ノクターン
草森ゆき
遺作
めちゃくちゃいってえ! と思った瞬間には帰らぬ人で、おれはいいかんじに死んだらしくって、っていうのも目を覚ましたら? 目を開けたら? なんか気がついたら? 自分の葬式シーンだったわけなので、即死確定おつかれっしたーなんだけどそれはそれとして死んだなら天国か地獄か現代じゃないところに逝かせてくれよとしばらく嘆いた。嘆いたけど、いややっぱなし、しばらくはこのままでいいですと直ぐに掌を返した。なぜかって、ついてたからだ。おれが。人に。たぶんおそらく高い確率で、おれの即死を見ちゃったであろう意中の女性の後ろについていた。
ドライブ行こうってガチガチのメールをしたらめちゃくちゃ簡素な返事が来て、ガチガチのまま待ち合わせ場所に迎えに行ったらピアノ教室に来る時よりもかわいい格好してくれてて、わりといけるのでは? とかなり舞い上がっていや隣に南が座ってるのマジで良かったな、横顔が綺麗だったな、肩にかかるくらいの黒髪を後ろに流す動作とか目の端ですごい確認しちゃったな、まあそんなことやってるから事故ったんだろうけどって悶々と考えながらおれは南についている。
南はピアノ教室をやめた。そりゃいられないだろうなっておれは寂しく思ったが、だからなにかをできるってわけでもなく、静かに自宅に帰った南のすぐ真後ろにいる。そこそこの設備の一人暮らし用のアパートの中で南は無言で暮らしている。見たくなくとも見る。入浴だけは南のためにどうにか見ないようがんばって、じっと植物みたいに座っている南の真後ろで段々悲しくなってくる。
生活はものすごく質素で、職場に行って、帰ってきて、夕飯入浴就寝と済ませて、翌朝また職場に行く。休日は家でやっぱりじっとしている。南の日常は無声映画のように流れていく、職場でもあまり人と喋らず、スマホは特に通知を鳴らさず、待機電源のまま放置されたパソコンの画面はしんとしたまま部屋の電気を鈍く跳ね返している。
一ヶ月その様子を見つめた。一ヵ月後、南は初めて食料以外のものを買いに出た。花だった。うわ、と思ってから、南、と呼びかけてみたが聞こえないみたいで南は静かな静かな足取りで、墓地に向かっておれの墓っていうやつの前に立つ。なにか話し掛けてくれるのかとちょっと期待するが無言のまま、花をきわめて丁寧に置いて、両手をゆっくりと合わせて目を閉じる。その裏側、たぶん何かを考えて頭の中で話しかけてくれているんだろうがわからない。ずっと後ろにいても南の言葉はおれに届かない。風が吹いて南は目を開ける、広がった髪を片手でそっと押さえながら、すん、と一度だけ鼻を鳴らす。それからごめんなさいと呟く。それはおれに向けたものだってわかったし全然恨んでねえよって一生懸命訴えるけどまあ無駄で、南は沈んだ雰囲気を引き摺りながら踵を返して墓地を出る。家に帰ってすぐに布団を被ってしまって、やばいどうしよう抱き締められるかなって手を伸ばしてみるけどそんなものはない、おれは意識だけ浮いてるって感じのようで、南を慰めようとしても全然無駄で真後ろにいるだけしかできないらしく、途方に暮れるってこういうことかとびっくりしたけど意味はない。もういないから、どうしようもない。
驚くことに半年、南はおれの墓を一ヶ月毎に参った。こんなに参り続けてくれるのはおれが好きだったから、ではなく、おれが南をとったから、だと気付いた。
事故を起こした日、起こしたというか確かに余所見はしていたが、実際車線を外れて突っ込んできたのは対向車だった。煙が出ていて、ハンドルがきかなくなったようだった。助手席側めがけて走ってきた車は避け切れなかったけどハンドルを派手に切って運転席側にずらすことはぎりぎりできた。おれはおれより南をとった。タイヤってこんな音出せるんだなって思ったところで意識は切れて、次にはっと気付いたらおれの葬式で、南につきはじめて、今はいつまで続くんだろうこれと思い始めている。
南はおれの墓にいく。花を置いて立ち去る。布団を被って涙を流す、のは、五年も経てばなくなった。でも南はそれ自体、おれが死んだ、おれじゃなくても良かったんだろうけど、なんせ南を守った? 庇った? 人間を、じわじわ忘れていって悲しみもゆっくり溶けていくこと自体、悲しいと感じているようだった。心が覗けたわけじゃない。めずらしくパソコンをつけた南がぼんやりと巡っていたのは動画サイトで、死んだ恋人が幽霊になっているって映画を無表情に鑑賞していたときに、ひどく悲しそうな声で呟いたからわかった。南は画面から目を離さないまま、嘘でしょ、と言った。映画を途中で切ってパソコンを閉じ、時間、と掠れた声色で続けた。
部屋を飛び出すように外に出た南は駅に向かった。ご自由にどうぞとプレートの下がったピアノの前に来て、五年ぶりに鍵盤に指を落とした。おれが教えていた曲だった、指の動きは覚束なかったしミスも多かったし上手いとはいえない演奏だったけど、最後まで弾ききった。それから蓋を閉じ、ふらっと立ち上がってぼろぼろ泣きながら歩き始めて、指しか貴方を覚えていない、時間が私を裏切って、ぜんぶ思い出にしてしまうと、心の中で叫んだ声がその時だけはおれに届いた。意識だけ浮いているようなおれだけど、体があったらわんわん泣き出していただろうし今すぐにでもそうしたかった。無理だった。
おれを裏切ったのはきっと運命ってやつだったし、故障で煙を吐いていた対向車だったし、時間っていう万能薬と劇薬の間を行き来する不可逆の概念だったし、命っていうどうしようもなく有限のことわりだった。
南は涙を流したまま歩いて歩いて部屋に戻って、食事も食べずに布団にもぐって眠ってしまった。おれはずっとそばにいた。声も届かないし慰められもできないし涙すら流せないただいるだけの何かだったけど、そのうちに聞こえ始めた寝息にほっとしてじわじわ迎えた朝に、南が生きたまま迎えた一日に、良かったなって月並みな感想を漏らしてからカーテン越しに朝の光を見つめていた。
南は結婚もしなければ恋人も作らなかった。家族は元々いないらしく、年老いてからは使わず貯めていたお金で介護施設に入って静かな余生を過ごした。そこでも友達と呼べるような相手は作らなかったし、ひとりで窓辺に座っていることがほとんどだったが、月に一度、おれが死んだ日にきっかりあわせて、おれが教えていた曲を皺が深くなった細い指先でゆっくり叩いた。
職員がある日お上手ですねと声をかけると、南はそっと微笑んだ。おれは心底驚いて、おれがつきはじめてから初めてみた南の笑顔だったからで、更にもっと遡れば、おれがピアノを教えてどうのこうのと話しているとき、南はいつもこんなふうに控えめに、ちいさな花がそっと開いたような笑い方をしてくれたなって、ずいぶん遠かった日々が急激に目の前で弾けて散開した。
「むかし、ピアノを習っていたんです」
南はしわがれたけど芯をたもったままの声で話す。
「これだけは、何に裏切られても覚えていたくて」
職員は微笑みながら頷き、数分雑談をしてから他の職員に呼ばれて席をはずした。おれは南のそばに立った。なぜか立てた。南はぼうっと窓辺を見つめていて、窓の外には薄い雲が水色の空を自由な角度で走っていて、なんだかとても牧歌的で、これでよかったのか全然わからないけど伸ばせた掌を南の肩にそっと置いた。南は身動きをしなかった。瞼を伏せて、椅子に凭れ掛かって、永久にねむっていた。両腕を回して抱き締めながらおれはつまり南の守護霊みたいなことだったのかなって好意的に受け取って、南、ずっと好きだった、一生付き合わせてくれてありがとうって、やっと南に告白できた。耳の奥でピアノの音がした。覚束ない指先がつむぐおれを忘れないための音楽が、消える瞬間までずっとずっとどこかで鳴り響いていた。
ノクターン 草森ゆき @kusakuitai
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