Memory:2「死にたがりの少年と報われない天使」

 まぶたが重い。まるで徹夜した時のように、体がひどくだるかった。


「……ぉ……ぃ」


 誰かに肩を揺さぶられる。いやだ、まだ寝ていたいの。放っておいてよ。緩慢に相手の手を振り払うと、奇妙な静寂が広がった。やっと静かに寝られる。ほっとする。しかし、すぐさま強く肩を揺らされた。


「――おい、起きろ。『天使』のくせに死んだなんて言わないだろうな」

「え、ひゃ!?」


 目を開いた。瞬間、視界いっぱいに誰かの顔が広がった。


 鋭く細められた緑の瞳がこちらを睨みつけている。それだけならのんきに「おはようございます」と言えたかもしれない。けれど、相手の顔半分を覆う薄汚れた包帯と、それ以外の大半に広がるただれのような赤黒い肌があまりにも異様で――。


「やっ!」


 反射的に自分の肩に触れていた手を振り払っていた。ぱちん、乾いた音が鳴り響き、白い砂の上に赤い雫と包帯が落ちる。


「随分なご挨拶だな」


 相手はただれた顔を歪ませる。あまりにも失礼な『少女』の態度に怒ったのだろうか?


 訳も分からないままに、『少女』は両手を組み合わせる。なんとかもう一度、緑の目を真正面から捕えようとして――改めて相手の姿のすさまじさに声を震わせた。


「あ、あの、ごめんなさ」

「謝罪は不要だ。あんたの反応は正常だよ……誰だって起き抜けにこんな醜いもの見せられたら、はたき落としたくなる気持ちにもなるってもんさ」


 再び相手は顔をゆがめる。笑った、のだろうか。見るだけで寒気すら感じる異形の顔貌なのに、ひどく達観したような目をしていた。


 『少女』は大きく息を吸い込んでから、なるべくゆっくりと立ち上がった。


 いつの間にか太陽は地平線の彼方に沈み込み、空は闇に包まれている。だが、あらゆるものを覆いつくす白い色はそのままだった。薄く光を放ちながら、真白の輝きが暗闇を照らし出している。


 ビル群にこびりついた白い結晶は、宝石の花のようにきらめきを放つ。昼の間は白い墓標のようだったのに、今はさながら輝く水晶の大木のようだった。


 地面を覆う砂も、きらきらと光を放っている。『少女』の足を汚していたほこりさえも、光の靴のように輝いていた。


「何とも筆舌しがたい光景だな。きれいだ、と口にするのもおぞましいが」


 異形の相手は、ビル群を見上げて舌打ちする。きれいだ、と思う心がある一方で、この惨状を招いたのが『コレ』であると理解しているための発言だろう。


 『少女』もほぼ同感だった。軽く頷くと、今度はためらわずに相手を見る。相変わらずの恐ろしい包帯まみれの姿だが、緑の目には理性があるように思えた。


「あの、あなたはここがどういう場所なのか、ご存知なんですか?」


 先ほどよりはましな声が出た。自分で自分に安堵して、『少女』は胸に手を当てる。


 対する相手は、ただ小さく鼻を鳴らしただけだった。ぐるりと周囲を見渡しつつ、ただれていない片眉を寄せる。


「どういう場所なのかって。そんなの知るはずないだろう」

「え、じゃ、じゃあ、どうしてここに来たんですか? というか、お、落ちてきたんですか? どうして……?」

「深い意味はない。ただ確実に『死ねそうな場所』を願ったら、ここに落ちただけだ。こんな場所にくるのは初めてだし、特に意味と言うほどのものはないよ」


 相手の発言は、どこかおかしな内容を含んでいた。意味もなくここに来た。確実に死ねそうな場所を、願ったら? ここに、落ちた……?


「冗談ですよね?」

「冗談なものか。あんたは自分で『僕』を助けたんだろう? 空から落ちてきた僕を! 冗談で空から落ちてくる人間がいるとでも?」

「いえ、そのあの、おっしゃっている意味がよくわからないだけで、あのぅ」

「誰もあんたの理解なんて求めてないよ。ただし、冗談ではない。確実に」


 ぴしゃりと言い切られて、背中に背負った翼が重さを増した気がした。自分は余計なことをしてしまったのだろうか? 困惑とともに異形の顔を見つめると、相手は無言で歩き出した。


「ちょ、まってください! どこに行くんですか!」

「どこへでも。死ねそうな所へ。あんたがあの世へ連れてってくれるっていうなら歓迎だが、そうじゃないならついてくるなよ」

「何言って……ああもう、本当にここがどこかわかってないんですね!」


 ざりざりと砂を踏み散らしながら、『少女』は相手の背中を追う。言葉通り、本当に死にたいんだろうか。なんにしても、何も知らずにこの夜の中を歩くのは危険すぎる。


「まってください、待って! この先に進んじゃダメ!」


 ほとんど背丈は変わらないくらいなのに、歩幅が違いすぎる。ためらいもなく進んで行くぼろきれのような背中は、どんどん遠ざかっていくばかりだ。


 進むにつれ、周囲の白い輝きが強くなる。この先はかつての都市の中心部、ドームシティと呼ばれた場所だった。すでに象徴であったドームは原形をとどめていないが、それでも崩壊を免れた半球の部分が強い輝きを放っている。


 相手はそちらに向かって真っすぐに進んで行く。結晶化した街路樹が、アーチ状に頭上を覆っている。まるで冥界の入り口みたい。やけくそに思ったところで、ぼろきれの背中が急に足を止めた。


「なんだ、あれは」


 なんだ、とは一体どういう意味か。必死に追いついた『少女』が目にしたものは、白い大きな――人の形をした『何か』だった。


「だ、だめ! 近づいちゃダメ! あの『ヒトガタ』は……!」


 ゆらりゆらり、真っ白いもやで形作られたような『ヒトガタ』が、傍らの街路樹に頭部を近づける。すると、高い音を立てて、結晶の木の幹が歯形を残してえぐれた。


「食ってる、のか。あれは」


 呆然と呟きながら、ぼろきれの背中が『ヒトガタ』に近づいていく。


 止めているのになぜ近づくのか! 悲鳴を押し殺しながらも、『少女』は必死に相手を追い走る。こういう時、背中の翼が邪魔にしか思えない。いつでも飛べれば便利なのに、一回でも飛ぶと力を失い、しばらくの間は役立たずの飾りになってしまう。


「だめ、だめ逃げて! 食べられちゃう!」


 脳裏に崩れかけた人々を喰らっていった『ヒトガタ』の姿がよぎる。


 あれは、正体はよくわからないが『そういうもの』なのだ。夜に現れ、周囲のものを食い散らかし、夜明けとともに消えていく。最も恐ろしいことは、やつらの大好物が死にかけた人間だということだ。


 何度も、結晶化しつつも生きながらえていた人が襲われるのを見てきた。『少女』が近づくと逃げていくのだが、そんなことで全員を救えるはずもなく。


 気が付けば、この場所で『少女』はひとりきりになっていた。たまに、どうしようもなく苦しくなる時がある。どうしてわたし一人だけ、生かされているの?


「逃げて! 死んじゃだめ!」

「死んじゃだめ? はは、そいつは結構。僕の望みは、あんたの願いの真逆だよ」


 まだあと少し、手が届くには遠い。それでもなぜか、今日に限って『ヒトガタ』は逃げない。じっと目の前に立つ異形の相手を見下ろし――がば、と頭部を大きく広げた。


「――っあ」


 間に合わない。どれほど手を伸ばしても、飲み込まれていく相手には届かない。


 ぼろきれの姿が、『ヒトガタ』の口に頭から飲み込まれた。目をそらしたいほどに、絶望的な光景。ああ、そうだ。わたし、結局あなたの名前も聞かなかった。


 押し寄せる後悔と一緒に、その場にへたり込む。目の前ではどこか満足げに体を揺らす『ヒトガタ』がいる。


 どうせなら、自分も一緒に食べてくれないかな。心の大事な部分が音もなく折れた気がした。誰も助けられなかったこんな身体、なくてもいいのに。ふらふらと立ち上がり、『少女』が『ヒトガタ』に手を伸ばした瞬間――。


「えっ?」


 崩れる。『ヒトガタ』が白い結晶をまき散らし、崩れていく。ぼろぼろ、ばりばりと、頭から胴体から腕から脚からすべてに至るまで、内側から結晶を吹き出し始める。


 異常な、今まで見たこともない姿に、『少女』は小さな悲鳴をあげた。後退りながらも『ヒトガタ』から目を離せなかったのは、白い胴体を突き破ろうとする何かのせいだ。


「僕は生きているのか」


 小さく、声が聞こえた。『少女』は震える手を『それ』に向かって差し伸べる。予感がした。きっとこれは何かが変わる予感。途端、包帯に覆われた手が現れ、『少女』の腕ごと握りしめた。


 『ヒトガタ』が悲鳴のような音を響かせる。はっと我に返り、『少女』は自分の腕ごとその手を引いた。すると、内側から白い輝きが掃き出され、刹那。


「きゃああああっ」


 爆発。白い光とともに『ヒトガタ』がはじけ飛んだ。勢いのままに吹っ飛ばされ、『少女』は地面を転がる。しかし、悠長に寝転んでいられたのは少しの間だけだった。


「……よけいな、ことを……」


 地獄なんてものがあるなら、それはこんな音を響かせているに違いない。


 おっかなびっくり体を起こすと、目の前にぼろきれの姿が仁王立ちしていた。


「あ、よかったです。ぶじだったんですね!」


 心からほっとした。なのに相手は、不機嫌なんて程度では片づけられない声音で見下ろしてくる。


 どうしてあの状況で無事だったのかは不明だ。しかし、何事もなかったのは喜ぶべきことのはず。混乱で慌てふためく『少女』の頭上にどすのきいた声が降り注ぐ。


「無事だったよかったじゃねぇ。やっと終わりにできると思ったのに、よくも余計なことをしてくれたな。一体どう償うつもりだ」

「え。わたし、なにもしてな……ええとあの、償うって、具体的にどういう風に?」


 あまりにも緑の目から放たれる眼光が怖すぎて、真っすぐ前を見られない。何も悪いことはしていない。していないはずなのに……。『少女』が両手を何度も組み替えていると、相手はふーっと長いため息を吐き出した。


「わかった。じゃあこうしよう」

「は、はい! どうしましょう」

「僕が死ぬのを見届けてくれ」

「はい! ……えぇ?」


 思わず嫌そうな声を出してしまう。その反応も予想のうちだったのか、相手は短く笑い声を立てる。


「ひどいです……! せ、せっかく生きている人と会えたのに、そんな償いひどすぎます」

「まあそう言うな。その代わりと言っては何だが、僕が死ぬまで……それまでは君と一緒にいることにするから。それなら公平だろう?」


 どこが公平なのか。『少女』は肩を落として、ため息をついた。一緒にいる。死ぬまでは……なんて、変な殺し文句みたい。相手にそういうつもりはないのだろうが、不思議と心が少しだけ軽くなる。


「それが条件だとしても、わたしに拒否権ってあるんですか?」

「ない。というか、拒否したら僕は消えるだけ。君にとってそれがいいことなのかよく考えてみるんだな」

「う、うう。強制一択じゃないですか……。わ、わかりました! よろしくお願いします。え、えーと?」


 首を傾げると、相手も首をひねる。けれどすぐに小さく頷き、そっと答えを返す。


「僕はイオン」

「イオン、さん……」

「で、君の名前は」

「わ、わたし? わたしですか? ええ、と」


 名乗るなんて、何年ぶりだろう。長いこと忘れてしまった感覚に、自然と口元が笑みを作る。笑える。わたしまだ笑える。だからだいじょうぶ。だいじょうぶだから。


「わたしは、エデン。これからよろしくお願いします、イオンさん」

「ああ。よろしくな、エデン」


 返事につられて見上げたイオンの顔には、確かに笑みが浮かんでいた。


 あれほど恐ろしく感じた肌のただれも、どうしてか少し薄く見える気がして――エデンは、訪れた変化を胸に強く頷き返した。

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