてみて、はっとした。花の香りがしない。そっと指先で花弁に触れても、みずみずしさは感じられなかった。活けられているのは、すべて作り物で――。


 ああなるほど、ここからすでに『持ち込んではならない』ということなのか。エデンは納得しつつ、胸の奥がさらに重くなるのを感じた。一見すると開かれている場所のようだが、実は厳重に鍵の描けられたガラスの箱庭なのかと思えてしまう。


「こっちだ。正面のナースステーションを右に真っすぐ行った一番奥の部屋」


 レオンに声をかけられ、造花から視線を離す。いけない、余計なことを考えている暇はなかったんだった。慌てて白衣の背中を追いかける。


 ナースステーションで軽く挨拶をしたあと、レオンの先導に従って廊下を進む。真っすぐ、と言っても、何度か角を曲がったりしたため部屋の位置関係が掴みづらい。


 ただ、進むにつれて次第に周囲が『静か』になっていく。息を潜めずにいられないような重苦しさが、廊下の先から漂ってきていた。


「さて、ここだ」


 レオンは足を止め、こちらを振り返る。たどり着いた先にあったものは。何の変哲もない病室の白い扉だった。普通の、どこにでもある病室の――。


「じゃあ、行こう。ほら笑顔笑顔!」


 レオンは指先で自分の口角を引っ張り上げる。笑顔でいること。それがわたしにとって、一番重要な行為。


 エデンは何とか唇の端を持ち上げて見せる。不格好でおかしな笑顔になっているはずだ。それでもエデンは胸に手を当て、強く頷く。


「はい、大丈夫です」

「オーケィ、良い返事だ」


 エデンの返事に大きく頷き返し、レオンは病室脇のカードリーダーにIDをかざす。ピッと小さな電子音が響き、ゆっくりと扉が開いていく。


「入るよ、レッカ君」


 レッカ君、それが患者さんの名前だろうか。レオンはゆったりとした歩調で扉の奥へと進む。エデンも続いて進もうとして、はっと足を止めた。


 ひどく、涼しい風が吹き抜ける。澄んだ空気――いや、過度に殺菌されたように、有機物のにおいさえも感じらない。


「ああ、レオン先生。どうしたんですか? 回診の時間じゃないですよね」


 少しかすれた高い声が聞こえる。我に返って部屋に足を踏み入れたエデンに、部屋の主が声をかけてきた。


「あれ、君は?」


 広々とした、けれど完全に閉ざされた白の部屋。外界を見渡せる窓一つなく、代わりのようにいくつものモニターが風景を映し出している。


 モニターの脇にはいくつかの花瓶が置かれ、小さな向日葵が可愛らしく咲いていた。だが、きっとそれはよくできた造花なのだろう。


 何も言えずにエデンは立ち尽くす。ここまで外と隔絶されている部屋の主は、よほど重篤な症状を持っているのだろうか。


 エデンはのろのろと視線をさまよわせる。すると、透明のカーテンの奥から快活な笑い声が響いた。


「すごく驚いてる? それとも珍しいのかな」


 カーテンで仕切られた奥の空間に、大きなベッドがある。エデンが視線を向けた途端、ベッドの上に身を起こした人物が、からりと笑いかけてきた。


「ほら、挨拶は?」


 レオンに促され、のろのろと前に出る。ベッドの上の人物は、十代前半くらいだろうか。短い黒髪に同色の瞳をした、元気な笑顔が印象的な少年だった。


「え、ええと! お初にお目にかかり……じゃなくて! 初めまして、今日から担当になりましたエデンです。ど、どうぞよろしくお願いします……!」

「エデンちゃんかー、よろしくね。ぼくはレッカっていいます」


 チューブが伸びる手を振り、レッカは楽しげに笑う。


 意外に元気そうな様子に、少しほっとする。けれどエデンはすぐに気付いてしまう。袖からのぞく腕には、ガラスの花のような結晶がいくつも輝いていた。



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