Memory:3「忘れられた孤独」
一緒にいる。
イオンの告げた言葉の意味を、深く考えなかったわけじゃない。
「……え、っと」
ドームシティ内にある廃墟の一室。その隅っこで、エデンは膝を抱えて困惑していた。
室内には、エデンが集めた雑多なものがきれいに並べられている。窓際の棚には、この都市で絶大な人気を誇った歌姫の写真集や音楽媒体が。部屋の真ん中のテーブルを見れば、音楽プレイヤーとひまわりの花を模したガラスの置物が置かれている。
エデンが顔を横に向けると、分厚い医学書やカウンセリング関連の書籍が収められた本棚があった。あとはその横にハンガーラックと埃をかぶった少々の衣類――。
どれもこれも、エデンが大切にしているものだった。普段なら落ち着けるはずの自分のすみかなのに、エデンは落ち着きなくちらちらと部屋の奥に視線を送るしかない。
「なんだよ」
室内に一つしかないベッドの上に、問題の相手が寝転んでいた。
「い、いえそのぅ……どうして、わたしのベッドに寝てるのかな? なんて、あはは」
「問題ある? 部屋にベッドは一つしかないだろ」
「問題というか、あのー。わ、わたしはどこで寝ればいいのでしょうか」
エデンの小さな抗議は、大きなあくびで流されてしまった。イオンの言葉には一理、あるのだろうか。確かに部屋にベッドは一つしかない。だとしたら、必然的にどちらかが床で寝ることになる。
「……わ、わかりました……わたしは床でねます……うう、硬い」
「は? なんで君は床で寝るんだ。ベッドで寝ればいいだろ」
「はい? じゃあ、イオンさんが床で寝るんですか?」
「はぁ? なんで僕が床で寝なくちゃいけないんだよ?」
「は、はい?」
完全に頭には疑問符が浮かんでいた。エデンは床で寝なくていい。イオンも床で寝ない。ベッドは一つ。ベッドはひとつしかないから、だからつまり――。
「う、う?」
「なんだよ」
「い、いえ。……あ、あの、ちょっと、別の部屋に使えそうなマットレスがあったはずなので、持ってきますね……」
ふらふらと立ち上がったエデンに、イオンは怪訝な視線を向けてくる。いや、本気で言っているのかどうか確かめるべきなのか。あまり追求すると墓穴を掘ってしまいそうだった。
「ん……男の子ってそんなものなのかな……」
よくわからない。出会った何人かの顔を思い浮かべても。そこまで無頓着な男性はいなかった気がする。あるいは、エデンの側の問題なのだろうか?
今にも頭を抱えてしまいそうな自分を励ましながら、エデンは部屋の扉を開けた。廊下はしんと静まり返り、改めて自分たち以外に生きている者がいないのだと思い知らされる。
こわい。思わず身震いした。いつも通りの夜の廊下で、慣れ切ってしまった暗闇でしかない。にもかかわらず、そばに誰かがいるという事実だけで、こんなにも静寂や闇が恐ろしくなるものなのか――。
「おい、何ぼーっとしてるんだ」
「ひゃ!」
顔の前で手を振られ、反射的に飛び退いてしまう。背中の翼がぱっと広がり、守るようにエデンを包む。当然ながらそこにいたのはイオンで、ただれた頬を引きつらせる。
「驚きすぎだろ。何を怖がってる」
「い、いいいいえ、ちょっとびっくりしただけです。はい! それ以上でもそれ以下でもありませんです!」
「はあ」
これはため息? それとも呆れた声? とっさに判別がつかなかった。
広がった翼が元に戻る。なぜか鼻の奥がつんとした。白い砂の世界は異常なほど無臭で、この体は温度変化には無頓着になっていたはずで。しかし、どうしてか今は震えるほど寒くて、周囲に漂っている死臭の残り香に気づけてしまった。
「怖いのか」
じっと、緑の目がこちらを見つめている。イオンには、今の自分がどう見えているのだろう。きっと、いまにも泣き出しそうな情けない姿に呆れているはずだ。
それが嫌で、どうしても耐えられなくて、エデンはぐっと唇を噛み締めた。
「ばかに、しないでください。こわいわけ、ないです。ずっと、ひとりだったんですよ。ずっと、ひとり、だったのに」
半泣きで鼻をすする姿なんて、どう考えたって格好悪すぎる。天使みたいに翼を持っているくせに、ずびずび鼻を垂らしてる女の子の構図はさすがに可愛くない。
泣き止もうとしても、あとからあとから涙がこぼれる。どうしよう、呆れられてる。思うたびに涙があふれて止まらない。
「はあ」
イオンはため息のような声を出した。のろのろと包帯だらけの腕を持ち上げ、じっと手のひらを見つめる。
イオンは何を考えているんだろう。しゃくりあげるのを止められず、エデンは両手で顔を覆った。もう無茶苦茶だった。どうしてマットレスを取りに行くだけでこんなことになっているの?
顔を覆ってしまえば、何も見ずに済む。ここは自分だけの暗闇だ。たとえそばでイオンの息遣いがかすかに聞こえたとしても、結局はひとりきりに違いはないから――。
「こういうとき、どうすればいいのかわからないが」
そっと、何かが頭を撫でた。自分のものより少しだけ大きくて、ざらざらとしていて、それでも確かに温かい。はっと顔から手を離すと、目の前でイオンが眉尻を下げていた。
「イオン、さん」
「嫌なら構わず嫌って言えよ。僕だって、こんなただれた手で頭を撫でられるのは抵抗あるからな」
頭を撫でる温かなものは、イオンの手だった。優しい手つきとは言えなくても、込められた心だけは伝わってくる。労わりと、わずかながらの――哀惜?
「いや、じゃないです」
「うん?」
「嫌じゃないです……ありがとうございます。やさしいんですね、イオンさん」
優しいという単語に、イオンは盛大に顔をしかめた。無言で手を引っ込め、口の中でなにごとか繰り返す。赤黒いただれの下でも渋い表情が伝わる態度だった。
「嫌ですか? イオンさんは優しいって言われるの」
「嫌というか……体がむずむずする。君、誰にでもそういうこと言ってたんじゃないだろうな」
「誰にでもって。そんなに優しいを大安売りしないですよ、わたし」
手が離れてしまったことが、どうにも名残惜しい。思わずイオンの手を見つめてしまう。さすがにもう一度撫でてとは言いたくても言えなかったけども。
「なら、エデン。君の中で一番優しかった人間は誰なんだ」
エデンの意図に気づいたのかどうか。イオンは両手を後ろで組んでしまう。そこまで嫌がらなくてもいいじゃない。軽く唇を尖らせつつ、エデンは最後の涙をぬぐった。
「いちばん優しい人……うーん、だれでしょうねぇ」
「思い浮かばないのか。まさか、そんなにいるのか優しい人が」
「い、いえそういうわけじゃないです。ええと、うん。お、思いつきました!」
エデンは手を挙げつつ振り回す。空元気でもせめて明るくいたい。優しい人の顔と声が頭に浮かんだ瞬間、昔の自分がなりたかった姿がどんなものだったかも思い出していた。
「急に元気になったな。誰なんだ、その優しい人って」
「せんせいです!」
「せんせい? 何だ、教師のことか」
「違いますよ! せんせいは、わたしの……ううん。いろんな意味での先生です!」
「へえ」
気圧されたようにイオンは身を引く。さっきまで泣いていたくせに……。呟きにしては大きすぎる言葉は聞かなかったことにする。
「説明した方がいいですか? 先生のこと」
「どっちでもいいよ……」
「じゃあ、説明しますね! 先生はこのドームシティにあった総合病院『ドームシティ・ホスピタル』――通称DCHの勤務医だった方です。けれどすごいのは、病院に併設されていた医科学研究所の研究リーダーもされていたんですよ! お医者さんもしつつ、研究もしていたなんて……不器用なわたしにはまねできません」
「だろうな」
「だろうなって何ですか! やっぱりさっきのはなしです、イオンさんはひどいひとです! レオン先生みたいには優しくないです!」
「――レオン?」
ぴたり、イオンが動きを止めた。エデンの顔を食い入るように見つめ、かと思えば、その後ろの廊下の闇を睨みつける。
「イオンさん? どうしたんです?」
「そいつは、レオンというのか」
あらぬ方向を見たまま、イオンが問いかけてくる。質問の意味を掴めず、エデンは首を傾げてしまう。一体どうしたというのだろう。戸惑いを隠しきれぬまま、エデンは問いに答えを返した。
「はい、先生の名前はレオン。フルネームは『レオン・カノープス』といいます」
「そうか」
何かに納得した様子で、イオンは壁に背中を預ける。疲れ切った様子で天井を見上げ、包帯だらけの右手でまぶたを覆う。
「イオンさん? 大丈夫ですか?」
エデンの呼びかけへの返事はなかった。あまりに突然の変化に、エデンは戸惑うしかない。
レオン・カノープス。わたしにとってのレオン先生。
様々な意味で、エデンを導いてくれた人だった。同時にとても大切なものを失っていった人でもあった。レオンのことを思い出すと、温かい感情と同じくらいに胸が痛くなる。
あのひとの名前を、イオンは知っているのだろうか? 再び問いかけようと口を開きかけた瞬間、イオンが静かに手を顔から外した。
「イオンさん?」
「なあ、エデン。頼みがあるんだが」
「え、は、はい。わたしにできることでしょうか?」
「ああ」
緩慢に壁から背中を離し、イオンは廊下の先の闇を見た。出会ったときから穏やかさとは無縁だった緑の瞳は、ひどく張りつめたままに遠い場所を睨みつけている。
思えば、イオンのことを何も知らない。どうして空から落ちてきたのか。なぜそんなに死にたいと思っているのか。どういった理由でそんな痛々しい姿になってしまったのか。
過去を含めて、イオンの存在は謎だらけだった。けれどもし、レオンのことを知っているのだとしたら――。
「この都市で起こったこと。……君の過去のことを教えて欲しい。良ければ、だが」
ためらいがちな願いを拒絶する理由はなかった。エデンは首を縦に振る。
希望とも絶望とも知れぬ予感が、心の真ん中に居座っていると知りつつも。
エデンは、ゆっくりと過ぎ去ってしまった物語のページをめくり始める――。
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